広座敷へ戻り最初に目にしたのは、部屋の壁に水黽あめんぼのような体勢でへばりついている睡骨の姿だった。
渋面になる蛮骨へ「おかえり」と新之助が困り顔を向ける。
『ちょうど今起きたとこなんだけど……おいらを見た途端、ああなっちゃった』
しおれる新之助の言に頭を押さえ、蛮骨は医者の背に呆れ声を投げた。
「ったく、ここまで小心だとは思わなかったぜ。おーい睡骨」
呼びかけられた睡骨は壁に貼りついたまま、夏を迎えた蝉よろしくわめき出す。
「あっ、あなっ、あなたはぁっ、今度は何ですか!! 私はただの医者でっ、試したところでっ、なんにもっ……!!」
無意識なのだろうが、不可解な動きをしている手足がより一層虫らしさを強調している。蛮骨にしてみれば幽霊よりもこっちの方が気味悪い。
「落ち着け」
静かに一喝すると、「うぅ」と情けない声が漏れた。
「だ、駄目なんです幽霊とか……話をきくだけでも怖ろしいのに……。ああ、これはゆめ、これはまぼろし」
「こんな小せえ小僧、何を怖がるところがある」
たっぷりとした沈黙の後、睡骨はささやかに首の角度をずらし、ゆっくりと瞳だけ動かして、視界の隅に新之助を置いた。新之助は人懐こく手を振ってみせる。
その無邪気な姿は、普通より少しばかり透け感が強い点に目をつむれば、ただの子供と大差ない。
「う……た、確かに、小さい……かも、しれない」
「かもしれないじゃねえ、小せえんだよ。ただの餓鬼だ」
蛮骨がずかずかと迫って後ろから両肩に手をかけると、壁と同化しかけていた睡骨の身体はぺりぺりと引き剥がされた。
ようやっとこちらに向き直った医者は、それでもすぐには顔を上げられずにいた。だが、見ているうちに青ざめていた頬から耳にかけて赤みが戻ってくる。今さらになって、情けない様を晒した羞恥が込み上げてきたのだろうか。
大きな呼吸を数度繰り返した後、睡骨はそろそろと目線を上げて幽霊と正面から顔を合わせた。
「す…すまない。失礼な態度を、取ってしまって」
ようやく会話が成り立ち、新之助の表情が安堵に和らぐ。
『ううん、面白いもの見たからいいよ』
からからと笑われ恥じ入る睡骨の横に、蛮骨も腰を下ろして胡座あぐらをかいた。
「しゃきっとしてくれ。あっちのお前じゃどうにも相容あいいれねえから呼んだんだぞ」
「あれは呼んだと言いません」
睡骨が抗議がましい眼差しを向けてくるが、今はそんなものにかかずらってはいられない。
蛮骨は新之助に顔を向けた。
「新之助、ひとつ確認だ。お前の墓はどこかにあるのか?」
唐突に問われ、新之助は大きな目を数度瞬く。
『そりゃあ、おいらが死んだ時、ここには誰も――』
言い止し、新之助は寸の間ぼうっと固まった。蛮骨と睡骨は顔を見合わせる。
「新之助…くん?」
睡骨が声をかけると、新之助は我に返って頭を振った。
『あ、ごめん。……おいら一人だったから、墓なんてもちろん無いよ』
「やっぱりか。それかもしれねえぞ」
『なにが?』
新之助は首を傾げた。話の見えていない睡骨も、口を挟むことなく続きを待っている。
「お前が成仏できねえ理由。死人として何か欠けてるせいで、自分でも気付かねえ心残りができちまってんじゃねえのか」
新之助は両目を見開き、身を乗り出した。
『その、欠けてるのがお墓……? おいらにもちゃんと墓があれば、成仏できるってこと?』
「確証はねえよ。今さっきお前の爺さんの墓を見て、もしやと思っただけだ」
そんな事でと、仮説を立てた蛮骨自身も思う。この時代、墓の無いむくろなどごまんとある。だが、理屈をねても始まらない。
新之助もその説に手ごたえを感じたのだろう、目がきらきらと輝きだした。
「えっと……お墓? 成仏?」
頭上に疑問符を浮かべる睡骨を置いて、蛮骨はひとつ頷いた。
「じゃ、作ってみるか。墓」
新之助がさらに瞠目する。
『え!? おいらのお墓、を、作ってくれるの!?』
「ものは試しだ。失敗したって、墓があって困るこたぁねえだろ」
『わ――わぁ!』
新之助は一声叫ぶと、正体を失ったように室内を飛び回った。生身の子供であれば、どたばたと駆け回っている状態か。騒音が出ないのは好感が持てる。睡骨は「ひぇ」と悲鳴を漏らしているが。
自分の墓を持つということがそんなに喜ばしいものなのか、蛮骨には今ひとつぴんとこない。
死ねば金も宝も不要と言っていたのは、他でもない新之助自身だ。墓は別なのか。
こんな生き方をしている以上、己とて誰にも看取られず知られもせぬまま、どこぞで野垂れ死ぬ可能性は高い。それはそれで、そういうものだろうと思っている。
だが、いざその時が訪れてみれば、墓のひとつも無いことを寂しく感じるものなのだろうか。
いずれにせよ。この荒れ果てた寺の中、途方もない時間をただ一人きりで過ごすしかなかった新之助からしてみれば、確かに大きな変化ではあるのだろう。
ようやっと興奮を静めて戻ってきた新之助は、それでも顔の半分が埋まるほどににやけていた。
「で、お前の骨はどこにある」
蛮骨が単刀直入に尋ねると、そのにやけがはたと抜け落ち、幽霊の体は裂けた紙風船のようにしおしおと降下した。
『……骨なんか、おいらが気付いた時には影も形も無かったよ。獣たちがあちこち持ってっちゃったんだと思う』
「なら、なにか形見とか」
新之助は力なく頭を横に振る。蛮骨は焦れて問い重ねた。
「探しゃあ何かしら見つかるだろ。どこで死んだ?」
「蛮骨さん、き方ってものが」
見かねた風情で睡骨がたしなめてくる。
答えようと口を開きかけた新之助は、しかし窮した様子で眉を詰めた。
『……思い出せない』
「ああ?」
『今朝も言ったけど、死んだ時のことは覚えてなくて』
「場所すら分からねえのか」
そんなわけがあるかと言いかけた蛮骨だが、苦悶している新之助を前に、さすがに言葉を飲み込んだ。思い出そうとするほど、新之助の表情は痛みを堪えるように歪んでいく。
「いや、やっぱいい。あとでもし思い出せたら言ってくれ」
『ご、ごめん……』
蛮骨は難しい顔で色褪せた畳の目を見下ろした。納めるものが無くては、ただの盛り土と石の置物になってしまう。それで墓として成立するだろうか。
そう思う反面、肝心なのは石だろうが枝だろうが、当の新之助がそれを墓と認めるか否かであって、中身の有無はそこまで重要ではないような気もする。
正解など、考えてわかるものではない。
ぐるぐると堂々巡りし始めた思考を断ち切った。何事も試してみるに限る。
「そうだお前」
下を向いていた新之助が面を上げる。
『なに?』
「お前の爺さんの墓だけどな。お前ひとりであれだけこさえたんなら大したもんだぜ。すげえな」
新之助は寸の間きょとんとしていた。ややすると再び下を向き、どこか照れくさそうに『そうかな』と零した。
「あの……私に何か、手伝えることは……」
睡骨がおずおずと割り込んできた。やりとりを聞くうち、何となく新之助の状況に察しがついてきたのだろう。瞳に憐憫の色が浮いている。
「ああ。お前、餓鬼は得意だろ。こいつの話し相手になってやれ」
睡骨が新之助に目を向けると、子供幽霊はにっこりと破顔した。


大粒の雪が降りしきる大禍時。寺の山門に現れたのは五人の男たちだった。
みのを目深に被り、先頭の者は手に松明を掲げている。
それぞれが、大きな荷を背負っていた。

がら、と戸板の滑る音に続き、荒々しいあしおと。冷えた床から伝わる、振動と気配。
――おい、…見……。……が、…るぞ。
畳の上に伏したまま、眼球だけを動かして半分欠けた視線を彷徨わせる。手当たり次第にかき集めて身体を包んだ衣が重い。
開いた戸口から差し込む西日に目を灼かれた。
逆光の中、大人たちの黒い影がこちらを見ている。
人、か。
見つけてくれた。
やっと。
助かった。
安堵が込み上げた。泣きたくなったが、乾いた身からは何も出ない。
何でもいい。水を、食べ物を。
「ぁ……ぇ……」
やせ細った喉は貼りつき、声はおろか音も出せなかった。だから目で訴えるしかない。動かない手を、骨と皮だけになった指を、懸命に持ち上げようとした。
見つけてくれた男たちが、大股で近づいてくる。

意識が途切れていたらしい。
上から下へ、大粒の白いものが止めどなく、降り落ちている。
雪。
この山は、雨も雪も長引く。
白と黒だけで構築された世界。
動かした瞳が、地面で横倒しになった釣鐘つりがねを捉えた。
あれ。どういう、こと。
暗いのに、一面を埋め尽くす雪はひどくまぶしい。激しい風音が慟哭に似た響きを奏でて耳孔へ滑り込む。
体のどこにも力が入らない。感覚が無い。
ただただ、寒い。
雪を踏む硬い音がした。
俯けた視界の上部に、二つの影が入り込む。
――ああ? まだ生きてるのかこいつ。
男の濁声。
右の者が棒のようなもので、肌に浮き上がる肋の下を小突いてきた。全身がぐらぐらと揺れる。
自分はどこかに吊られているらしい。焦点がずれて気が遠くなる。
――しぶてぇ小僧だ。早く逝っちまった方が楽だっつうのに。
水。水を。
――井戸に吊るしちまえば良かったんじゃねえか。死んだらそのまま穴ん中にどぼんで済む。ふたしちまえば臭いも気にならねえ。
――馬鹿野郎、井戸は俺らが使うだろうが。こんなのはな、自然に還しゃいいんだよ。
冗談めかしたような笑い声が低く響く。
なにが、そんなに面白いのだろう。
――どの道、今夜の吹雪でお陀仏さ。日が経って腐り落ちりゃあそのまま雪の下だ。俺らが小汚ねえ死体を拝む必要なんざねえ。
何か、食べ物を。
――しかし今日は一段と冷えるなあ。うまいこと屋根の下に入れたし、地獄に仏とはこのことだ。
――おうとも。吹雪きゃ足跡も消えて、追手も撒ける。運が味方してんだよ。吝嗇けち付けんならこいつさ。
――全くよ。部屋中臭くて食欲どころじゃねえ、苦労して奪った飯も酒も不味くなる。
再び、先よりも強い力で脇腹を突かれた。全身の皮膚が引きれる。
やめて。
――そろそろ換気も済んだ頃合いだ。戻って仕切り直すとしようや。
小僧、せいぜい長生きするこった。二人の男はげらげらと笑い混じりに言い捨て、視界から立ち去る。
まって、誰か。
だれ、か。
直後。
背に衝撃があった。身体が前後に大きく振れる。
――やっぱ、この鐘はろくに鳴りもしねえ。景気づけにもう一発いくか。
再びの衝撃。撞木しゅもくがめりこむ。息が詰まる。身の内で骨が軋む。
痛い。痛い。
たすけて。
だれか。
衝撃は二度で終わった。誰の気配も無くなる。取り残される。
後には吹きすさぶ風雪の音だけが、物悲しい獣の咆哮のように響き続けていた。

払暁ふつぎょう
障子窓の外は白んでいた。水音はしない。
目を開いた蛮骨は寝返りを打ち、深く息を吐く。
またも、寝覚めの悪い夢を見てしまった。

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