どれほど走り続けたものか、はっと我に返った時には再び森の中にいた。
もう誰も追いかけてきていない。ようやく足を止めた瞬間、どっと汗が吹き出した。
「あっ、ふ、札っ……」
よもや落としてはいないかと衣内を探りかけ、まだ右手に握り締めたままであったことに気付く。肺が空になるほど息を吐き出した。もう一度取りに戻る事態だけは回避できて、心の底から安堵する。
この先何があっても落とさぬよう、札を懐深くしまい込んだ。かなり乱暴に振り回して走ってしまったが、提灯も灯も無事だった。
「あとどのくらいあるんだ……」
折れる寸前の心を抱え、暗い森の一本道をとぼとぼ辿り始める。
樹々が鬱蒼と生い茂り、今までの道のりに比しても格段に暗い。一歩進むごとに闇が色濃く、重くなっていくような気さえする。人里から目と鼻の先だというのを疑いたくなるほどだ。どこまでも果てしなくこの森が続いていて、その中にただ一人自分だけが彷徨っているようだった。
「だだ…だめだだめだ。何か別の事を考えなければ……そ、そうだ薬草。もうすぐ切れそうなのは、あーあーあー…ええと――」
いつもならぱっと出てくるはずの薬草の名前がさっぱり引き出せず、気を紛らわすつもりが逆に不安を掻き立ててしまった時。
ぴちゃん、
頬をぬるい水気が打った。
「え、雨か…?」
濡れた頬に手をやれば、水よりも粘ついた液体だった。指先に黒いような、赤いような色が付着している。鉄に似た臭いが鼻腔を刺激する。
「ん……?」
不審に眉を寄せ顔を上向けたのと、顔面をさらりとした何かが撫でたのは同時だった。それが己の上を覆いつくす枝葉から垂れてきた、長い長い漆黒の
「髪の、毛」
だと気付くと同時に、睡骨の両目は中空でにたりと嗤う白い顔に釘付けになる。
「……」
宙に能面じみた顔が貼りつき、睡骨を見下ろしていた。耳まで裂けた口からだらだらと赤いものが下顎まで伝っている。それが雨のように睡骨の上へと振り落ちている。
瞬きひとつせぬ笑みは視線の無い瞳で睡骨を見据えたまま、ゆっくりと降下してきた。
口が蛇のごとく開いていき、人間の頭部など難なく収まるほどに顎が裂ける。真っ赤な口蓋からどす黒い雫がばたばたと落ちて、
「――――」
次の瞬間、睡骨はほとんど発作的に手中のものを天高く放り投げていた。化け物にぶつけるつもりだったわけではない。ただ、放り投げていた。
あ、と思った時にはとんでもない方向へ飛んでいった提灯がくるくると回転しながら落下し、その途中で火が消え闇に呑まれた。ばさっ、と茂みに落ちた音だけが届く。
口を開けて立ち尽くす睡骨が現状を認識するよりも早く、頬にまといついていた髪の感触はするすると離れていった。
どこからともなく、きゃらきゃらと子供の声のような微かな嗤声が湧いた。それらが再び吸い込まれるように闇の果てへ遠のいた後にはただ、耳の痛くなるような静けさと底知れぬ深い闇だけが取り残された。
「あ…………え、うそ」
理性が戻ってくると同時に、睡骨は盛大に泡を喰った。
あまりに暗くて己の手すら定かに見えない。とにかく提灯を回収せねばと飛んでいった方向へ当たりをつけ手探りで前進するも、早々に木のみきか何かに衝突してしまう。
「うっ」
二、三歩たたらを踏んでまた別の木にぶつかる。そうしているうち、一体どちらから進んで来たかすらもはっきりしなくなった。
手も足も出なくなった睡骨は、せめてぶつかった木だけは見失わぬようにと背中を貼り付けていたが、やがて幹に沿ってずるずると座り込んだ。我ながら情けないが、膝が笑って力が入らない。
四方も上下も墨で塗りつぶしたが如き暗闇に平衡感覚すら奪われる。夜の森とは、かくも暗いものだっただろうか。
灯りの消失が音までも持っていってしまったかのように、虫の声ひとつない静寂が辺りを支配していた。ただひとつ、己の鼓動だけが耳の奥でうるさい。夏の盛りだというのに足元から悪寒が上ってくる心地がして、無意識に体をさする。
怖ろしくて心細くて、孤独感が忍び寄る。これではもう一人の自分に追いやられ、内に囚われている時と変わらない。
「どうすれば……」
ここまで何とか絶えてきたがもう無理だと、縮み上がった心が悲鳴を上げている。唯一の頼みの綱だった灯りが無くては、もはやお手上げだ。
辞退するしかない。初めから、そうしていればよかった。
さっきのあれも今のそれも村人が扮したものなのだから、声の届く範囲に誰かしらいるはずだ。降参しますと叫べば、さすがに救出してくれるだろう。その姿はあまりにも情けないが、もう自分ではどうにもならないのだから、致し方ないではないか。
「睡骨?」
出し抜けに闇の中から呼ばれ、睡骨は座ったまま飛び上がった。その反動で硬直していた総身が熱を取り戻し、ぎしぎしと油の切れた銀骨のような音をさせながら、首だけを声の方へ向ける。
直後、暗闇に慣れた目には痛いほどの光が瞳孔をいた。
反射的に目を細めた一瞬で光はぼんやりとしたものに変じ、像を結んで周囲の光景を睡骨に提供する。それは先ほどまで自分が携えていたのと同じ、提灯の灯だった。
さらにその向こうにある姿を認め、睡骨はあんぐりと口を開いたまま固まった。
「ば――蛮骨さん!?」
仄かな円を描く灯明に浮かび上がっているのは他ならぬ、七人隊首領である。
口を鯉のようにぱくつかせる睡骨を、蛮骨の形容しがたい生ぬるい瞳が見下ろした。
「まだこんなとこにいたのか」
「えっ? あ、その……」
明かりも持たず座り込む睡骨の体たらくから大方の状況を察したらしく、蛮骨は軽く息をつくと無言で手を差し伸べてきた。戸惑いながらもその手を掴めば勢いよく引き上げられ、難なく立ち上がる事ができた。
「う……」
地面を踏めるだけの足の力が戻ったことに、睡骨はなんだか感極まりそうになりながら蛮骨に向き合う。己がこんな状況に身を投じる羽目になったそもそもの元凶は彼なのだが、今は救世主にも見えた。元凶には違いないが。
「……なんか、やつれたな」
己より高い位置になった睡骨の顔に提灯を寄せて覗き込んでくる蛮骨はというと、最後に別れた時といささかも変わりなくけろりとしている。ここに来るまで同じ目に遭ってきただろうに、勝手知ったる道を散歩しているだけだとでもいうようなたたずまいだ。
この短時間でどれだけ寿命を削ったか分からない睡骨は、少なからぬ不公平感を呑み込み両足に力を入れ直した。どうにか再び歩き出せそうだ。
途中で幾度も全力疾走しているし、おそらくその過程でいくつかの仕掛けを素通りしてきた。にも関わらず、それなりの時間を置いてから出発しているはずの蛮骨にこうして追いつかれているということは、相当長くここでうずくまっていたのだろう。
いたたまれずにいると、蛮骨が提灯の持ち手を押し付けてきた。お前が持てという意を察し素直に受け取る。
「男二人でってのは規則違反なんだろうが、合流しちまったもんはしょうがねえ。さっさと行くぞ」
言うが早いかずんずん遠ざかっていく蛮骨の背を、睡骨は右手と右足を同時に出しながら必死に追いかけた。
「ま、待ってください」
蛮骨の衣が白いおかげで視認できているが、ともすれば木々の深いかげりに紛れて見失いかねない。明かりを持っている睡骨の方が遅れているというのに、彼は気にした風もなく真っ暗な中をすいすい進んでいってしまう。夜目が利くにしても妖怪顔負けではないか。
歩幅は睡骨の方が大きいにも関わらず、蛮骨との距離はあれよという間に離れてしまった。これではまた独りになってしまう。睡骨は焦りを滲ませて足を速めた。
すると、かなり遠くまで行ってしまった蛮骨が、やにわに立ち止まりこちらを振り向いた。あからさまに面倒そうな態度で腕を組んでいるが、どうやら睡骨が追い付くまで待つくらいの情けはあるようだ。
彼の佇む辺りは木立がまばらになっていた。木漏れた月光が少年の姿を照らし出している。
待たせてはならぬと懸命に足を動かす。小走りを速めつつ、もう少し遠くまで照らせないかと提灯を掲げ、
「……?」
視界を何か白いものが掠めた気がして、思わずそちらへ目を向けた。
真っ黒な輪郭を重ね連なる木々の狭間はざま
白い何かが
いた。
人だった。白い襦袢姿の人間が、光の届かぬ暗がりにぽつりと立ち、じっとこちらを見ている。
「っ――」
一瞬にして全身が総毛立った。
墨で塗りつぶしたような黒の中、いやにはっきりと浮かび上がる青白い肌と、白い着物。長い前髪で表情は隠れている。背丈と体の線から見ておそらく女性であろうことだけが、かろうじて察せられる。
あれは――なんだ。
ごくりと唾を飲み込んだ。喉がからからに渇いている。
提灯の明かりが激しく揺れているのは、どうしようもなく手ががたがたと震えているからだ。
なんだこれは。

――――あ。

こわい。

その言葉だけがぽっかりと浮かんだ。
声が出ない。
白い女はこちらを向いたまま立ち尽くしている。ただじっと、木の陰から半身を覗かせ、こちらを──睡骨を、見ている。
視線を引き寄せられたまま、外すことができない。
「早く来い」
ふいに蛮骨の呼び声がして、睡骨ははっと瞬いた。まぶたで視線が断ち切れる。白い影は──もういない。
思い出したように浅く早い呼吸をしながらのろのろと首を巡らせれば、蛮骨は先と同じ場所でまだこちらを向いていた。臆病な弟分が追いつくのを辛抱強く待っている。
何かを思うより早く、睡骨はその場から離れた。蛮骨のいる場所へ、無言で走り出す。もう一度女のいた場所に視線を戻す勇気はなかった。
「なに道草食ってんだ、さっさと行くぞ」
蛮骨の呆れたような声が届く。
「い――」
声が引きっていた。息を吸い直す。
「いま――、行きます」
喉から言葉がこぼれた途端、激しい手の震えはようやく治まった。
手のひらはびっしょりと汗ばんでいた。提灯を取り落とさぬよう、袖口に拭いつける。
――今のは。
幽霊、を、模した扮装。
少し落ち着いて、扮装だと理解できてもなお、背筋をぞわりと悪寒が這い上る。瞼の裏にまだ白い影が残っている気がして、振り払うように頭を振った。
何もしてこなかった。奇声を上げたり追いかけてくるような今までの化け物に対し、拍子抜けするほど淡泊だった。なのに、襟元からゆっくりと氷塊を滑り落とされるような薄ら寒さに支配されて、目を離すことができなかった。
幾分、恐怖が喉元を通り過ぎ、小さく息を吐く。
成り切るとはこの事だ。さすが、この日のために入念な準備をしてきたというだけのことはある。あそこまでの完成度に至るまで、睡骨などには想像できぬほどの努力と研究を重ねたに違いない。
その点については賞賛するべきだろう。ただし、もう会いたくない。二度と会いたくない。夢に見なければいいがと、切実に思う。
顔を上げた。もう、蛮骨の表情がはっきり窺える距離まで近付いている。月明りに影を刻み、やっと来たかと言いたげに肩をすくめる彼を見て、睡骨は我知らず安堵の息をついた。

刹那、背後の闇から伸びてきた無数の白い腕が、音もなく睡骨を引き込んだ。

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