幸せの日

枕元で目覚ましが高い音を鳴り響かせたので、朔夜は慌てて飛び起きた。
腕を伸ばして上部のボタンを押すと、けたたましい音がぴたりと止む。
ほうと息をつき、彼女はそっと隣を見やった。
同じ寝具で眠っている彼は、幸い目を覚ましていない。
カーテン越しの薄明かりの中でそれを確認し、仄かに微笑んで、朔夜は寝室を出た。
居間のカーテンを開けると、朝からしんしんと雪が降っていた。屋根や道路の上に、白が薄く積もっている。
窓際のカレンダーで今日の日付をしっかりと確認して、朔夜はいそいそと台所へ向かった。
冷蔵庫の中を覗き、手前にある物を退かす。
その奥には、小さな箱があるのだ。
おそらく、彼は気付いていないだろう。
箱を取り出して、彼女は幸せそうに目を細めた。

起き出すと、すでに着替えを済ませた朔夜が振り返って微笑んだ。
「おはよう、蛮骨」
「ああ、おはよう」
いつものように食卓の上にはきちんと朝食が並べられ、美味しそうな香りが立っている。
同棲っていいなぁ。
毎度のごとくそう噛み締め、蛮骨は朝食の前に腰を下ろした。
大きな窓の外を眺め、わずかに目を見開く。
「雪が降ってるのか……」
「ええ。でも、天気予報だとお昼ごろには止むだろうって」
コップに飲み物を注ぎ、朔夜はテレビに視線を向けた。
今は天気予報は終わり、ニュースが流れている。
女子高生らが、何かのインタビューを受けていた。
起きたばかりの蛮骨はさしてそれに興味を示さず、食べ物に手をつける。
食卓の上にあるのは和風の健康的な料理だ。
いつもいつも言っているから聞き飽きたかもしれないが、やはり今日も言葉が口を出る。
美味(うま)いなぁ、やっぱ」
これを毎日食べられるのは幸せだ。幸せと言わないで何とする。
同棲を始めてはや一年。
蛮骨の毎日は、こうしたささやかな幸せから始まっている。
次々と食事を平らげていく蛮骨を嬉しそうに見つめていた朔夜が、ふいに口を開いた。
「蛮骨。私、今日は早く会社に行かないと。先に行ってるわね」
「そうなのか? じゃあ、足元気をつけてな」
「うん。じゃ、後でね」
上着を羽織って鞄を持ち、朔夜は玄関へ消えていく。
少しの後に、扉が閉まる音がした。
蛮骨と朔夜は同じ会社に勤めている。
今は蛮骨が住むマンションに同棲しているのだが、会社の者たちには知られていない。
特に秘密にしているわけではないが、あえて教える必要もないだろうということで、まだ誰にも言っていないのだ。
今は二人で稼いでいるが、そのうち自分一人の収入でも彼女を支えられるようになりたい。
そうしたらいつかは結婚して、朔夜にはゆっくりと子育てをしてほしいなぁと、蛮骨は思い描いている。
そのためにも、自分が頑張らねば。
うんうんと頷いて、蛮骨は食器を片付ける。
一人になった家の中は、やけに広く感じた。
前まではこれが当たり前だったんだよなぁ。
シンプルだった自宅にこの一年で加わった彼女の好みのデザインを眺め、小さく微笑む。
よし今日も頑張るぞと、彼は大きく伸びをした。


「………」
自分のデスクの前に突っ立ち、鞄を置くこともなく蛮骨は呆然としていた。
正確には鞄を置かないのではなく、置けないのである。
続々と社員が出勤してくる朝の会社。
蛮骨の机の上には、大量の箱やら小袋やらが置かれていた。
そのどれもが、華やかに装飾されていて。
事務的な机にはいささか不釣合いである。
様々な思考が頭の中を駆け巡る中、横合いからひょいと紙袋が差し出された。
「ほれ、使え」
はっとして見ると、隣の机を使う同僚である。
同年代で日頃から親しくしている彼は、何やらにやにやと笑っている。
「……これは、どういうことなんだ」
紙袋を受け取り、広げて無造作に机の上のものを突っ込みながら、蛮骨は眉根を寄せる。
すると同僚の男は、驚いたように目を瞬いた。
「なんだお前、今日がバレンタインだって、忘れてたのか?」
「バレンタイン?」
思い切り胡乱(うろん)に返し、蛮骨は机にある味気ないカレンダーを覗き込む。
赤い小さな字で確かに、そう記されていた。
……本当だ。
この時期になれば店頭やテレビ番組で大きく取り上げられるはずなのに、全くこれっぽちも気付かなかった。
これはある意味凄いことなのではないか。
またもや呆然とする蛮骨に、同僚はやれやれと苦笑した。
「意識しなくても大量に貰えるんだからいいよなぁ」
妙に感情のこもったその言葉に反応して彼のデスクを見やると、そちらにも色々と載っている。だが、明らかに量が違っていた。
思い起こせば、毎年の光景である。
去年も一昨年(おととし)も、こんなやりとりをしたような。
それでも見事に忘れているということは、自分は余程興味がないのだろうか。
―――否。
渋い顔をしながらも、蛮骨は内心で否定する。
興味が無いわけではない。
仕事に追われているために、興味を向けられなかったといった方が正しい。
前もって今日が何の日かを知っていれば、チョコが欲しいとも思っただろう。
ただし誰からでも良いということはなく、頭の中に思い描くのはただ一人。
その一個さえあれば、それだけで満足できるのだから。
紙袋を覗き込む。
ごろごろと転がるラッピングされた箱や小袋には、控えめながらも誰からの物かが記されていた。
よく知ってる人もいれば……名前すら見覚えの無い人もいる。
その中には、望んでいた人の名前は無かった。
まあ、それはそうだろう。まだ出勤したばかりであっちも忙しいだろうし。
今すでにチョコを持ってきている者たちも、今後忙しくなることを見越して早めに、ということなのだろう。
「……これ、全部お返ししねぇと駄目なのかな」
ふいに頭の中を過ぎった考えが素直に言葉になる。
聞きとめた同僚が、肩をすくめた。
「お前どうせ、ホワイトデーだって忘れるんだろうに」
本気で忘れている人間に、誰も求めないだろうと笑われる。
「ま、みんな少なからず期待はするだろうがな」
「…………」
蛮骨が複雑な面持ちをしていると、二人のもとへ朔夜がやって来た。
「山崎さん、いつもお世話になってます。これ、どうぞ」
柔らかく微笑んで、朔夜は同僚の男に小さな箱を差し出す。
「ええっ、俺に!?」
同僚は大きく目を見開いている。
蛮骨が黙って見ていると、朔夜は小さく笑って首を傾けた。
「義理ですからね? お世話になってる人たちに渡して歩いてるんです」
「わ、わかってるよ…やあでも、嬉しいなぁ……」
心底嬉しそうに目尻を下げ、山崎はありがとうと礼を述べる。
ひとつ頭を下げると、朔夜はチョコの袋を片手に他の社員のもとへ向かった。
……あれ。
当たり前のように横を素通りされてしまった蛮骨の表情が固まる。
「あり? 蛮骨は貰えなかったのか?
蛮骨に見向きもしない女もいるんだなぁー」
にひひ、と笑い、山崎は色んな角度から小箱を眺め、大事そうに引き出しにしまった。
彼にとっては、蛮骨の机にできたチョコレートの山よりも、今しがた貰った朔夜からの義理チョコの方がずっと価値があるらしい。
どこか勝ち誇っている様子の彼に、蛮骨の眉がわずかに吊り上がる。
羨ましい。すごく羨ましい。なんで俺より先にもらってるんだこいつ。
中学生よりも幼い嫉妬が、実は胸の内で渦を巻いていたりする。
彼女のチョコを尊く思うのは、自分が一番だ。
もしも山崎が、蛮骨のチョコの山とそのたった一つとを交換してやると言うのなら、自分は喜んでこれらを差し出すだろう。
ぐるぐると考えていると、突然山崎が額の辺りに指を押し付けてきた。
「……なんだよ」
「や、眉間(みけん)に皺が寄ってたから」
指摘されて、蛮骨は目を(しばたた)かせる。
顔に出ていたようだ。
一つ息を吐き、彼は視線を巡らせて朔夜を探した。
向こうで、男性社員にチョコを配っている姿が見える。
そうだ、あれは義理なのだ。
言ってみれば、さして親しくも無い人間にとりあえず年賀状を送っておくのと同じこと。
それに考えてみれば、せわしない会社で貰わずとも、自分は帰宅してからいくらでも時間があるではないか。
思い当たるやいなや、先の嫉妬心がとてつもなく恥ずかしく思えて、蛮骨は苦い表情で視線を泳がせた。

「朔夜、蛮骨さんにはもう渡したの?」
昼休み。
会社の友達と一緒に弁当を広げていた朔夜は、出し抜けに訊かれて言葉に詰まった。
会社の人たちは蛮骨と朔夜の関係を知らない……ということになっているが、実は彼女だけは知っている。
ずっと二人を応援していてくれたのだ。
口の堅さなら十分信用できるから、色々と相談を聞いてもらったり相談されたりする、親友とも言うべき間柄である。
「まだ……いつ渡そうかと、思って」
口にあった食べ物を飲み込んで、小さく答える。
「机見たら、やっぱり沢山あったし。今渡したら荷物が増えて、逆に迷惑よね……」
「彼の場合、一個二個増えても大差ないと思うけど……
まあでも、家でゆっくり渡した方がいいかもね」
「うん、そうする」
頷いて、朔夜は親友に微笑む。
すると、同僚はぴんと人差し指を立てた。
「そうだ朔夜。こういうのは?」
きょとんと首を傾ける朔夜に、彼女は声をひそめてある提案をした。


雪が薄く積もったために濡れている道路を、蛮骨は一人歩いていた。
予報の通り朝降っていた雪も昼には止み、それからずっと陽が射していたので交通に支障は出ていない。
すっかり陽の落ちた空の下を行く蛮骨の両手には鞄と、紙袋が二つ、提げられている。
あの後も入れ替わり立ち替わり女性社員がやってきては、熱烈な言葉と共に色とりどりのチョコを置いて行ったのである。
最終的に、袋二つがいっぱいになってしまった。
まったく学生じゃあるまいし、と息をつき、蛮骨は袋を持ち直す。
肝心なひとつは、まだ手に入れていない。
大丈夫、家に帰れば貰える。山崎が貰えて俺が貰えないわけがない。
よし、と気合を入れ、彼はそびえる自宅マンションの入り口を抜けた。
「ただいまー」
家の戸を開けると、すぐに良い匂いが漂ってくる。
蛮骨よりも先に帰っている朔夜が、夕飯の仕度をしてくれているのだ。
「おかえりなさい、蛮骨」
髪を結い上げ、私服に着替えた朔夜が笑顔で出迎える。
いつものように荷物を預けてから、蛮骨はしまった、と後悔した。
大量のチョコが入っている袋二つまで、当たり前のように持たせてしまった。
その気はないと分かっていても、女性としてはいい気はしないだろう。
困惑した視線を向けるが、対する彼女はそれほど気にした様子もなく、それらを抱えて居間へ運んでいく。
リビングのテーブルの上には、洋風の夕食がきれいに並べられていた。
素早く視線を走らせるが、これといってバレンタイン関連の物は、置かれていない。
もしかしたら夕食と一緒に渡してくれるのかと思ったのだが……。
いかんいかん、そんなせっかちなことでどうする。落ち着け俺。
「今日も美味そうだな、いただきます」
上着を脱いでネクタイを外し、さっそく料理を口に運ぶ蛮骨の隣で、朔夜も微笑んでいる。
「どうかしら……この料理、初めて作ってみたんだけど」
「うん、美味しいぜ。さすが朔夜」
素直な感想で褒めてやると、嬉しそうに頬を染めている。
そんな笑顔が、あたりまえのように傍にある。
すごく幸せだなぁと、蛮骨は心の底で思った。
夕食の後でゆっくりと風呂に浸かり、しばらくテレビを眺めながらくつろいでいた蛮骨は、おもむろにノートパソコンを持ち出した。
それを認めた朔夜が目を瞬かせる。
「あれ、まだ仕事があるの?」
「うん、明日までに片付けねぇと駄目なんだ。朔夜、先に寝てていいから」
笑いかけると、朔夜は気遣うように目を細める。
「大変ね…あまり無理しないようにね……」
自分だって仕事をして疲れているはずなのに、蛮骨のことを一番に気にかけてくれる。
おやすみと言葉を交わして寝室に消えていく彼女の背を見送った蛮骨の顔が、数秒後に音を立てて固まった。
……あれ、あっさり眠りに行ってしまった。
や、眠るのは良いのだ。だがしかし、その前にすることがあるんじゃないのか朔夜さん。
一日が終わろうとしているこの時刻。
蛮骨の手元には、いまだ朔夜からのチョコが無い。
文字の並ぶパソコンの前で、蛮骨は仕事とは別の理由で頭を抱えた。
あれ、俺なんかしたかなぁ。
もしやさっき紙袋を持たせた時、やっぱり実はものすごく気分を害していたのだろうか。
それともその他に、何かまずいことがあったのか。
今日がバレンタインだと忘れていたこと、会社の机にうず高く積まれたチョコの山。
否、もしかしたら今日に限らず、日々の生活の中ですれ違いでもあったのか?
一番考えたくない懸念(けねん)が、浮かぶ。
二人の間に、亀裂が生じているのでは……
純粋に忘れているだけとは考えにくい。山崎や他の同僚たちには、きちんと渡していたのだから。
とすると、蛮骨の分は最初から用意されてなかったのか?くれるつもりすらなかったのか?
漬物(つけもの)石が遥か上空から脳天に落ちてきたような衝撃に打ちのめされる。
「そんな……」
静かに響いていたキーを叩く音が止み、蛮骨は力なくテーブルに突っ伏す。
自分は今まで朔夜のことだけを考えてきたのに、彼女の気持ちはもうこちらには向いていないのか?
日々笑顔で接してくれているが、あの表情の下では実は嫌悪が渦巻いていたりするのか?
一度嫌な風に考えると、次から次へとそれが増長されていく。
確かに毎日食事を作らせ掃除や洗濯だってやってもらっている。
そうか、それに嫌気がさしていたんだ。俺が悪かったんだ……
泣きたい。真面目に涙が出そうだ。いいや、もういっそ泣いてやる。
蛮骨はもはや全てがどうでも良くなっていた。
バレンタインデーなんか嫌いだ。もう一生楽しみになんかしてやるもんか。
「…………蛮骨?」
突然かけられた小さな声に、伏せっていた蛮骨はびくりと飛び起きた。
背後を見ると、眠りに行ったはずの朔夜が、ドアの間から顔を覗かせている。
突っ伏している様子に驚いたのだろう、彼女は心配そうに蛮骨のもとへ歩み寄った。
「どうしたの? 具合でも悪いんじゃ……」
柔らかい手が、額に当てられる。
切ない感情が込み上げてきて、蛮骨は無言でその手をとった。
「蛮骨……?」
何と言えばいいのかわからず、視線を逸らしながら蛮骨は呟く。
「平気だ。朔夜こそ、寝ていたんだろう? どうして……」
「……だって…」
朔夜はついと視線を下げ、言葉を探しているようだった。
蛮骨が(いぶか)るように首を傾ける。
「だって、これ……まだ、渡してないから」
顔を上げた朔夜は、彼の眼前に小さな箱を差し出した。
意表をつかれた蛮骨が、何度か瞬く。
「これ……」
「チョコレート! 今日はバレンタインデーなんだから!!」
きれいに包装された箱を押し付けて、朔夜は真っ赤になって(うつむ)いた。
受取った箱を見下ろし、蛮骨は大きく息を吐く。
「……いつまで経ってもくれないから、かなり焦ってたんだぞ」
「ずっと渡さないでいたら、蛮骨から 『ちょうだい』 て言ってくるのかなーって……。
なのに、私がベッドに入っても何も言ってこないし……
他の人からいっぱい貰ったから、別に私のなんかいらないのかと思ったじゃない……」
実はこれは、会社の友達から昼間に提案されたことだ。
わざと渡さないでおいて、彼の反応を窺ってみるのはどうかと。
「なんか……別に気にしてないような感じだし」
拗ねたようにそっぽを向く彼女に、蛮骨はそっと苦笑をこぼした。
まったく、正反対だというのに。
小さいながらも焼きもちをやいてくれたことが嬉しくて可愛くて、その髪を撫でる。
「いらないわけないだろ。ずーっと待ってたんだから。
俺こそ、お前に嫌われたんじゃないかと気が気じゃなかったんだからな。
山崎たちは貰ってるのにって」
「……もう、そんなわけないでしょ。
会社の人たちにあげたのはみんなお店で買った同じものだし、手作りは蛮骨のだけなのよ」
肩をすくめて、朔夜はくすくすと笑い出す。つられるように、蛮骨の顔にも笑みが滲んだ。
腕を伸ばし、朔夜の華奢な身体を包み込む。
そうして、耳元で囁く。
「ありがとう、朔夜」
「蛮骨も、いつもご苦労様」
「ホワイトデー、ちゃんと返すから」
それを聞き、彼女の肩がおかしそうに揺れた。
「期待しないで待っておくわ。蛮骨、きっとホワイトデーのことも忘れると思うから……」
「……それ、山崎にも言われたんだが」
半眼で唸る蛮骨である。
どこまで信用が無いのだろう。こうなったら意地でも覚えていなければ。
「じゃあ、仕事頑張ってね」
微笑みながら、朔夜は今度こそ眠りに寝室へ戻っていく。
再びパソコンと向き合いながら、蛮骨はチョコの包みを開いてみた。
小さなカードが現れ、箱を開くと小さめのチョコが沢山入っている。
カードに書かれた文章に穏やかに目を細め、彼は一つ、食べてみた。
甘すぎず苦すぎず、蛮骨の好みをよく理解した味である。
大量に貰ってきたチョコたちにはまだ一つも手をつけていないが、きっとそのどれよりも美味しいだろうなと、思う。
これがあれば、徹夜の仕事もこなせそうだ。
外はまた、しんしんと雪が降り始めている。
騒音も無い静かな夜の中に、キーを叩く音が再び響き始めた。

<終>

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