あの日。
翔馬が泉端の茂みで息を潜めていると、やがて沐浴を終え岸へ上がった女人は、髪に含んだ水気を絞って丁寧に拭き取り、木の枝に掛けていた衣を身に付け始めた。
さすがに直視は憚られそちらを見ぬようにしていた翔馬の耳に、衣擦れの音が届く。しばらくしてそれが止むと、代わりのように周囲の茂みを探る音が聞こえてきた。
そろそろと視線を向ける。衣を着込んだ彼女が面に戸惑いを浮かべて周囲を見回していた。
手が無意識に胸元を押さえる。
あの人が何を探しているかは知っている。それは今、小さく畳まれて翔馬の懐に収まっているものに他ならない。
薄く細長い、絹のような布。
それが俗に「天の羽衣」と呼ばれる代物ではないかと、翔馬は確信に近い推測を抱いていた。
今さらながら、それを奪ってしまった自分の行いに体が冷えるような怖気を覚える。亡き両親に顔向けできぬ事を、してしまった。
出来心。魔が差した。言い訳は幾らでもできようが、彼の中にある明確な動機は「あの人を留めたい」という一心に尽きていた。そして理由が何であれ、盗みが許される道理はない。
幾度も深呼吸し縮みそうになる心臓をなだめ、女人の動きを窺う。彼女はしきりに首を傾げて失くしものを探し続けている。
翔馬は気配を殺したまま場所を移した。さらにいくらか時間を置いた後に意を決し、あたかもたった今、偶然通りかかった体を装って彼女の前に姿を見せた。
「こんなところにお一人で、どうかされたんですか」
第一声から声が上ずってしまったが、幸いにもばれずに済んだ。驚き顔でこちらを見た彼女はよほど弱っていたのだろう、失くし物をしたのだと簡単に事情を口にした。
自分がどこの誰なのか、失せ物の布がなぜそれほどに大切なのかについては意図的に伏せている様子で、翔馬もそこにあえてそこに踏み込むような真似せず、探すのを手伝おうと申し出た。藁にもすがる思いだったのか、彼女は怪しむことなくそれを受け入れてくれた。
当然、絹――天の羽衣はいくら探したところで見つかるはずもない。そのうち陽が落ちて星が一つ二つ瞬きだす時分になると、彼女は途方に暮れた目で帰る当てが無いことを打ち明けてきた。
やはり細かな事情は問わず、翔馬は快く彼女を自宅に迎えた。羽衣は彼女の目を盗み小箱に詰めて行李の底へ押し込め、さらに納屋の一番奥に隠した。
それからは、来る日も来る日も仕事の合間を縫って彼女の失せ物探しに付き合い、森の泉へ赴いた。いくら探してもそこには無いと分かっていながら真剣に探すふりをし、気落ちする彼女を励まし続けた。
当初、彼女は頑なに名乗ろうとしなかった。
それが、七日ほど経過して幾分か翔馬に打ち解けてきたある日、己には名が無いのだと、そう伝えてきた。さらには記憶も曖昧で、ごく一般的な常識さえ右も左もわからぬと。
もちろん普通であれば到底すんなりと呑み込める事情ではない。しかし、とにかく彼女を傍に置いておきたかった翔馬は一も二もなくその説明を受け入れた。
名が無いのは不便だからと、彼女に「八雲」という呼び名を贈ったのはその時である。
出会った当時はどこか感情が平坦に見えた八雲だが、一月二月と生活を共にするうち、次第に口数も増えよく笑顔を見せるようになった。新たな知識を得てできることが増えるたび、目を輝かせ嬉しげにする。
失せ物探しは日課のように続けながらも、世話になってばかりではいけないと、積極的に家事や農作業の手伝い方を身に付けてくれた。
独りだった毎日が眩しいほどに色付き、翔馬はたまらなく幸せだった。
良心が痛まなかったわけではない。罪悪感は常にあり、後ろ暗いものを呑み込み続けるのは彼にとって容易なことではなかった。それでも羽衣の存在をひた隠してきたのは、すでに彼女のいない未来など考えられなくなっていたからだ。
半年を迎える頃、「花を育ててみたい」と八雲が要望を伝えてくれた。翔馬は仕事もそっちのけでその日のうちに作物を植え替え、整えた畑の一角と庭先の空間を彼女が自由に使えるよう提供してやった。彼女といることで生活の中の彩りがひとつ、またひとつと増えていった。
出逢ってから丸一年が経過したある日。
翔馬の口からぽろっと「このまま嫁になってほしい」という言葉が転がり落ちた。野良作業の最中という雰囲気もへったくれも無い状況での事で、言われた八雲よりもむしろ翔馬自身の方が慌てふためく有様だった。
彼女が、その言葉の意味するところを正確に理解していたのかは定かでない。しかし、頬を桜色に染めて口元を綻ばせ「はい」とはっきり頷かれた時ほど、生きていて良かったと実感した瞬間は無かった。
そのような経緯を経て二人は仲睦まじい夫婦となり、羽衣に関する決定的かつ致命的なただ一つの秘密を除いては、これまで心満意足に暮らしてきたのだが。
「――ついに、ばれちまったわけよ」
宿場街のさびれた安宿で蛮骨たちに合流した霧骨は、酒の肴代わりに翔馬の話をそのまま語って聞かせた。同じく安酒を片手にしている蛮骨と煉骨は、聞けば聞くほど渋面になっていく。
「……顔に似合わず、わりと結構、人として最低な野郎だな」
俺が言うのも何だが、と蛮骨は目を半分伏せる。
煉骨が呆れた様子で頭を横に振った。
「明日には女房も出て行って、天涯孤独の身に逆戻りだろうよ。何にせよ、俺たちにはもう関係ねえ話だ」
彼はこの話への興味が尽きたと言いたげに杯を置くと、空になった自分の膳を室外へ下げて荷の中から読み止しの書物を引っ張り出した。