話題の飯屋「福寿庵」に到着したのは、時刻が八つ半ばに差しかかった頃だった。
店先で、ふっくらした体つきの女が立札を入れ替えている。朔夜はその背に声をかけた。
女将おかみさん、こんにちは」
「あらま、朔夜ちゃん!」
振り返った女は、朔夜を認めるや人懐こい笑顔を見せた。
夫と二人三脚で小さな料理屋を切り盛りする、四十中ほどの女将である。
「蛮骨さんたち、帰ってきたのかい? お酒の注文?」
「いえ、今日はお食事を頂きに」
「まあ嬉しい! 亭主も張り切っちゃうわ」
女将はてきぱきと立て札を固定すると、改めてこちらに向き直った。
「お待たせ。ご案内は何名さ…ま……」
女将の目が朔夜を見、次いでその隣にいる襲へと移った。言葉が消えてゆく。
たっぷり三呼吸ほど動きを停止した後、
「……ちょっと朔夜ちゃん、ちょっとこっち」
「はい?」
朔夜の腕を引いて店の陰に連れ込んだ。
「あの、女将さん?」
戸惑う朔夜の両肩をつかみ、なにやら恐い顔をして覗き込んでくる。
「あたしがあれこれ言う幕じゃないのはわかってるよ。けどね、だめ、いけません」
「え?」
「いったい何て声をかけられたの。悪い虫ならあたしが追っ払ったげる」
そう言った女将は、不信感のありありと浮かぶ眼差しを横に滑らせた。その先には店先を眺めながら待っている襲がいる。
「確かにね、あんな綺麗な人、役者だってそうそういないよ。あたしも長く商売してきたけど、見たことがない。甘い言葉を囁かれて気持ちがころっと傾いちまうのもわかるわ。だけど、それじゃあ、命張って稼ぎに行ってる蛮骨さんの立つ瀬が無いじゃない」
懇々と諭す女将の言葉を聞きながら、朔夜は背筋を妙な緊張が這い上る感覚に身を強張らせていた。
道中で湧いた懸念が、さっそく現実のものとなっている。
「あ、あのね女将さん」
「そもそもがね、あんな色男なんてのは他にも女をわんさかこしらえてるに決まってるんだから。きっと朔夜ちゃん以外にも、日替わりでとっかえひっかえ」
「違うの。違うんです」
遮られ、壁に立てかけたほうきに手を伸ばさんとしていた女将は怪訝けげんな表情を朔夜に戻した。
「違うって、何がだい」
「あの人ね、兄なんです。わたしの」
朔夜がそっと耳打ちすると、女将はこいのように目を点にした。
「あに……お、にい、さん? え?」
「ええ、兄さん」
「お話は済んだかな」
そこへ襲がひょこりと顔を覗かせたものだから、女将は「ひぇっ」と文字通り飛び上がった。
きまり悪げな様子で陰から出てきた女将に、襲は涼やかな微笑みを向けた。
「ご挨拶が遅くなり失礼致しました。朔夜の兄の、襲と申します」
いつも妹がお世話になっているそうで、と頭を下げる襲の丁寧な物腰に、女将は
「あ、あらぁ……」
心なしか頬を上気させ、口元に手を添えて目を泳がせる。
「お世話だなんてそんな、こちらこそ、いつもご贔屓にして頂いてて……」
もごもご呟いてから、恥入った様子で頭を垂れる。
「ごめんなさいね、てっきり朔夜ちゃんがたぶらかされてるんだと……。そう、お兄さんがいたんですねぇ。お身内はいないものとばかり」
恐縮する女将をなだめるように、襲は微苦笑を滲ませる。
「ご存じなかったのも無理はない。私は商売柄、遠方に足を延ばす事が多いのですが、出先で運悪く戦火に巻き込まれましてね。妹とは長らく音信不通で、生死も知れぬ状態でしたもので」
「まっ」
「それがつい先頃、ようやっと妹の所在がわかりまして。こうして数年越しの再会が叶ったというわけです」
な、と屈託のない調子で襲が朔夜に同意を求めた。その眼差しはどこからどう見ても、大切な妹を慈しむ兄のもの。いつもの鉄面皮しか知らぬ朔夜は面食らいかけたが、急いで笑顔を返した。
「そうなんです。亡くなったものと覚悟していた兄さんとこうしてまた会えるなんて、本当に夢みたいで」
「まあ……、っ……そんな事情があったんだねえ」
女将は声を詰まらせ、鼻をすすると目もとを袖で押さえた。
仲睦まじい兄妹だと、一片の疑いもなく信じてくれている。でまかせを並べる朔夜は安堵する一方で、女将の素直さに付け込む後ろめたさにひしひしとさいなまれた。
対する襲はというと、気まずさなどおくびにも出さない。
「しかし安心いたしました。妹をこれほど気にかけて下さる方がご近所にいらっしゃるとは。どうか今後とも、よしなにお願いいたします」
謝意を込めた双眸にまっすぐ射抜かれては、女将に太刀打ちできようはずがなかった。ぼっと茹蛸ゆでだこのようになって、年甲斐もなく齷齪あくせくし始める。
「あらま、やですよそんな改まって。……ああっ、あたしったら中にお通しもしないで」
女将がぱん、と豪快に手を打ち合わせ、二人はようやく店の敷居を跨ぐことができた。
昼餉と夕餉の狭間はざまにある店内は、客がまばらに一服しているばかりで閑散としていた。
兄妹で積もる話もあろうと気を利かせたものか、女将は奥の個室を案内してくれ、
「注文が決まったら、声をかけてちょうだい」
と言って戻っていった。
女将の足音が十分遠ざかるのを待って、朔夜は肺が空になるほど息を吐き、目の前の卓に突っ伏した。
「な、なんとか……ごまかせましたね」
「ああ。朔夜の予想通りだったな」
「ありがとうございます、話を合わせて頂いて」
「いや、俺の方こそ助かった」
卓を挟んで向かい側に座した襲が小さく首を振る。ほんの今し方まで存在していた優しげな笑みも、親しみのある声の抑揚も、もうそこには無かった。

料理屋までの道すがら。
自分たちの現状がかなり誤解を招きやすいことに気が付いた朔夜は、意を決して襲を呼び止めた。
「襲さん、折り入ってお願いがあるんですけど」
「ん、どうした」
こちらを凝視する女人らが声の届かぬ遠くにいることを素早く確かめてから、それでも朔夜は極力声をひそめ、真剣な面持ちで切り出した。
「――私たち、兄妹ということにしてもらえませんか」
「……うん?」
聞き取りやすいようにやや身を屈めた襲が、そのまま静止する。代わりに仰天したのは小妖怪たちだ。
「えっ、大将と朔夜が」
「きょうだい!?」
「い、今だけよ? 振りをするだけ」
目をまん丸にする三匹に、慌てて付け加える。
「その……。みんな妖怪だし、あまり深く考えてなかったんだけれど、蛮骨がいない間に他の男性と一緒にいるというのは……」
「ふむ。世間体が悪いか」
言いよどむ朔夜の言葉を襲が引き継いだ。
蛮骨の了解を得ているとはいえ、恋人の留守中に、それもこのような眉目秀麗な男と食事などしては、あれこれ邪推されぬわけがない。
「ええ? ただ飯食いに行くだけじゃんか」
「俺たちもいるし」
「人間ってめんどくさいなぁ」
小妖怪たちは不可解だと首をひねるが、襲は朔夜の危惧するところを正確に察してくれたようだった。「そういう事なら」と納得する。
「俺のことは如何様にも取り繕って構わない。……が」
わずかに首を傾け、
「兄でいいのか」
「え?」
朔夜が聞き返すと、小妖怪たちも当然のごとく頷いた。
「そうだぜ。歳の差的には」
「じいちゃんのじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんの」
「あ、兄で! 兄でお願いします!」
きっぱりと、力強く懇願した朔夜であった。

「飯ひとつ食い歩くのも大変だなあ」
先だってのやりとりを思い起こし、小妖怪たちは呆れまじりに語り合った。何をするにもいちいちしがらみや体面を気にせねばならない人間の面倒くささにうんざりしているようだ。
「でも驚いたわ。襲さん、まるで別人みたいなんだもの」
朔夜は素直な感嘆を漏らした。
目を瞬く襲の目の前で、小妖怪たちがうんうんと同意する。
「大将の芝居にゃ、煉骨たちもびっくりしてたもんな。そういう顔できるんならいつもそうしてりゃいいのに」
「その方が、怖がられずに済むと思うぞ」
「声だってさぁ」
口々に言い募る小妖怪たちの言で、襲も何の話をされているのか理解したらしい。
「ああ、顔と声のことか」
そう呟いて、卓の木目に目を落とす。少し逡巡する様子を見せてから、目線を上げた。
「あれは変化へんげの一環だ。妖力で顔を無理矢理ねじ曲げている。声も同様に、喉を締めて相応ふさわしい声音が出るよう調節しているのだ」
「――あい?」
小妖怪と朔夜がぽかんと口を開けた。
「俺は昔から、どうにも変化のたぐいは不得手でな。あの程度でも、どうにか可能になったんだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ大将」
一角が口を挟む。
「妖力、で? え……?」
「ああ。壊れているから、お前たちのようにはできない」
三匹と一人の首がそろって傾く。
「壊れてるって、なにが」
「表情筋が」
至極あっさりと言ってのける鴉天狗に、朔夜と小妖怪は唖然として二の句が継げなかった。それが事実なのか、はたまた自虐を利かせた天狗式の冗談なのか、判断に迷って言葉が出てこない。
襲がわずか目を伏せた。
「……だが確かに、お前たち相手に表情を作る必要はないというのも、俺の勝手な決め付けだな。萎縮させていたのなら、改める」
そう告げるや、下がっていた口角が上がり、緩やかな弧が描かれる。そして、呼吸を忘れるほどに美しい笑みがこちらへ向けられた。
「今後はできる限りこうしていようか」
襲は優しげな声でそう請け合ったが、はっと我に返った朔夜は首を激しく横に振った。
「い、いえ、いいです! 作らなくても、そのままで……!」
どうやら、今の話に冗談はひとつも無かったらしい。
この表情と声音を作るためにそんな努力が必要だなどとは、思いも寄らなかった。好んで無表情を貫いていたわけでもなければ、治そうとして治るものでもなかったのだ。
七変化のような表情の切り替えを褒めたつもりが、もしかすると気にしている所を突いてしまったのかもしれない。
「ふむ、そうか」
襲は不思議そうに瞬いてから、次の瞬間には無の表情へ戻った。
「ごめんなさい。私たち、事情も知らずに勝手なことを」
「ご、ごめんなぁ」
「大将はそのままでいいよ」
「俺らの前でまで演技してたんじゃ、疲れちまうよ」
「何を謝ることがある。俺としてはむしろ、直すべき点があるならば言ってもらった方がありがたいのだが。己ではどうも気が回らぬのでな」
言葉の通り、襲に気を害した様子はない。ただ、仮に害していたとして、それをおもてから推し量ることはできないのだろうが。
――壊れているから
とは、どういうことだろう。
いつ、どんな理由で。
小丸たちも朔夜と同じ疑問を抱いているようだった。訊きたいが触れてはいけない気もする、そんなもどかしさに身をもじつかせている。
微妙な空気を察したのか、襲は軽く息をついた。
「……お前たちが気を遣う事ではない。長く生きていれば、相応にままならぬ事もあるというだけの話だ」
じじくさいぞ、大将」
襲が小丸を一瞥し、小丸はふいと明後日に顔をそむける。それを見た朔夜がつい笑みをこぼし、少し場が和んだ。
「爺ではないが若いわけでもない。こう見えてあちこち壊れているんだ。だからといって、機能せぬものを延々気にしていても詮無いだろう。人間と違って妖力でどうとでもできるのだから、不便もしていない」
彼は「さて」と仕切り直すように、卓上の品書きを手に取った。二つ折りのそれを開き、朔夜の方へ差し向ける。
「それよりも、そろそろ何を食すか決めよう。甘味でもそれ以外でも、好きなものを頼んでいい」
その言葉に小妖怪たちは慌てて品書きを覗き込んだ。
「そ、そうだった!」
「読めない」
「なんて書いてあるの」
「ええと、蕎麦、うどん、雑炊……甘味は最後の方かしらね」
朔夜も多くの字が読めるわけではないが、日常的によく見る単語くらいなら読めるし、蛮骨と文をやりとりするために少しずつでも覚えられるよう努めている。
品書きの余白には簡単な絵も描かれているため、字の読めぬ客でも何が食べられるのか大体わかるようになっていた。
「甘味もいいけど蕎麦もいいなぁ」
食い意地の化身たる小妖怪たちは、品書きが読み上げられる度に気移りし、想像だけでよだれを垂らした。
小鉢やつまみを除いても、店で提供される料理は数十種に及ぶ。よりどりみどりの内容にざっと目を通していた襲が、感心した風情で目を細める。
「このような小料理屋で、これほどの品数を扱うとは。くりやに立っていたのは店主一人のようだったが」
「こちらのご主人、修行中に津々浦々を巡っていろいろな料理を学んだんですって」
「ほう、この時世に剛胆な」
その際に築いた伝手つてが各地にあるのだろう。ここいらでは馴染みのない料理や庶民には手の届きにくい品であるはずの甘味も、懐に優しい額に抑えられている。店主の行動力と探求心の結晶が、品書きの中に詰め込まれていた。
「みんな、どれにするか決めた?」
朔夜が三匹を窺うと、彼らは苦しげに唸った。
「決められないぃっ……」
「あれもこれも食いたい!」
じたばたと卓の上を転げ回る小妖怪たちを、朔夜は困り顔でたしなめる。
「欲張ってはだめよ。次の機会に、また別のを食べればいいじゃない」
しかし三匹は頬を膨らませた。
「そんなこと言ったってさぁ」
「次はいつ、みんなで来れるか分かんないじゃんか」
「そんな、来ようと思えば来れるでしょう?」
毎日はさすがに無理でも、時々ならば。
しかし小妖怪たちは譲らなかった。
「そんなことないぞ。この世は弱肉強食なんだ」
「俺たちが明日にもおっかない妖怪に食われちまうかもしれないし」
「近くで戦でも始まったら、こんなちっこい店あっという間に無くなっちまうよ」
そう言われては、朔夜も気軽に返すことができなかった。屁理屈と言えばそうだが、絶対にあり得ぬ話ともいえない。
そう、平穏な日々は、明日にも崩れてしまうかもしれない。
朔夜の表情が翳り、襲がいさめるように三匹を見下ろす。小妖怪たちははっと朔夜に取りすがった。
「ご、ごめん朔夜。脅したかったわけじゃ……」
朔夜は「わかってるわよ」と柔らかく笑んだ。
やり取りを眺めていた襲が、何も言わず腰を浮かせた。個室入口の障子戸に手を伸ばし、横に滑らせる。
そのまま半身を部屋の外に出し、
「女将さん」
と、客の帰った席を拭いている女将を呼んだ。
「はいはい、お決まり?」
明るい声と足音が近づいてくる。何を食べるか決めあぐねていた小妖怪たちがおろおろと鴉天狗を見上げた。わがままを言ったせいで、注文を勝手に決められてしまう。
「ま、待って、たいしょ――」
「何になさいます?」
やってきた女将に微笑んで会釈した襲は、開いた品書きを彼女に向けた。
すらりとした指の先が、横並びで三段にわたり書き連ねられた品目の一段目右端を差す。
「ここから」
その指をすっと三段目の終端まで滑らせ、
「ここまで」
さらに
「二人前ずつ」
と付け足した。
「……えっ」
一呼吸の間を置いて、女将と朔夜の頓狂な声が見事に重なった。小妖怪たちは天狗を引き留める体勢のまま、固まっている。
女将がぎゅっと目をつむって頭を振り、
「やだね、耳がおかしくなったのかも。今なんて?」
「ここからここまで二人前ずつ」
襲は淀みなく同じ動作と言葉を繰り返した。
品書きに書かれている料理をすべて、それも各二人前ずつ、と。
金魚のように口をぱくつかせる女将に、襲は微かに首を傾けた。
「急な注文では無理でしょうか」
「…………えっ、あ? じょ、冗談…ではなく……?」
「冗談?」
逆に訊き返した襲は、思慮深い風情で指を顎先に当てた。
「伝え方が悪いのか……これは失敬」
考えながら首の傾きを大きくしていく襲に、女将もどうやら本気だと悟ったらしい。
「え…、あの…? あ、えっと…主人に訊いてきますっ……!」
つかのま右往左往したかと思うと、ばたばたと厨へ駆けていった。
「か、襲さん、ちょっと?」
朔夜が引きつった声音で呼びかけると、端正な相貌がこちらを向く。
「どう頼めば良かったのだろう」
「どう頼んだって同じです! まさか本当に――」
全部注文するのか、と続けようとした朔夜だったが、個室の入口に店主を連れた女将が戻ってきたため、口を噤むしかなかった。
店主は頭に鉢巻をきつく巻いた四十がらみの、いかにも一本気といった厳つい目鼻立ちの男だ。破落戸ごろつきも黙らせると評判の鬼瓦に似た顔の上には探るような目が載っており、今日初めて来店した美丈夫を疑り深く見下ろしている。
「全ての料理をご所望てぇのは、本当ですかい」
粗野な低い声に、小妖怪たちがすぼめた肩を寄せ合う。
「ああ、ちゃんと伝わっていましたか。それは無論、冷やかしなど申しませぬ」
「ものすごい量になりますが」
「はい」
「本当に食べれるんで?」
「はい」
本当にわかっているのか、毛ほどの気後れもなく言ってのける襲は、背は高いものの痩身の部類だ。それだけの量を食べるようには到底見えない。
店主には、自分よりずっと若輩の若者が、妹の前でいい格好をしたくて見栄を張っているように見えているのだろう。しかし、尋問めいた店主の問いに襲は臆するそぶりもなくするすると受け答えてしまう。
問答を見ている朔夜の方こそ、きもが縮みそうだった。
「か――、兄さん」
「残されてもお代はきっちり頂きますよ」
「あっ、先にお支払いする決まりでしたか。これは気付きませんで」
店主は声にやや凄みを利かせたのだが、襲はというと合点がいったとばかりに懐を探ろうとする。
「い、いや、御代は食後で構わねえですが……」
店主と女将は戸惑い顔を見合わせ、本当に大丈夫だろうかと言外に協議している。
その様子を見て、襲はついと視線を下げた。
「あの、もし無理を申してしまっているのであれば、取り下げますが」
目元が哀愁めいたものを帯びる。
「こちらの品目の多様さに目移りしてしまい、せっかく妹もいるこの機に、全て賞味できればと望んだ次第です。しかし、そちらの都合もありましょう」
「う……」
そう言われて、店主は心が揺らいだようだった。
一人の人間がこれだけ多くの注文をすることなど今後あるかどうか。料理人として、その要求に応えたい気持ちも少なからず同居しているのかもしれない。
しばしの黙考の末、店主は頭の鉢巻きをぎゅっと締め直した。
「ご注文、承りやした」

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