次から次へと運ばれてくる料理で、卓の上はぎっしりと埋め尽くされた。
襲の側と朔夜の側に同じ料理が一皿ずつ置かれる。芳しい匂いを立ち昇らせる出来立て料理の数々に、小妖怪たちは「うわぁ、うわああ」と興奮しきりだった。
第一陣の料理を並べた女将が個室を出ていくや、
「た、食べていい!?」
「取り分けるから待ってね」
料理の皿へ飛び込まんとする小妖怪たちを止め、朔夜は料理を椀や小皿に取り分けてやった。襲も同様に、己の方に並べられた皿からそれぞれ半分ずつ、小妖怪たちの皿に移し替えてやっている。
「はい、頂きます」
「頂きます」
「いただきまぁぁす!」
手を合わせる朔夜と襲の真似をして、小さな手をぱちんと打ち合わせた三匹が大口で叫ぶ。そして鉄砲玉のような勢いで、各々の皿へと頭をつっこんだ。
「うっま! うまいな! これ!」
「もがががが」
「初めて食べた! もっと! もっとくれよぅ!」
「お前たち、もっと味わって食べたらどうだ」
せがまれるまま取り分けてやりながら、襲が小妖怪たちを皿から引きはがす。しかし三匹は飢えた猛獣もかくやという具合にじたばたと手をすり抜け、皿に噛り付いて離れようとしない。朔夜の頬が緩んだ。
「そうよ、まるで何日も食べてないみたい」
言いながら、小さな器に品よく盛り付けられた甘味を手に取った。他の料理で満腹になってしまう前に、本来の目的のものをよく味わっておきたい。
かわいらしい見た目を楽しんでから匙にすくい取り、口に含む。ほのかな甘さと香ばしさがふわりと口の中に広がった。えもいわれぬ至福に表情が蕩ける。
「はあぁ。すっごく……美味しい」
小妖怪たちに行儀よく食べさせることを諦めた襲が、己も蕎麦の器に手をつけた。
「うん、美味いな」
こちらは表情も声音も蕩けないが、言葉は満足げである。
「朔夜のそれ、俺も!」
「俺も!」
「俺も!」
朔夜にねだろうとする小妖怪たちの行く手を遮って、襲が自分の方にある甘味の器をずいと押し出す。三匹はわっとそちらに殺到した。
「うなああ、甘い!」
「うまい!」
「おいしい!」
ものの数秒で、蝗の大群が通り過ぎた田畑のように、器に盛られた甘味が消え失せる。暴走した三匹はもはや取り分けを待つ分別すら失い、手あたり次第に標的を変え、先を争って皿を渡り始めた。
さすがに卓の上を縦横無尽に走り回られるのは目に余るようで、襲が三匹を捕まえ元の位置に戻した。
「ものを食う時くらい静かにしないか」
「だって、早くしないと取られちまう!」
「この食事ははみんなへのご褒美なんでしょう? あなたたちを差し置いて、誰も取ったりしないわよ」
朔夜が料理を再び小皿によそいながら宥めてやると、三匹は渋々ながら落ち着きを取り戻した。
「うう、わかったよ……」
それでも不承不承といった様子に、襲がそっと息をつく。
「お前たち、朔夜をもてなしたいのではなかったのか」
「うぇ? そりゃ、もちろんそうだ」
「お前たちが騒ぐほど、朔夜が料理を楽しめる時間が減るのだぞ」
衝撃発言に、三匹の目がひん剥かれる。
「そ、そんな……!?」
「それを早く言え」
「何やってんだ大将」
なぜか逆に怒られ、鴉天狗は解せぬと言いたげだった。
「俺たち、いい子になる」
「行儀よくする」
「順番まもる」
小妖怪たちは姿勢を正し、卓の定位置にちょこんと腰を据えた。
三匹が、生まれて初めて教養を身に付けた瞬間である。
「朔夜、ちゃんと美味しく食えてるか……?」
不安げに問うてくる三匹を安心させるため、朔夜は何度も頷いてやる。
「もちろん。想像よりもっと美味しくて、びっくりしちゃった」
朔夜に「ありがとう」と言われた小丸たちはぽっと頬を赤らめ、はにかんだ。
そこからの食事風景は至極平和だった。強奪と蹴落としの醜い争いが再び勃発することはなく、譲り合い分け合いながら、各々が料理を堪能することができた。
皿のほとんどが空になった頃に次の品々が運ばれて、再び卓の上が彩られる。それも小妖怪たちに分け、再び皆で舌鼓を打つ。
「少しご馳走になるだけのつもりだったのに。こんな贅沢、いいのかしら」
「いいんだよ。あいつらだって、依頼人の屋敷に呼ばれりゃ色々うまいもん食ってんだからさ!」
あいつらとは言わずもがな、七人隊のことだ。
「ふふ、こんなに食べたら蛮骨と次に会った時、太ったと思われちゃうかも」
「飢えているよりいいさ」
差し挟まれた言葉に、少し驚く。空になった皿を脇に重ねながら、鴉天狗が平淡な声音で続けた。
「あれは事あるごとにお前のことを気にしている。肥えるよりも痩せられる方が、よほど堪えるだろう」
え、と目を瞠る。
「そう、なんですか……?」
「お前のこととなると、あれは途端に余裕がなくなる」
朔夜は頬に熱が上がるのを自覚した。たまらず下を向く。
知らなかった。
戦地にいる蛮骨を朔夜が案じるのは当然だが、近々で戦の心配がない安地で暮らす自分のことを、蛮骨がそれほど気にかけてくれているとは。
短冊に書かれた願い。家の軒先に挟まれた恋文にあれほど動揺していた姿。それらが蘇って、胸の奥がきゅうとなる。
「た、確かにそれじゃ、食べられる時はしっかり食べないとですね」
「この機に、あれの好みに合いそうなものを探せばいいのではないか。二人で来た際に勧めてやれるだろう」
「あっ、確かに。ぜんぶ試せることなんて、そうそう無いですものね」
蛮骨たちが帰ってきたときに店の一つも紹介してやれる。それだって、ここで暮らす身なればこそ出来ることに違いない。
朔夜は赤くなった顔をごまかすために、小さく柔らかな白餅入りの汁粉を匙にすくって口に運んだ。
やさしい甘さが、体の芯の熱に溶けていく。
それから半刻が経ち。
食卓は、しんと静まり返っていた。
始めのうち、次々と運ばれてくる料理を、小妖怪たちも朔夜もおいしいおいしいと幸せそうに平らげた。皿は順調に空になり、次の料理が来るまで腹を休ませる余裕さえあった。
品書きの六割ほどの料理を片付けたあたりからだろうか、雲行きが怪しくなったのは。
小妖怪たちの笑顔が心なしか硬くなり、口数が少なくなった。
それでももぐもぐ食べ続けていたのだが、その速度は当初に比すると、目に見えて鈍化していた。
そんな状況など知るわけもなく、女将は次から次へ新たな料理を持ってくる。卓上は常に料理皿で埋め尽くされて、隙間が増える兆しは一向に無かった。
そして。その時は唐突に訪れた。
「腹が……限界だ……」
小丸が静かに箸を置き、絶望の表情と消え入りそうな声で呟いた。
「俺もう、味がわかんない……」
一角の肩が小刻みに震えている。底なしだと自負して疑わなかった己の胃袋が敗北を喫するなど、末代までの恥だと言わんばかりに。
その横で舜が、声もなくころりと横に倒れた。短い四肢では、丸々となった腹を支えきれなくなったようだ。
「うっ……情けねえ」
「俺たちが欲張ったばっかりに……!」
いつの間にか味を楽しむよりも、目の前の食べ物を意地でも片付けねばという義務感で食事をしていた。これでは、ご褒美どころか拷問である。
小丸が涙を拭い、一角は食卓に膝をついて拳を打ち付ける。舜はぴくりともしない。
「み、みんな……。そんな、責任を感じなくても……」
慰めようとするも、自分もとうの昔に満腹を迎えている朔夜もまた、言葉が尻すぼみになる。
食べきれなかった。
やはりあの時、襲を止めるべきだったのだ。
店主と女将に再三確認され、その上で食べられると断言した。そしてやはり無理だった。
あの料理に並ならぬ情熱を傾ける店主が激怒する姿が目に浮かぶ。店への出入りが禁止になるだけに留まらず、他店からも要注意人物と目を付けられるかもしれない。蛮骨におすすめの料理を紹介するどころではない。
首筋を嫌な汗が伝う。
かくなる上は店主と女将に平謝りして、可能な限り持ち帰らせてもらうしかない。いやその前に、これ以上料理を作らぬよう、声をかけなければ。
女将を呼ぼうと顔を上げた朔夜は、そのまま呆然とした。
卓を挟んで正面に座す襲が、まだ食べ続けていた。
黙々と、食べ始めと何ら変わらぬ速さで、箸が口と皿の間を往復し続けている。姿勢が崩れることもなく、静かで無駄のない所作は、まるで理想的な食事の手本を見ているかのようだ。
焼き魚を見事に骨だけの姿にした襲は、そこでようやく己に注がれる視線に気付いてこちらを見た。
「どうした、箸が進んでいないようだが。足りぬのならもう一人前頼むか? 遠慮は無用だぞ」
平然と言いながら小妖怪たちの皿に分けてやろうとする手を、慌てて三匹が取り押さえた。
「あーっ、待った待った!」
「大将、俺たちもう腹いっぱいで」
「一口も食べられないんだ!」
鴉天狗の双眸がわずかに見開かれる。
「お前たちにも満腹という概念があったのか」
「ご、ごめん……」
「俺たちのわがままを聞いてもらったのに」
小妖怪たちはばつが悪そうに縮こまる。
「朔夜も、もういいのか」
確認され、朔夜は気まずさに打ちひしがれそうな心境で控えめに顎を引いた。
「今からでも注文を取り下げて、これ以上作らないようにお願いしてきます」
朔夜が立ち上がりかけたその時、個室の障子戸が開かれた。女将が朗らかな顔を覗かせる。
「お料理がぜんぶ出来上がりましたんで、まとめてお持ちしました」
卓に乗りきらぬほどの大量の料理が、視界を埋め尽くす。
中腰のまま絶句する朔夜に代わり、襲がにこやかな顔で「ありがとうございます」と女将に礼を言った。
「いやあ、何を頂いても美味なもので、感服しております」
「まあまあ。そんな褒めて頂いてどうしましょうか。そうだ、ほんとは夜にしか出さないんですけど、特別に燗を一本おまけしましょ」
「おや、それはありがたい。催促したつもりは無いんですけどね」
あはははと女将と襲が笑い合う。上機嫌な女将は湯呑に茶を継ぎ足すと、鼻歌まで歌いながら部屋を出ていった。
威圧感すら放っている新たな料理たちに、朔夜と小妖怪たちは戦慄する。
「遅かった……」
「もう全部作っちまったなんて」
「どうしよう」
「お前たち、先ほどから何をそう狼狽えている」
運ばれてきたばかりの索麺の椀を持ち上げ、襲が首を傾けた。
「だ、だって、残したら怒られるじゃんか」
「朔夜と大将が」
「俺たちのせいなのに」
「残さなければいい話だろう」
事も無げに言い、襲は索麺を食べ始めた。無理をしたり意地を張っている様子は少しも見られない。
小妖怪たちは化け物を見るような目で襲を見上げた。
「大将、まだ食えるの」
「食えなければ、端からこれほど頼んだりしない」
早くも空になった索麺の器を脇に寄せ、ぐつぐつ煮立っている猪鍋の蓋を開ける。
「もう食わぬのなら、蒼空への土産を何にするか決めておくのだな」
鴉天狗の言に、三匹はゆっくりと顔を見合わせた。
忘れてた。
「そんな、こんなに頂けませんて」
店を出る間際、女将が上げた驚声に、朔夜と彼女の足元にいる小妖怪たちが揃って振り向いた。
襲が勘定を済ますのを店の入口で待っていたところである。
結局、料理は襲によってきれいに片付けられた。終盤は小妖怪と朔夜が戦力外になったため、同じ料理を二皿ずつ平らげたはずなのだが、顔色一つ変わっていない。
「なんだ、どうした」
女将の声を聞きつけた店主が厨房から出てきた。女将は夫に戸惑い顔を向ける。
「お前さん、見てちょうだい」
そう言って女将が差し示したのは、銭受け用の薄青い平皿である。
その上に山と積まれた銭束を認め、店主のみならず朔夜たちも目を丸くした。
膨大な数の注文をしたとはいえ、明らかに多すぎる。
「お兄いさんが、どうしてもって。こんなに……」
「心ばかりですが、お納めください」
襲が愛想よく店主に笑いかける。しかし、どう見ても「心ばかり」で収まる銭の量ではない。
山盛りの銭に呆気に取られていた店主が、はっと我に返って強く頭を振った。
「いや! お代は品書きに書いてある通りです。お気持ちはありがてえですが、それ以上も以下も頂くわけにゃいきません」
きっぱりと断る店主に対し、襲は笑みを深める。
「まあ、そう仰らず。突然訪れて無理を申し上げたお詫びと、それにも関わらず見事な料理をお作り頂いたことへの謝礼と思ってください」
「いや、しかし……」
店主と女将は互いの顔を見合い、そしてやはり辞退しようと口を開いた。
しかし言葉が発されるより先に襲は店主に一歩近付くと、その肩に手を置いてそっと囁いた。
「これまで一方ならぬ研鑽を積んできたのだろう。召し抱えの声を退けて、その技量を市井の民に供する道を選んだのだな。大した額ではないが、今後に役立ててくれ。……よく、頑張ったな」
その言葉は店主にしか聞こえず、女将はいきなり棒立ちになってしまった夫にきょとんとしている。
「お前さん? どうしたのさ、ちょっと」
女将が腕を揺すると、店主ははっと夢から覚めた顔で我に返った。途端、それまで憮然として崩れることのなかった面持ちが、くしゃりと歪んだ。
女将も、成り行きを見ていた朔夜たちも、突然のことに息をのむ。
店主は頭から鉢巻きにしていた手ぬぐいを外し、強く目元に押し当てた。耳まで赤くなり肩が小刻みに震えているのを見るに、泣いているらしい。
「おっ、俺ぁただ、みんなに美味え飯を食わしてやりたくて……。国中歩き回って、何度も死にかけて。親の死に目も、会えなくて。でも、それでもっ……」
子供のようにしゃくり上げながら語りだした夫に、女将が目を白黒させる。しかしその様子があまりに切実で、口を挟むことができないようだった。ひとまず、背をぽんぽんと叩いてやっている。
店主は大きく鼻をすすった。
「そ、そんな風に言ってくれる人がいるなんて……あの頃の俺に、聞かせてやりてえです……」
女将はわけも分からぬままもらい泣きに目を潤ませ、うんうんと頷く。
「良かったねえ、お前さん」
「ありがとうごぜえます」
鼻声の亭主はごつごつと筋張った両手で襲の手を握り、深く頭を下げた。
「またいつでもお越しくだせえ。もっともっと、腕を磨いときます」
襲は緩やかな笑みとともに、深く頷いた。