珍事件でお騒がせ
ふあぁと欠伸混じりに、蛇骨は空を見上げた。
「なんだかよぉ、こうしてると、生きてた時みてぇで、楽しいな」
少し前を行く蛮骨が振り返り、僅かに微笑んだ。
「そうだな」
蛮骨率いる七人隊は、のどかな青空の下を歩んでいる。
「地獄の底から蘇えった」と世の中を震撼させている彼らだが、今、その姿は白霊山からずいぶん離れた地にあった。
かの霊山の方角を仰ぎ、煉骨は眉を寄せた。
「奈落に黙って来たんだろう、大丈夫なのか?」
「煉骨の兄貴のために来てるんだからよぉ、もっと楽しそうにしろよ」
「俺のためって、そんな…」
「兄貴の武器に使う金が無いから、こうして稼ぎに出てるんじゃねぇか」
煉骨は珍しく反論できずに口を噤む。
七人塚の底から出てきた七人隊は、全くの無一文だった。
着物や己の武器はある。蛮竜も取り戻したので問題ない。腹が空かないので食費も気にすることはない。
ただひとつ、どうしても金が入り用なことがあるのだ。
「生きてた時もそうだったがよぉ、兄貴の武器は金食い虫だよなー」
「お前に言われたくない」
素早く蛇骨に返すも、煉骨は肩身の狭い思いがした。
自分の戦い方には金がかかる。
武器の製造のために、鋼や火薬を仕入れなければならない。
銀骨の改造の分も上乗せされるため、その額は結構なもので。
一文無しの身の上では、とてもじゃないがこの先戦っていけない。
すっかり軽くなった葛篭を負い、背を丸めている煉骨に、蛮骨は苦笑を浮かべた。
「別に気にすることはねぇって。
武器が作れるだけの金が入ったら、とっとと白霊山に戻ればいい。
実のところ、俺もあの山を離れられて気分がいいんだが…」
白霊山には聖なる結界が張り巡らされている。そのせいで、長時間いると自分たちも不調を感じるのだ。
今、彼らが目指しているのは、山間にあるという村落だった。
ちょうど、山賊退治をしてくれる者を募っているという情報を仕入れたためである。
途中で仕事をほっぽり出すのは奈落に悪いかもしれないが、人間には人間なりの事情がある。
蛮骨は陽光の眩しさに目を細めながら、彼方を見はるかした。
今の歩調ならば夕方には着けるだろう。四魂の欠片のおかげで疲れを感じにくい身体は、休みなしで歩き続けられる。
風が心地よく吹き抜け、揺れる草木が音を立てた。
蛮骨、煉骨、睡骨、蛇骨そして銀骨は、昔のことなどを思い出しながら、晴天の下を歩き続けた。
夕日が山の稜線を色濃く映し出すころ、七人隊は目的の村へ到着した。
村人たちが興味深げな目をしてやって来る。
「あんたらは…?」
「この村で、山賊退治してくれるヤツを探してるって聞いて来たんだ」
「おお! 引き受けてくれるのか! ちょっと待っておれ!」
ぱっと顔を輝かせ、村人は長を呼びに駆けていった。
しばし待っていると、老人が数人の村人を伴って現れた。
「あんたが村長か」
「左様。山賊退治を引き受けてもらえるとは有り難い。
さ、とりあえず屋敷に入り、身体を休めなされ」
村長に導かれ、五人は村で一番大きな屋敷へ上がりこむ。
広い造りの部屋があてがわれ、彼らはようやく腰を下ろした。
「こんな場所までよう来てくださった。
今日はもう遅いので、山賊退治の件については明日話し合いましょう」
優しげな風貌の村長が、微笑みながら言った。
蘇えった七人隊の噂もこの村までは届いていないらしく、誰も彼らに警戒するものはいない。
「屋敷の裏には温泉が湧いております。どうぞ、旅の疲れを取ってくだされ。
すぐに夕餉も用意させます」
ぺこりと頭を下げ、村長は下がった。
「温泉だってよ! やったなぁ~!」
蛇骨の嬉しそうな声に、他の仲間も口の端をあげて頷く。
「誰も俺たちの正体は知らねぇみてぇだしな。久々にゆっくり休めるぜ」
連戦、野宿の毎日だったので、素直に嬉しい。
「じゃあ俺、夕餉の前に風呂に入ってくる」
蛮骨が肩をこきこきと鳴らしながら立ち上がると、蛇骨は顔を上げた。
「一緒に入ってやりてーけど、俺はまだゴロゴロしてるわ。
ごめんな~大兄貴」
「いや、誰も頼んでねぇから」
涼しい笑顔で返し、鎧を外した蛮骨は、一人で浴場へ向かった。
屋敷の廊を歩いていくと、立て札に行き当たる。
その先に続く長い廊下の先に、湯殿はあるらしい。
ずんずん進むと、脱衣所に着いた。そこに立つ仕切りの向こうは、いよいよ露天風呂である。
いそいそと着物を脱ぎながら、頬が緩む。
蘇えってから初めて、まともに風呂に入るのだ。
川で長年の埃を落としたりもしたが、風呂に入るのはそれこそ十数年ぶり。
「良かった…白霊山なんか抜け出してきて良かった……!」
金欠だったことにこれほど感謝することも、中々ないだろう。
脱衣して、いざ、露天風呂へ。
もくもくと白い湯気が立ち上り、温泉特有の香りが漂う。
足をつけると、じんわりと痺れが這い登ってきた。
少年そのものの笑顔で、蛮骨は肩まで湯に浸かった。
「あー……気持ちいい、気持ちよすぎる…」
じっくりたっぷり堪能し、近くの大きな岩に寄りかかる。
うるさい蛇骨もいないし、こんな幸せは滅多に味わえない。
深く長く息を吐き出したとき、蛮骨は寄りかかった岩の後ろに人の気配を感じた。
先客がいたようだ。
ひょいと身を乗り出して、彼はぎょっとした。
目に飛び込んできたのは、女の白い項だったのだ。
慌てて元に戻り、蛮骨は頭を抱える。
(女!? まさかここ女湯!? 間違えた? え、俺どうすればっ……)
来た廊は一本道だったと思うが、もしかしたら違っていたのだろうか。
素早く視線を走らせると、濃い湯煙の向こうに垣間見えるのは女ばかり。
(やばい、どうしよう…どうすればっ…)
混乱していると、岩の向こうの女も気付いたのだろう、そっと顔を覗かせた。
「あっ…」
小さな声に、蛮骨が固まった。
終わった。自分の至福の一時は、今終わりを迎えたのだ。
(し、仕方ない。こうなりゃ素直に謝って、さっさと逃げよう)
蛮骨は意を決して、女と向き合った。
しかし、その面差しを見た瞬間、またもや硬直する。
「おまえっ…」
「蛮骨……!?」
女ははっきりと自分の名前を口にした。もはや違えようがない。
「かごめ…!」
目の前にいるのは、自分たちの敵・犬夜叉一行の一人だ。
長い髪を結い上げているために、後姿では分からなかった。
「なんで蛮骨がここに…!?」
はっとした蛮骨は、慌てて首を振る。
「いや、これはその! 間違えたというか…!!
え? 違うな…ええと、お前こそなんで……!」
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、必死に女湯に入ってしまったことを弁明しようとしていた。
蛮骨のいつになく慌てた様子に、かごめはきょとんと目を瞬かせる。
「ねえ、何を慌ててるの?」
「へっ!? だから! これはわざとじゃないんだって……!」
ぶんぶんと頭を振り何かを否定している蛮骨。
その様子をしばらく眺めたところで、少女は思い当たったように目を見開いた。
「待って。何か勘違いしてるんじゃない?」
次から次へと言い訳を並べていた蛮骨が、ぴたりと止まる。
「……は?」
「まさか、女湯に入っちゃったと思ってる?
この温泉は混浴だって書いてあったわよ。読まなかったの?」
「混…浴…。え、どこに書いてあった?」
「外に。
ここは地元の人たちもよく入りに来るから、屋敷の中と外で、入り口が二つあるみたいよ」
かごめの言葉に、蛮骨はああ、と納得する。
屋敷に来たときは温泉があるなんて思ってもみなかったから、それほど周囲を眺め渡したりもしなかった。
そのために、混浴の看板にも気付かなかったのだ。
屋敷から続く廊下の方には、そんな看板はなかったように思う。
家の者ならば混浴なのは承知済みだし、いちいち看板を立てる必要もないということか。
ようやく落ち着きを取り戻した蛮骨は、顔を赤くしながら大きく息を吐いた。
「なんだ…やっぱり間違えてなかったのか…」
「図星のようね」
「いやだって、見れば客は女しかいないし…」
途中で言葉を切り、蛮骨ははっとしてかごめを振り向いた。
「そんなことより! どうしてお前がここにいる!」
「妖怪退治の依頼があったの。あなたこそどうして?」
かごめは怪訝な眼差しを向ける。
「俺は…山賊退治に」
どちらも似たような理由だ。
「まさか、お前たちもこの屋敷に泊まってるのか」
目を丸くする蛮骨に、かごめはこくりと頷く。
互いの間に、気まずい空気が流れた。
白霊山を離れたこの地で、まさかこんな形で見えるとは。
予想外も甚しく、蛮骨は言葉が出ない。
沈黙を破ったのは、かごめの方だった。
「そっか……ふぅん、山賊退治…」
蛮骨の隣で、かごめは大岩に背を預ける。
白い肩が目に留まり、蛮骨は慌てて視線をずらした。
身体に布を巻いているとはいえ、直視するのは憚られる。
「なんだ…もっと、警戒するのかと思ったら…」
くつろいでいる風の少女に目をすがめると、彼女は蛮骨を見上げた。
「だってねぇ、お互い丸腰もいいとこだし。それに……」
言いかけて、かごめは突然吹き出した。
肩を震わせて笑っているかごめに、蛮骨は眉を吊り上げる。
「なんだよ、いきなり笑うな!」
「だってだって…さっきの蛮骨の慌て様ったら…」
思い出しては笑うかごめ。
引いていた熱が一気に昇りつめ、蛮骨の顔は真っ赤になる。
いたたまれなくなり、蛮骨は立ち上がろうとした。
「ちょっと、どこ行くの?」
「出る」
「え、だって、さっき入ったばっかりでしょ?
私と一緒に入りたくないなら、私が出るわよ。もう十分入ったし…」
「いい、俺が出る」
腰を上げる蛮骨の手を、かごめが掴む。蛮骨は驚いて目を瞠った。
「私が出るってば」
「い、いや! 俺が…」
掴まれた手を離そうと引っ張った瞬間、かごめもぐいと腕を引いた。
反動でぐらりと傾いたところに底の岩が滑り、蛮骨は均衡を失って前のめりに倒れこむ。
「えっ…わ―――!」
倒れる先には、ぎょっと目を剥くかごめ。
ざばんと、巨大な飛沫が上がった。
同時に鈍い音が響く。
「―――っ!!!」
耐え難い痛みが頭を突きぬけ、蛮骨もかごめも一瞬意識を手放した。
「おうおう、お盛んなのはいいが、もっと暗くなってからやってくんな」
ほけほけと笑う男性客の声が、遠くに聞こえる。
蛮骨はやっとの思いで、のろのろと眼を開けた。
「いっ…つ……」
視界のあちこちで星が舞い、定かに物が見えない。
身体を起こそうと無意識に目の前の肩を掴むと、それは意外にがっしりとしていた。
はて、先ほど見た白い柔肌が、こんな感触なのだろうか。
「おい…大丈夫か、お前…」
声がなんだかおかしく聞こえる。まさか、耳がやられたのか。
頭を振って意識を覚醒させ、蛮骨はぱっと目を開く。
開いた直後に目にしたものに、ぱかっと口を開いた。
「うー…いたたた…」
くぐもった声と共に、かごめが身体を起こす。
顔を上げた瞬間、彼女も音を立てて固まった。
「………」
「………」
互いに、互いの顔を凝視する。
蛮骨は、目の前の顔に手を伸ばした。細い指が顔に触れ、向き合った瞳が見開かれる。
「え…俺……どうして…」
瞬きも忘れて、蛮骨は呟いた。
彼が今触れているのは、他の誰でもなく、自分の顔だ。
状況を把握する前に、目の前の自分にがしっと肩をつかまれた。
「ちょっ…! どういうこと!? 何よこれ!!
何で? なんで私の前に私がいるのよ!!」
早口に捲し立てるのは自分の顔。でもその口調は、かごめのもので。
ぐわんぐわんと加減なく揺すられ、蛮骨も混乱する。
「それはこっちの台詞だ…! なんで俺が俺に揺さぶられて…!?」
改めて聞いてみると、声を発しているのは自分なのに、耳に届くのはかごめの声。
「お二人さん、お盛んなのはいいがよぅ…」
先ほどの男性客の声が滑り込み、はっとする。
状況を見ると、蛮骨がかごめを押し倒している状態なのだ。
「おいっ、どけ! あらぬ疑いをかけられたらどうする!!」
自分自身に怒鳴ると、向こうも気付いたようで慌てて身を離した。
したたかぶつけた額を押さえて体勢を直し、二人は改めて見つめあった。
「どういうことだ、これは……」
かごめの顔で、蛮骨が唸る。
「まさか! 頭をぶつけた衝撃で、中身が入れ替わって…
うん、そうとしか考えられないわ! やだやだやだ! どうすればいいの!?」
蛮骨の顔をしたかごめが蒼白になる。
「落ち着け! 落ち着いて、状況を整理しよう。
つまり、かごめの身体に俺が入ってて、俺の身体にかごめが入ってるんだよな…」
蛮骨は恐る恐る自分の手を見下ろした。
細くすらっとした指。とても自分のものとは思えない。
「ありえない…」
「そうよ! ありえないわよ! 早く私の身体返してっ!!」
今にも泣きそうな少年の怒号に、周りの客が何事かと振り返る。
「おい、その口調で叫ぶな! 普通に気持ち悪い!!」
「あなただってその言い方やめてよ! 口の悪い女だと思われたくないわ!!」
「なんだと!? 元はと言えばお前が腕を引っ張るから、転んだんじゃねぇか!!」
「なによ! そっちこそ、素直にお湯に浸かってればこんなことにはならなかったじゃない!!」
「最初に出るって言ったのは俺だろう!」
「私の顔で俺なんて言わないでー!」
「お前こそ俺の顔で一人称『私』はやめろーっ!!」
激しく言い合い、二人はぜえぜえと息を継いだ。
ちがう、こんなことをしている場合ではない。
それは分かっているのだが、他に何をどうすれば良いのか全く浮かばない。
「と、とりあえず…風呂から上がろう。このままじゃ逆上せる……」
片手を挙げて言う蛮骨に、かごめも大人しく同意を示した。
さっさと脱衣所に戻ろうとする蛮骨の肩を、目線の高くなったかごめが掴む。
「ちょっと、そっちは男用よ」
「あ、そうか…」
蛮骨は複雑な表情を浮かべ、女用の脱衣所へ方向転換する。
しかしその背は、すぐに呼び止められた。
「蛮骨ー…」
「ん?」
胡乱に振り返ると、自分の顔が仕切りの向こうから覗いている。
かごめがエヘヘと笑った。
「あの、着物の着方、わかんなくてー……」
申し訳なさそうな笑顔に、蛮骨は盛大にため息をついた。
ちょうどよく、脱衣所には人がいない。
ぱぱっと着替えを手伝って、蛮骨も女用の脱衣所へ急ぐ。
かごめが脱衣所の外で待っていると、蛮骨が女用の入り口から顔を出した。
「おい」
「ん、なに? どうかした?」
「これは、どうやって身に付ける?」
さらりとした言葉と共にひょいと持ち上げられる下着。かごめの顔から表情が崩れ落ちた。
「教えてくれ」と蛮骨が口にする前に、その頬に平手が飛んでいた。
「……一応言っておくが、これはお前の身体だぞ」
左の頬に鮮やかな紅葉を刻んだ蛮骨が、目を据わらせて呟く。
「分かってる、分かってるわよ!! でもね、どうしても耐えられなかったの!!」
まさかまさか、初めて自分の頬を打つのが自分自身とは、思ってもみなかったかごめである。
しかしそうしてでも、先ほどの出来事は十五の少女には衝撃が強すぎた。
彼らは今、屋敷の裏手にいる。人気がないので、二人でいるのを怪しまれることもない。
彼女の手によってきちんと身に付けられたセーラー服を、蛮骨は戸惑いがちに見下ろした。足がむき出しで、どうにも落ち着かない。
かごめの国では、男もこんな服装をしているのだろうか。
つらつらと考えていた蛮骨を振り向き、かごめは眉を吊り上げた。
「蛮骨、まさか私の身体、見てないでしょうね!」
「身体を見ないで、どうやって着替えをする」
しれっと返す蛮骨に、かごめの眉目がますます吊り上る。
自分が怒るとこんな顔なのかぁと、蛮骨は他人事のように思った。
「そんな、『見た』というほどは見てない。興味もないしな」
「なんですって!!!」
憤然と肩を怒らす自分の姿を横目に、蛮骨はそっと息をつく。
「……で、これからどうする」
表情を引き締めて、蛮骨はかごめを見上げた。
「とりあえず、皆に言った方がいいかしら…」
そうだなと頷きかけて、蛮骨ははっと身体を強張らせた。
「や…駄目だ…! 蛇骨に知れたら……」
何よりも女が嫌いな蛇骨。もしも蛮骨の中にいるのがかごめだと知ったら、怒り狂って刃を向けるかもしれない。
そう指摘され、かごめも青ざめる。
「確かに、それはまずいわね。元に戻る前に死んじゃうわ…」
「とりあえず、明日まで様子を見てみるか…もしかしたら、寝ている内に元に戻るかもしれない」
あくまで憶測と願望が入り混じった意見だが、そうでも思っておかなければやりきれない。
次の日までそれぞれを演じて過ごすということで、二人は了解したのだった。