螻蛄と鴨と猿回し
遠く波打つ黒い山稜の背後から、熱光が覗いた。
天と地の狭間に割り込んだ朱い切れ込みはじわりじわりとその末端を左右へ引き伸ばしていく。空一面に引かれた闇紫の覆いが、裾から鮮やかに彩りを帯びる。
とある宿場町の目抜き通り。神々しいほどの朝焼けを背負った七人隊の睡骨は、大柄な体躯を枯れ柳のように揺らしながら歩いていた。
常であれば鬼だ羅刹だと称される面相はひどく青ざめ、どちらかといえば幽霊や死神に例えた方がしっくりくる様相だ。
………………やばい。
その言葉だけが、先ほどから何百何千回と脳内を巡っている。
この世の終わりに瀕したような睡骨の心持ちとは対照的に、通り沿いの店や宿の内外では、お天道様を待たず起き出した奉公人たちのしゃっきりとした声が飛び交う。
睡骨は活気あふれる声に追いやられ、道の端へ端へと距離をとった。
鉛のように重い足は宿への帰路をずるずると辿る。
目抜き通りの中央までくると、左手に橋が掛かっている。宿場を二分する堀川に渡されており、大八がすれ違ってもまだ余裕があるほど幅の広い橋である。
宿はこれを渡った先だ。ふらふらと橋板の上へ踏み出す。眼下の流れは緩やかで、橋の上にはまだ朝靄が立ち込めている。
この靄の中で、すべてが夢幻だったことにならないだろうか。
などとぼんやり考えていた睡骨の歩みは、橋の中ほどに差し掛かり宿の屋根を視界に捉えた途端、ぴたりと止まった。
だめだ。戻れない。
右手で懐の上を押さえる。薄くて軽い布の感触を確かめてさらにげっそりとする。
睡骨は、一夜にして有り金すべてを失っていた。
現在、七人隊は二手に分かれて行動している。
一方は蛮骨、煉骨、霧骨の組で、睡骨は残るもう一方に配された。
基本的には「七人隊」が彼らの組織としての一括りであるものの、七人まとめて雇われる仕事というのは、実をいうと全体の半分に満たない。
一人二人助っ人に欲しい程度の小競り合いもあれば、そもそも隊を丸ごと雇う余裕のない依頼主もいる。また、戦の合間には妖怪退治や野盗討伐、護衛に輸送、日雇いの小間使いから個人的な贔屓客による依頼まで細々と請け負う。
戦という、いつ起こるとも知れぬ大仕事だけを当てにしてはあっというまに稼ぎが底をつくためだ。傭兵よりも何でも屋だな、とは隊内でも笑いの種になるほどである。
だから、状況に応じて隊を分割したり、単独行動することは七人隊においてはごく日常的な風景だった。
今回も二組態勢となった彼らは、それぞれで依頼を片付けた後、両者の中間地点にあたる村で落ち合う手筈となっている。
睡骨たちの組が受けた仕事は昨日のうちに、わずかの滞りもなく片付いた。仕事中に忌々しい医者の人格が出てくることは一度もなかったし、報酬も契約通り支払われた。雇い主からの評価も上場。
この宿場町で一晩の休息を挟んでから合流地でのんびりと蛮骨らを待ち、そして曇りなき成果を堂々と報告して完了。
するはずだった。
昨夕。
宿で荷物を下ろし半刻ほど体を休めた睡骨は、夕餉の調達がてら町へと繰り出した。
急ぎ足で宿を探す旅人らと客引きが入り乱れる目抜き通りを、屋台の飯をつまみながら足の向くままぶらつき、目についた通町の入り組んだ細道なぞを気まぐれに歩いてみたりもした。
そうして繁華な賑わいも遠のいてきた頃。
睡骨は一軒の賭場に行き着いた。外見は旅籠の佇まいをしており、事実もともと旅籠だったものの二階を賭場として利用しているようだった。
大通りから外れているものの、内からは盛況な喧騒が聞こえてくる。
冷やかしのつもりで中を覗いた睡骨に、帳場に座った男が話しかけてきた。
「ちぃとでも賭けに参加すりゃ、酒は飲み放題だよ」
太っ腹なことを言う。本当ならば酒処に行くより安上がりだ。
睡骨は少しだけ遊ぶつもりで札を買った。
そして――。
そこから先の記憶が無い。
尿意で目が覚めた時、薄く開いた障子窓の外では空が白み始めていた。自分は見知らぬ大座敷にて、見知らぬ男どもと一緒くたになって転がっていた。
宿酔にぐらつく頭を押さえたまま数十秒ほどぼけっとし、そしてふと我に返った睡骨は、すっと胸の冷える感覚を味わった。慌てて懐の財布を探る。不自然に薄くなった布包みを掴んだ瞬間、心臓が縮まった。
酔いのためか他の理由か。震える指で口を開けてみれば、中にあるはずの銭は一枚たりとも認められなかった。
「何かの間違いって、んなわけあるかい」
いくらなんでも賭けで全額使い果たすなどありえない。寝ている間に誰かに懐を探られたに違いないと訴えに来た睡骨に、賭場の差配人はにべもなく言った。
「正真正銘、自分で賭けて使っちまったんだよ。疑うんなら帳簿を見な」
辟易しつつも同様の訴えは珍しくもないのか、差配は慣れた手つきで帳簿を開き、睡骨の眼前に突き出してきた。
「名前は? 骨の字? へえ。……ここと、ここだろ。あと、ここからここまでずーっと」
差配が開いて見せたのは昨夜の賭博記録が記された頁である。指で示された箇所を辿れば、睡骨を表す「骨」の字と、どの組で札をいくら賭けたか、勝敗結果を含め詳細に記録されていた。
ぱたんと帳簿を閉じた差配は半眼で睡骨を見上げる。
「わかったらうだうだ抜かさねえで、帰った帰った」
「いや、こんなのぁ」
何かの間違いだ。と言いかけると、差配の瞳がぎらりと光った。
「わかんねえ人だね。ほんとなら一泊の宿代も頂戴するとこなんだよ。旅の一見さんだから甘くしてやってるが、別にこっちは持ち金と身包みぜんぶ置いてってもらったって構わないよ」
声音に棘が含まれ、店の奥から物騒な面の男たちが顔を覗かせた。無論その程度に怯む睡骨ではないが、食い下がったところでどうにもならぬことは明らかだった。
そうして半ば叩き出される形で夜の残る町へと放り出され、今に至る。
橋の上から本来泊まるはずだった宿の屋根が見える。仲間たちはあの下で大鼾をかいていることだろう。
戻りたくない。
腹の底がずっしりと重い。
足が止まってしまった睡骨は手近の欄干へ前のめりにもたれた。組んだ腕に顎を預けてこの世の終わりのような顔で川面を見下ろす。数羽の鴨が岸辺で羽繕いをしていたが、睡骨の存在に気付くや警戒の声を上げて飛んでいってしまった。
大きく背を膨らませて冷えた空気を肺に入れ、
「はあ」
「はあ」
漏れ出た盛大なため息に、まったく同じ調子の音が重なった。
「……ん?」
妙に聞き覚えのある抜けた声。目を瞬き、睡骨は頭を持ち上げて肩越しに振り返った。
橋の反対側の欄干に、己と同様にもたれている背が見える。その後ろ姿と、粋なのだかだらしないのだかわからぬ特徴的な格好は、
「なんでえ、蛇骨。こんなとこで何してやがる」
声をかければ、相手の肩がぴくりと反応してこちらに顔を巡らせた。
「睡骨? てめえこそいやに早起きじゃねえか」
怪訝に片眉を上げる蛇骨の口調には覇気がない。いつものことではあるのだが。
蛇骨がのったりと歩み寄ってきた。
あ。そうだ。
睡骨の頭に冴えた考えが閃く。ここで蛇骨に会えたのはむしろ僥倖かもしれない。
「って、ずいぶん酒くせえな」
顔を歪めた蛇骨だが、すぐにその口元をにやつかせ、気安く肩に腕を回してきた。
「まあいいや。それよかちょうど良いとこで会った」
笑みを刻んだのは睡骨も同様である。
「そいつぁ俺の台詞だぜ。今ばっかりはてめえに会えて良かった」
この機を逃すまいと、睡骨は上向けた右の手の平を蛇骨に突き出した。
「金貸してくれ」
一切の修飾を省いた言葉が、一言一句違わず相手の口からも発されたのだと気付かなかったのは、それがあまりにきれいに重なったためだろう。
「……あ?」
「は……?」
目の前の蛇骨が呆けた間抜け面で目を瞬いている。のろのろと視線を落とせば、睡骨がしているのとまったく同じ仕草で、彼もこちらに手の平を差し出しているではないか。
二人の眉が同時に吊り上がった。
「今なんつった」
蛇骨は己から肩を組んでおきながら、今度は不快とばかりに睡骨を突き飛ばし、下から睨み上げてくる。
「てめえこそ、揶揄ってんのか」
負けじと睨み返した睡骨は、はたと悟った。
おそらくこいつは睡骨が賭けで大損した件をすでに聞き知っており、それをわざわざこんな早朝から虚仮にしに来たのだ。そういう奴だこいつは。
こめかみに筋が浮き立つが、ここは恥を偲ぶしかない。苛立ちを抑え再び手の平を突きつける。
「そうだよ、一銭もねえんだよ。いいからさっさと持ち金の半分寄こしやがれ。そのうち色付けて返す」
頼むというより強請るに近い。他の言い方を知らぬので気にしていられない。
だが、身を乗り出してきたのは蛇骨も同じだった。
「いやいや、勝手に進めんじゃねえよ。金貸してほしいのは俺だっつの」
「は……はぁ?」
「だから、ちぃと買い物したらこの通り、素寒貧になっちまったんだよ」
蛇骨は懐から薄い銭入れを掴み出し、口を下に開いて大仰に振ってみせた。元々いくら入っていたかは睡骨の知る由もないが、中から銭の音もしなければ転がり落ちるものも無い。
睡骨は愕然と立ちつくした。
「うそ、だろ……」
「あーあ。お前に借りりゃ兄貴たちに合流するまではしのげると思ったのに、そっちも螻蛄なのかよ。とんだ期待外れだぜ」
天を仰いで目元を手で覆い、蛇骨は欄干に背を預けてずるずると座り込んだ。指の隙間からじろりと見上げてくる。
「しっかし、何に使って無一文なんだよ。そんなおもしれえ店あったか?」
「……賭場で」
わずかに詰まったものの、睡骨は正直に答えた。蛇骨相手に方便を並べるのも面倒だった。
「は。阿保くさ」
鼻で笑われかちんとする。確かに阿保に違いない。だがこいつとて一文無しなのに、己を棚の上どころか屋根の上まで放り上げた言い様である。
皮肉の一つも返してやろうと口を開いたが、蛇骨が「あれ、でもよぉ」と首を傾げたために先手を奪われた。
「凶骨と銀骨から幾らか預かってたじゃねえか。まったくの無一文てわけでもねえだろ」
「や……それは」
蛇骨の指摘にたじろぐ。頭に昇りかけていた血がしおしおと後退していく。
蛇骨の言う通り、睡骨は凶骨と銀骨から金を預かっていた。
金勘定ができず物の相場にも疎い彼らは二人で相談していたらしく、宿に落ち着くや「使っちまうから預かっといてほしい」と睡骨に頼んできたのだ。そして自分も、特に断る理由がなかったため二つ返事で引き受けた。
「その顔は使いやがったな? 最低すぎる」
睡骨が何も言わぬ間に、蛇骨が信じられないとばかりに口元を覆う。そしてそれは事実だった。覚えてないが手元に無いということは、そういうことだ。
「あいつらぁお前を信じて託したのに。哀れだなぁ」
蛇骨は目尻を拭う真似をしたが、己の金ではないためどこか他人事である。そして、まだ軽口を叩く余裕もあった。
「つうことは俺ら全員、螻蛄になっちまったってことかよ。宿が前払いで助かったなあ」
「ああ。それは……そうだな」
心の底から同意する。
蛇骨はひとつ大きなため息を吐いてから、よっこいせと立ち上がった。
「しゃあねえ。んじゃ、共同資金箱のために寄せてる分からちっとばかし拝借さしてもらおうぜ」
共同資金箱。
その名称を耳にした途端、睡骨の呼吸が止まった。
「兄貴たちにはよぉ、依頼人が出し渋ったとかなんとか、今回は適当に誤魔化しちまおうぜ。ちっと怒られるかもしんねえけどよ」
共同資金箱。
体内で心臓の鼓動がいやに大きく響く。
「聞いてっか、おい」
共同資金箱。
指の末端が冷えて感覚が遠い。
「そ、の…こと、なんだが……」
言葉を紡ごうとするも、口中はからからに乾き、舌がもつれた。
――七人隊には「共同資金箱」なるものがある。
正確に言うと、その所在を知るのは蛮骨と煉骨のみで、二人以外の隊員は実物を拝んだことはない。
受けた仕事の報酬額から、毎回一定の割合を差し引いてこの中に納める。それが、隊内で明確に規定されている数少ない取決めの一つだった。
資金箱に蓄積された貯えは、急な出費や長らく仕事にありつけない状況――要するにいざという場合に備えた積み立てである。入出金の度に煉骨が事細かに記帳しており、その帳簿は誰でも自由に閲覧可能となっている。
煉骨が提案したこの仕組みに、当初は不満の声も出たものだ。数字に弱い者からしてみれば、己の手に入る金が多い方こそが正義である。
が、傭兵稼業というものは武器防具の修理だ補充だと常に出費の嵐である。七人隊も御多分に洩れず、そう間を置かずして、全員が一度は資金箱を頼る身となった。こうして共同資金の必要性を身をもって理解するにつれ、不平不満も引いていった。
金銭に関わることは、ことさら厳しくあらねばならない。
今回、二分した隊の片割れにおいて金銭管理を担っていた、もとい構成員を鑑みた消去法でやらざるを得なかった睡骨は、通例に倣って報酬の内からあらかじめ資金箱に納める分を除けておき、残りを蛇骨、凶骨、銀骨に己を含めた四人で折半した。
そして、除けた金はそのままの流れで睡骨が所持していた。無論、己の財布とは別にして。
していた、はずだったのだが。
「――ない」
ようやく絞り出したその一言に、蛇骨は口を半開きにしてのろりと瞬いた。
「…………なんて?」
二度も言わすな。
睡骨は眉間の皺を深めて重い口を開く。
「だから……資金箱用に分けといた、金が……一銭も、無えんだよ」
声は尻すぼみに小さくなる。
「いやいやご冗談を」
蛇骨は肩をすくめて笑い飛ばそうとしたようだったが、睡骨のかつてないほど青ざめた顔色と悲壮に満ちた面持ちを目の当たりにし
「嘘だろ」
彼に似つかわしからぬ深刻な声を出した。先まで醸していた多少の余裕が抜け落ちている。どうやらこの男でも事の重大さが理解できたらしい。
「つうか、なに……、持ち歩いてたのかよ」
睡骨は両肩の上に重石が一つずつ追加されたように身を沈める。
「いや……宿の鍵付き箪笥なんか開けようと思や力づくで開くし……、女将に預けてもねこばばされる可能性がねえわけじゃねえだろ。お前らが出歩きゃ、部屋は無人になっちまうし……」
諸々を考慮し、ならば自分が肌身離さず持ち歩くのが一番安全だと結論付け。
失敗した。
「うーわ、最悪。馬鹿じゃねえの」
蛇骨が頭を抱えて再びしゃがみ込んだ。
「煉骨の兄貴、爆発するぜ」
言われずとも百も承知している。
覆水と消えたのが睡骨の個人的な金であったなら、無駄遣いしようが博打で下手を打とうが、それは当人だけの問題であって隊の痛手にはならない。無論、どやされる筋合いもない。
ところが資金箱用の金となると話は別だ。
いざという時のために積み立てていくと隊内で納得して取り決め、そして信頼あってこそ、道中での管理を任された。それをよりによって賭け事で溶かしたとは、笑って済まされぬ話である。横領着服、ひいては裏切り行為と見なされてもおかしくない。
「はあぁ……きっと俺らまで拳骨くらうんだ、てめえのせいで」
恨めしげな蛇骨の言葉が耳朶にじくじくと突き刺さる。拳骨で済むわけがない。
効率重視で二手に分かれているというのにその一方が素寒貧で帰ったとあれば、「お前ら何しに行ったんだ」と氷点下の目で睥睨されるに決まっている。
叱責で済むならまだ良い。けじめとして隊を追放されたり、腹を切れと迫られる可能性も――。
「俺らのむこう数回分の稼ぎから半分以上入れるってことで何とか……」
それとも、やはり絵になる腹の斬り方でも練習しておいた方がよいのだろうか。
蛇骨の眼差しがきつくなった。
「冗談じゃねえぞ。やるならてめぇ一人でやれよ。俺の稼ぎまで搾られる謂れはねえ」
「いやいや……ここは連帯責任だろ。そもそも俺ひとりに管理させたのが悪かったんだ」
「なにを今さら。『蛇骨に持たせたら終わる』とか言ってやがったのはてめえだろうが。そんで、いざ自分が失敗すりゃこっちにも責任があるってなぁ、虫が良すぎんじゃねえか?」
「うるせえ、それはそれでこれはこれだろうよ」
額を突き合わせ睨み合っていると、彼方からどたどたと無数の足音が聞こえてきた。何事かと二人は揃って視線を向ける。
いかつい顔と格好をした男たちが、通り一杯に幅を利かせ、徒党を組んで歩いてくるのが見えた。団体の宿泊客という風でもなければ、役人の一派という出立ちでもない。
ざっと二十人はいる男らは右も左も悪人面で、一見しただけで堅気の衆とは一線を画していることが知れた。
そんな集団が、網やら縄やらを手に険しい表情で風を切っている。漂う物々しさは、活気を醸し始める朝の宿場にまるでそぐわない。
起き出していた町の衆はその場違いな空気にたじろぎ、道を開けて様子を窺っていた。
「なんだ? ずいぶん賑やかだな」
こんな早朝から他の組に殴り込みでもかけに行くのだろうか。
遠巻きに眺める中、練り歩く集団から下っ端と思しき男たちが抜け出し、道の端にいる町人やら旅人に何かを配り始めた。
やがて一団は睡骨たちのいる橋のたもとへと差し掛かる。
先頭を行く親分格と見られる大男がさっと振り向き、子分らへと声を張り上げた。何か命じられたらしい男たちは「へい」と揃った返事をすると、四方八方、町の中へ散開していった。
自らものっそりと歩き出した親分格の男と、橋の中央でなりゆきを見ていた睡骨らの目が合う。
「おう、お前さん方も、こいつを見かけたら報せてくんな」
こちらへ近付いてきた大男はすれ違いざま、ぶっきらぼうな態度で蛇骨に紙切れを押し付けていった。
むっと眉間を寄せた蛇骨は、その背が十分離れるのを待って小さく舌打ちする。
「……んだよ、ったく。こっちはそれどころじゃねえっつの」
「なに渡されたんだ」
蛇骨が見下ろす紙切れを睡骨も横から覗き込んでみる。それは簡易な人相書きだった。
描かれているのは、面長で皺だらけの毛深い爺。人のことは言えぬが、かなり目つきが悪く性根がねじ曲がっていそうな顔つきである。
睡骨の目が訝しく細められた。
「いやこれ、猿か」
「さる?」
「畜生猿って書いてんだろ」
似顔絵の下を指さす。そこには乱暴な筆跡で「畜生猿」の文字が踊っている。
描かれている特徴を見るに、猿似の人間を比喩しているわけではなく、本物の猿を探しているらしい。
「ってぇと、あいつらぁ猿公いっぴき捕まえるために、こんな朝っぱらからあんな仰々しくしてやがんのか」
「何をやらかしたもんか知らねえが、ご苦労なこったな」
興味をほとんど抱かずにいた睡骨だが、もう一度人相書きに目を落として、ぴたりと固まった。
「捕えた者には報酬を支給」
「なにぃ」
蛇骨が目を皿にする。もっとも、字をろくに知らぬため、どこを読んでいるか正確にはわかっていないだろう。睡骨とて、医者の方の人格で蓄えた知識を利用して読めているに過ぎない。
人相書きの末尾に、
「生け捕りは一貫、死骸はその半額を支払う」
と明記してあるのだ。睡骨が読み上げると蛇骨の口があんぐり開いた。
「一貫!? おいおい、そいつぁ」
「……ああ。俺たちで猿をとっ捕まえて引き渡しゃあ」
二人は無言で中空を見上げた。
報酬を手にすることができれば、昨夜のやらかしを無かったことにできる。
二人の瞳に光が漲った。
急ぎ宿に駆け戻った睡骨と蛇骨は、敷地の庭で爆睡していた凶骨と銀骨を蹴り起こし、有無を言わさず猿探しへと駆り出した。
「なんで破落戸の猿探しなんか手伝うんだ」
巨大な欠伸とともに不平をこぼす彼らに、睡骨は
「かくかくしかじか」
道すがら、事の次第をかいつまんで説明した。己らの置かれた状況を知ることとなった二人は眠気も忘れた風情で顎を下に落とし、かなりの間そのままになっていた。
「お、俺たちが預けた…金はっ……」
わなわなと小刻みに震える凶骨に、睡骨は沈黙のまま首を横に振る。そしてそれは、正しい意味として伝わったようだった。
「そんな! 信じて預けたのに!」
「煉骨の兄貴に言いつけてやる!」
眦を吊り上げ口々に言い募る凶骨と銀骨を、鬱陶しく睨み返す。
「そもそも他人に金を預ける奴が悪い。これに懲りたらてめえらも少しくれえ金勘定を覚えるんだな」
「ぐっ、失くしたくせに偉そうな……!」
「開き直りやがった……!」
だが凶骨も銀骨も弁は立たない。ろくな罵詈雑言も返せぬままぐぬぬと唸るしかなく、しまいにはがっくりと肩を落とした。
そういえば、と睡骨は首を巡らせて蛇骨を見やる。
「てめえは有り金はたいてまで、何を買ったんだよ」
「ああ? 気付いてなかったのか」
蛇骨は呆れ顔で口を曲げ、手を後頭部に当てて顔を横向けた。高い位置でまとめられた髪が睡骨らの正面に来る。
その根元に、見覚えのない飾りが揺れていた。
「ぎし、かんざし、買ったのか」
「いかしてんだろ? 夜店で見つけてさあ。店の親父にによると、新作で限定物で稀少で流行りの細工師が拵えた逸品らしいんだこれが。今ここで買わねぇと二度と手に入んねえっつーもんだからさぁ」
「……」
睡骨は己に審美眼が備わっているとは毛ほども思わぬが、それでもその簪が蛇骨の説明に能うほどの代物にはどうしても見えなかった。
色とりどりの飾りはぱっと見豪奢な印象を与えるが、よく見れば方向性も統一性も無く、余りものの寄せ集め感が強い。
それぞれが引き立て合うことなくぎらぎらと無節操に主張している点は、蛇骨らしいといえば実にらしいのだが、それにしても下品である。
蛇骨は名品を手にした気でいるようだが、実際は店主の口八丁で売れ残りを掴まされたのだろう。
「そんなのが……そんなに」
ろくな理由ではなかろうと予想していたものの、元から影の落ちていた胸中にさらに深い虚無の沼を穿たれてしまい、睡骨はぼそっと吐き出した。凶骨と銀骨も見たことがないほどの無表情である。
蛇骨が柳眉を吊り上げた。
「そんなのだぁ? ったく、見る目ねぇなお前らは。店主によるとな、こいつぁいずれ価値が倍々に膨れるって話だ。だから無駄じゃなくて投資なんだよ」
「……へえ」
投資の意味も知らぬくせによく言う。
「御大層な売り文句だったのはわかったが、こういう状況だ。今すぐ返品してこい」
全額は無理だとしても、二、三割、交渉次第では半額くらい戻ってくるかもしれぬ。
しかし蛇骨は肩をすくめて首を振った。
「そいつぁ無理だぜ。その商人、俺に売った後『最後に良いお客に巡り会えた』とか言って、店畳んでどっか行っちまったもん。俺みてぇな、こいつに相応しい客が来る気がして待ってたんだと。運命とか虫の知らせってやつぁ、本当にあるんだなぁ」
「もういい、黙れ」
睡骨は眉間を指で押さえて蛇骨から視線を外した。鴨にうまいこと売りつけたらば、苦情が出る前にとんずらというわけだ。逆にこいつが、そこまでされてどうして騙されていると思わないのかが不思議である。
いや、こんな宿場町で商いをする人間などというのは、鴨になりやすい客を見分ける目が肥えているものなのだろう。
――感心している場合ではない。
「猿捕まえてあの破落戸野郎どもに引き渡しゃ、それもこれも万事解決だ。気ぃ引き締めてかかるぞ」
己らに落ち度が無いにも関わらず尻ぬぐいに付き合わされることとなった凶骨と銀骨は、そっと半眼を交わして「……おう」となげやりな返事をした。
かくして四人による猿捕獲作戦が幕を開けたのである。
とはいえ、他の捜索隊に比べて土地勘のない彼らは圧倒的に不利な立場であった。同じ場所を何度も通過したり、無駄に袋小路に入ってしまったりと、思うように進まない。
加えて陽が高くなるにつれ、猿の件が町人らの耳から耳へ伝播していく。時間の経過に伴い、猿探しに繰り出す輩の数は目に見えて増えていった。
捜索開始から半刻経つ頃にはもう、蛇骨は音を上げ始めていた。
「なあなあ。こんなん、俺らに勝ち目があるたぁ思えねえよ」
「ぎし、まだ始めたばっかだぜ。蛇骨、根性なし」
「色男探しならまだしも、猿なんてなぁ。どうも気が乗らねえ」
「くだらねえことほざいてる暇があんなら一町むこうでも探しに行きやがれ。こうしてる間にその辺から出てきたり――」
睡骨が苛立ちまぎれに口にした瞬間、横合いの小道から小さな影が飛び出してきた。
「うぉあ!」
危うく衝突しかけたのをぎりぎりで身を引き、事なきを得る。
本当に猿が出てきたのかと思いかけたが、驚いてこちらを見上げてきたのは十三、四ほどの細身な少年だった。
「あぶねぇだろうが坊主、どこに目ぇ付けてやがる!」
つんのめるように立ち止まった少年は勝気そうな両眼を大きく見開き、勢いよく頭を下げた。頭の上の方で短く結ばれた髪が跳ねる。
「ごめんよ! 急いでんだ!」
男たちの返事を待たず再び駆け出そうとした少年だが、面食らった睡骨の顔を二度見するや、「あっ」と頓狂な声を漏らした。
「昨日のおっさん!」
ひゅっと息を呑んだ睡骨はそのままむせた。
「おっ――」
「おっさん!」
叫んで噴き出したのは蛇骨である。下品に身をよじり、ひいひい笑いながら睡骨の背をばしばしと叩いた。
「なんだお前、いつの間にこんな餓鬼とお友達になりやがったんだぁ? つーか前にもおっさん呼びされてたよなぁ、おっさん」
「うるせえ、こんな小僧知らねえぞ」
蛇骨を鬱陶しく払いのけ、睡骨は少年を睥睨した。初対面の出会い頭におっさん呼ばわりするなど、とんでもなく失礼な餓鬼だ。
しかし対する少年は睡骨の睨みに萎縮するどころか、小柄な体躯に不釣り合いな大股でずいと詰め寄ってきた。
「おいおっさん! どっかで紋吉見なかったか!?」
何のいちゃもんをふっかけてくる気かと身構えていた睡骨はたっぷり三呼吸の間を置き、
「…………もんきち?」
間の抜けた声で問い返した。
「なんだそれ」
「なんだじゃない、猿だよ猿! ってかあんた、覚えてないのか!?」
掴みかからんばかりに憤然とする少年に、まったく話の見えない睡骨は首をひねる。
だが、猿と言われて思い当たる節など一つしかない。なので、例の毛深い人相書を取り出した。
「この猿のことなら、知らねえよ」
人相書を見た少年がひくっと息を呑む。
「げっ、そんなもんまで出回ってんのか!」
「そんなもんて、てめえもこれ見て探し回ってる口だろうが」
己らと同様、懸賞金目当ての輩のひとりだろうと踏んだ睡骨の言に、少年はくわりと牙を剥いた。
「俺は紋吉の飼い主だ! あの博徒連中らより先に、紋吉を捕まえなきゃなんないんだよ!」