障子窓を開け放してもどんよりと暗い部屋の中、冴えない表情で粗末な朝餉を口に運ぶ男たちの頭上を、新之助がぐるぐると飛び回った。
『それなに? おいしい? そっちは?』
好奇心を丸出しにして手元を覗き込む子供幽霊を、睡骨は鬱陶しげに手で追い払う。
そこへ散歩から戻ってきた蛮骨が現れ、煉骨がすかさず避難がましい目を向けた。
「大兄貴、あの餓鬼に何か余計なこと言っただろ」
「余計なこと? ああ、成仏する方法探すって話か?」
あっけらかんと口にする首領に、煉骨はこれ見よがしに目元を手で覆った。
「好きにしてくれとは言ったが、守れる見込みのねえ約束はしねえでくれ。まして相手は得体の知れねえ幽霊だ。反故にしたらどんな――」
「約束じゃねえよ、ちっと協力するだけだ。期待するなとも言ってある」
「それでも」
語調を強め言い募ろうとする煉骨を、蛮骨は遮った。
「お前らに手伝えとは言わねえよ。何かあって恨まれるとしたら俺一人だから安心しとけ」
「大兄貴がどうこうなる可能性がある時点で安心できねえだろうが」
仏頂面でそう言われては蛮骨もおいそれと軽口を叩けない。頬を掻いてぬるい笑みを滲ませる。
煉骨の懸念はもっともなのだ。
割と考えなしに発した言葉であるのは事実で、上手くいかぬ場合に要求されうる穴埋めまで含め熟慮したかと問われれば、勿論そんなことは全くない。
のだが、実際さほど心配する必要はなかろうと、蛮骨は気楽に構えていた。
芳しい結果が得られないとして、それを理由に新之助が逆恨みしてくる事は無いだろう。
そう判じる根拠はといえば、朝の短時間に当の幽霊と多少の会話をして得た印象、そしてこれまでの経験に基づく己の勘がそう告げているから、としか言いようがない。
そんな謎の自信など、この煉骨は最も嫌がるのだろうが。
これでこの男の懸念通り呪われでもしたら、自分の目が節穴だったという事になる。
蛮骨は、ふと真面目な顔つきになり口元に指を当てた。
「待て、幽霊憑きの傭兵隊か……それはそれで、いい客寄せに」
「ならねえよ」
棘の増した声で吐き捨て、副将は身体ごと視線を背けてしまった。首領の並べる太平楽に嫌気がさしたようだ。
蛮骨は緩い苦笑を刻んで身体を傾ける。
「つれねえなあ」
新之助への発言を撤回する気はない。とはいえ、煉骨のように想定されうる危惧を憂慮する頭も隊には必要だ。
首領である自分の考え方に一から十まで同調するような男なら却って困るので、多少なりとも反発してくる煉骨の態度はむしろ助かる。
かといって毎度毎度意見を戦わせ、その度向こうに譲歩させるのは、それはそれで悪手なのだが。
時には立ててやらねば臍を曲げるか。
しかしこちらの意見も通したい。
匙加減が難しい。
蛮骨は干し肉の切れ端を口に入れた。手元にある最後の食料だ。
奥歯で噛みながら、外から戻るまでに巡らせていた思考を再開する。
成仏とは何ぞや。
そんな、自分なぞには全く似つかわしくない、とても哲学的なことを考えていた。
思い残すことが無くなればいいのか。
誰も恨まなければいいのか。
悟りを開けばいいのか。
成仏するためにいちいちそんなことが必要なら、この世は今ごろ新之助のお仲間で溢れ返っていそうなものだが。
新之助は誰かを恨んでもいなければ、未練もないと言っている。
では、心理的な要因というわけではないのか。だが、物理的に成仏を妨げられることなどありえるだろうか。鎖で繋がれているわけでもあるまいに。
視線を煉骨の背へ注ぐ。
これこそ副将のご意見を拝聴したいところなのだが、しばらくはささくれ立っていそうなので触れずにおいた方が良さそうだ。
「ううむ」
腕を組んで唸る。干し肉はとうに胃の中。冴えた考えが浮かぶほど腹は満たされていないのに、まったく柄に無いことをしているので効率は悪い。
例えばどこぞの法師を連れてきて、霊験あらたかな経でも唱えさせれば、新之助はすんなりとあの世に逝けたりするのだろうか。
そういう問題でもないような気がする。
なにも思いつかない。
迷える魂を救うなど、戦場で骸の山をこさえるのが生業である自分とは、およそ真反対な領域であることだけは間違いなかった。
「だああ何だよ! なんで俺にまとわりつくんだよ!」
睡骨に続いて新之助の標的にされた蛇骨が、己の飯を懐に守りながら蛮骨の背後に避難してきた。新之助に取られるわけが無いにもかかわらず、必死に獣じみた威嚇をしている。二人は思案中の蛮骨を挟んで対峙した。
『だってさ、あのおっさんのとこ行ったら追い払われたんだもの』
「おっさん!?」
睡骨が心外とばかり振り返り、蛇骨は苛立ちもどこへやら弾かれたように笑い転げた。
「だはははっ! ついに言われやがったぜこいつ!」
蛮骨も失笑を漏らし、思考を中断せざるを得ない。
「新之助、睡骨はまだそんな齢でも……っふ、おっさんにはちと早えかもなぁ。まあ、お前から見りゃ年上はみんなおっさんかもしれねえが」
『あー……ごめん、そうなんだ』
新之助はどことなく打ちひしがれて見える睡骨の傍らへそっと近づくと、控えめに声をかけた。
『なあなあ、ごめんなぁ。そんなに傷つくと思わなかった』
「傷ついてねえ。それ以上寄るな、餓鬼は嫌いだ」
一瞥すら寄越さず取り付く島がない。幽霊はしょぼくれる。
蛮骨はすくりと立ち上がると、背を向けている睡骨へと音も無く近付いた。そしてその後ろ首めがけ、目にも留まらぬ速さで手刀を打ち込んだ。
大柄な体躯が前のめりにばったりと倒れる。
「…………は?」
横目で一連のやり取りを見ていた煉骨の手から読み止しの書物がぽとりと落ちた。蛇骨は笑い顔のまま固まり、新之助は唖然と口を開けていた。
『な、何やってんの蛮骨! 睡骨が死んだ!』
「死んでねえ。まあ見てろ」
蛮骨が顎で睡骨を示す。その言葉の通り、しばらく経つとうつ伏せになった睡骨の指がぴくりと蠢き、くぐもった呻き声とともに緩慢な動きで身を起こした。
「いったた……」
首元をさする睡骨の面相からは、特徴的な隈取紋様が跡形なく消え失せていた。
「ひ、ひどいじゃないですか蛮骨さん」
医者の人格を文字通り叩き起こされた睡骨が、涙目で蛮骨を振り返る。纏う雰囲気から口調まで別人へと変貌した男に言葉を失う新之助の横で、蛮骨は悪びれもせず腕を組んだ。
「大袈裟な。そんなに強くしてねえぞ」
「意識が飛ぶんじゃ十分強いでしょう。当たり所が悪ければ私は今ごろ」
言い止し、医者の睡骨は蛮骨の足元にいる子供に目を留めた。目が合うや新之助は蛮骨の背に半身を隠す。どうしたと蛮骨が尋ねれば、おずおずと見上げてきた。
『……もっかいやって』
「何度もやると睡骨が死ぬ」
気になる様子で新之助を注視していた睡骨だったが、やがてその眼差しが医者の色を強めた。
「君、ずいぶん顔色が悪いな。青を通り越して真っ白じゃないか……」
案じるように語りかけ、気遣わしげに手を伸ばす。新之助の頬に触れようとした指は、しかし想定された質感を素通りして向こう側へすり抜けた。
「……………………」
新之助の左目の下に指を突き入れたまま動かなくなった睡骨に、蛮骨は首を傾ける。
「何やってんだ? 幽霊に触れるわけねえだろ」
睡骨の首がかくかくと軋みながら巡り、蛮骨を向いた。
「……ゆ?」
「ゆうれい」
『うん、幽霊』
二人は揃って頷く。
「あれ。やっぱ打ち所悪かったか? お前の方が顔色悪――」
蛮骨が言い終えるより早く、ざっと血の気を失った睡骨が、今度は真横にばったりと倒れた。
「わ。おーい睡骨。死ぬのか、死なんでくれ、いろいろ困る」
蛮骨は医者の体を足で仰向けに転がして頬を叩いた。しかし、いっそ安らかにさえ見える表情で目を閉じたまま反応を返さない。
もしやこれが成仏というやつか。
新之助があわあわと眉尻を下げた。
「この睡骨、幽霊とかお化けとか苦手だったんじゃないの?」
「こんなでかい図体でか」
「あんまり関係ないと思うよ。こういう反応する人、大体そうだもん」
そこへ、先よりさらに愉快な顔をした蛇骨がやってくる。つま先を睡骨の頬へとめり込ませ、
「なんだぁこいつ、羅刹ん時はてめえから怪談打ちやがって、医者になるとこの様か? ははあ、情けねえ野郎だぜ」
よほど小気味好いのか、ふんぞり返って高笑いする。己が昨夜どれほど見苦しい姿を晒していたかについては、記憶から抜けているようだ。
睡骨からの反応は全くないものの、呼吸も脈もある。目覚めるまでそのまま放置しても問題あるまい。
「ったく、これじゃ呼んだ意味がねえ。新之助、悪いが、睡骨が起きるまで傍で見ててやってくれるか」
立ち上がる蛮骨に、新之助はうんと諒解しながら目を瞬いた。蛮骨に続いて霧骨に煉骨と、睡骨を除く面々が次々腰を上げている。
『みんな、どっか行くの?』
「食いもんが底突いたからな。ちっと調達に出る」
そう答え、蛮骨は窓の外に視線を投じた。代わり映えのない空模様だが、止むまで待っていてはいつになるかわからない。
『そっか、気を付けてね。そうだ、裏の畑にも何か生えてるかも』
「おう、覗いてみるぜ」
六人は蛮骨を先頭にぞろぞろと部屋を後にする。
最後に部屋を出る刹那、煉骨が、居残ることになった二人をちらと流し見た。
仰向けにされ胸の上で手を組み合わせている医者睡骨と、傍らでおとなしくそれを覗き込んでいる子供幽霊。
起きたらあれ、どうなるんだ。