背中

「俺は兄貴が好きだ」

それは、今までだって幾度となく聞いてきた言葉。
いつも自分は軽くあしらってきたのだが。
今回ばかりは、蛇骨の瞳があまりに真剣なので、蛮骨は咄嗟に冗談で片付けることができなかった。
「俺は大兄貴が好きだ、大好きだ。愛してる」
恥ずかしげもなく、青年は続ける。
「知っ……てる、けど……どうしたんだよ」
戸惑いがちに問うと、蛇骨はふいと顔を伏せた。
見ていると、その肩が小刻みに震えているのに気付く。
「――蛇骨」
半眼になって呼びかけると、顔を上げた彼は盛大に笑った。
「あーっはっはっは、大兄貴が戸惑ってらぁ。かわい~なぁ!」
蛮骨のこめかみに青筋が浮く。
彼は無言で蛇骨の頬を捕まえると、それを左右に思い切り引っ張った。
「いでででで!あにひ、いひゃい!!」
良いだけ引っ張った後で解放すると、蛇骨は両頬を押さえて低く唸る。
「いてぇな~…、顔の形が変わっちまうよ…」
「やっぱり冗談だったんだな」
一瞬でも真剣なのかと思ってしまった自分に苛立ちながら、蛮骨は胡坐の膝に頬杖をついた。
彼らがいるのは、小さな堂の前。
蛇骨から睡骨の欠片を受け取り、その後も二人でしばらく談笑していた時のことだった。
はあと息をつく蛮骨をちらと見やり、蛇骨は遠くを眺める。
「……冗談では、ないんだけどさ」
小さな呟きが、風にとけた。
誰にも言わない、自分の中での、誓いがあった。
初めはぼんやりとしたもので、だんだん形になってきて。いつの間にか、揺ぎ無い誓いになっていた。
「大兄貴、本当に俺、大兄貴が好きだったよ」
「………、だった?」
ぽつりとした呟きに、蛮骨は眉を寄せる。
うんと、蛇骨は頷く。
「好きだ」と、生きていた時も何度も言った。自分でも呆れるくらいに、何度も何度も。
気持ちを伝えるには、言葉に出さなければ駄目だとばかり思っていたから。
確かに自分の考えは正しいのかもしれない。
だが、言葉に出す度に「好き」の度合いが高まって。
それは、自分の誓いへの壁になった。
「俺はさ、ずっと前から、生きてた頃から、自分に誓いを立ててたんだ」
「誓い…?」
意外な発言に、蛮骨はまじまじと蛇骨を見つめる。
「そう、誰にも話したことないけどさ。もう、大兄貴には言っちまうよ」
小さく蛮骨に笑いかける。
「俺の誓いは、自分よりも何よりも、まず大兄貴を守ろうってことだったんだ」
澱みなく発せられたその言葉に、蛮骨の目が見開かれた。
「でも、生きてた頃の俺は、大兄貴が好きすぎた。
大兄貴の隣はいつも俺のもの、大兄貴のことは俺が一番わかってる、て……」
いつの間にか、自分を中心に考えていた。
そのせいで、誓いを守りきれなかった。
討伐隊に追い詰められたあの日の光景が蘇る。
今思えば、自分は十分に蛮骨を守れていなかった。
蛮骨の隣にいたい、蛮骨に見てもらいたい、蛮骨とずっと手を繋いでいたい…。
そんな甘えた自分に、彼を真に守ることなどできなかった。
「死ぬ直前に、たくさん後悔して……だからわかったことがいっぱいあった」
好きだ好きだだけでは、駄目なことがあるんだと。
「大兄貴を守るんだって、その誓いは今も変わらない。
でも、俺はもう、前みたいに大兄貴に好かれたいとは思わないんだ」
好きになりすぎると、見えなくなるものがある。それを抑制できるのは自分だけだ。
「俺も、もう終わりにする。好きだって言うのはこれが最後だ。
そうじゃないと、せっかく蘇ったのにまた誓いを果たせなくなっちまう」
真摯な蛇骨の言葉を、蛮骨は呆然と聞いている。
蛇骨はポンと彼の肩に手を置いた。
蛮骨ははっとして蛇骨の目を見る。
蛇骨は目を細めると、微笑んだ。
「大兄貴の右腕は、煉骨の兄貴だよな。じゃあ俺は、左……いや、背中でいいや」
「背…中…?」
「大兄貴が背負ってるモンを俺も一緒に背負って、大兄貴の背中を狙う敵は俺が片付けて。
そうやって、俺は大兄貴を守りたい」
背中は彼の目には触れないけれど。彼を守るのに、これほど適した場所はない。
死んでみてようやくそれに気がついた。
好きだからこそ、大切だからこそ、隣を占領するより一歩引いたところにいる。
そんな考え方が、できるようになった。
「たまに手でも繋いでくれてさ、たまに隣で歩かせてくれれば、それで良いんだ」
「蛇骨……」
おもむろに、蛮骨は蛇骨の額に手を当てた。
蛇骨はきょとんと目を見開く。
しばらくそうしていた蛮骨だったが、やがて首を傾げた。
「おかしいな、熱はないんだが……何か変なもん食っただろ」
怪訝な顔の蛮骨に、蛇骨はぽかんと口を開けた。
「……は?」
「だって、お前がそんなこと言うなんてあり得ない。というか気持ち悪い」
「き……」
蛇骨の眉がだんだんと吊りあがっていく。
「気持ち悪いってなんだよ!!大兄貴ひでぇー!!」
乱暴に立ち上がり、蛇骨はすたすたと歩き出す。
その背に蛮骨が声をかけた。
「もう行くのか」
「行く! 犬夜叉の野郎と遊んでくらぁ!」
「気ぃつけてなぁ~」
蛮骨は笑いながらひらひらと手を振る。
蛇骨は軽く振り返ると、眉を下げて手を振り替えした。
俺は、大兄貴の背中になる。
今度こそ、彼を守り抜く。
誓いを果たすためなら、どんな敵も怖くない。
彼と離れるのだって、もう淋しくない。
だって自分は、彼の背中だ。その誇りが、自分にはあるから――

姿が見えなくなるまで蛇骨の背を見送って、蛮骨は一つ息をついた。
まさか蛇骨が、あんなことを考えていたとは。
なんだか情けなくて、自嘲の笑みがこぼれる。
守るなんて言葉は、自分が使うはずなのに。
首領が弟分に守られようとは。
「……いや」
あの弟分だから、大切なんだろう。
自分が支えて、支えられている「七人隊」だから、自分はどんなことでもやっているのだ。
「可愛いヤツじゃんか」
ごろんと横になって、暮れかけた空を見上げる。
もうすでに失ってしまったものも沢山あるけれど。
蛇骨があんなことを言うんだから自分も負けてはいられない。
蛇骨が向かって行った白霊山とは反対の方角に、太陽がゆっくりと沈んでいった。

<終>

 

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