その日の夕刻、七人隊の拠点からはるか西に位置する因幡の上空まで飛んできたかさねは、眼下に広がる深い森の、ある一点目掛けて迷い無く降下した。
鬱蒼と生い茂る草木で陽の光もほとんど遮られた樹海の中、しばらく歩くと岩壁に突き当たる。その際にはこの国では自生しない赤い花の咲いた木が一本だけ生えていた。
襲は木の幹に手を当てると、一言、
「てぃゆべすく」
と唱えた。
件の西洋妖怪から、隠された住処すみかの入り口を出現させるための合言葉だと教えられた文言である。彼の生国の言葉だそうだが、何を意味するのかは知らされていない。
合言葉に反応して木の周囲の空間が揺らぎ、一寸の後にぽっかりと口を開いた洞穴が現れた。
洞穴に踏み入るとそこそこに奥行きのある通路が続く。万廃亜ばんぱいあはひどく日光を苦手としているため、夜間以外はこうして光の届かない穴の中にこもっているのだ。
襲の紅眼は暗闇も見通すことができるので、不便もなく奥へと進んで行く。
舞羅渡ヴラド、いるか」
最奥の暗闇に声をかけると、周囲の壁に配された燭台が一斉に燈って穴の中を照らし出した。
今し方までただの洞窟のような外見だった万廃亜の住処は、擬態の術が解かれると同時に、西洋の絵画や調度品をあつらえた奥行きのある空間に様変わりしていた。
部屋の中央にある足の高い机に向かっていた長身の影が、突然の来客に驚いた様子で振り向いた。
「おお! 誰かと思えば鴉天狗の旦那とは、珍しいですネ」
彼は声を弾ませると背にある巨大な蝙蝠こうもりの羽を外套のようにはためかせ、枯れ木に似た細い両手を大きく広げて、知己の鴉天狗を迎え入れた。
襲の手を取って握手を交わし、当然のようにずいと頬を寄せてくる。反射的に身を引きかけた襲だが、これが彼の国での一般的な挨拶だと言われたことを思い出し、されるまま頬を合わせた。
「何年振りデショウね」
「最後に会ってから、かれこれ五年は経っていると思うが」
身を離した万廃亜の姿は、その時とほとんど変わっていない。
陽の光と縁遠いことを物語るような青白い肌に銀糸の髪、薄い紫の唇からは小さく鋭い牙が覗く。瞳は薄明を彷彿とさせる紫苑しおん色で、瞳孔が縦に細長く刻まれている。
視察に来た折にどういうわけかこの国をいたく気に入り、身内の引き止めを振り切って単身移り住んできたという話だった。
当然のことながら最初は先住の妖怪たちからの強い風当たりによる苦労もあったようだが、そこへ偶然通りかかった襲に助力を請い――もとい一方的に巻き込んで、今ではご近所とも円滑な関係を保ちつつがなく暮らしている。
本来は長くて仰々しい名があるらしいが、この国に来てからは簡易的に「舞羅渡」と名乗っているのだった。
挨拶もそこそこに襲はさっそく切り出した。
「頼みがある」
「あなたから頼み事トハ、これまた珍しイ」
襲は懐から、先ほど預かってきた洋書を取り出した。
「外つ国の字で記されている。可能なら訳してもらいたい」
「ほウ」
舞羅渡は興味を惹かれた様子で書を受け取り、最初の数項を捲る。
「大丈夫、読めマス。とても読みやすい文ですヨ」
「どのくらいかかるだろうか」
「スデに訳されている部分もありますし……明後日の朝にはお渡しできるデショウ」
原本へ直書きせず別紙に認めてほしいと頼むと、万廃亜は快く応じた。
書物を丁寧に机の上に置いた舞羅渡が手を打ち合わせて襲を振り返る。
「ちょうど今朝方、祖国から仕入れた酒が届いたんですヨ。一緒にどうデス?」
先のアマビエの一件以来、しばらく酒は断っておこうと考えていた襲は一瞬返答に詰まった。
しかし要望を快諾してもらった手前、誘いを無下にするのも気が引ける。
「一杯だけならば」
舞羅渡は喜々として杯を差し出した。祖国にいた頃から愛用しているという、玻璃でできた透明な器である。
そこに注がれた果実酒は紅く透き通り、深みのある甘い香りを立てた。
「翻訳の件だが、見返りは……」
襲が問うと、舞羅渡は大仰に両手を上げて見せる。
「旦那に見返りを求めるなんてタイソウなこと、できやしません。――まア、強いて言うならば」
舞羅渡の吊り気味の目がうっそりと細められ、果実酒よりなお深く紅い双眸を覗き込んだ。
「一口で良いので、あなたの血を賞味させて頂きたいですネ」
「……それはやめておけと何度も言っている。死ぬぞ」
「死ぬほど美味ということデ?」
「馬鹿を言うな。物理的に死ぬという意味だ。それで良ければ好きにするといい」
もとよりこの天狗が冗談を口にする性質たちでは無いことを百も承知している舞羅渡は、少し大げさに肩をすくめただけで大人しく身を引いた。
「それは怖ろしイ。血を飲んで死ぬなんテ、吸血鬼ヴァンパイアの名折れですヨ」
残念そうに言いつつ、舞羅渡は持ち上げた杯の縁を襲の持つ杯に合わせた。
かちん、と澄んだ音が洞窟内に響いた。

天狗がいとまを告げた住処の中で、舞羅渡は安楽椅子にくつろぎながら預かった書物に向き合った。
「どれドレ」
久しぶりに触れる西洋の文字に胸が高鳴る。祖国のものでは無いが、近隣諸国の言語は一通り会得していたので問題ない。
楽しげにぱらぱらと捲っていた舞羅渡だが、とある項でぴたりと手を止めた。
「おや、これハ……?」
項の間に、ぺらぺらの何かが挟まっていた。
取り出して眺めると、潰れてひしゃげた――鬼のような顔をしたものである。
しおりでしょうカ? しかしナンとも不格好な……」
前後左右に裏返して眺めていたが、どうも己の美学の琴線にはかすりもしない。
「これが旦那の嗜好なのでショウか」
かなり意外ではあるが、他人の趣味に難癖をつけるのは無粋である。自分も、祖国の家族たちに邸内で履物を脱ぐ文化の素晴らしさを伝えようとして、これっぽちも理解を得られなかった時は心の砕ける思いを味わったものだ。
ふいに舞羅渡は何かを思いついた様子で、黒く長い爪を備えた指をぱちんと弾いた。
周囲に三匹の蝙蝠こうもりが現れる。「使い魔」と呼ばれる舞羅渡の忠実なしもべたちだ。
「お前たち、こういうモノを見つけて、集めて来なさイ」
蝙蝠たちは潰れた鬼の栞を見せられ不思議そうな顔で浮遊していたが、やがてぱたぱたと上下を繰り返し外へ羽ばたいていった。
「旦那とさらにお近ヅキになる好機チャンスです」
栞を元の位置にしっかり挟みなおし、舞羅渡はにっこりと笑った。

それから二日後の正午前、約束通り襲は再び舞羅渡を訪ねた。
「完了してますヨ」
そう言って舞羅渡が差し出した二冊の書物を受け取る。片方は原著で、もう片方は訳が書かれた簡易な綴じ本だった。
「すまない。助かった」
表情も声色もほとんど動かないが、その目元が心持ち緩んだのを認めて、舞羅渡は満足げな笑顔を返す。
「お安い御用デス。あと、こちらを」
舞羅渡が赤い布で覆われた机の上を示した。襲はじっとそこを見る。
もったいぶったように布が取り除かれると、その下にはずらりと、ざっと三十個ほどの、鬼の顔を模した仮面が並んでいた。
「…………」
襲は無言で舞羅渡に視線を戻す。
「どうです、壮観でショウ」
「ああ……そう、だな」
壮観だろうと言われれば、壮観ではある。
「…………で?」
「全部差し上げマス」
「ん?」
話の脈絡が掴めず、襲は思わず聞き返した。
「遠慮なさらズ。旦那が喜ぶだろうと、使い魔たちに集めさせたノデス」
そう言う舞羅渡の横では、止まり木に逆さにぶら下がった蝙蝠たちが誇らしげに胸を張っている。
「好きですよね、こういうノ」
何をどうしてそう断言されるのか分からないが、残念なことに襲の長い人生においても鬼面が欲しいと思った経験は皆無であった。
しかし、得意げな舞羅渡や使い魔たちに面と向かって「いらん」とも言いにくい。
断り方を考えているうちに使い魔たちがいそいそと大量の鬼面を風呂敷に詰め始めたので、襲は努めてやんわりとそれを止めた。
「そんなにもらっても邪――置き場がない……ので、一枚だけで」
「!? そんな……それは残念ダ」
舞羅渡はあからさまに落胆した。使い魔たちも半べそをかき始める。かなり苦労して集めたらしい。
「確かに、旦那のお宅は猫の額のような狭さですからネ……。では、私がとっておきの一枚を選んでさしあげマス」
そう言うと舞羅渡は真摯な顔つきで並ぶ鬼面を吟味し、最終的に襲が渡された「とっておきの一枚」は「とっておきの三枚」になっていた。
それ以上はどうあっても減らせないと、力強い眼差しで言われてしまっては受け取らぬわけにもいかない。
仕方なく三枚の鬼面を袂に押し込んで礼を述べ、襲は舞羅渡邸を後にした。
天空に飛び立ち、その足で煉骨に書を届けに向かう。
ふところに収めた洋書の中で誰がどうなっているかなど、想像すらしていなかった。

 

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