「あ、やっと戻ってきた」
こちらへやってくる犬夜叉を認めて、かごめが顔を上げた。
「犬夜叉、温泉の中で寝てたんだって? 危ないわよ」
「……お、おう」
「夕飯、もう冷めちゃったけど。食べなよ」
珊瑚が焼いた魚を差し出したが、犬夜叉は力なくかぶりを振った。
いまだ現実を受け入れられない犬夜叉──もとい蛮骨。食欲どころではない。
「気分でも悪いの?」
「湯に浸かり過ぎて湯あたりを起こしたんじゃろ。それよりかごめ、おら達も早く風呂に入ろう」
しばらく犬夜叉の様子を心配していたかごめだが、七宝と珊瑚に誘われて温泉に向かって行った。
残された弥勒は、何やら意気消沈している犬夜叉を眺めて首をかしげる。
「何をそう落ち込んでいるんです? さっき殴られた事を気にしてるんですか? あんなのいつもの事でしょう」
蛮骨は弥勒を見やった。そうか、あれはいつもの事なのか。この法師に対する認識がぐるっと変わった。
「お、お前は何ともないのか」
「はい?」
「いや、何でもねぇ」
「さっきからおかしな奴だ。今日はさっさと寝た方が良いのでは?」
言われたとおり、蛮骨は少し離れた木の根元に横になった。
その後かごめたちが何事もなく温泉から戻ってきて、結局誰も犬夜叉の異変に気付くことなく眠りに就いた。
夜半。
蛮骨は気配を殺して立ち上がった。狸寝入りを決め込んでいたが、こんな状況で寝られるわけがない。
とりあえず、最も気になるのは自分の本体の所在である。単純に考えれば、自分の体には犬夜叉が入っているのだろうか。一刻も早くこの胸くその悪い身体から解放されなければ。
改めて周囲の様子を窺う。
今いるこの場所は、七人隊が見つけた温泉と酷似している。あそこからそれほど離れていないのかもしれない。
落ち着いてみると、犬夜叉の身体は随分と周囲の物事を鋭敏に捉えることができるのが分かった。人間の身では聞こえなかったわずかな音が聞こえ、夜目もかなり利く。
ひとまずは事件現場である温泉に戻ってみよう。そう考えて数歩踏み出したとき、背後から声をかけられた。
「犬夜叉……?」
ぎくりと動きを止め、ぎしぎし音が鳴りそうな動作で振り向くとかごめが目元をこすりながら上体を起こしていた。
「どうしたの、こんな夜中に。どっか行くの?」
「お、おう……」
「体調は? 大丈夫?」
「ぜんぜん大丈夫だぜ。心配いらねーよ」
心中で舌打ちをしながらも蛮骨はにっこりと笑って答える。
「そう。…………で、どこに行くの」
かごめの目が奇妙に静かな色をたたえている。
「ど、どこでも良いだろ。その辺散歩してくるだけだ」
「もしかして、桔梗のとこ?」
唐突な問いに、蛮骨は返答に詰まった。
その間を是と取ったのか、かごめの眉がだんだんと吊り上がっていく。しかし蛮骨は気付かない。
「お前には関係ない。さっさと寝とけ」
早く元に戻りたいという焦りのために、ついぶっきらぼうな返答をしてしまう。それが仇となった。
「────おすわり」
かごめがぼそりと呟いた瞬間、叩きつける衝撃に木々が震え、そばで眠っていた珊瑚たちが跳ね起きた。
「な、なに!? 何かあったの?」
一瞬にして警戒態勢に転じた弥勒と珊瑚だが、肩を怒らせているかごめと地面にできた犬夜叉型のくぼみを見て、妙に納得した表情になる。
「なんだ、例の蛇妖怪が襲ってきたのかと思ったよ」
「こんな真夜中に何をやらかしたんじゃ犬夜叉」
迷惑千万といった顔で大きなあくびをしながら七宝が問う。よろよろとくぼみから体を起こした蛮骨は信じられない思いで目をしばたいた。
今のはなんだ。抵抗もクソもなく問答無用で地面に叩きつけられた。
いやそれよりも、こっそり抜け出すつもりが全員起き出してしまった。計画が丸潰れである。
(この女のせいで)
恨みがましい視線をかごめに向けると、目聡くそれを察知したかごめの語気が一段と低くなる。
「なによその目は。行きたきゃどこへでも行けばいいわ。心配して損した。
どうせ温泉が長引いてたのも、桔梗の気配を感じたからなんでしょ」
かごめの言っている意味がさっぱり分からない蛮骨だったが、行って良いと言うのならここでまごついている暇はない。すっくと立ち上がり、きびすを返した。
弥勒たちが何か言いたげな顔をしながらその姿を目で追う。
そのまま歩き続けて、一行からは完全に見えなくなった頃。
「おすわりおすわりおすわりおすわりおすわりおすわりおすわりおすわりぃぃぃ────っ!!!」
ありったけの怒声が山中に響き、それが耳に入った瞬間身体が地面に叩きつけられた。
何度も何度も、有無をいわさず、容赦なく。
「ぐぁっ、ごふっ、ぐぇっ!」
地面に新しく刻まれた犬夜叉形のくぼみがその度に深く深く、みしみしと音を立てる。
蛮骨はただひたすらに、ひしゃげて蛙が潰れたような声を出し続けるだけの物体と成り果てた。
これはもう、耐えられるとか耐えられないの問題ではない。
「まっ、待てっ! わかっ、た! わけを、言う! 言いっ、ますっ、からっ!!」
さすがに命の危険を感じて声を張り上げると、やっと言霊ことだまの連発が止んだ。
「他にどんなわけがあるって言うのよ」
指先を痙攣させながら必死に這い出すと、仁王立ちしたかごめがやけに静かな表情で見下ろしている。
蛮骨はいったい何が悪かったのかさっぱり分からなかったが、何となくそうしなければ殺されるような気がして、彼女の前で正座した。
この女の恐ろしいところは破魔の力くらいだと思っていたが、大きな誤算だった。
「あ……あのですね……」
何とか事情を説明しようと口を開きかけるが、何からどう説明するべきかさっぱり思い浮かばない。そもそも、説明できるほど自分も理解できていないのだから無理もない。
先程からの歯切れの悪い様子に、かごめも何かおかしいと思ったのだろう。
「あんた、本当にどっかおかしいんじゃない?」
ぐっと詰まり、蛮骨は意を決してかごめを見上げた。
「俺は、犬夜叉じゃねえんだ」
その場の空気が固まった。
数秒後、かごめの眉がこれ以上ないほど吊り上り、その背後では爆笑の渦が起こる。
「い、犬夜叉、いくらなんでもそれは……」
「冗談にしても、もう少しマシなのがあるでしょ」
弥勒や珊瑚たちが腹を抱えて笑いこけている。
(ああ、やっぱり信じてもらえない)
さもありなん。
かごめはふるふると小刻みに震え、爆発しそうな怒りのやり場に苦労している様子である。
「ま、待て! 本当なんだ、信じてくれ!」
「ふ、ふふ、ふーん。良いわよ、信じてあげる……じゃあ、あんたはどこの誰だっていうのかしら」
言うべきか一瞬迷ったが、こうなったら野となれ山となれだ。
「俺は、七人隊の蛮骨だ」
今まで笑い飛ばしていた全員が真顔になった。冗談に敵の名を持ち出すのはさすがに不自然だと考えたらしい。
「かごめちゃん、念のため下がって」
反応の仕方に困っていたかごめの前に弥勒と珊瑚が進み出る。
「本当にお前が蛮骨だと、証明してみろ」
「どうすれば証明になるんだ」
弥勒と珊瑚が言葉に詰まった。咄嗟に思いつかないらしい。
と、かごめが提案する。
「三つ編み」
「え?」
「本当に蛮骨なら、髪で三つ編みを作ってみて。犬夜叉はできないわよ」
なるほどと珊瑚たちがうなずく。一方の蛮骨は、そういう事ならと髪を一束すくい上げ、するすると馴れた手つきで編んでいった。
犬夜叉一行は目をみはる。これは普段からやっている速さだ。
腰まである長い髪が、あっという間にきれいに編み込まれてしまった。
「どうだ? これで信じるのか?」
これでは一蹴するわけにもいかない。
「か、仮にあんたが本当に蛮骨だとして。じゃあ、本物の犬夜叉はどこにいるのよ」
「俺も知らねえ。だから捜しに行こうとしてたところで……」
「おすわりの餌食になったというわけじゃな」
七宝の言にうなずいた蛮骨が恨めしげな視線を送ると、かごめはたじろいだ。
「な、なによ。だったら初めからそう言えばいいじゃない。変にこそこそするから……」
「初めから正直に話したとしたら、お前ら信じたかよ」
犬夜叉一行は互いの顔を見合わせ、そりゃあ信じないだろうなぁという顔をする。
「蛮骨が犬夜叉の姿でここにいるなら、犬夜叉は蛮骨の姿で七人隊のもとにいるって事かな」
「俺もそう踏んでいる。この辺は俺らがいた場所の景色に似てるから、あまり離れてねえと思うんだが……」
蛮骨が周囲を見回していると、弥勒が肩をすくめた。
「その耳と鼻を活用すれば良いではないか」
「む。そうか」
その手があった。蛮骨は頭部の犬耳に触ってみる。ふにふにとした触感は紛うことなき犬だった。
「俺らのにおいってどんなだろう」
「骨と墓土のにおいがするって、犬夜叉はいつも言ってるわよ」
「失礼な……」
じとりと目を据わらせながらも、耳を立てて鼻先に意識を集中させてみる。
温泉の硫黄臭さにほとんど紛れているが、遠くの方からかすかに血臭と線香などを混ぜた臭いを感じた。
同時に、犬夜叉からすると自分はこんな臭いなのかとげんなりする。長らく七人塚の底に七人仲良く押し込められていたのだから、無理もないかもしれないが。
元に戻ったあかつきには、もう一度頭から温泉に浸かろうと決心する蛮骨である。
その方角へ歩き出すと、後ろをぞろぞろと犬夜叉一行がついてきた。
「お前らは来なくていい」
仲間の寝込みへ敵を引き連れていくのはさすがにまずいと思い、振り返って追い払う仕草をする。しかしかごめがきっぱりと首を振った。
「そういうわけにはいかないでしょ。犬夜叉が危ない目にあってるかもしれないし!」
「あれの事ですから、蛇骨のそばにいて生きた心地がしないでしょう」
相応の言い分を述べていくる。今はそれにかまけている時間も惜しかった。
「勝手にしろ」
そう告げると、蛮骨は深い森の中へ駆け出した。

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