月明かりしかない闇の中。
視線の彼方に浮かび上がるものは。
仄かな橙色をした光の群れが、遥か眼下に見える。
時折揺らいで、それは同じ方向へ流れていく。
「あれは…?」
思わず呟いた言葉に蛮骨が返す。
「灯籠流しみてぇなモンだな。死者の魂を見送ってるんだ」
暗くてよく見えないが、川を流れているのだ。
火を灯した無数の灯籠が、幻想的な雰囲気を作り出していた。
「すごい、初めて見た」
かごめの顔に感嘆の笑みが広がる。
現代でもこういう風習のある地域はあるが、こうして実際に見るのは初めてだ。
どうせならもっと近くで見れたらいいのに。
「でも、高いところから見るのもすごく奇麗ね」
「……そうか?」
蛮骨は気のない風情だ。
かごめがちらと彼の顔を仰ぐと、流れる光を追うその瞳に不思議な感情が湛えられていた。
蛮骨は一度目を閉じると、かごめに向き直る。
「用は済んだだろ。さっさと帰れ」
彼の言いようにかごめはムッとする。
「わかったわよ。そんなに邪魔なら、帰ります!」
身を翻そうとした時。
一瞬、頬に冷たいものが当たった。
ひとつ、またひとつ。
「あ、雨…?」
空を見上げると、星がない。 いつの間にか雲に覆われていたのだ。
蛮骨も不機嫌そうに空を見ている。
落ちてくる滴は次第に大きくなり、間隔も短くなっていく。
「あ、あの…」
呼びかけると、剣呑な瞳がこちらに向けられた。
「雨が止むまで、雨宿りしてていい?」
おずおずと頼んでみると、彼は一つ息をつき、何も言わずに小屋へ戻った。
雨はあっという間に土砂降りになり、叩きつける轟音が響き渡った。
かごめが小屋の中で膝を抱えていると、蛮骨が火を起こして明かりを灯す。
「この雨じゃ、さっきの灯籠も火が消えちゃうわね」
「どうせすぐに壊れるんだ、いつ消えたって同じだろ」
炎に照らされた蛮骨の顔は、語調と同じく冷めていた。
彼はそのまま壁に背を預け、立てた膝に乗せた手を支えにして目を閉じる。
かごめはその様子を見ながら、しばらく雨の音に耳を傾けていた。
どれほどそうしていたか。
灯されていた火が、静かに消えていった。
消えた後も蛮骨が動く様子はない。
(寝てるのかしら…)
暗闇の中で、かごめは足音を立てないようにしながら彼に近づいた。
反応はない。
窓からの月光に照らされるその顔を、そっと覗き込んでみる。
(戦ってる時は、騒がしい人だと思ってたけど…)
こうして見ていると、割と静かなのを好む方なのかもしれない。
(黙ってれば…顔は、いいんじゃない)
なぜか、顔が熱くなってくるような気がした。
長めの前髪に隠れて、その顔に影が差している。
もっとよく見ようと、思わずその髪を退けようと手を伸ばした。
「なんだ」
沈黙の中、突然発された声。かごめはびくりと身をすくませた。
ゆっくりと目を開け、蛮骨は少女を怪訝に見やる。
「さっきから、何か用か?」
「な、なんだ、起きてたの…何でもないわよ、別に」
顔を逸らすかごめは手を引っ込める。
それを認めて、蛮骨は眉を寄せた。
「俺の中の欠片でも取ろうとしたか。まぁ、絶好の機会だからな」
「違うわよ!!そんな卑怯なことはしない!私はただ…その、顔をもっとよく見たいと思って……」
「顔を…?」
「そうよ! それだけよ!」
ぷいとそっぽを向いて、かごめは身体を離した。
「――そういえば、雨は止んだのか」
「え…あ、ほんとだ」
蛮骨に言われて耳を澄ますと、あの轟音が消えている。
いつの間にか蛮骨の観察の方に集中していたのだと気付いて、かごめは無性に恥ずかしくなった。
「仲間のところへ帰るのか?」
「うん。……早く帰ってほしいんでしょ」
かごめは立ち上がるとさっさと小屋を出る。
その背を蛮骨は黙って見つめていた。
雨は完全に止み、空には星がちらほらと戻っている。
「珊瑚ちゃんたち、きっと心配してるわね。早く宿に帰らないと」
一歩踏み出そうとしたかごめは、しかし身を硬くした。
さっき登ってきた石段が、暗くて形も見えないのだ。
しかも、途中にあるはずの灯火も雨で消えてしまっている。
目の前には、墨で塗りつぶしたような闇が広がっていた。
「どうしよう…どうやって帰ればいいの…」
雨が降った後の石段は濡れて滑りやすいはず。
そこにこの暗闇とくれば、手探りで下りていくのは非常に危険と思われる。
しばらく頭を抱えて悩んでいたかごめだが、やがて肩を落として小屋へ引き返した。
ガラガラと戸を開けて中に入ると、蛮骨が不思議そうに瞬いた。
「帰らないのか?あ、帰りたくないのか?」
「違うわよ馬鹿っ!暗くて何も見えないの!仕方ないから朝までここにいるわ」
「泊まっていくのか。敵がいる場所に。結構肝が据わってるんだな」
可笑しそうに笑っている蛮骨を軽く睨み、かごめは囲炉裏のそばに腰を下ろした。
夜は冷え込む。
もう一度火を起こそうとするが、なかなか上手くいかないでいた。
蛮骨の視線を感じる。
出来ない自分を笑いながら見ているのだろう。
それがわかるので、かごめは顔を上げず意地になって頑張っていた。
と、その手に別の手が重ねられる。
はっとして首を巡らせると、蛮骨がかごめの手を取って微笑んでいた。
存外近くにあったその顔に、不覚にもどきりとしてしまう。
「下手くそ。こうやるんだよ」
かごめの手を持ったまま、石を打ち合わせる。
カチ、カチという音の後に、仄かな明かりが生み出された。
「あ、ありがとう」
小さく礼を言うと蛮骨は手を離して壁に背を戻した。
火に当たりながら、俯いたかごめは己の手を見つめる。
掴まれた場所から感じる蛮骨の体温は、思っていたよりずっと温かかった。
死人なのに、自分となんら変わりない。
そういえばと、かごめは蛮骨と視線を合わせた。
「さっき、神社で何をお願いしてたの?」
「え…? ああ、なんだ見てたのか」
「隣にいたのよ。アンタは気付かなかったみたいだけど。
あんなに真剣に手を合わせてたから、なんだろうと思って」
「普通言わねぇだろ。自分が何を祈ったかなんて」
「う……まあ、それは、そうだけど…」
それきりかごめは言葉が続かなくなってしまった。
またもや沈黙してしまい、気まずさを感じる。
蛮骨は目を細めると、ゆっくり口を開いた。
「簡単に言うと、勝利祈願だ。――俺と、弟分たちの」
かごめは目を見開いて蛮骨を見つめる。
「それは、私たちとの戦いの…?」
「それもあるが、それだけじゃない。この先にある、全ての戦いのために」
「全ての…戦い…」
「もう、後には引けねぇんだ。弟分が二人やられてるしな。
俺たちが生きのびるためには、戦って勝つしか道はない」
「絶対に、戦わなければ駄目なの?」
「ん?」
「あなたが本当は戦いたくないなら、私が犬夜叉に言ってあげる。
犬夜叉だってきっとわかってくれるわ」
だって、戦うしか道がないなど悲しすぎる。
少し道を逸れれば、もっと明るい選択があるかもしれないのに。
「……無理だ。お前たちと上手くいったとしても、今度は奈落に追われるだろうな。
それに、先に死んだ凶骨たちに申し訳が立たねぇ」
生きるために誰かと戦うことになるのは結局同じことだ。
そして、どちらにしてもきっと先は短い。
かごめは俯いた。
同じなのに。
蛮骨だって、自分と同じ人間なのに。
どうしてこんなに、背負う物が違うのだろう。
「泣きそうな顔してるぞ、お前」
「うるさいわね……」
「敵のために泣いてるようでどうする」
そう、敵なのだ。
自分の霊力があれば蛮骨を骨に還すのも可能。
そんな危険な自分を、彼は助けてくれたのに。
「そうだ、腕……」
かごめは蛮骨の腕を持ち上げて袖を上げる。
「何をしてる?」
「聖島で射抜いたところ…骨に、なったところ」
「もう再生した。なんでそんなことを心配するんだ」
「わからない……どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。何でなのか、私にもわからない…」
堪えきれずに、かごめは顔を覆った。
蛮骨はかごめから視線を逸らし、自分の胸にもまた沸いている、意味のわからない感情を思考の隅に追いやった。