憩い

湯煙と硫黄の臭いがほのかに漂う温泉街を、七人隊は歩いている。
そこらに温泉宿が立ち並び、客引きが自分の店に旅人たちを引き入れようと声を張り上げている。
独特の賑わいに、仲間たちより一足速く歩いている蛇骨は目を輝かせていた。
「温泉っ、温泉~♪」
人にぶつからないように器用に飛び跳ねながら行く蛇骨を見て、蛮骨の隣を歩く煉骨はぼそっと呟いた。
「一人ではしゃぎやがって……でも大兄貴、奈落の命令を無視してこんなところに来ちまって、本当に良いのか?」
「良いんだって。せっかく蘇ったんだし、たまには楽しまねぇとな」
蛮骨は軽く言ってのけた。
もとより奈落の命令に一から十まで従うつもりはない。
長期に渡って雇われるわけだから、その間に好きなように過ごしたって文句は言われないだろう。
言われたとしてもそれを受けるのは自分だけだから、まぁいいかという心積りの蛮骨だ。
「で、どこに泊まるんだ?」
睡骨が宿を眺めながら口を開いた時、蛇骨が「あっ」と駆け出した。
一軒の宿の前に止まり、皆を手招きする。
「ここっ、ここにしようぜ!!」
煉骨は蛇骨の指差す宿を見上げて呆然とした。
立派な作りで、そこらの宿にはない輝きを放っている。
「高そうだなぁ……」
煉骨の心にある語を、蛮骨が代弁した。
蛇骨が店の前にいる男に話を聞いている。
「新しくて広くて奇麗な風呂があるんだってよ!ついでに料理も豪勢で酒も美味いんだって!!」
蛇骨はこの宿に泊まる気満々だ。
煉骨が他の客引きに話を聞いた。
「一泊いくらだ?」
「はい、五名さまですから…これくらいですね」
さっと算盤をとりだして計算した客引きが見せた額に、煉骨は目を剥いた。
「無理だ! とてもじゃねぇがこんな高ぇところには泊まれねぇ!!」
彼の横から算盤を覗き込む蛮骨と睡骨も、うんうんと頷く。
「あ~、こりゃ無理だな」
「ああ、どう転んでも無理だな」
ではどこに泊まろうかと三人が視線を巡らせると、豪華な宿のすぐ傍に小さな宿があった。
「煉骨、あそこはいくらか聞いて来い」
蛮骨が命じると、煉骨はその店に入っていった。
しばらくして出てきた煉骨は、蛮骨と睡骨に向かって腕で作った丸印を見せた。
「決まったな。おい蛇骨、いつまでそうしてるんだ」
未だに豪華な宿でのもてなしを想像してぼんやりしている蛇骨の襟首を掴み、ぐいと引っ張る。
はたと我に返った蛇骨は、嫌だ嫌だと喚きだした。
「俺はこの宿に泊まりてぇー!!」
「そんな金あるワケないだろ! 温泉なんて入っちまえばどこでも同じだ!」
「嫌だぁぁぁ~! 豪華なメシがっ、美味い酒がぁぁ~!!」
人目など意にも介さず子供のように喚き散らす蛇骨を何とか引っ張って、蛮骨・睡骨・銀骨たちは煉骨のいる安宿へ向かった。
宿を見上げて、蛇骨は不満を露にする。
「何だよこの小っせぇ宿!!」
呼び込みに出ていた客引きが失礼な言いざまに眉を寄せている。
何か言われる前に、四人は蛇骨を連れて急いで中に入った。
「どうぞごゆっくり」
彼らに宛がわれた部屋は四人用の部屋だった。
戦車姿の銀骨は中に入れず、外にある小屋に入れられてしまった。
「せっかくの温泉なのに気の毒だな」
「あいつは風呂に入ると錆びちまうもんなぁ」
同情の色を滲ませながら語る蛮骨と睡骨を尻目に、蛇骨はまだ不機嫌だ。
その肩を、煉骨が軽く叩く。
「まぁ、そう怒るなよ。皆で風呂に入りに行って、機嫌直そうぜ」
「……わかったよ」
渋々ながら蛇骨も仕度をし、皆でさっそく風呂に向かう。
狭い廊下をずっと進んだ先に、浴場があった。
その入り口部分に、立て看板がある。
『この先混浴露天風呂』
その文字に、蛇骨の表情が音を立てて固まる。
何も言わずに、蛇骨は回れ右をしてその場を立ち去ろうとした。
その肩を蛮骨が引き戻す。
「待て。いいだろ別に混浴でも。身体は隠すわけだし」
「無理! 女と同じ湯に入るなんて死んでも嫌だ!!」
「大丈夫だって。せっかく温泉に来たのに、風呂に入らないでどうするんだよ」
「い~や~だ~っ!!」
蛮骨と蛇骨が格闘していると、ちょうど脱衣所から一人の男が出てきた。
頭を抱えていた煉骨が、その男に尋ねる。
「ちょっと聞きたいんだが、この温泉には混浴しかないんだろうか」
「ああ、そうだよ。ここはそれが売りだからねぇ。やぁ、中は天国だよ。あんたたちも早く入ったらいい」
アハハと笑いながら男は上機嫌で去っていく。
蛇骨の顔を見ると、完全に蒼白だった。
蛮骨もこれ以上引き止めることもできず、手を離す。
蛇骨は即座に身を翻し、だかだかと戻っていった。
「やれやれ、困ったもんだな…」
「仕方ねぇよ。俺たちは、天国を楽しもうぜ」
睡骨の言葉に、煉骨と蛮骨はニヤリと笑って頷いた。

混浴に足を踏み入れた三人は手ごろな岩に身体を預けて目の保養を行った。
男もいるが、女も多い。しかも若い娘で賑わっている。
湯煙でわずかに見えにくいのがまたいい。
「天国だ」
「天国だな」
「ま、まぁ、たまにはこういうのも…」
コホンと咳払いする煉骨に、蛮骨と睡骨は顔を見合わせて小さく笑いあった。
「蛇骨には悪いが、この宿にして良かったぜ」
「ああ。霧骨が生きてたら喜んだだろうなぁ」
すでに倒されてしまった凶骨と霧骨が気の毒に思える。
しかし彼らがいると女たちが近づかないのは必至なので、やはりいなくて良かったなぁなどと考える三人だ。
しばらくのほほんとしていると、数人の女たちが近寄ってきた。
「あなたたち、旅の人?三人とも、すっごく素敵ね!」
きゃわきゃわとはしゃぐ娘たちに、蛮骨たちも悪い気はしない。
「そ、そうか? なんなら風呂上りに一杯酌でもして欲しいんだが」
「まぁ、私たちでいいの!?嬉しいわ、約束ね!」
それから三人は、娘たちに囲まれて楽しく話していた。
しばらくすると女たちは湯からあがり、また男三人になる。
「はぁ……な、楽しいなぁ」
しみじみと呟く蛮骨に、両隣の煉骨と睡骨は深く頷いた。
「もう、奈落からの依頼なんて忘れちまいそうだ」
「それはいけません」
いきなり背後から発された声に、三人はびっくりして心臓が止まりそうになった。
後ろを振り向くと、茂みに誰かがいる。
「こ、琥珀……?」
目を凝らすと、湯煙の向こうに黒い戦闘服を纏った少年がいた。
わずかに身を乗り出した琥珀は、深いため息をつく。
「はぁ…まったく、仕事をほっぽり出して何してるのかと思ったら、こんなところにいるなんて…」
「ほっぽり出したんじゃねぇ、ただの息抜きだ!それより、何でここがわかったんだよ」
「神無の鏡を使ったんですよ。女にちやほやされる時間があったら、犬夜叉たちを早く倒してください」
「うるせぇ。お前こそ、俺たちを探す暇があったら自分の仕事をすりゃいいだろ」
「俺は結構自由がきくんです。古株ですから」
琥珀の顔に少年らしからぬ笑みが浮かぶ。
意外に腹黒い。
「まぁ、今日のところは見逃しますが、骨休めが終わったらすぐに仕事を再開してくださいね」
「へいへい。あ、琥珀、お前も泊まっていかねーか?」
「結構です」
にこりと笑った琥珀は、では、と軽い身のこなしで去っていく。
少年に気分をぶち壊され、三人はしばらくむすっと湯に浸かっていた。
「……ま、今日は仕事のことは忘れようぜ。さぁ、そろそろ上がって酒でも飲みに行くか」
蛮骨が立ち上がると残る二人も応じて湯から出て行く。
脱衣所に戻ろうと板戸を開けた三人は、そこで固まってしまった。
彼らの前に、二人の男がいる。
その人物たちもまた、仰天した風情で口をぱかっと開けていた。
「い……」
わなわなと震える指で、蛮骨が指差す。
「犬夜叉―――!?」
「蛮骨!?」
金色の瞳の少年も同じ反応だ。
犬夜叉の隣に立つ弥勒、そして蛮骨の脇に立つ煉骨・睡骨も、突然のことに目を白黒させている。
「なんでお前がこんなところにいる!?」
「それはこっちの台詞だ! てめぇら、まさか奈落に命じられて……っ!」
しかし犬夜叉は、いや違うなと自分で否定する。
あの奈落が、日々の苦労を労って七人隊に温泉旅行をプレゼントするなど天地がひっくり返っても有り得ない。
「じゃあどうして…」
横にいる弥勒と煉骨たちはすでに戦闘態勢だ。
だがお互い裸に布一枚の姿で武器も持っておらず、いささか間抜けな感がしないでもない。
「ちょっとあんたら、そこにいると通行の邪魔だよ」
戸口で睨みあう彼らをひょいと押しのけて、他の客が行き来する。
「こ、これは失礼。ううむ、確かにここではまともに戦えませんな」
弥勒が困ったように口元に手を当てる。
「へっ、何なら今からオモテ出るかぁ!!」
犬夜叉が蛮骨を睨みながらぽきぽきと指を鳴らした。
しかし蛮骨は手を挙げて首を振る。
「なぁ、今日は喧嘩はナシにしようぜ」
「……は?」
敵の蛮骨に言われて、犬夜叉と弥勒は揃って首を傾げる。
「俺たちも今日は骨休めに来たんだ。どうせお前らもそうだろ。だから、戦いはナシでゆっくり過ごそうぜ」
しかし犬夜叉はフンと鼻を鳴らした。
「信じられねぇな。俺たちを油断させる気なんじゃねぇのか!」
「……信じるも信じないもお前の勝手だけどよ。とにかく、俺は戦わねーよ。相手して欲しかったらまた今度な」
蛮骨はひらひらと手を振ると、まだ険しい表情をしている煉骨と睡骨の背を押して脱衣所に入っていった。
その背を振り返り、犬夜叉は剣呑な目をする。
「どうする弥勒。あいつら、本当に戦う気はねぇのか?」
「さぁ。……でも蛮骨の性格から考えても、嘘で騙して寝首を掻くようなことも無いと思いますが…」
大丈夫だろう、と弥勒は結論づけた。
「気を張っていても仕方がありません。我々も温泉で日々の疲れをとりましょう」
混浴~と鼻歌まで歌っている法師に、犬夜叉は半眼になった。
「お前、結局そればっかりだな…」



一方、一人部屋に残っていた蛇骨は、憂鬱に窓の外を眺めていた。
「はぁ……混浴しかねぇってどういうことだよ~。大体、こんな安宿選ぶから駄目なんだ。
俺の言ったとおりあっちの宿に入れば、今ごろは奇麗な風呂に大兄貴と浸かって……」
温泉旅行を一番楽しみにしていた蛇骨である。
その自分が温泉に入れずにいるのだから、気が塞ぐのも仕方がない。
蛇骨は不機嫌に唸ってごろんと横になった。
「ありえねぇ~っ!! 何で俺ばっかこんな目に…」
実は外では銀骨の方がずっと淋しい思いをしているのだが、それをすっかり忘れている蛇骨だ。
しばらくごろごろと転がっていると、蛮骨たち三人が戻ってきた。
「よぉー蛇骨、いい湯だったぜ」
「ふん。そりゃ、大兄貴たちは楽しかっただろうよ」
むすっと身体を起こす蛇骨に、蛮骨はニヤリと口の端を上げる。
「なぁ蛇骨、いい情報教えてやろうか」
ぴくりと蛇骨が反応した。
「いい情報?」
「ああ。お前の大好きな犬夜叉が来てるぞ」
「へっ、犬夜叉が!?」
思いがけない情報に不機嫌も忘れた蛇骨がぱちくりと目を見開く。
「ああ。今、あの法師も一緒に混浴に入ってるぜ。……お前も行ってくれば?」
「う……」
蛇骨は眉を寄せて本気で悩んだ。
だが、
「やっぱ無理! 混浴に入るくらいなら犬夜叉を我慢する!」
蛮骨たちは顔を見合わせた。蛇骨なら飛んで行くと思っていたのだ。
そこまで嫌なのなら、もはや説得するだけ無駄だろう。
三人は嘆息し、運ばれてきた膳に向かった。

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