霞草かすみそう

春も盛り。穏やかな日が差す午後である。
話に聞くと父とお染は今日親戚の家に出向いていて留守なそうなので、隼人は堂々と庭を歩いて時間を潰していた。
少し後ろを歩くのは、最近知り合ったばかりの奉公人・嵩重たかしげだ。
おかみの厳しい目がないので、使用人たちもここぞとばかりにのんびりしている。
「嵩重、どうだ、少しは慣れたか?」
「へ、へぇ。相変わらず皆さんの視線はきついですが、煉さんや秋雪さんも助けてくれますんで」
「そうか」
隼人は微笑んで庭の池に目をやった。
たくさんの鯉が悠々と泳いでいる。
こうしていると、お染が来る前のように感じられて居心地がいい。
できればもう帰ってこなくていいと、切実に思う。
あちこちに泳ぎ回る鯉を目で追っている隼人を、嵩重は複雑な気持ちで見ている。
隼人の境遇は彼と近しい二人の先輩奉公人から聞いて知っている。
実母が死んで以来、家族からも冷たい扱いを受けて淋しい思いをしてきたのだという。
そのためだろうか。初めて声をかけられたあの日から、自分が会いに行くと隼人は素直に喜んでくれるのだ。
そんなことは今までなかった。
自分の顔を見て喜ぶ人間がいるなど、嵩重には想像もしないことだった。
「隼人さん」
「ん?」
鯉から視線を上げて隼人は嵩重を顧みる。
「あっしも隼人さんの味方ですから」
嵩重の言葉に隼人は目を見開く。
その目はやがて細められ、口元には笑みが浮かんだ。
「ありがとな」
こんな風に礼を言われるのも初めてで、嵩重は思わず下を向いた。
「ああでも、親父やあの女には秘密だぞ」
「へ、へい」
「んじゃ、そろそろ戻って菓子でも食うか!」
隼人は踵を返し、離れまでの道を戻り始めた。
あと少しで離れというところで、ふいに彼は足を止める。
「どうしました?」
不思議に思った嵩重が声をかける。
隼人は道を逸れて庭の隅へ向かうと、そこにある花を眺めた。
「隼人さん、それは……?」
「お袋が植えたんだ。いつの間にか咲いてたな」
隼人の足元には、美しく咲いて風に揺れる草花があった。
庭の隅の本当に小さな領域で、手入れがされてないのか雑草も多い。
それでも元気に今年も咲いてくれたので、隼人は安心した。
しゃがみ込んで雑草を抜き取る。
嵩重も手伝おうとしたが自分の大きな指では花まで潰してしまうかもしれないと思い、そばで見守っているに止まった。
「ごめん、先に戻ってもいいぞ」
「いえ、あっしのことはお構いなく」
隼人の気が済むまで横にいようと思っていた嵩重だが、途中で仕事に呼び出されてしまった。
「済みません、仕事ができたのであっしはこれで…」
「ああ、じゃあまたな」
明るく手を振る少年に頭を下げ、大男は去っていった。
嵩重が行ってしまった後も、隼人は熱心に草抜きを続けていた。

雑草もだいぶ減り、花の見栄えが良くなってきた頃。
一息ついていた隼人の肩をぽんぽんと叩くものがあった。
「ん?」
煉か誰かだろうと思って振り返った隼人は、驚いて言葉を失ってしまった。
「そのお花が好きなの?」
そこにいたのは、小さな子供。
ごくたまにしか見かけないが、知っている顔だ。
「きれいなお花だね。ぼくも好きなんだ」
小太郎こたろうは無邪気に笑って隼人の隣にしゃがむ。
「お前、父さんたちと出かけてたんじゃなかったのか…?」
その問いに小太郎は首を振る。
「今日はおるすばんしてたの。でも、あにうえに会えたからるすばんしててよかった!」
兄上、と隼人は口の中で反芻する。
「俺を兄上なんて呼ぶと、母さんに叱られるぞ」
「どうして?」
きょとんと首を傾げる小太郎に、隼人は思わず苦笑を浮かべた。
何も知らないのなら、こんな小さな子供に深く教えることもない。
それに教えたところで、よくわからないだろう。
しばらくうーんと唸っていた小太郎は、やがてぱっと顔を上げた。
「じゃあお兄ちゃんって呼ぶ!!」
あまり変わっていない。 まあでも兄上よりは砕けた言い方だからマシだろうか。
名前を呼び捨てにさせるのもアレなので、とりあえずはその呼び方でよしとする。
「ねぇお兄ちゃん。 お兄ちゃんは何でいつも部屋にいるの?
ご飯食べるときも、一人だよね。つまらなくないの?」
「え……?それは、つまらない…けど…」
「だったらみんなで一緒に食べようよ!そうだ、ぼくが母上たちに頼んでみる!!」
小さな両手が、隼人の手を握る。
隼人は困ったように笑った。
「ごめん、俺、病気なんだ。皆にうつさないように、部屋にいるんだよ。
だから、一緒にご飯食べたりするのは無理だ」
あえて嘘を言い、納得させる。
いくらお染が憎くても、小太郎にとっては実の母なのだ。面と向かって悪言を言う気にはなれない。
「そうなんだ……」
小太郎は残念そうに俯いた。
あと少しで草抜きも終わる。 隼人は止めていた手を再び動かし始めた。
それを横で見て、小太郎も手をのばす。
「ぼくも手伝っていい?」
「だけど、着物を汚したら叱られるだろう?」
「汚さないようにするから、だいじょうぶだよ」
にっこり笑って小太郎はさっそく小さな雑草を抜き始める。
隼人は温かいものを感じながら、一緒に手入れを進めた。
「母上ね、どうしてなのかな。このお花たちには水をあげないの。
あっちのお花は大事にするのに。だからぼくがこっそり水をあげてるんだよ」
小太郎の言葉に、隼人は目を見開く。
それに気付かずに楽しそうに草を抜いていく子供。
「お兄ちゃんもこのお花が好きなんだね。枯れちゃったら悲しいよね」
安心して、と小太郎は笑う。
お兄ちゃんが病気の間もぼくがちゃんとお世話するから、と。
その言葉が深く心に沁みていく。 目頭が熱くなってきた。
自分は、こんな子供に何をさせているのだろう。
この子は大嫌いな女の子供なのに。
なんでこんなに嬉しいのか。
「お兄ちゃん、だいしょうぶ?どこか痛い?」
隼人の様子に気付いて、小太郎が気遣ってくる。
いいや、と首を振り、隼人は雑草抜きを完了して立ち上がった。
ほっとした様子の小太郎も腰をあげて、「あっ」と思い出したように声をあげる。
「お兄ちゃん、ちょっとここで待ってて」
言うが早いか、小太郎は駆けていく。
その姿は屋敷の門から出て見えなくなってしまった。
一人で行かせて良かったのだろうか。
だが待っていろと言われたので、隼人はそれに従った。
しばらくすると、小太郎が駆け足で戻ってきた。
「はい。これお兄ちゃんにあげる!」
小太郎が差し出した手には、雪のように白い花束が握られていた。
「ぼく、この花も好きなんだ。白くてとってもきれいでしょ?
外に咲いてるんだよ」
呆然としていた隼人は膝をつくとそれを受け取った。
一つの茎に、粉雪のように小さな花が沢山咲いている。
束になったそれは涼しげで、でも暖かみもあって、とても綺麗だった。
「ありがとう、小太郎。大事にするから」
心からの笑顔を向けると、子供も満面の笑みで頷いた。

離れを訪れた煉と秋雪は、文台の上に置かれた小さな花瓶を見て首を傾けた。
「隼人。それは?」
「この花か?小太郎にもらった」
それを聞いて二人は目を剥く。
「小太郎さまが!?」
「ああ。今日わかったんだが、あれはすごぉーく良い子だぞ。
何をどうしたらあの女からあんな子が……」
以外にも隼人が小太郎に好意を持っているので、二人は顔を見合わせる。
「ますます複雑なことになりますね…」
「おかみさんに知れたらまた怒鳴られるぜ」
二人の危惧を知ってか知らずか、儚げな白い花は文台の上で美しく揺れているのだった。

<終>

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