幽霊の予報にたがわず、夜が明けても空からは勢い変わらぬ雨滴が止めどなく降り注いでいた。
昨夜、有頂天で舞い踊りながら消えていった新之助。それが今朝、七人隊の起床を見計らったように壁からぬっと姿を現した。
『おはよぉ!』
青白い肌色に反しすこぶる快活な挨拶を寄こす新之助に、「昨日のあれは夢ではなかったのだ」と遠い目をする七人隊である。
明るいところで見る幽霊。溌剌はつらつとした幽霊。何かと新鮮だ。そもそも幽霊自体初めてお目にかかるのだから、新鮮なことばかりだ。
開き直ってしげしげと新之助を観察する蛮骨に対し、蛇骨はさっと凶骨の背に逃げ、威嚇中の猫よろしく牙を剥いた。
「いきなり出てくんじゃねえ! おおお俺はまだっ、お前なんざっ、許してねえぞ!」
『昔のことは水に流そうよ。蛇骨が厠に行くの怖がって蛮骨を起こそうとしたことも、ただの雷に悲鳴上げてたことも、おいら誰にも言わないよ』
「今ぜんぶ喋ったじゃねえか! ああこの糞坊主め!」
蛇骨は手近の古ぼけた円座わろうだを新之助めがけて投げつけた。しかし円座は半透明な体をするりと通過して、新之助の後ろにいた霧骨の頭に落ちる。昨日のふすまに続き円座を頭に受けることとなった霧骨が、物言いたげに振り返った。
『へへん、そんなのおいらに当たるわけないじゃん』
新之助がにやりと笑っておちょくるように両手を振るものだから、蛇骨は顔を真っ赤にして地団太を踏む。
すっかり小僧の玩具にされている弟分を見かね、蛮骨がやれやれと肩をすくめた。
「蛇骨よ、いい加減新之助にも慣れただろ。いつまでびくついてやがる」
「はあ!? びびってねぇし! つーか慣れてんのは蛮骨の兄貴だけだろうがよ! 自分の阿保みてえな適応力を基準にすんじゃねえ!」
「珍しいな、俺も同意見だ」
くわりと言い返す蛇骨に、今までひたすら我関せずを決め込んでいた煉骨がしれっと同意を示した。よく見れば睡骨や霧骨もこくこくと首肯している。
こいつら、束になれば首領に何を言っても構わないと思っているのか。
蛮骨の眉が寄った。
「お前ら、人を変人みてえに……」
蛮骨にしてみれば、新之助の有り様が物語や絵図に見る幽霊とはかけ離れ過ぎていて、怖がろうにも何をどう怖がればよいのか分からない。実はそこらの子供が幽霊ごっこをしているだけだと言われた方が、まだしっくりくる。
閉口した蛮骨が黙然と立ち上がると、蛇骨はびくりと身構えた。
「な、なんだよ、怒ったってえのか?」
蛮骨は大仰な嘆息とともに背を向けた。ここに来てから蛇骨はどうにも小心でいけない。ただでさえうるさい奴が、臆病になると殊更ことさら扱いにくい。
「んなわけあるか、散歩だ散歩。敷地ん中を軽く見てくる。ちったあ動かねえとなまっちまうからな」
『なら、おいらが案内してあげる』
部屋を出て行く蛮骨のあとを、意気揚々と新之助が追いかけた。

雨滴がばつばつと跳ね遊ぶ石畳を踏み、蛮骨は境内をそぞろ歩いた。
手には戸口付近で拝借した襤褸ぼろ傘を差している。言わずもがなの年季もので破れが目立つが、少時の散策程度には耐えられそうだった。
ついてきた新之助は蛮骨の傍らに浮遊し、宝蔵や鐘撞かねつき堂、畑や井戸などのおおよその位置を説明した。
「宝蔵でも覗いてみるか」
『ぜんぶ盗られて空っぽだよ』
新之助はつまらなそうに言う。
『鐘撞堂だってさ、もう鐘が吊られてないんだ』
「なんだそりゃ。そんなもんまで盗られたのか」
『鐘自体はまだあるけど、地面に横倒しになってる。盗ろうとしたけど結局運べなかったんじゃないの』
確かに、青銅はいくらでも売りさばけるだろうが。運べるか否かくらい、外す前に分からないものか。
「間抜けな野郎がいたもんだな」
「だよねえ」
新之助は死した後、霊として目覚めるまでに数年の空白期間があったため、その間にここで起きた出来事については一切把握していないのだと語った。意識がはっきりした時にはすでに、寺は浮浪人や破落戸ごろつきどもの手で荒らされていたという。
『まあ、死んじまったらお金もお宝も必要ないし。墓所まで壊されたりしないなら、別に構わないんだけど』
ぶらつくうち、井戸に辿り着いた。四方に柱が立ち小ぶりながら屋根がかけられている。小休止するのに都合がいい。
石造りの井戸に載せられた木蓋を外し、釣瓶つるべを落とした。底からたっぷりとした水音が反響する。
「枯れてはいねえな」
引き上げて覗き込む。
「なんだ、思ったよか綺麗なもんだ」
時々の侵入者らが適度に使用してきた名残か。さすがに飲みはしないが、異臭もしないので汲んだついでに顔を洗った。雨でじっとり生臭かったのが多少はすっきりとする。
懐から出した手拭いで水気を拭き、井戸の蓋を戻してその縁に軽く腰かけた。
ぼんやりと頭上にかかる屋根を見上げる。灰色の蜘蛛の巣に蛾の羽がひっかかって揺れている。
視軸を下ろせば、けぶる雨の向こうに青い紫陽花あじさいの群生が見えた。
「ずっと一人でここにいるのか」
おもむろに問いかけられ、新之助がまばたく。
『……まあ。他に行き場もないし』
答えながら、子供は蛮骨の隣に腰掛ける真似をした。
『生きてた頃――もっと小さかった頃はさ、山の反対側の、ずっと先へ行ったとこの村で暮らしてたんだ。四つの時に父ちゃんも母ちゃんも病で死んじゃって、行く宛が無かったところを爺さま……ここの和尚さまが引き取ってくれて』
新之助の目元が郷愁をたたえる。
『爺さまは血の繋がった家族みたいに優しくしてくれてさ。二人きりだったけど、ここで暮らす間、寂しかったことは一度も無かったんだ』
だけど、と丸い頭が項垂れた。
『突然……ある日突然、爺さまが倒れて。そのまま、目を覚まさなかった』
沈黙が落ち、しばらくは雨粒が屋根を打つ音だけが不規則に響いた。
むくろはどうした」
『お墓作って埋めた。って言っても、ぜんぜん上手くできなかったんだけど』
「埋めりゃそれで十分だろう」
『そうかな』
だと良いなあと、新之助は地に届かない足をぶらつかせた。再び会話が途切れる。
「……お前はその後」
やがて蛮骨は口を開いたが、いて良いものか微妙な気まずさを覚えた。しかし、新之助にとってはすでに過去の出来事だろうと判じて続ける。
「ここで死んだっていう事なんだよな」
唯一の庇護者を唐突に失い、山中にぽつりと佇む寺に独り、取り残されることとなった子供。
そんな状況下での死因など、考えるまでもない。
重苦しい空気になるかと思ったが、新之助は存外けろりとした調子でうなずいた。
『そ。だけどこれが、最後にどう死んだんだか、ちっとも思い出せないんだよねぇ』
「へえ。そういうもんか」
『すっごくお腹が空いてたのは覚えてるんだけど』
改めて思い出してみようとしているのか、新之助はこめかみを指で押さえひとしきり唸る。しかし十秒も経つといがぐり頭を一振りして顔を上げた。
『やっぱ分かんないや。……ていうかごめんよ、こんな話聞いてもつまんないよね』
眉を八の字に下げる新之助に、蛮骨は手をひらと一振りする。
「いや、別に。もともと話振ったのは俺だ。その様子じゃ、今まで誰かに話す機会も無かったんだろ。話し相手が欲しくて俺らを留めてんなら、今のうちにしこたま喋っとかねえと損だぜ」
『う、うん』
新之助はしぱしぱ瞬いた後、ゆるゆると口元を緩めた。
組んだ足に頬杖をつき、蛮骨は遠くを眺める。
「……まあ、余計な世話かもしれねえがな。誰ぞに恨みがあるわけでもねえなら、さっさと成仏でも昇天でもしちまったらどうだ。ここに来る奴を脅かすのが楽しくて居座ってんのか?」
その言葉に、目を見開いた新之助は強くかぶりを振った。
『そっ、そんなわけないだろ! ここにいたってほとんど誰も来やしないんだから!』
身を乗り出して反論するも、その威勢はすぐにかげった。声が力を失う。
『おいらだって……いたくているわけじゃない』
わかんないんだ、と彼はうつむいた。小さな手が膝丈のすそを握り込む。
『どうしたらあの世ってところに行けるのか。死んだって迎えもこないし、案内板が立ってるわけでもない』
この世に未練があるわけでも残りたいと望んだわけでもないのに、気付けば地縛霊のようなものになっていた。他の死人たちはどうやっているのか、どのように旅立つのが正解なのか、知るすべもない。
蛮骨は半眼になり口を引き結んで聞いていた。さすがにこればかりは、死んだ試しのない自分には答えようがない。そもそもこれまで、あの世だとか成仏だとかいう概念について考えたためしすらないのだ。
「適当なこと言って悪かったな。その、爺さんから教わってねえのか。手っ取り早くあの世に行ける……裏技とか」
『教わってたらとっくにやってる』
それもそうだ。
濡れた石畳が白く光っている。無数の雨粒に打たれ、光は絶え間なく散乱する。
墨絵の中にいるような、陰影のみで描き出された境内。青い紫陽花だけが色付いている。
この世とあの世の境とはこんな様相かもしれない。
荒れ放題の寺。崩れた壁と屋根。壊れた調度類。
死してからの幾年月。新之助は語らう相手の一人もなく、ここで過ごしてきたのか。
これまでも、これからも。
「俺たちがいる間に成仏する方法が見つかりゃあ、一番良いんだろうな」
何気なく呟いた言葉は、深い考えがあってのものではなかった。むしろ、「自分いま何言ったんだろう」と反芻するくらいには、考えなしだった。
三秒後には「まあいいか」と思っていたのも事実だが。
視線を感じて横に目を向ければ、双眸をこぼれ落ちんばかりに見開いた新之助が蛮骨を凝視していた。
『ほん、と…? ほんとに、そう、思ってくれるの?』
「……思っただけだ。もっとも、俺らなんぞにどうこうできりゃはなから困っちゃいねえだろうよ。暇潰しがてら、無え頭でも動かしてみるさ」
期待するなよと念押しし、蛮骨はおもむろに左手を持ち上げて新之助の頭に載せた。実際に触れられるわけもないので、あくまでも見かけの仕草に過ぎない。撫でやすそうな形の球体があるからそうしただけのことだった。
それでも新之助は大きく身を震わせた。口をぎゅっと結び、次いで笑みが満面を彩った。
『あ――、ありがとう……! おいらももう一回、考えてみる!』
それからは、他愛もない会話が断続的に続いた。この荒れ寺に今までどんな輩が来たか、これまでの旅でどこを巡ってきたか、蛇骨は昨夜何がどうなってあれほど取り乱していたのか、その他諸々。
そんな花にも実にもならぬ話をしながら、雨に霞む境内を見るとはなしに眺めていた。
雨脚がいささか強みを増してきた頃になってようやく、新之助が井戸の縁からひょいと浮き上がった。
『次は蛇骨と遊んでこよっと』
そう告げるや返事も待たず、雨幕の中へ突っ込んで本殿へと一直線に飛んでいく。
濡れる心配がないのも便利なものだと感心しながら、
「蛇骨遊ぶ、の間違いだろ」
呟きをこぼし、蛮骨もまた腰を上げた。

壁をすり抜けて建物の中に戻る間際、新之助は軒下で後ろを振り返った。
石畳の上、破れ傘を差してこちらに歩いてくる蛮骨の姿が見える。
幼い大きな瞳が微かに揺らぐ。
彼の言葉は本当に、とても、嬉しかった。
きっと、何気なく出た言葉なのだろう。だがそれでも――だからこそ、その気持ちを一瞬でも抱いてもらえたことが有難ありがたくて。
心の臓などとうに失くした胸の内が、温かくなった気がした。死んでこの方、久しく感じていなかった感覚だ。
『……雨が上がったら』
彼らは旅立つ。淋しいけれど、引き止めることはできない。
また独りになるのが、少し怖い。

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