已己巳己いこみき

月夜の事。
一人の少年が、山麓の小さな里の真ん中にはしる道を急ぎ足で帰路についていた。
友人宅で夕餉ゆうげを馳走になった後でつい話し込んでしまい、刻限はすでに深夜をまわっていた。
ひたすら自宅を目指していると、月明かりがちぎれ雲によってかげる。足元が見えなくなり、少し速度を緩めた。
しばらく進んでいた時、ふいに少年は真正面から何かにぶつかった。突然の事に目を白黒させながら、打ち付けた鼻を撫で一歩退がる。
はて、こんなところに壁があったとは思えないが。そう訝りながら、正体を探るように手で感触を確かめる。
ざりざりと木肌のように硬い部分もあれば、指で押せば軽く沈み込む部分もある。いかんとも不思議な感触だった。
ますます眉をひそめていると、頭上でしゅうしゅうと音が生じた。
聞き覚えのない音に何となく嫌なものを感じ、そろそろと視線を上げていく。
暗闇に一対の紅い光が浮いていた。
少年はひくりと息を呑み、そのまま呼吸を忘れて立ちつくす。
雲が流れて、再び月明かりが差し込んだ。
浮遊する二つの赤い光。
一対の、眼光。
その全容を認めた瞬間、少年の喉から絶叫がほとばしった。

早朝から小雨が降り注ぎ、小高い山のふもと全体が霞みがかっている。
ここで雨宿りがてら休憩しようと、犬夜叉一行は小さな里の中心部にある、手頃な広さの茶屋で腰を落ち着けた。
注文した団子と人数分の茶を盆に載せた店主がやってくる。
卓にそれらを置いた後も、店主は何やら言いたげに風変わりな客を眺めていた。
気付いた弥勒が声をかける。
「どうかなされましたか?」
「へぇ、すみません。ご一行様はもしかして、結構腕が立つ方々だったりしませんか」
「まぁ、普通の旅人に比べれば……」
「じゃあ、妖怪退治なんかも?」
「結構いけるというか、日常茶飯事です」
店主の顔が少し輝いて、ぐいと詰め寄ってきた。
「ど、どうか助けて頂けんでしょうか」
「何か困っているの?」
珊瑚の問いかけにうなずく。
「最近、巨大な蛇が現れて里の衆らを脅かしておるのです。最初に出くわしたのがうちのせがれで、それ以来寝込んでしまっていて」
「それは……お気の毒に」
「その後も多くの者が目撃しとります。みんな怖がって、昼間でも畑仕事に出るのが怖ろしいと嘆いておるんです」
店主は拝むように顔の前で手を合わせた。
「大したお礼はできねぇですが、どうか助けてくだせぇ。日照りが続いていたところにやっと雨が降って、助かったと安心していたら今度は蛇神じゃしんたたられるなんて、わしらはもう、どうすればいいか」
「蛇神? 妖怪ではないのですか」
「いや、正直どっちなのか分からんのです。確かにこの先の山ん中にはやしろがあって、そこに蛇神様が祀られてるって言い伝えはあるんです。しかし、何も悪い事なぞしとらんのに、一方的に祟るなんて神じゃねぇと、そう言う者もおりまして。あすこは温泉地でもあるんですが、騒動以来みんな怖がって近付けねぇんですわ」
「なるほど。兎にも角にも、皆さんが共通して見ているのが蛇だと、それは確かなのですね」
「へえ」
「私たちなら、何とかできるかもしれないわね」
かごめの言葉に、犬夜叉がまた始まったと言わんばかりに半眼になった。
「おい、俺たちは七人隊を追ってんだぞ。寄り道してる暇は……」
「じゃあその巨大ヘビは、普段は山の中にんでる可能性が高いのね」
清々しいほどに無視され、犬夜叉の耳がやや垂れる。七宝がなだめるように団子の串を彼の前に置いた。
弥勒は荷物から矢立と半紙を取り出し、何やらすらすらと書きつける。
「ご子息にはこちらを。魔除けの札です。気休めにはなるでしょう」
店主は心底ありがたそうにそれを受け取った。
その後、彼らの卓には大皿に山盛りの団子が振舞われた。
雨は昼過ぎに止み、少し肌寒く感じる程度の風が吹き始めた。
一行は休息を終えると、さっそく件の山に踏み入った。
山は緩い傾斜が続いており、頂上まで登ったとしてもさほどの標高にはならない。しかし緑が深いため昼でも薄暗く、不用意に立ち入れば帰り道がわからなくなりそうな雰囲気だった。
小雨の名残か、薄く霞がかかっている。
「で、どこをどう探すんだ」
「においは辿れない?」
かごめの問いに犬夜叉はしばらく周囲のにおいに注意を払ってみたが、やがて頭を振った。そもそも爬虫類は、人や獣ほどにおいが残らない。その上、雨でわずかな残滓ざんしも流されている。
「そんな巨大な蛇がいるなら、這いずった跡が残ってても良さそうだけど……」
弥勒とともに雲母きららに乗って高い位置から見下ろしながら、珊瑚が呟いた。
確かに、麓からここまで来る間にそのような跡は無かった。草や木が倒れている様子もない。店主が言うには見上げる程の巨大さだという話だったから、不自然ではある。
「不自然といえば……その蛇って、ただ脅かすために現れたのかしら。誰も襲われていないのよね?」
犬夜叉の背の上でかごめが首を傾げる。
「そのようです。実際に怪我をしたとか、食われたという話は聞きませんでしたね」
いったい何がしたいのだろうか。この山には蛇神がまつられているという事だったが、脅かされているだけならば、確かに祟りと呼ぶのは少しおこがましいかもしれない。蛇神にかこつけた悪戯いたずらではないだろうか。
その後も妖気を感じないか確かめてみたり、目についた洞窟を覗いてみたりしたが、一向に巨大蛇の行方は掴めなかった。
何の収穫もないまま、日が傾いていく。
「どうするんじゃ? 里に戻るか」
「今夜また現れるかもしれないし、そうする?」
歩き疲れてくたくたになっている七宝を抱えて珊瑚が仲間を振り向く。
「でも、明日また麓から登ってくるのも大変よね。犬夜叉の言う通り、これに何日もけないし」
かごめの言葉に犬夜叉の耳が反応したのを、かごめ以外の全員が見た。
「今夜はここらで野宿っつーことで良いだろ」
少し機嫌を良くした風情の犬夜叉を筆頭に、一行は今夜の寝床に適しそうな場所を求めて辺りを散策した。深い森が続いているため、もたもたしていればはあっという間に暗くなってしまう。
しばらくしてかごめが歓喜の声を上げて仲間を呼んだ。
「温泉見つけたー!」
かごめの言う通り、木々が開けた場所が現れ、そこにこんこんと湯をたたえた泉があった。白い湯気が立ち込めている。
一行が休息するのに十分な平地もあった。
「へぇ、ずいぶん立派だな。自然にできたもんか?」
「それとなく人の手で整備された跡がありますね。そういえばさっきの店主が、温泉地だと言っていたような」
珊瑚が草木の間に埋もれかけた立札を見つけて読み上げた。
「『玉雫たましずくの湯』だって。えーっと……『参詣の帰りに浸かると疲労回復とともに有難ありがたい運気を授かります。入浴料は賽銭さいせん箱へ。湯の中には投じない事』……」
「ということは、蛇神を祀る社というのは、案外この近くかもしれませんね。今日はもう日も暮れてしまいましたし、詣でるのは明日にしましょう。参詣前になってしまいますが、今夜はありがたく温泉を頂くという事で」
女性陣は喜んで食事の支度に取り掛かり、男性陣はその間に露天風呂を頂こうと泉のほとりへ向かった。

次ページ>