雲母に乗って上空を飛びながら、蛮骨は眼下を眺めた。
いくつもの村や森を過ぎてゆく。あの村からだいぶ離れただろう。
「その、楓っていうのは何者だ?」
前にいるかごめに呼びかける。
「巫女をやってるおばあちゃんよ。物知りだから、頼りになるの」
その人にかかれば身体を戻すなんてお茶の子さいさい、ということになってくれるだろうか。
なることを祈っていると、かごめが前方を指差した。
「見えたわ! あれがおばあちゃんの村よ!」
雲母は下降し、小さくのどかな村の、ある一軒の前に降り立つ。
気配に気付き、しわくちゃの老婆が家から顔を出した。
「おお、かごめではないか。久しいのぅ」
腰の曲がった老婆は少女の手を取って目元を細める。
手を掴まれた蛮骨は困惑気味にかごめをかえりみた。
「この人が楓おばあちゃんよ」
「うん? そちらは?」
見慣れない少年に、楓は僅かに首を傾げる。
「実は……」
楓が目をしばたたかせる前で、蛮骨はことの経緯を語り始めた。

昼過ぎについたのだが、空はすでにだいだいに染まっている。
蛮骨が小さな窓から何とはなしにそれを眺めていると、楓が帰ってきた。
いきさつを知り、なんとか解決策を見つけ出そうと、今まであちらこちらを調べていたらしい。
「おばあちゃん、どうだった? 方法は見つかった?」
僅かに希望がにじむ瞳で問うかごめに、楓は力なく首を横に振った。
「今まで聞いたこともない症状じゃ。残念だが、わしにもどうすることもできぬ」
口惜しげに目を伏せる老婆に、蛮骨もかごめも絶望で言葉をなくす。
人生経験が豊富な楓ですら一つも案が浮かばないとは。
他に頼れる者もないのに、どうすればいい。
このままでは、冗談抜きで元に戻れない。
重い沈黙が支配する中、突然かごめが立ち上がった。唇を引き結び、そのまま表へ飛び出していく。
「かごめ…!」
はっとして後を追おうとする蛮骨の腕を掴み、楓は首を振った。
「今は、そっとしておいてやれ」

陽が沈み、辺りは闇に覆われた。
戻らないかごめを探しに外へ出て、蛮骨は息をつく。
落ち込んでいるのはかごめだけではない。これからどうすればいいのだろう。
星が散る空の下、慣れない村の中をを適当に歩いていた蛮骨は、前方に佇む木の根元に人の気配を感じて目を凝らした。
自分の姿が、そこにうずくまっている。
「…自分のそういう姿を見るのは、何ていうかこう、情けなくてやりきれなくなるな」
肩をすくめてこぼすと、気付いたかごめがはっと顔を上げた。
「蛮骨…」
見えた瞳に涙が溜まっている。蛮骨の顔がいささか硬くなった。
「……頼むから、俺の顔で泣くな」
「あっ…ええと、これは…!」
慌てて袖で拭おうとするかごめだが、その手が途中で止まる。
顔を歪めて、彼女は抱えた両膝に顔をうずめた。
「仕方ないでしょ、中に入ってるのは私なんだから……
元に戻れないかもしれないのに、相手のイメージなんか考えてられないわよ…!」
かごめの口から何度目かわからないため息が漏れる。
「まだ十五歳、青春を謳歌おうかする輝いた年頃なのに…もう絶望よ、終わりよ」
「…言っておくが、俺もまだ十七だぞ。その身体でも十分青春は満喫できる」
というか、年齢だけで考えれば一生青春。
「そういう意味じゃないでしょ!!」
くわっと牙をむくかごめに、蛮骨は小さく笑った。かごめははっと目を瞠る。
「今日はもう遅いし、皆の所に帰るのは明日にするぞ。
帰ったらまた、皆で相談してみよう」
「……うん」
素直に立ち上がるかごめに、蛮骨は小屋を指す。
「先に帰ってろ。俺は風呂に入ってくる」
「お風呂?」
「あのばあさんが言ってたんだ。村のはずれで最近温泉が湧いたって。
まあ、入れて二人分ほどの広さしかないみてぇだが」
今日は妖怪を退治たり山賊と切り結んだり、色々と働いた蛮骨だ。一日の疲れを流したい。
「風呂に行きがてら、お前を探してたんだよ。じゃあな」
くるりと方向転換して去ろうとする蛮骨の襟首を、思わずかごめは掴んだ。
「……なんだ」
思い切り不機嫌な顔をする蛮骨に、かごめはまなじりを吊り上げる。
「待ちなさい! あんたまさか、私の身体を勝手に洗うつもりなの!?」
「風呂に入るってことは、そういうことになるな。
汗臭いままでいいのか?」
「それは駄目。駄目だけどっ、あんたに身体を見られて、しかも触られるのも許せないわ!!」
「じゃあどうしろと」
疲れたように半眼になる。
「私も一緒に行く! その身体は、私が洗うんだからね!」
いたけだかに言い渡すかごめは、ぐいと蛮骨の手を引っ張って風呂があるという村のはずれへ歩き出した。

温泉には、幸い誰も人がいなかった。
広い造りの小屋があり、その中に脱衣所と浴室がある。
浴槽は質のいい木材でこしらえられ、通常ならばその香りを楽しみながら心地いい湯に一人でのんびり浸かっていられるはずなのだ。
が。
むすっとした蛮骨の腕を、かごめが持ち上げる。
「さ、次はこっちの腕。ちゃんと上げておいてよ」
小屋についてまず最初、蛮骨は布で目隠しをされた。
あれよあれよという間に手際よく衣服を脱がされ、身体にも布を巻きつけられ。
目隠しが外されないまま浴室に入れられたと思ったら、今度は身体に変なものを塗りたくられている。
「流すわよ」
袖と裾ををまくって着衣のまま浴室にいるかごめは、蛮骨に湯をかける。
身体についていた泡が、足元を流れていった。
目隠しをされ着衣の男に一方的に身体を洗われる少女の図を思い浮かべた蛮骨は、いやこれマズいだろ、と渋い顔になった。
「おい、お前のせいで俺の印象がどんどん悪くなってる気がするんだが」
「大丈夫よ。ここには私たちしかいないし」
けろりと答えるかごめに、蛮骨は目隠しの下で目をすがめる。
「この図が成り立ってるってことは、当然逆もあって良いんだよな。
俺の身体は俺が洗うぞ」
「はあ!? 嫌よそんなの! 男に身体を触られるなんて!!」
「そういう気持ちで自分の身体に触るわけねぇだろ!!」
まったく、この矛盾は何なんだ。
いよいよ青筋が切れそうになっている蛮骨を、かごめがなだめながら浴槽に導く。
湯に肩まで浸かり、蛮骨はひとまず息を吐き出した。
「じゃあ待ってるから、あがる時は呼んでね」
手についた水気を払って立ち上がったかごめは、その場できびすを返そうとした。
が、床に残った泡に足をとられる。
派手に滑り、かごめの身体が大きく傾いた。
「あっ、あっ…、あ――――っ!!!!!」
叫び声にぎょっとした蛮骨が目隠しを外すと同時に、浴槽に倒れこむかごめ。
ちょうど額と額がぶつかり、鈍い音が浴室内に木霊した。

二人の意識が、一瞬遠のいた。

「―――ったたたたたた! 痛い~っ!」
意識を取り戻したかごめが、半泣きで額を押さえて唸る。
そして、目を見開いた。
「あれ、私…これ、戻ってる?」
身体を見下ろすと、白い肌、豊かな黒髪、そして何より女の身体だ。
感激のあまり、涙がにじむ。
「蛮骨っ、戻ったわ! ばん…っ」
呼ぶ声が、途中で途切れた。顔が引きつる。
「っ…てぇー…お前何やって…」
ようやく意識を取り戻した蛮骨が身体を起こす。
「れ…? この身体…わ、戻った! やったなかごめ!」
嬉々として顔を上げた蛮骨は、引きつった顔と行き合った。
「へ…?」
二、三度瞬きし、自分たちの状況を見下ろす。
浴槽の中で重なっている二人は、ひどく密着していた。
「やっ…これはお前が倒れてきたからだろ!? 俺のせいじゃ…」
「出ていって…!」
かごめの眼光が、鬼のそれに変わる。
「出ていって――――っ!!!!」
絶叫が轟き、少女は手近な桶を取り上げて振りかぶる。
次の言葉を紡ぐより早く、蛮骨は頭を桶で強打された。
目を回し、ばったりと倒れる。
ざばんと飛沫があがって、彼は頭から湯の中に沈んだ。

「何事じゃあーっ!?」
彼方かなたまで届いたかごめの絶叫を聞きつけた村人が飛んできて、浴室の戸を開ける。
彼がが一番に目にしたのは、焦った顔で右往左往するかごめと、着衣のまま全身びしょ濡れで湯に沈んでいる男の姿であった。


「で、元に戻ったは良いが今度は変質者の異名を買ったと」
苦笑を浮かべる睡骨に、蛮骨は嘆息混じりに頷いた。
うら若き少女の入浴中に忍び込み不埒ふらちな行為を働こうとしたなどと、一方的かつ盛大な非難を浴びた蛮骨はあの後意識がないまま縛られ、気付いたときには村人たちの氷のような視線の前に晒されていたのだった。
深い事情があるので仕方ないのだ、この人は悪くない。とかごめと楓が説得してくれたおかげですぐに解放してはもらえたが。
無事に戻ってきた蛮骨が、いかにして元に戻ったかを睡骨と煉骨に聞かせているところである。
蛇骨に話すのは無謀なので、秘密だ。
「まあ、何にせよ元に戻って良かった。四魂の欠片も取られてねぇんだろ?」
煉骨の言葉に、蛮骨はそっと首元に手を当てる。
「あの女も、それどころじゃなかったみたいだしな」
「俺たちも俺たちで、色々大変だったんだぜ」
煉骨が遠い目をして呟く横で、睡骨もうんうんと首肯する。
犬夜叉一行との間には不穏な空気が漂いまくり、それでも双方仲間の帰りを待たなければならないので
その地を離れることもできない。
誤って同じ時間に露天風呂で鉢合わせてしまった時などは、どっちが先に出るのかと無言で火花を飛ばしあっていた。
今、七人隊は村を離れて白霊山への道を戻っている。
山賊退治の報酬で、予定通り煉骨の武器の材料を手に入れよう。
とりあえず別れの挨拶は交わしてきた少女の面差しを、蛮骨は思い浮かべた。
『桶で殴ったことは謝るわ…それと、いろいろありがとう』
僅かに赤くなりながら仄かに笑っていた。
小さく手を振ってきたので、自分も振り返した。
誰にも気付かれないようにそっと笑みをこぼし、蛮骨は青空の下を進んでいった。

<終>

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