翌日、まだ暗いうちから行動は開始された。
犬夜叉と睡骨の先導でやしろに辿り着くと、各々は自然とそれぞれの持ち場について整備作業を開始した。
誰ひとり正しい作法など知らなかったが、とりあえず、現状が相当にまずいことだけは誰の目にも明らかだったのだ。
話に聞いて想像していた以上に酷い。木々や蔦に何重にも覆いつくされ、一見するとそこに社があるなどと誰も気付かないだろう。
「里の連中の! 尻拭いを! なんで俺たちが! やらねーと、駄目なんだ!」
「口より! 手を! 動かしやがれ!」
深く生い茂る丈の長い雑草や絡みつく太い蔦、無数に分かれる木の枝を引っこ抜きながら、罵詈雑言が飛び交う。
「……少しは口を慎めというのに、気持ちが全て言葉に出ているではないか」
深々と嘆息しつつ、弥勒は念を込めて澱んだ場の空気を少しずつ浄化していった。
こちらも仏法にのっとっているため、どこまで神に通じるものかわからないが、やらないよりましだろう。大事なのは気持ちだ、と弥勒は思う。
それにしても、あの店主は「何も悪い事なぞしとらんのに」とか言っていなかっただろうか。
どう見てもこれは十分に罰当たりな状態であり、後で里人たちに説教することも視野に入れるべきかもしれない。
「うーん。思ったより穢れてないと思うんだけど」
弥勒とともに木や社に触れて清浄な気を送り込んでいたかごめが言った。
「ええ。本当に危険な祟り神ならばこんなものでは済まないでしょう。近付いただけで体に不調をきたすこともあります。ここのは、大した神格ではないのかもしれません」
「弥勒さま、みんなのこと悪く言えないわよ」
つい本音をこぼす弥勒にかごめが苦笑した。
長らく日が差し込んでいなかったため、空気は凝って澱んでいる。常人が長く触れていれば、負の感情に呑まれるかもしれない。
「お賽銭箱を壊したのって、そういう人なのかしら」
「どうだろ。そっちは単なる盗人の仕業じゃないかな」
行く手をはばむ蔦を手際よく切り落とし、珊瑚が肩をすくめた。
「神社の娘としては、お賽銭箱に悪さするやつって許せないのよね。天罰が下ればいいのに」
「かごめちゃんの言霊で、きっと今ごろ天罰が下ってるよ」
言霊といえば、と、かごめは入れ替わった者たちに目を向ける。
犬夜叉と蛮骨は周辺の倒木などを手作業で片付けながら、互いの体がいかに不便かを応酬しているところだった。
「おめーの体は耳も鼻も効かねぇし本っ当に不便だ!」
「お前の方は効きすぎて気が散る。常に何かが気になってしょうがねぇ」
蛮骨が犬夜叉をじとりと睨んだ。
「大体、『おすわり』だぁ? あの女の言霊に弱すぎんだろ。尻に敷かれまくりじゃねぇか」
「そ、そんなことは……ねぇよ」
その件を言われるとぐうの音もない犬夜叉は、犬のようにぐるると呻るばかりである。
そこへ蛇骨がへろへろとした足取りでやってきた。
「大兄貴ぃー、俺もう疲れた。もう無理。だるい」
「お前だけじゃねぇっての。やる気出せ」
「もう我慢できねぇよ。犬耳触らしてくれよ」
「なんだそんな事か」
犬夜叉が止める間もなく、蛮骨はひょいと頭を差し出して耳を触らせてしまう。
今に蛇骨が引きちぎって懐に収めるのではないかと、犬夜叉は気が気でない。
「て、てめえ蛮骨!」
「良いじゃねぇかよ、減るもんじゃなし」
「減る可能性もあるだろうが!!」
「はあ?」
二人のやり取りをよそに犬耳を堪能していた蛇骨は恍惚こうこつの表情で空を仰ぐ。
「ああ至福……。犬夜叉の耳に堂々と触れる日が来るなんて……俺、大兄貴が一生そのままでも良いかも」
「殴られてぇのか。もういいだろ」
蛮骨は頭を振り払って蛇骨の手をのけ、蛇骨は名残惜しそうに指をくわえる。
地道に素手で蔦をちぎる犬夜叉を見て蛮骨が眉をひそめた。
「それよりお前、蛮竜を使えばいいだろ。いや、お前に使われるのはかなり嫌だが、そんなちんたらやっててもらちが明かねぇ」
犬夜叉が肩越しに振り返って小さく呟いた。
「…………てな……た」
「あ? なんだって?」
「持てなかったんだよ! なぜか!」
蛮骨はぽかんと口を開けて片眉を上げた。
「うっそだろお前。俺の身体なのに」
「嘘じゃねぇ! 持ち上げようにもうんともすんとも動かねぇんだ」
蛮骨が訝しげな眼差しを犬夜叉に向けている。まるで己が非力だと言われているようで、犬夜叉はむきになって言いつのった。
「おめぇも鉄砕牙を抜いてみろよ。変化するか?」
蛮骨は言われたとおり腰に差した刀を抜いてみる。ぼろぼろの刀身が現れ、その後とくに変化は生じなかった。
「中身が違うと少なからず影響は出てるってことか」
鉄砕牙を鞘に納め、蛮骨は犬夜叉に視線を戻す。
「で、持てない蛮竜をどうしたんだよ」
「あ? そりゃお前、引きずって」
目にも留まらぬ速さで胸倉をつかまれて、犬夜叉の口からぐえっと声が漏れた。
何やら壮絶な舌戦が繰り広げられ始めた彼らを遠目に眺めていたかごめは、ほうと息を吐いた。
「何だかんだ、仲が良いわねあの二人」
「ですな」
社を囲む清めの最後の一つを織り成して、弥勒が首肯した。
楔として地面に突き立てた錫杖に二人で気を送り込み、拍手を打って最後の仕上げとする。
「このお社もかわいそうだね。温泉には人が来てそうなのに、放っておかれて」
後ろから見守っていた珊瑚がつぶやいた。本当に神の祟りがあったとしても自業自得だろうと思えてしまう。
「それでも助けてくれと言われれば、無下むげにするわけにもいかない。さてと。外が終わったら、次は中身ですね」
失礼致しますと断わり、弥勒が社の正面扉を開けた。
中は人がひとり立てばいっぱいになってしまう程度の広さしかなく、中央には枯れたさかきの葉に挟まれる形で御神体が祀られている。
「わぁ、きれい」
弥勒の横からかごめが内部を覗き込み、そこにある蛇の抜け殻を見て感嘆の声を上げた。
抜け殻は埃っぽくくすんでいるが、差し込む光をわずかに反射して七色の光沢を見せている。
そこからは特に神気を感じないが、邪気も放たれてはいなかった。
社の中も一通り拭き清め、榊を差し替え、即席の供物くもつを供えて扉を元通り閉じる。
その頃には周囲の雑草や蔓草も一掃され、こざっぱりと明るい空間に様変わりしていた。
「こんなものでしょう」
「みんなー、集まって!」
呼び声に応えて犬夜叉と七人隊たちが社前に集まる。ちょうどその時、別行動をしていた煉骨がやってきた。脇に砲筒を抱えている。
「見違えたな。こっちも今しがた完成した」
弥勒が先頭に立ち、その後ろに二組の集団がずらりと並んだ。
「私もこちらの作法はうといのですが、まあ、基本はこうでしょう」
二拝 二拍手 一拝。
弥勒に続いて、かごめたち、七人隊も同じ動作をする。
「皆、心を一つに。願うのです」
「…………」
しばらく間を置いて一人、また一人と顔を上げるが、これといった変化は感じられない。蛇が現れる気配も無い。
「大兄貴、元に戻ったか?」
睡骨に問われ、犬夜叉の姿をした蛮骨が頭を振った。誰からともなくため息が漏れる。
「んだよ、骨折り損かよ! 柄にも無く拝んでやったてぇのに」
蛇骨がわめく横で、煉骨が砲筒を軽く叩いた。
「ふっ、こいつの出番か」
「あんまり使いたくなかったけどね」
珊瑚が仕方なさそうに頷いた。
全員がそろそろと風上に移動した。温泉を正面に据え、煉骨が砲筒を肩に乗せ、構える。
重い轟音が木々の葉を揺らした。
中空へと緩やかに放たれた弾が、放物線の頂点に達した位置で爆発した。爆風とともに中心から細かな粉塵ふんじんが飛び出し、拡散して温泉一帯に降り注ぐ。
充分に距離をとりながらも念のため口と鼻を押さえていた一同は、見た。
先ほどまで何も無かった空中に、陽炎のように揺らめいている部分がある。陽炎はその範囲を徐々に拡大しながら、白く色づいていった。
「あれが蛇神様……!?」
かごめが叫ぶと同時に、皆が得物を構えた。一対の赤い光が白い陽炎の中心を漂っている。
次の瞬間、凄まじい咆哮が轟き、周囲の空気をびりびりと震わせた。
立ち込める湯気が吹き飛ばされ、眼前に長大な蛇身が姿を現した。
『おのれ……愚かな…人間ども…、許さぬぞ!』
「毒が効いてる。痺れて動きが制限されてるはずだ」
冷静に蛇の様子を観察しながら珊瑚が言った。
ならば一息に仕留めてしまおうと、四方から踊りかかる。
だが、得物が蛇に届くかという直前、全員が見えない何かに阻まれた。火花が飛び散り、迫り来る力をはじき返す。
「ちっ、結界みてぇなモンを張ってやがる」
体勢をととのえ、睡骨が吐き捨てた。
「どうする、もう一度いくか」
「ちょっと待って、ちゃんと話をすれば、聞いてくれないかしら」
かごめの提案に睡骨たち七人隊の面々は怪訝な顔をした。
「無理じゃねぇか。そこそこ強力な麻痺まひ毒をぶちこんだ後だしよ」
「仏様も阿修羅になる諸行だよな。俺なら一生許さねぇ」
「う……それは、そうだけど……」
言葉に詰まるかごめに犬夜叉が助け船を出した。
「良いじゃねえか、やれるこたぁ何でもやっといた方が」
「まぁ……倒した後でああすれば良かったっつっても遅せぇしな」
蛮骨も同意する。
倒せば確実に元に戻るのだという保証も無い。問答無用で殺してしまって、それこそ取り返しがつかなくなった場合を考えると空恐ろしい。
大兄貴が言うならばと、七人隊はひとまず引き下がった。
しゅうしゅうと唸りを上げる大蛇のもとへかごめが歩み寄る。数歩後ろに犬夜叉と蛮骨が続く。
「蛇神さま、いきなり攻撃してごめんなさい! 私たち、ふもとに住む人たちから話を聞いてここへ来たんです」
蛇は三人を睨みつけて真っ赤な舌を出し入れしたが、麻痺毒がまわってそれ以上の行動はできないようだった。しかし、それも恐らくそう長くは持つまい。
『知っておるわ。彼奴きゃつらめ、これまでの恩も忘れて社を野ざらしにした挙句、我を退治せよと貴様らに頼みおったのだ』
「あの状態を見て、私たちも酷いと思ったわ! 里の人たちにはきつくお説教しておくから、今回は許してもらえませんか……!」
『だまれ小娘! 我の無念を知ってなお、なぜ彼奴らに味方するのだ』
「俺達はとばっちりでこうなってるからだよ。入れ替えるんなら、恨みのある連中にやってくれ!」
蛮骨が怒鳴った。横で犬夜叉もはげしく頷いている。
『金に目がくらんで身の程をわきまえぬ罰が当たったのだ。一生そのままでいるが良い!』
「おい、こいつやっぱり話しても無駄だ。動けねぇうちに殺っちまおう」
「俺もその方が良いと思う」
蛮骨と犬夜叉がじとりとかごめに視線を向ける。かごめは一瞬たじろいだが、めげずに蛇へ言い募った。
「わたしの家も神社なの! だから、あんな扱いされて里の人たちをぶん殴りたいくらいムカついてるのも、よーく分かる!」
だけれど。
「それでも今まで驚かす程度で終わらせてたのは、あの人たちに改心して欲しかったからじゃないの? 本当はまだ信じていたいって気持ちがあるんでしょう?」
蛇のひとみに一瞬の揺れが生じた気がした。だがすぐに、くわっとあぎとを開く。
『そのような絵空事、とうの昔に消え失せたわ。彼奴らの信心が尽きたのであれば、こちらの加護が無くなるも道理ではないか』
蛇神の哄笑が響いた。
気付けば、麻痺毒の効果が薄まり蛇の体躯がうねり始めている。
「おい、これ以上は待てねぇぞ」
蛮骨が低く唸り、腰の鉄砕牙を抜き放った。隣で犬夜叉が目を剥く。
「せやっ、とうっ、……あーくそっ、なんだこのオンボロ刀」
振れども振れども変化しない鉄砕牙を見てうんざりする蛮骨。犬夜叉はその手から刀をもぎ取ろうと身を乗り出す。
「てめぇ、さっき試しただろうが!気安く触ってんじゃねえ!」
「これしか無えんだから仕方ねえだろ! さっさと大きくなりやがれ、この、この!」
刀をぶんぶん振り回す蛮骨と、それを取り返そうとぎゃあぎゃあ騒ぎ立てる犬夜叉。
背中でそれを聞いているかごめのこめかみに青筋が立った。
「うっっるさーーーーい! おすわり!!」
かごめがぐわっと振り向き、大声で叫んだ。
とたんに蛮骨と、なぜか念珠を身につけていないはずの犬夜叉までもが地面に叩きつけられた。
――温泉のほとりの岩場だったために、顎に多大なる衝撃を受けながら。
しばらく再起不能に陥った二人を捨て置き、かごめはいささか身を引いている大蛇に向き直る。
「蛇神さま、里の人たちへの復讐はどうぞ、したければしてください。この二人を元に戻してくれればもう何も言いません」
一変して据わった声になったかごめに、蛇も身の危険を感じたようだった。
『な、ならぬ! この我が人間ごときの指図を受けてたまるか!!』
蛇はぐっと巨体を持ち上げると、口からしゅーっと煙を吐き出した。すんでのところで雲母きららが駆け寄りかごめを離脱させる。
「犬夜叉!」
「大兄貴!」
仲間達が叫ぶも、目を回して再起不能だった二人はそのまま煙に呑まれてしまった。
「あああああどうすんだよ! 女ァ、てめえが悠長にしてっから!!」
蛇骨が頭を抱えて叫ぶ中、周囲はどんどん煙に包まれ、やがて蛇神の姿も、仲間たちの姿も見えなくなる。
「し、仕方ないでしょ! そんなこと言ってる暇があったら、この煙どうにかしなさいよ!」
どこかからかごめの声が響くが、もはやその姿は見えない。
煙はどんどん濃さを増し、一寸先も判別できない状態だ。
と、弥勒の前に煙をかき分けて珊瑚が現れた。
「珊瑚」
ひとまず安堵の息を吐いた弥勒に、珊瑚が感情の見えない視線を向けた。
瞬時に異変を察知して弥勒が飛び退ると、今までいた場所に飛来骨を叩きつけられる。
「蛇神に操られているのか……?」
考える間もなく珊瑚が肉迫し、腰の刀を抜いた。錫杖で受け止めた衝撃で数歩下がると、背中に誰かがぶつかってきた。
「わっ、誰だよ危ねーな!!」
「蛇骨か」
「その声は色坊主かよ。煙ン中でどさくさにまぎれてアレコレしてやりてぇ所だが、それどころじゃねぇんだ」
「前半は聞かなかったことにします。もしや、そちらも誰かと交戦中ですか」
「睡骨の野郎がいきなり襲い掛かってきやがった。次現れたらとっ捕まえてなますにしてやる……!」
「それはお好きにして下さって構いませんが、この視界不良の中で蛇骨刀を振り回されては危なくて仕方ない。
まずはこの煙から脱した方が良いでしょう」
珊瑚の切りつける刀を的確に弾きながら弥勒が肩越しに言うと、蛇骨はちっと舌打ちした。
「間違って大兄貴たちに当たっちまったら後で何言われるかわかんねーし……しょうがねぇ」
特に合わせたわけではないが、弥勒と蛇骨は息を揃えたように駆け出した。
方向感覚は狂っているが、とにかく煙が薄そうな方、温泉から離れる方向へ一直線に駆け抜ける。
視界が徐々に晴れてきたかと思われた刹那、横合いから睡骨が飛び出してきた。
「だああ! びっくりさせんじゃねぇ馬鹿野郎!!!!」
急に止まれずに疾走の勢いのまま何とか飛び上がった蛇骨は、そのまま睡骨の顔面に着地して力の限り蹴りつけた。
「なんて容赦の無い」
睡骨は顔面を押さえてうずくまっている。いっそ哀れみを感じる弥勒の視界に、追いついてきた珊瑚が映った。
珊瑚は睡骨の傍らで立ち止まると、叱咤するように声にならない唸りを上げる。
睡骨が立ち上がり、二人は弥勒と蛇骨を睥睨へいげいした。その瞳孔どうこうが蛇のように縦に裂け、口がだんだんと左右に広がっていく。
「え、なんだあれ。気持ち悪っ!」
さすがに寒気を覚えた蛇骨たちが構えた瞬間、珊瑚と睡骨の身体が膨れ上がり、内側から爆発するように霧散した。
同時に彼らの身体から無数の蛇が躍り出、四方から群がる。
「おわーーーーっ!!!!」
蛇骨が絶叫し、弥勒は咄嗟に風穴を解放した。
襲い来る蛇が次々と手のひらに吸い込まれて消えていく。
どれだけの時間がかかったのか分からないが、あらかた吸い込み終えて風穴を封じると、後には睡骨と珊瑚だったものの残骸が残っていた。
木の枝に蛇の抜け殻が絡みつき、頼りなく風に揺れている。
「本物の二人ではなかったようだ……」
弥勒は安堵の息を吐きながら腕の具合を確かめた。毒蛇ならばまずいと思ったが、どうやらその心配はないようだ。
「ちっ、偽者かよ。どうりでいつにも増して話が通じねぇと思ったぜ」
弥勒は偽者だと薄々感づいていたのだが、蛇骨は今初めて分かったらしい。となると先ほどの蹴りは本人と認識した上での所業になるのだが。
「……とにかく、もうすぐ煙から抜け出せるはず。急ぎましょう」
弥勒がうながし、二人は再び駆け出した。

白く立ち込める煙の中を、かごめは必死に駆け続けた。
背後からはなぜか犬夜叉が追いかけてくる。
放たれた爪による一撃が、かごめが一瞬前にいた地面をえぐるのが視界に入る。
「ちょっ……、いい加減にしなさいよ! おすわり!!」
しかし、どこか彼方から衝撃音が響いただけで背後の犬夜叉には全く効果が無かった。
呼びかけに答える様子も無い。
おかしい、とかごめは肩越しに振り返る。
「あんた、犬夜叉なの、それとも蛮骨!?」
声を張り上げて誰何すいかするが、やはり答えは返らない。
息を切らせて前後不覚な煙の中を疾走する。突如現れる立ち木にぶつかり、木の根に足を取られながら前へ前へと這うように進む。
このままではいずれ追いつかれる。いや。
「犬夜叉ならとっくに追いついてるはず……」
後ろを振り返ると犬夜叉が牙を剥いて迫ってきた。さっきから爪や牙の攻撃を繰り出すばかりで、そういえば刀を抜いていない。
わざわざ追いかけずとも、風の傷を放てば済むことなのに。
「あんた、犬夜叉じゃないわね」
そしておそらく蛮骨でもない。そう結論付けてかごめは弓矢を構えた。
立ち昇る霊力を感じ取ったのか、犬夜叉の姿をした何かが警戒の色を見せる。
「もし万が一本人だったら、ごめん!!」
叫ぶと同時に引き絞った矢を放つ。光の軌跡を伴った矢が一直線に犬夜叉の胸へ突き立った瞬間、破裂音のような音とともに彼の姿が霧散した。
「わっ!」
目元をかばうように手をかざして、かごめは衝撃をやり過ごす。数秒後にそろそろと手を退けてみると、そこには誰もいなかった。
彼がいた場所へ駆け寄る。するとそこには木の枝に何かが絡みついたものが落ちていた。
「これ……蛇の抜け殻」
「おい」
「わぁっ!?」
横から突然声をかけられ、かごめは心臓が口から飛び出るほど驚いた。声の主を見てさらに驚愕する。
「ひぇ、また犬夜叉!? 今度はなに!?」
「犬夜叉じゃねぇ、俺だ」
「あ、蛮骨? はー良かった」
ひとまず安堵するかごめに、蛮骨は目を据わらせる。
「俺は交戦中、いきなり言霊を使われて顔から地面にめり込んだんだが」
「あ、さっきの音ってそういう……あ、あれは緊急事態で」
「それか」
蛮骨が指差すのは枝と抜け殻だ。かごめは頷いた。
「俺も同じものに襲撃を受けた。そいつは煉骨の姿をしてたんだが、お前の霊力が弾けたのと同時に掻き消えたな」
「えっ、そんな広範囲に破魔矢の影響が?」
かごめは驚いて周囲を見回す。
「ああ。見たところ煙も薄まってるみてぇだし、あと数回放てば晴らせるんじゃねぇか」
「やってみる」
かごめは再び矢を番え、集中して霊力を込めると立て続けに三回、方向を変えて射た。
矢が通り抜けた軌跡を中心に煙が消失していく。
しばらくすると、ほとんど視界に影響がない程度まで煙が薄まった。
これならば散り散りになった仲間に合流するのも難しくないだろう。
「かごめー!」
「あ、本物の犬夜叉」
一番に駆けつけた犬夜叉(蛮骨の姿をしている)は、かごめに詰め寄った。
「怪我はねぇか!?」
「もー大変だったんだから。あんたの姿した化け物に追いかけられて」
「悪い、気ぃ失ってる間に何が何だか」
そもそもなぜ犬夜叉が気を失ったのかを思い出し、かごめは目を泳がせた。
「あー……うん、とりあえず大丈夫だったから気にしないで」
全員が集まるのに、さほど時間はかからなかった。
皆は口々に誰に襲われたかを話し、その正体についても全員が「木の枝に抜け殻を絡めたもの」で一致していた。
「蛇神の術ですね。煙の中が効果範囲だったのでしょう」
「本体は騒ぎに乗じて逃げちまっただろうよ」
弥勒に続いて煉骨が言った。
念のためもとの温泉の場所まで戻ってみたが、やはりあの巨体はどこにも見当たらなかった。
「くそ、夜鍋して毒弾を仕上げたってのに」
煉骨が忌々いまいましげにごちる。
温泉の周囲は何事も無かったように静けさを取り戻している。先ほどまで長大な蛇が鎌首をもたげていたとは信じられないくらいだ。
「幻でも見てたような気分だぜ。あんなでっけぇのが、ひょいひょい現れたり消えたりできるもんか?」
睡骨が呟きながら周囲をうかがっていると、ふいに足元を何かが過ぎった気がした。
見ると小さな白い蛇が忍び足で通り過ぎていくところである。
「さっきの蛇の手下かもしれねぇ」
言うが早いか、蛇の行く手目掛けて爪を突き立てた。
鼻先すれすれを鋭い刃物に塞がれ、蛇は固まって爪に映る己を凝視している。
「でかした睡骨」
蛮骨が固まっている蛇の後頭部をつかみ、持ち上げる。蛇は慌てて身をくねらせたが、もう遅い。
『やめぬか、この、無礼者!』
「ん? 何か喋ったぞ」
蛇がくわりと口を開いて、そこから甲高い声が発せられる。
『きさま、今すぐその手を退けろ!さもなくばたたるぞ!』
皆は顔を見合わせた。
「あの……もしかして、さっきの蛇神?」
珊瑚が胡乱うろんげな様子を隠しもせずに問うた。
『無礼者! 無礼者! 放さぬかぁ!』
「うそ、こんなに可愛いのが?」
目をきらきらさせて、かごめが蛇を覗き込む。手のひらに収まるほど小さな白い胴体に、つぶらな瞳が何とも愛くるしい。
『我を怒らせたら怖いのだぞ! 末代まで祟るぞ!』
きぃきぃと喚く蛇に辟易へきえきしながら蛮骨は半眼になった。
「俺たち、こんなのに振り回されてたのか?」
『こんなの!? こんなのと申したか貴様!』
白蛇が頭を押さえられたまま空中でくねくねともがく。なんらの抵抗にもなっていないのが悲しい。
「やかましいな。とりあえずこれに入れとこう」
煉骨が中を空にした葛篭つづらを差し出して、中に蛇を入れた後、蓋を閉じた。
『わぁ! 罰当たりめ! 出せーー!!』
葛篭の中からくぐもった声が怒鳴りつける。
「先ほどのように大きくなれば、そんな葛篭など簡単に壊れるでしょうに。さっきので力を使い果たしたという事でしょうか」
と言いつつ、封じの札を蓋に貼り付ける弥勒。
葛篭の中からはその後も蛇の暴れまわる音や怒声が響いていたが、どうにもならないと悟ったものか、やがて大人しくなった。
「落ち着いた? 蛇神様」
かごめがしゃがみ込んで葛篭に問いかける。
ややあって、中からしょぼくれた声が返った。
『……もうよい。我はもう疲れた。煮るなり焼くなり、好きにするがいい』
「おらは焼いた方が旨いと思う」
よだれを垂らしかける七宝を「まあまあ」とかごめがなだめる。
「まずはちゃんと話をしましょうよ。きれいになったお社、見た?」
葛篭からは無言の返答があり、蛇がまだ現場を見ていないことが伝わった。
葛篭を抱えて社に向かい、蓋を少しだけ開ける。いつまた変化しても応戦できるように、皆が得物を握り締めた。
蓋の隙間から蛇が顔を覗かせ、外を見た。
『これは……きさまらがやったというのか』
あれほど生え放題の伸び放題になっていた草木はきれいに刈られ、暗く澱んでいた空気を払うように陽光が差し込んでいる。
さすがに朽ちかけた鳥居や社を建て直すまでには至っていないが、それでも以前の惨状を知っていれば天と地の差だ。
「蛇神様を退治すれば万事解決、と思ってるなら、わざわざこんな事しないでしょ。少しは私たちのこと、信じてくれないかしら」
と、蛇神の身体がぶるぶると震えだした。
「なんだ? また変化する気か!?」
一同が身構えるが、弥勒が手をかざして大丈夫だと制する。
『わ、我は……我は……!』
打ち震えながら言葉を紡ぐ蛇のつぶらな瞳からは、滂沱ぼうだの涙がぼとぼと落ちていた。
『我は忘れてほしくなかっただけで……なのに、退治するとか……言うから』

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