犬夜叉はゆっくりとまぶたを上げた。身体に何やらまとわり付くような重みを感じたためである。
温泉に浸かったまま、知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。どのくらい寝ていたのか分からないが、これはかごめたちに小言を食らってしまうかもしれない。
(ったく……弥勒のやつ、起こしてくれたって良いじゃねえかよ)
そんな事を考えていた時──。
ばちんっ!
と鋭い音と共に、額をしたたか打たれた。
あまりの事に打ち据えられ額を押さえていると、けたけたと笑い声が聞こえる。
「やっと起きたかよ、大兄貴」
その声は、予想していた誰のものでもなかった。
「は……?」
はっきり覚醒した目をしばたいて、犬夜叉は顔を上げる。
そこには裸の男がいた。艶のある長い髪から雫を落とし、にやにやと笑うその顔には見覚えのある模様が刻まれている。
「お、お前は……!」
「飯の支度、とっくに終わってんぜー。いくら死人っつっても、こんなに長湯してりゃふやけちまうぞ?」
口をぱくぱくさせて見上げてくる犬夜叉に、今しがた彼を力加減抜きに指で弾いた男──七人隊の蛇骨は、あっけらかんと笑った。
「まぁ俺は、このまま大兄貴と風呂入れるってんなら、それも勿論かまわねぇけどよ!」
反射的に犬夜叉の全身に鳥肌が立った。
状況がまったく理解できないが、これはまずい。ここまで身の危険を感じることはそうそう無い。
一緒に入浴していたはずの弥勒の姿を探すが、どこにも見当たらなかった。やはり、すでに上がった後なのだろう。こうなったら一人で対処するしかない。
犬夜叉は、ざばっと飛沫を上げて蛇骨から距離をとった。
「て、てめぇ一人か⁉︎ 七人隊の奴らが、他にも近くにいるのか⁉︎」
「んー?」
蛇骨は、何を言ってるのかという顔で首を傾げた。
「俺以外はむこうで飯食ってるって。大兄貴の分もちゃんと残してるから、心配すんなよ」
噛み合わない会話に犬夜叉も怪訝けげんな目をした。こいつの様子は何やらおかしい。いつもおかしいが、今は輪をかけておかしくないか。
そういえば、なぜ蛇骨はさっきから、自分を見て大兄貴大兄貴と連呼しているのか。
とりあえず蛇骨の傍にいるのは色々な意味で危険だと判断し、岸辺に向かう。蛇骨はその背を追いかけるでもなく、のほほんと見送っている。
「俺のころも……」
岸辺を見回すが、赤い火鼠の衣が見つからない。代わりのように置かれている白地に青く染められた着物は、どう見ても七人隊首領・蛮骨のものに見えるのだが……。
さらに、そのすぐ横に彼の武器である蛮竜が立てかけられていた。
どういう状況かさっぱり分からないが、得物を無防備に置いておくとは不用心な奴である。これを奪い取ってしまえば、戦力を削る事ができるだろう。
そう考えた犬夜叉は、衣を探すのを中断して蛮竜の前に立ち、柄に手を伸ばした。
蛮竜の刀身が月明かりにきらめく。その研ぎ澄まされた刃は鏡のようで。
犬夜叉はぎょっとして心臓が止まりかけた。
蛮竜に映し出された自分の姿は────蛮骨のものだった。
「お…う……?」
呼吸すら忘れてしばし茫然と立ち尽くしていたが、やがて恐るおそる右手を上げてみる。
蛮竜の中にいる蛮骨も、寸分違わず同じ動作を返した。
目を閉じて、深呼吸をして心を鎮める。
「──よし。落ち着け。これは夢だ」
再び目を開く。
何も変わっていない。
己の両手に視線を落とす。鋭い爪が──ない。
口に指を入れてみる。鋭い犬歯が──ない。
頭頂部に手を伸ばす。犬耳が──ない。
「大兄貴」
不意に声をかけられ、犬夜叉は飛び上がるほど驚いた。
振り返るとなんとも複雑な表情をした煉骨が立っている。
「お前は、煉骨!」
「は……?」
煉骨は今しがた見てしまった、裸のまま蛮竜に向かって様々な格好をしては落胆するという、奇妙な行動を繰り返していた首領からほんの少し距離を取りつつ、言葉を続けた。
「随分遅いようだから様子を見に来たんだが……大丈夫そうだな」
これのどこが大丈夫なものかと、口の端まで出かかったのを犬夜叉は意地で引っ込める。迂闊うかつなことは言えない。
「死んでるとはいえ風邪は引くかもしれねぇし……服は着た方が良いと思うぜ。でけぇ猪を仕留めたからよ、早めに来てくれ。あと……邪魔して悪かった」
そう言い残して、煉骨はきびすを返し歩き去った。
あまり不審なことをして怪しまれても問題が増えるだけだと、犬夜叉はひとまず蛮骨の衣服をまとい、不本意ながら蛮竜に手をかけ、持ち上げた。
とたん、肩がはずれるかと錯覚するほどの重量がのしかかる。
「な、なんだこれ」
蛮骨はこれを軽々振り回していたのではなかったか。同じ身体のはずなのに、こんなに負担がかかるものだろうか。
持ち方にコツでもあるのだろうかと試行錯誤してみたが、結局は面倒くさくなって半ば引きずる形で運ぶことにした。
七人隊の者たちと合流して猪肉にありつきながらも、犬夜叉の脳内は現状把握に大半を占められており、誰かに話しかけられても上の空な返答しかできなかった。
長湯しすぎて頭がぼうっとしているのだろうと七人隊の面々が勝手に判断してくれたのが幸いである。
夜半、皆が寝静まってから犬夜叉はひっそりと起き出した。
足音を立てずに向かうのは例の温泉である。自分の身体がこんな事になった原因について、何か手がかりがあるとすればあそこだ。
とにかく、かごめたちに合流しなければ。
犬夜叉はふと嫌な予感を覚えた。
自分の本体は今、どうなっているのだろう。自分が蛮骨の身体になってしまっているということは、本体には蛮骨が入っているのか。
かごめのすぐ傍に──蛮骨がいるのではないか。
「っ……!」
いてもたってもいられなくなり、駆け出す。人間にしては夜目が利くようだが、半妖の時ほどには耳も鼻も役立たないことが苛立たしい。
犬夜叉の姿をした蛮骨がかごめや弥勒たちと共にいるのなら、油断している隙に集めた四魂の欠片を奪われるかもしれない。いや、そんなことよりも寝首を掻かれる事態も十分ありえる。
月明かりに漂う湯気の中をかき分けるように温泉の岸辺へ出ると、周囲に目を凝らして見回した。
見た限りでは、弥勒と共に入浴した温泉に酷似しているようだ。もしかしたらあの場所からそれほど離れていないのではないか。
声を張り上げて呼びかけようと口を開いた刹那、頭上に影がさした。
はっとして顔を上げた瞬間、上から何かが降ってきて地面に強い力で押さえ付けられる。
「くっ……!」
視界に真っ先に飛び込んだのは銀糸の髪。
見間違うはずもない、自分の顔が目の前にあり、闇の中でもわかる金色の瞳で鋭くこちらを見下ろしていた。

「答えろ。俺の身体に入ってるお前、犬夜叉だな」
全力で己の本体を押さえ付けつつ、犬夜叉の声で、蛮骨は問うた。
「そう言うてめぇは、蛮骨か!」
「ふん、やっぱりな。妙な術を使いやがって。さっさと解けば楽に殺してやるぞ」
「何言ってやがる! こんな巫山戯ふざけた真似しやがったのはそっちだろうが! 大方、奈落の入知恵なんだろ!」
相手の言い分に犬夜叉の姿をした蛮骨は眉を吊り上げた。
己の体ではあるが、多少痛めつけてでも取り返さなければ。なに、四魂の欠片の力ですぐに怪我は治るだろう。
そんな事よりも、あの女の言霊ひとつでなすすべもなく潰される体に入っている方が恐ろしい。
「──おすわり!!!」
そうたとえばこんな風に。
思った瞬間、蛮骨は勢いよく地面に叩きつけられた。自然、下に押さえつけていた犬夜叉を押し倒す形になる。身体の下で犬夜叉が「ぐへぇっ」と呻いたのが聞こえた。
「こらー! 何やってんのよ言わんこっちゃない!」
雲母に乗って追いついてきたかごめが頭上で怒号している。
「ついてきて正解だったじゃない! 穏便に済ませようとは思わないわけ⁉︎」
「誰のせいで実力行使に出てると思ってる……」
蛮骨が肩をわななかせながら起き上がる。今ので自分の本体が大変な事になったのではないかと不安がよぎった。
「か、かごめ!?」
現れた少女を見て、蛮骨の姿をした犬夜叉が驚きの声をあげる。かごめが蛮骨を押しのけて犬夜叉に駆け寄った。
「犬夜叉、やっぱり蛮骨に入ってたんだ……! 大丈夫、どこも怪我してない?」
「お、おう」
たった今するところだったとは、口が裂けても言えないようだ。
蛮骨は忌々いまいましげにかごめを睨んだ。
思いのほか早くこの女に追いつかれてしまった。彼女の言霊がある限り、こちらが一方的に不利。
せめて七人隊の仲間がここにいれば。
周囲に視線を走らせる。ここは温泉の岸辺にほど近い場所だ。犬夜叉が来た方角から考えて、七人隊の寝床からそれほど離れていないだろうと思われた。
賭けだが、いけるかもしれない。
湯煙が立ち上る夜空にむかって蛮骨は声を張り上げた。
「おーーい!! ここにー!!! 犬夜叉がー!!! いーるーぞぉーーー!!!!」
とうの犬夜叉たちはぽかんと口を開けて見ている。
数秒後、地響きが近づいてきた。よし、と蛮骨は口端を吊り上げる。
「いぃぃぃぃんっぬやっっしゃあああああぁぁぁぁぁ!!!!」
後に語られた話だが、蛮骨はこの時、自分が恐怖を感じるとこんな顔になるのかと少し感動したらしい。
土煙と湯煙をまとわせながら全力疾走してきた蛇骨は、犬夜叉の姿を目にするや蛇骨刀を抜き放った。
「待て待て待て。今日はお前と戦う気はねえ」
「ほえ?」
いやに穏やかで親しげな表情の犬夜叉に蛇骨は手を止め、目をぱちりと瞬く。
「だからな蛇骨、俺に協力し……」
「あっ、大兄貴! そんなとこで何してんだよ」
「聞けよ。女どもを足止めし……」
「つーか、女! 大兄貴から離れやがれ!!」
「聞けって」
蛮骨は頭を押さえた。犬夜叉よりも自分を気にしてくれるのはありがたいのだが、今は犬夜叉を気にしてほしい。
「ほーら蛇骨。言うこと聞いたら耳でも何でもくれてやるよ」
犬耳をぎゅっとつまみ上げると蛇骨が反応してこちらを向く。そのむこうで蛮骨の姿をした犬夜叉が目を剥いている。
「てめぇ蛮骨! 勝手な事言うんじゃねえ!!」
「……は? 何言ってんだ大兄貴。どうして犬夜叉が大兄貴なんだよ」
蛇骨は怪訝な顔をして今度は犬夜叉を振り返る。犬夜叉はかごめをかばうように彼女を後ろへ隠した。
「な、何やってんだ? その女かばうつもりなのか?」
「騙されんな蛇骨。そいつは俺の姿をしてるが、俺じゃなくて犬夜叉だ」
「お、おう!……んんん? なんで犬夜叉が俺に命令を……?」
蛇骨は犬夜叉と蛮骨を交互に見つめ、最終的に処理能力を限界突破した様子で目を回してしまった。
どうにでもなれと言わんばかりに蛇骨刀を振り回し始める。
「わっ……!」
「ちょ、おまっ、俺の身体までなますにする気か!?」
迫り来る刃をすんでで交わした蛮骨から血の気が引く。
蛇骨に犬夜叉の仲間たちを相手させておき、その間に何とかして犬夜叉から身体を奪い返そうと思っていたのだが、人選を失敗した。かえって状況が悪化している。
咄嗟に呼べたのが蛇骨だけだったとはいえ、彼の脳みその許容量をもっと考えるべきだった。
このままではここにいる全員が死ぬ。
「蛮骨! てめえが呼んだんだから、てめえが何とかしやがれ!!」
犬夜叉が声を張り上げた。
「待て! 止まれ蛇骨! 説明するから――」
刹那、耳をつんざく轟音が響いた。同時に地面が砕ける。
「わぁ!?」
全員がすんでの所で回避し音の出所を振り仰ぐと、砲筒を構えた煉骨がいた。筒口からは黒煙が細く立ち上っている。その後ろには睡骨をはじめとした他の七人隊の面々も見える。
「蛇骨が血相変えて飛び出してったと思ったら、そいつらがいやがったのか」
煉骨の左頬にくっきりと草履の跡があることから察して、飛び起きた蛇骨に踏まれたのだろう。
「煉骨の兄貴!」
今の衝撃で正気に戻ったらしい蛇骨が、彼らの元へ駆け寄って犬夜叉と蛮骨の二名を指差した。
「なんかよ、大兄貴と犬夜叉が変なんだよ」
「お前より変な生き物がいるのか」
しれっと返す睡骨に、「なんだと!」と蛇骨が牙を剥く。
「お前ら、来てくれて助かったぜ」
蛮骨が彼らに近づきながら笑顔を向けると、対する彼らは世にも胡乱うろんな表情で顔を見合わせ、武器を構えた。
「……何言ってんだこいつ?」
「知るか。油断してる間に仕留めちまおうぜ」
敵意むきだしの彼らを前に、蛮骨は自分が犬夜叉の姿であることを思い出して慌てて手を振った。
「待て! 俺は犬夜叉じゃねえ! 蛮骨なんだよ」
煉骨が一種の哀れみを含んだ表情になる。
「蛇骨の言ったことが正しいと思ったのは初めてだ」
「だああ! 頼むから信じてくれ! ほら、あそこに俺がいるだろ? あれには今、犬夜叉が入ってんだ! じゃなきゃ犬夜叉の仲間どもと一緒にいるわけねぇだろ!?」
蛮骨は必死の形相で犬夜叉一行を指差す。そこには確かに、ごく自然な様子で蛮骨の姿がある。
「大兄貴はあんなとこで何やってんだ?」
「……俺が今言ったこと聞いてたか?」
犬夜叉一行は割とすんなり理解したというのに、うちの弟分たちの頭の固さときたら。
自分らだって骨から蘇った奇奇怪怪の塊みたいなものなのだから、もう少し柔軟に受け入れてくれても良いではないか。
だんだん腹が立ってきた蛮骨は、最終手段に出ることにした。
「もういい。信じねぇなら煉骨、お前のへそくりの隠し場所をばらす」
これにはさすがの煉骨も目を剥く。
「行李の底に敷かれてる布をめくって裏返すと袋になってる部分があって……」
「待て待て待て! どうして、てめえがそんなこと知ってんだ」
蛮骨が無言のひと睨みで返すと、煉骨はさっと青ざめた。
「え、まさか本当に大兄貴……?」
煉骨の言葉に、他の弟分たちも「えっ」と目を瞬いた。やがて小刻みに震えだし、一歩一歩後ずさって距離を取りはじめる。
「え? 大兄貴なのか? 犬夜叉が? 大兄貴が? は?」
まだわからない様子の蛇骨がしきりに首を傾げている。彼を放っておいて、蛮骨は腕を組んでため息をついた。
「やっと信じたか。温泉に入ってる間に、なぜか奴と入れ替わってたんだ」
煉骨ははっと思い当たった。先ほど蛮骨が裸で不審な行動を取っていたのは、中身が犬夜叉だったからなのだ。あちらも突然の事態に混乱していたのだろう。
あの時見たものを誰にも言わずにいて良かったと、心の底から思う煉骨である。
「とにかく、俺の身体を取り戻さねえとどうにもならねえ。犬の野郎のままだと、あの女の言霊一つで一方的に無力化されちまうんだ」
事態の深刻さを理解した蛇骨を除く七人隊の面々は、緊迫した面持ちで犬夜叉一行を見据えた。対する彼らも、油断なくこちらの様子を窺っている。
双方はゆっくりとその距離を詰めた。
「どうやら、そっちも事態は把握できたみたいだね」
念のために飛来骨に手をかけながら珊瑚が話しかける。
「て、てめえらが妙な術を使いやがったのか」
「それなら何もこちらの主力の犬夜叉と交換しなくたって、もっとやりようがあるでしょう。そこらの野鼠とでも入れ替えた方がずっと良い」
睡骨の問いに弥勒が嘆息した。
「我々も先ほど聞いたばかりで半信半疑だったのですが、こうなってはまともに戦える状況でもありません。どうですか、ここは一時休戦して、二人を元に戻す方法を模索するという事で」
彼の提案に誰もが渋った表情を浮かべたが、他に良い案は浮かばなかった。不承不承ながら煉骨が同意を示す。
「……やむを得ないか。大兄貴、ひとつ頼みがある」
「なんだ」
「元に戻るまで、犬夜叉の仲間と一緒にいてくれ。そして犬夜叉は、俺たちと行動を共にしてもらう」
蛮骨と犬夜叉が目を剥き、異口同音に叫んだ。
「は!? なんでだよ」
「そいつらの手元に大兄貴の本体があるのはまずい。いつでも欠片を抜き取られる可能性があるってことだ」
この言い分に、かごめが眉をつり上げる。
「い、犬夜叉が入ってるのにそんな事するわけないでしょ!」
「ふん、どうだかな」
「確かに、犬夜叉の本体を手元に置けるなら、こちらとしても安心ではあります。そちらの蛇骨に何をされるかわかりませんからね。な、犬夜叉」
弥勒にそう言われては、犬夜叉に断る理由がない。
「けど、本当に大丈夫かよ」
「心配いらないわ。今の蛮骨じゃ、あたしに手も足も出ないわよ」
それはつまり普段の犬夜叉が手も足も出ないということなのだが、今回ばかりはこのまじないがあって助かったと言わざるを得ない。
「いいか、休戦してやるのは二人ともが元に戻るまでだ。そっちが約定を破って仕掛けてきた場合には、交渉決裂でこっちも容赦しねぇ」
「いいわ。元に戻す手がかりを見つけたら、隠さずに教えること!」
犬夜叉一行と七人隊一行の間に無言の火花が散る。間に挟まれた、そして元凶である犬夜叉と蛮骨は、どういう態度をとるのが正解なのか図りかね、居心地悪げにたたずむしかない。
こうして奇妙な夜は騒々しさの中で更けていった。

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