目を開けると見知らぬ天井があった。
「目ぇ覚めたか」
二重三重にぼやけていた像が一つに結ばれたと同時に頭上から声をかけられ、睡骨は瞬きを繰り返しながらそちらに顔を向けた。薄い褥の上に横たわる身体の上で、掛布代わりに載せられた麻の衣がかさりと衣擦れる。
向けた視線の先では、片膝を立て壁に寄りかかった蛮骨が手酌で酒を飲んでいた。その傍らに平皿が置かれ、数本積まれた炭火の串焼きから香ばしい匂いが漂っている。
のろのろと起き上がり、目元を一度押さえて焦点を結び直してから周囲を見回す。
四畳半の畳敷きの部屋だ。中央に卓が置かれている他は、壁ぎわに円座が数枚重ねられているのみ。宿の部屋かと思いかけたがどうも違う。隣の部屋から襖越しに、がやがやと騒々しい声が漏れ聞こえてくる。
「ええと……」
「村の集会所。隣は祭りの打ち上げの最中」
問われる前にごく簡潔に説明し、蛮骨は空になった器に酒を注ぎ足した。状況が呑み込めずなおもぼんやりした顔を晒していると、なにやら据わった眼差しを向けられる。
「お前、肝試しの最中にぶっ倒れて担ぎ込まれたんだよ」
「………………は?」
思いきり頓狂な声が漏れた。
いま、何と。
だが蛮骨は同じことをもう一度言う気にならぬらしく、忌々しげに視線を逸らす。
「だいぶ終盤だったんだろ。そこまで行けたんなら最後のはそんな大した仕掛けじゃなかったって、村の連中が口揃えて言ってたぞ」
どうしてあと一歩耐えられないのだと、蛮骨は子の不出来を嘆く親のような表情で膝の上に頬杖をついた。
「あ……」
彼の言葉を脳内で反芻するうちに己の最後の状況が朧げに思い起こされ、睡骨はゆるゆると青くなっていく。
最後に目にしたのは、茂みから掴みかかってきた数多の白い腕。あれに襲われたために、自分は昏倒したらしい。確かにそこからの記憶がまったく無い。
「う、うわああ……」
両手で顔を覆い目の前の座卓へ突っ伏す。
いい齢をした大の男が、たかが祭りの催しで、恐怖のあまり失神。
あんまりにあんまりだ。搬送される道中、どれだけ笑いものになったことか。
(……ん?)
卓に伏したまま、ふと睡骨は目を瞬いた。なにか、釈然としない。
だが深く考えるより早く、何かがごと、と重い音を立てて鼻先に置かれた。
顔を上げれば、丸太を輪切りにした断面に文字と絵柄が彫り込まれた物体である。立て掛けて飾るものに見えた。
「……これは?」
手に取って眺める。
炎のような模様と、にょろにょろした奇怪な生物の彫刻。中央下部には見事な筆致で「睡骨殿」と墨書きされていた。
「……」
「今回の参加者で間違いなく睡骨殿が一等怯えておられましたので、栄えある『比類なき臆病者で賞』を謹んでここに贈呈いたします、と」
蛮骨がありったけの嫌味を織り混ぜた口調で述べた。受賞した本人が気絶していたため、一行の代表として彼が代わりに受け取らされたらしい。音に聞こえし七人隊の首領が、先からとても憮然としている原因はこれか。
丸太の飾りを手にしたまま、睡骨は苦虫だけを煎じた妙薬を時間をかけて味わった顔で固まる。
こんな不名誉な賞を頂いて、どうしろというのだろう。こんな景品は荷物になるばかりな上、こうもでかでかと個人名を書かれては売り払う事もできない。
蒼空か襲に預け、朔夜が留守を預かる家の睡骨の私室に持ち帰ってもらおうか。しかしその場合、これをどういった経緯で受賞したのか、悪意の無い好奇心で質問責めにされる確信がある。何より、あちらの自分が見たら気が触れるほど笑い転げるに違いない。いやだ。
打ちひしがれていると、「ぐぎゅう」と腹の虫が鳴いた。
そういえば夕食を食べ損ねていたのだった。蛮骨がつまみにしている肉の香りに誘われ、空腹感がどっと押し寄せる。
耳聡くその音を捉えた蛮骨はやれやれと串焼きの皿を差し出しかけたが、途中で思い直したように手を引っ込め、宴に盛り上がる隣室を親指で示した。
「腹にもの入れりゃ、少しは気分も良くなんだろ」
睡骨は少し躊躇ってから、大人しく立ち上がる。仕切の襖を開けるや、賑やかな談笑と食器の立てる音が耳を打った。大部屋に集う村民たちが視界いっぱいに入り込んで、軽い目眩に襲われる。
そんな睡骨の登場に村民たちも気付いたか、場がすっと静まった。
そして次の刹那、割れんばかりの拍手の嵐が湧き起こった。
「おおっ、ようやくお目覚めなすった!」
あ、無理だ。恥ずかしすぎる。
睡骨はすぐさま踵を返して元の部屋に引っ込もうとした。しかし村の男たちに満面の笑みで腕を引かれ、足元の席を空けて強引に座らされてしまう。たちまちのうちに膳やら酒やらが並べられ、右手に持たされた大振りな杯に酒を並々と注がれた。
ここに来るよう促した蛮骨を恨みたくなる。
その彼はというと、もともとそこに座っていたのか、数席離れた膳の前に腰を下ろしていた。その周辺では蛇骨や霧骨たちも酒盛りに興じている。
夕餉は出店から調達したもので済ませるはずが、思いがけず宴席に招かれてご満悦といったところなのだろう。そして招かれた理由は、他ならぬ睡骨なのである。
「いやー、すまんかったね。あんなに驚いてくれるお客はなかなかいなくてさ。気合い入れて準備した甲斐があった」
話しかけられて肩越しに振り向けば、背後から大量の白い手が現れた。「ひっ!」と身を引くと、白い手の陰からひょうきんな面相をした男が赤ら顔を見せ、糸で巧みに操られた仕掛けの全貌をあっさりと睡骨の目前に晒した。
まさしく最後に襲ってきたあの化け物に違いないが、改めて見れば何のことはない、木の棒と白い布で作られた張りぼてである。こんなものでも、暗闇と提灯の光の中では本物さながらに見えてしまったのか。
もっと恐ろしいものがいくらでもあったのに、よりによってこの程度で気絶したとは。
羞恥心で身を小さくしているところに、車座の中央を通って一人の男がやってきた。
「どうもどうも。お怪我はありませんか」
ぺこりと頭を下げた彼は村長の息子で、きもだめしの主催を任されているのだと名乗った。よく見れば、最初に人垣へ向け口上を述べていた男である。
「この度はどうもおめでとうございます」
「……いえ、どうも」
「比類なき臆病者で賞」とかいうのを獲得した件を言っているのなら、これっぽちもめでたくはない。とは思いつつも、この上なく楽しそうな様子に水を差すこともできず、やむなく睡骨は曖昧な笑みを返した。
主催の男は手を二、三度打って宴席の注目を集めた。
「さあさ、主役がお目覚めなすったので皆さんお待ちかね、今年の『脅かし役大賞』の発表といこう!」
「しゅ、主役?」
「『比類なき臆病者で賞』を勝ち取られた方に、どの化け物の仕掛けが最も怖かったか決めて頂く事になっとりまして。皆、睡骨どののお目覚めを待ち焦がれてたんですわ」
主催の男はあっけらかんと宣ってくれるが、責任重大ではないか。
「勝ち取ったわけでは……」
再び湧き起こる拍手と「待ってました!」と方々から上がる声にたじろぐ。腹ごしらえに来ただけのつもりが、こんな事になろうとは。ちらと蛮骨を窺えば、我関せずと言いたげな態度でひたすら酒肴を口に運んでいる。
「ではさっそく。ずばり、いちばん怖かったのは?」
「え? えーと……」
睡骨に向けられる皆の目は真剣で、誰もが固唾を飲んでいる。このために長らく準備してきたのなら、熱が入るのも当然だろう。
適当なことを言える雰囲気でもなく、大変に気乗りしないが、今宵出くわした化け物を頭から思い出してみる。
火の玉、地面から出てきた腕、鬼婆、賽銭箱のあれ、樹上の能面……白い腕。
どれも力作だった。作り物と知っていても、恐怖が勝るほどに。
(いや、でも……)
それらの中でひときわ色濃く瞼の裏に焼き付いた姿がある。ただそこに佇んでいただけだというのに、体温を奪われるような、底冷えのする怖ろしさをもたらした。
そういえば。あれに気を取られて、あれのことを考えている最中だったから、白い手の出現に気絶するほど驚いてしまったのかもしれない。
「私は……あの、最後の方で幽霊になりきっておられた方が、一番怖いと思いました」
睡骨は座がわっと沸き立つ光景を予想していたが、意に反して歓声はどこからも上がらなかった。誰かが喜ぶ気配もない。おやと皆の顔色を探ると、村人たちは誰もが不思議そうな面持ちを浮かべている。
妙な空気を立て直すように、主催が睡骨へ再度問うてきた。
「えー。それは、具体的にどの地点でしょう?」
どの地点と言われても、土地勘のない自分には何とも説明し難いのだが。
「私が倒れた場所の、ほんの直前……といいますか」
主催は化かし手の配役と登場順が記されている一覧を繰り返し舐めるように確認していたが、やがて太い眉尻を下げてこめかみを掻いた。
「届け出漏れかぁ、しょうがない。おおい、『地獄・甲』の道順、終盤で幽霊役やってた人、手ェ上げておくれ」
主催は声を張って呼びかけたが、皆が皆きょとんとした顔を見合わせるばかりで、己を示す者はない。
「そんなのやった奴、いたか?」
「おらぁ、知らんな」
そんなやり取りがそこここで交わされる。一向に埒が明かず、主催は困った風情で首をひねる。
「睡骨さん、本当にそんな人いました?」
「え? いや、確かに。白くて、女性の方で」
「女性」
「ええ」
「そりゃ、やっぱり変だ。女は化かし役につかない事になってんです」
主催が戸惑いの色を強めて言う。
催しの一環とはいえ、脅かし手は人通りの乏しい夜道で客を待ち構える役回り。加えて、驚いた客が咄嗟に手を上げたり、物を投げてくるような事態も無いわけではない。だから女子供は最初からその役につかないように定めているのだ、と。
今度は睡骨が困惑した。そう言われても。
「そんなはずは……そうだ、蛮骨さんも見てますよ」
蛮骨は睡骨が追いつくまでこちらを見ていたのだから、当然この身に起こった顛末を知らぬはずがない。
そう踏んで七人隊首領に視線を投じたのだが、対する彼は水を向けられるとは毛ほども思っていなかった様子で怪訝な声を返した。
「は?」
「え?」
「俺は参加してねえから分からん」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
「は…、……はぁ?」
なに? 参加していない?
いやいや。
さしもの睡骨もむっとした。途中から同道したというのに、何をふざけたことを。いくら蛮骨といえど、人をからかうにも限度があるだろう。
「冗談はよしてください。そもそも、蛮骨さんが参加しろって言ったから私は――」
「それは言ったが……」
なぜかばつが悪そうな蛮骨の横から、蛇骨が骨つきの鶏肉をしゃぶったままもごもごと言葉を継いだ。
「蛮骨の兄貴はずっと、俺と一緒にここの表で鶏の喧嘩に賭けてたぜ」
障子窓の開け放たれた縁側を顎で示す。すぐそこの庭先に、竹組で拵えた円形の柵と、逆さに伏せられ上に重石を載せた目の粗い籠が並んでいるのが見えた。籠の中にはがっしりとした雄鶏が入れられている。
睡骨がぽかんとした顔を蛇骨に戻せば、口から引き抜いた骨を振って見せつけられる。今食ってるのはそれで負けた鶏なのだ、と。
蛮骨が言い訳がましく唸った。
「いやな、お前を放って蛇骨の誘いに乗ったのはまあ、悪かったかもしれねえが。どの道、俺が挑戦したところでお前とは別行動なわけだろ。なら、あんまり意味ねえような気がしてきてよ」
己の番が来る直前でふと「睡骨の怯える様子や一皮剥ける過程を拝めないのなら、自分まで律義に肝試しに挑戦する意義が果たしてあるだろうか」という疑問が首をもたげたところに、折よく蛇骨が「あっちで賭け事やってるぞ」と声をかけてきた。
そちらに靡いて闘鶏を十分に楽しんだ頃、今度は祭りの運営方から「お連れ様が倒れたので迎えに来てほしい」と一報が入ったのだ。
「いや、そんな……だって」
蛮骨の口から経緯を聞いたところで納得できるわけもなく、睡骨は村の衆を見回した。終盤の仕掛け人たちならば、自分が蛮骨と連れ立って進む姿を見ているはずだ。
だが、彼らはこれまたぼんやりした顔をして、
「あんたぁ、ずっと一人で歩いてたじゃないか」
「途中からは提灯を持たず進んでたんで、感心しちまったくらいだよ」
「ずいぶん大きな独り言を喋ってたが、怖いのを紛らわすためにああしてたんだろう?」
次から次へと、ことごとく睡骨の認識とずれた証言が飛び出てくる。
胸中に言いようのない気持ち悪さが渦を巻き始めた。
「そ――」
口を開きかけた刹那、脳裏に入場前の説明が蘇った。
――口外されるのを防ぐため、肝試しの道順は複数用意されている。
「……」
つまり、仮に蛮骨がきちんと肝試しに参加していたとしても、少なくとも直前に出た睡骨と同じ道を行くなど――ましてや途中で鉢合うなど、そもそもありえない。
つまり、どういうことだ。
息苦しさを覚え、唾を呑み込もうとするも上手くいかない。
考えてみれば、不可解な点は他にもある。
自分は声を掛けられるその時まで、蛮骨が持っていた提灯の明かりにも、彼の近付く足音にも、まったく気付かずにいた。確かに気が動転してはいたが、あの静まり返った暗闇で、そこまで鈍感なことがありえるだろうか。
いや、しかし。
ならば、自分がずっと話していた相手は。
手を掴んで立たせてもらった彼は。
だれ、だ。
硬い面持ちで黙り込んでしまった睡骨を見かねた村の男衆たちが、景気付けるように両側から肩を叩いた。
「まあ、今日のところは疲れて混乱しとるんだろう。明日にでも落ち着いたらまた、誰が一等か決めとくれよ」
「今夜はぱぁっと飲み食いして、楽しもうじゃないか。さあさあ」
ちゃぷちゃぷと目の前で酒瓶を振られ、睡骨は手に酒で満たされた器を持っていたことを思い出す。
正直、酒よりも水か白湯を口にしたい気分だった。しかし身の内にわだかまる何ともいえない不快感を早いところどうにかしたい。何でもいいから口に入れた方が良さそうだ。
杯を口元に運ぶ。
こうなったら村人たちの言葉に甘えて酒を頂戴し、恥のかき捨てでも上塗りでもしてやろう。
明日には今夜の記憶が一切無くなっているくらい、飲み明かしてやろう。
内側を朱く塗られた杯。その中に築かれた小さな水面に視線を落とせば、反射して映し出された天井が揺れている。
梁の上。隅の暗がりに。
白い、影。
気のせいだ。記憶の中の残影が焼き付いているだけだ。
杯の角度を少しずらすと梁は外へ追いやられ、水面には己の姿が映る。
その顔面から、首元にかけ。
細く長い指がべったりと、絡み付いていた。
<終>