山の中に朽ちた社があった。
以前はまつられていたであろうう神は、皆に忘れ去られ、消えてしまって久しい。
そこへある日、一人の男がやってきた。
男は社を見つけると、しばらくそこを動かなかった。
次の日、また同じ男がやってきた。そうしてまた、数刻そこで過ごし、帰っていった。
その次の日も、さらに次の日も。
特に何をするわけでもない。
その様子を、茂みの間から一対の目がいつも見ていた。
ある日、好奇心を押さえられなくなった視線の主は茂みから這い出てきて訊いた。
『毎日毎日、そんな何もいない社に通いつめて、きさまはいったい何をしているのだ』
男は突然現れた蛇に、とくに驚くでもなく答えた。
「別に何も。ここは居心地が良いなと思ってね。君も毎日毎日私を眺めて、いったい何が面白いのだい?」
その日から、蛇は茂みに隠れるのをやめた。
男は毎日同じ時間に来て、蛇は社の屋根にとぐろを巻いてそれを待った。
最初は互いにほとんど無言だったが、次第に二言、三言と言葉を交わすようになった。
男の言葉を聞くうちに、蛇は彼の里で流行病が続いていること、そのせいで若者たちが少しずつ里を離れていくこと、活気がなくなって誰もが希望を失っていることを知った。
ある日、男がぽつりと言った。
「私の家は、古くは司祭だったらしいんだ」
『……ほう』
「今も、なにか心を寄せられる神を祀ることができれば、皆の気も少しは晴れるだろうか」
『この社の神は消えてしまったぞ。随分前のことだ』
「信心を得られなくなってしまったんだな。この一帯を守ってくれていただろうに」
男は心底残念そうに言った。彼の気も塞ぎつつあることを、蛇は悟っていた。
男が少しでも元気になれば、と、蛇は秘密の場所へ案内した。
そこは温泉だった。
男はとても喜んで、それから一人と一匹は毎日そこへ通うのが習慣になった。
温泉は弱い毒性があり、本来であれば人間の身に害があるものだったが、蛇にはそれを中和する力があった。
男は蛇がたいへん長生きで、妖怪であることも知っていた。それでも旧来の友のように接してくれた。
ある日のこと、男は温泉を他の里人にも利用させたいという考えを話した。
温泉のほとりに新しく社を建てて、そこに新たな神を祀る。里人の信心が復活すれば、病を鎮める良い気が巡るかもしれない。
「もちろん、君が嫌なら無理強いはしない。君の協力が無ければ毒素を中和できないのだから」
蛇は迷った。人間のことなど、今まで気にしたことは無かったし、この場所は男と蛇だけの秘密にしておきたい気もした。
でも、男が切実に困っているのも分かっていた。里がだめになってしまえば、男もどこかへ去らなければならないのかもしれない。
蛇は温泉を里人に開放することを了承した。
『して、ここに祀る新しい神というのは? 当てがあるのか』
「それが、まだ漠然と考えている段階だから何も。いずこかの社から勧請かんじょうして頂くか……」
蛇は考えた。
この場所を里人にも教えてやるのはまあ良いとして、その守護まで余所よそから来た神に託すのは、なんだか嫌だった。
『――我ではだめだろうか』
蛇の言に、男は心底驚いたようだった。でもしばらくして、嬉しそうに笑ってその提案を受け入れてくれた。
こうして男は温泉のほとりに新しい社を建て、蛇はただの妖怪からそこの祭神となった。
温泉には毎日たくさんの人がやってきて、湯治していった。最初暗かった里人の表情も日を追うごとに明るさを取り戻した。皆は温泉に入る前に社へ寄って、健康を祈願したり回復を感謝していった。
他の里からも人々が来るようになって、そこは見違えるほどにぎやかな場所になった。
社の賽銭箱には入浴料として小銭がたくさん入れられた。
最初は男のために、としか考えていなかった蛇だが、次第にその場所が気に入った。里人たちが元気にしているのを見ると、神になって良かったと思った。
毒素を中和するのは楽な仕事ではなかったが、そんなことは気にならなかった。
そうして穏やかな日々が十年、二十年、三十年と続いて――。
「君のおかげで本当に救われた。ありがとう」
すっかり老いてしまった男は、若い頃と変わらない穏やかな笑顔で礼を言った。
「君はそんなに大きな姿になったけれども、私はあの小さい姿も君らしくて好きだ」
『あの姿では舐められてしまう。我には大した力が無いのだから、見かけだけでも強そうに見せねば』
巨大な姿になる術を身に付けた蛇は、男を体の上に座らせて高所から里を見下ろした。
大きくなるだけではない。神として祀られるようになって、飛躍的に力は増した。これが信心の力かと驚いたものだ。
「私がこんなことを頼まなければ、君はそんな苦労をしなくて済んだのにな」
『何を言うのだ。これを苦労と思ったことは無い』
そんなことに比べたら、蛇にとってはもっと辛い事があった。
男が人間であることを、その寿命があっという間に尽きてしまうことを、思い出さなければならないのだ。
男の死後、社の管理は彼の子供が引き継いだ。
その後も何代も、子から子へ託された。
時を経るうちに温泉の賑わいは静かなものになっていった。積極的に手入れされていた社の周囲も、なかなか人手が入らず雑草が目立ち始めた。
蛇はあの男以外には姿を見せなかったから、代々引き継いできた神主も誰も、蛇が本当にいるのか半信半疑だった。
そして、何代目かの神主には、最期まで跡継ぎができなかった。
最初は里人で管理を引き継ぐという話も出ていたが、それほど経たぬうちにその話題は口に上らなくなった。
誰の手も入らなくなった社はだんだんと蔓草に侵食され、木々が外観を覆い隠していく。
蛇はその様子を見ながらも、温泉の中和は欠かさずに行った。
その土地を手に入れようとする妖怪が攻撃してきたり、賽銭箱を粉々に破壊して銭を奪っていく輩が現れても、じっと耐えた。
あの朽ちた社で消えてしまった神も、こんな思いをしたのだろうかと思いを巡らせながら。
それでも、あの男との思い出の地を離れることはしなかった。

 

 

こうべを垂れながら訥々と語る蛇の昔語りを、かごめたちは黙って聞いていた。
『我は良き神になれるように……皆が健やかに生きられるようにと、それだけを考えてきた』
しかし里人たちは信心を忘れ、あまつさえ蛇神を退治してくれと、どこの馬の骨とも知れぬ余所者に依頼したのだ。
『我は所詮、蛇が生き長らえただけの妖怪なのだ。神の真似事など荷が重すぎたということなのだろう』
蛇は力なく笑って、社を見上げた。
あの男が建ててくれた社。素朴ながらもきらきらと輝いて見えたあの小さな社は、今は見る影も無くぼろぼろになってしまった。
『すまぬな……我ではだめだった』
彼に侘びるように、小さな呟きが零れ落ちた。
すると弥勒が歩み寄って、視線を合わせるように片膝をついた。
「蛇神殿、これまでの人間の数々の非礼、心よりお詫び申し上げる。ですが、可能ならば里人たちにもう一度やり直す機会を与えて頂けませんか」
『やり直す……?』
「あなたは人間を憎みきれていない。心のどこかでは、見捨てきれずにいるのです。その証拠に、実質的な里人たちの被害は驚かされたというだけ。先ほど私たちに仕掛けたのも、結局は幻影で誰一人怪我を負っていない」
「私たちが温泉に入ってる間も、中和し続けてくれたんだよね」
珊瑚もうなずいた。
「こうして見れば、大した被害ではないのです」
「おい」
犬夜叉と蛮骨が異口同音に突っ込んだ。一番大事なことを、完全に忘れられている。
「ああ……そうでした。蛇神殿、心中お察しいたしますが、ひとまずあやつらを元に戻して頂きたいのですが」
『何を言うておる。もう戻っておるではないか』
たっぷり三呼吸分の沈黙が流れた。
「は!?」
再び犬夜叉と蛮骨が異口同音に叫び、慌てて自分の身体を見下ろした。そして言葉を失う。
「いつの間に」
『先のその娘の霊力にあてられて、効力が切れたのだろう』
蛇はくねくねと首を傾けた。
『そもそも、きさまらの身体は入れ替わってなどおらん』
「はぁ!?」
今度は二人以外も驚きに包まれる。蛇は呆れたように目を細めた。
『魂を入れ替えるなど、そんな高度な芸当は我にはできぬ。我の得意分野は”幻術”だ』
「つ、つまりどういうこと?」
「その男が犬の男に見えるように、犬の男がその男に見えるように幻術をかけた」
あとは温泉の中で眠りに誘い、湯煙にまぎれて二人とそれぞれの着物の位置を入れ替えただけだという。
服にも幻術をかけていたので、彼らは相手の衣だと思いながらいつも通りの格好をしていたことになる。
「じゃあ、蛇の術にはまってたのは大兄貴と犬夜叉だけじゃなく、俺たち全員だったってことか」
煉骨が狐につままれたような顔で呟いた。
「ちょっと待ちやがれ! じゃあ俺が蛮竜を持てなかったのは何でだ!? 半妖の体だったなら持てたはずだ!」
「それはてめぇが非力だからだろ! それより、俺だってあの女の言霊でさんざん潰されたんだぞ!?」
「それ以外もそうだ! お前の身体になったら耳も鼻もてんで利かなかったんだぞ!」
「犬耳の感触も本物だった!」
犬夜叉と蛮骨が納得がいかないと言わんばかりに抗議した。なぜか蛇骨も加わっている。
『ううむ――よくわからん。お前たちの思い込みが激しすぎたんじゃろう』
「んな無責任な!」
(あー……)
応酬を見ていたかごめの脳裏に「プラシーボ効果」の文字が浮かんだが、本当にそれなのかはわからないし、説明が面倒くさそうだったので黙っていることにした。
「まあまあ、元に戻ったんだから、細かいことは良いじゃないの」
「細かくねぇわ! 犬夜叉の身体なら別に痛めつけられても構わなかったが、結局俺の身体だったってことだろ!」
「んだと蛮骨、てめぇ俺の身体をどんだけぞんざいに扱う気だったんだ!」
「だから結局俺の身体だっつの!!」
ああだこうだと言い争う蛮骨と犬夜叉を尻目に、弥勒は蛇に向き合った。
「あやつらの事はもういいです。蛇神殿の今後についてですが、里人に仇なすと言うのでしたら、人の身としてはあなたを退治せねばなりません」
蛇神はしゅんと項垂うなだれた。弥勒は「ですが」と続ける。
「先ほど申し上げた通り、もう一度やり直す機会を頂けるのでしたら、私どもも協力いたしますよ」
『なに?』
蛇神はきょとんと首を傾けた。

 

 

「お助け、お助けぇぇー」
力の無い声とともに、里に男たちが駆け込み、その場に倒れた。
農作業にいそしんでいた里人たちは何事かと里の入り口に集まってくる。
「お、お前さんがたは、先日蛇退治を依頼した人たちでねぇか」
蛇の名を聞くと、煉骨はヒィッとあからさまに身震いした。
「蛇神さまが怒っていらっしゃる……このままじゃこの里は滅ぼされちまう……」
「ええっ?」
人々が驚く中、睡骨がよろよろと立ち上がって煉骨の腕を引っ張り上げる。
「煉骨、早くここから離れよう! 俺たちは里とは関係ねぇんだ。離れれば祟りを避けられるかもしれねぇ」
「いいや無理だ! 俺たちは蛇神様の怒りに触れちまった……もうだめだ……うっ!!」
煉骨は苦しげな顔をすると、地面に倒れて動かなくなった。
「煉骨っ!? 嘘だろ、こんなのって……れんこーーーつっ!!」
睡骨が目元を手で覆って天を仰ぐ。銀骨が悲しげにぎしぎしと嘆いている。
「お、お前さん方。もっと仲間がいただろう? その人たちは」
里人たちは色を失って問うた。確かに以前は五人いたはずだが、ここには今死んだ一人を合わせても三人しかいない。
「あいつらはとっくに蛇の腹ン中だ! この里の連中が蛇神様をおろそかにしたから……なんで俺たちがこんな目に……!」
睡骨は蛇神の恐怖を思い出したかのように、狂ったように叫んだ。銀骨も呼応してぎしぎしわめく。
「あ、あんた。蛇神様は里を滅ぼすのか……?」
里人がおそるおそる尋ねると、睡骨はその肩をがしっと掴んで鬼気迫る表情で詰め寄った。
「蛇神様はお山の上からずっとこの里を見守っていたんだ。なのに里人が社をないがしろにして、ちっとも大切にしねぇから堪忍袋の緒が切れちまったんだ。このままじゃ里は滅びる。蛇は執念深いからな。どこかに逃げたって末代まで祟られちまうぜ」
里人たちは震え上がった。羅刹らせつのような形相をしたこの男でさえ、こんなに恐怖しているのだ。自分たちにどうこうできるわけがない。
「俺たちはどうすれば……」
「い、今からでも蛇神様に謝ろう! 俺たちが悪かったんだ!」
「そ、そうだな!」
口々に言い合い、くわすきを放り出した里人たちはお供え物をかき集め、山へ向かって駆け出した。
後には男三人だけが取り残される。
「……」
「……もういいぜ、煉骨」
「……ぎし」
煉骨がゆっくりと起き上がった。そこには冬の湖面のごとき無表情が貼り付いている。
「お疲れさん」
隠れて見ていた蛮骨と蛇骨がやってきたが、彼らの顔を見た二人は辛抱がたまらぬという様子で噴き出した。
「迫真の演技だっじゃねぇか」
「いや煉骨はもっとましな倒れ方あっただろ」
腹を抱えて笑い転げる二人に、苦虫を噛み潰した顔を向ける煉骨と睡骨。
「さてと、そろそろ向こう側も終わった頃だろ。様子を見に行こうぜ」
ひとしきり笑い終えた蛮骨は里人たちが駆けていった方向に顔を向けた。
山の反対側の里では、犬夜叉一行が全く同じ演目を行っているはずだ。上手くいっていれば、温泉の社に里人たちが集まっているだろう。
そろそろと温泉の畔に向かってみると、足の踏み場が無いほど両里の衆たちがつどっていた。
「蛇神様ぁーー! 俺たちが悪かった! これからは心を入れ替えるけぇ、どうかお許しくだされーー!!」
里人たちが口々に懇願している。あれほど放置しておきながら現金なものだ。
そう思いながら眺めていた時、周囲の湯煙が一段と濃さを増した。もうもうと立ち上る煙の中から、長大な蛇身が現れる。
「ひえぇ」
見上げるほど巨大な蛇に、皆が腰を抜かした。
「ほ、本当に蛇神様はおったんじゃ! おらたちはなんて罰当たりなことを」
『里の衆たちよ』
厳かな声がこだまして、その場は水を打ったように静まり返った。
『我はこれまで、お前たちが健やかに暮らせるよう見守ってきた。この湯も本来は人体に害が生じるものを、我の力で無害にしてきた』
「そんな……そうだったのか」
里人たちは驚き、慌てて地面に平伏した。
『先の日照りもそうだ。雨雲を呼び寄せ、干ばつを防いだのは我の力だ』
「あれも蛇神様のおかげだったなんて……」
里人が涙声で訴えた。
「蛇神様、俺たちが間違っていました! どうか、どうか……!」
『これまでの不敬の穴埋めはしてもらわねばならぬ。だが、長きにわたいつくしんできたお前たちを食うのも後味が悪い』
蛇神は尾の先を伸ばして、横に立っていた弥勒に巻きつけた。
『代わりに、この法師を食ろうてくれよう』
「これも法師の務めなれば、本望です」
殊勝な顔をした弥勒が無抵抗で尻尾に巻かれる。
「ま、待ってくだせぇ! 法師様は俺たちの頼みを聞いてくれただけで、何も関係無いんだ! く、食うなら俺を……!」
「いんや、俺を」
「おらを!」
次々に志願されて、蛇がいささか困ったように弥勒を見た。巻きつかれた弥勒は肩をすくめる。
弥勒が合図を送ると、蛇身が煙のように消え失せた。小さくなった蛇をたもとに滑り込ませ、弥勒は転がり落ちる真似をする。
『お前たちが同じ過ちを犯さぬと申すのであれば、今回は特別に見逃してやろう。皆、今言ったことをゆめゆめ忘れるでない。我はいつでも見ている』
どこからか蛇神の声が響き渡り、そして静けさが戻った。
「ああ、なんと慈悲深き神であろうか! ありがたい、ありがたい!」
弥勒は感涙にむせぶ振りをし、額を幾度も地面に付けた。里人たちもそれに倣って平身低頭し、湯煙の中にすすり泣きが幾重にもこだました。

 

 

『こんなことで里の衆の意識が変わるであろうか』
小さな姿に戻った蛇は、難しい顔をして唸った。弥勒がしれっとした顔で返す。
「それは彼ら次第です。歴史は繰り返すかもしれない。その時は、蛇神の思うままに報復するが良いでしょう」
社や温泉の周囲を皆でせっせときれいにして、新しい供物くもつを捧げて、里人たちはひとまず引き上げていった。今は犬夜叉一行と七人隊だけになっている。
里人たちのあの勢いであれば、すぐに社や鳥居も修復されるだろう。
『何はともあれ礼を言おう。お前たちのおかげで、いましばらく神を続けることができそうだ』
あのままでは本当に祟り神になっていたかもしれない。それは自分もあの男も、望むところではなかったのに。
蛇神は社を見上げた。なんだか、あの男が安心したような顔で笑いかけてきたような気配を感じたのだ。
もちろん、そこには誰もいないのだが。
「それじゃ蛇神様、私たち、もう行くわね。里の人たちと上手くいくよう、応援してるわ」
「やっとこいつらとオサラバできるぜ」
「そりゃこっちの台詞だ。次会ったら容赦しねぇ。首洗って待ってろ」
犬夜叉と蛮骨の間に火花が散るが、さすがにこの場で一戦交える気にはならないらしく、ふんと互いにそっぽを向いた。
「元気でねー」
かごめたちが手を振る。蛇も尾を持ち上げて先端をくねくねと動かし、見送った。
犬夜叉一行の姿が見えなくなったところで、蛇は七人隊を見上げる。
『お前たちもままならぬ身のようだが、深くは聞かんでおこう。悔いの無いよう生きるのだぞ』
「なんだよ気付いてたのか。だったら、四魂の欠片が喉から手が出るほど欲しかったんじゃねぇのか」
『我には無用の長物さ』
「そりゃ良かった。じゃあ、せいぜい里の連中と仲良くやりな」
蛮骨は蛮竜を肩に担ぎ上げる。ほんの一日二日離れていただけだが、久しぶりの重さが心地よかった。
これまで数々の修羅場をくぐってきたが、もうこんな体験は二度と御免だとしみじみ思う。
「大兄貴、身体は大丈夫なのか」
犬夜叉一行とは反対方向に歩きながら煉骨が気遣うように問いかける。
「あの女の言霊攻撃にだいぶ参ってただろ。顎とか……顎とか」
気絶するほどの衝撃を受けたのだ。噛み合わせが変になっていたりしたら、闘いに影響が出るかもしれない。
「幸か不幸かこの身体だったわけだから、欠片の力ですぐに治った」
「あ、そうか」
蛮骨を除く四人はほけほけと笑った。当人意外には笑い話である。
その時遥か遠くから、木々の間を渡ってあの言霊と地面を揺るがす衝撃音が聞こえてきた。何を言ったものやら、犬夜叉がさっそくかごめの逆鱗に触れてしまったようだ。
「懲りねぇ奴らだ」と睡骨が鼻で笑う。
だが別に言霊など、自分たちにはもはやなんの脅威でもない。
そう思いながら四人が蛮骨を振り向くと。

 

首領が地面にめり込んでいた。

 

 

 

 

「兄様、早く早く!」
「待っておくれよ!」
草木を蹴倒す勢いで十代後半の兄妹が山を登ってくる。妹に急かされて、兄は息を切らしながらゆるい斜面を駆け上がった。
「本当にこの辺なのだろうか。うちの家に伝わっているというお社」
「間違いないって。まったく、遠い親戚とはいえこっちの家系の存在を忘れて跡継ぎを指定せずに逝っちゃうとか、ご先祖様も無責任だよ」
「こらこら、神様の御前に行くというのに、そういうことを言ってはだめだ。早世だったみたいだし、仕方がないよ。
それよりも私は、文献を読んだ途端、昨日の今日で探しに行くと言って聞かないお前の行動力の方が怖い」
「社を見つけたら、管理できずにいたことを謝り倒さないと。ああ、いったい何代分の期間を独りにしちゃったんだろう。神様が消えてないといいんだけど……」
「きっと大丈夫だよ。この山はこんなに緑が豊かだ。優しい神様が守ってくれているんだね」
喜怒哀楽がころころと変わる妹をなだめるように微笑む兄。
二人が木々の向こうに湯煙を見つけたのは、それからしばらく後だった。

 

 

<終>

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