次に目を開いた時には、闇のとばりの中だった。
現世から送られた四名がひとり、またひとりと起き上がる。
彼らは能舞台に似た板造りの床の上にいた。壁は無く、背の低い欄干で三方を取り囲まれ、そのすぐ先は水が満ちているようだった。残る一方からは幅の広い浮橋が闇の先へ伸びている。
「ここが夢浮橋ゆめのうきはし……?」
いつのまにか異界へとやってきた彼らは、ぼんやりと周囲を見回した。
意識が覚醒するにつれ、目前の光景に息をのむ。
自分たちがいる場所から伸びた浮橋の向こうには、深夜のような濃黒の空の下、寝殿造によく似た建物が視界一杯に広がっていた。
建物はむねごとに渡殿や浮橋で繋がれ、そこからさらに別の棟へと、際限なくどこまでもどこまでも連鎖しているようだった。
床板の下は一面の水で、陸地はどこにも見当たらない。どれほどの深さがあるのかわからないが、波ひとつ立たぬ湖面のはるか底まで、建物の足が伸びているらしい。
さらに水面下には、白蓮びゃくれんに似た巨大な植物が無数に咲き誇り、ほのかに発光していた。
蛍火のような白い光の粒がそこかしこを漂っており、こんな状況でなければ見入ってしまうほど美しい光景だ。
月や星明りも無いというのに、花や粒子のかそけき光だけで建造物や互いの姿まで難なく視認できているのが不思議だった。
と、小さな凶骨の隣に横たわっていた真っ赤な形代かたしろが、いきなり手をついてむくりと起き上がった。
「わあっ!?」
飛び上がって驚く凶骨の目の前で、形代は小刻みに震えたかと思うとたちまち一羽の鴉に変じる。
「襲…なのか?」
問いかけると、羽や首を伸ばして形代の身に馴染ませながら、鴉がこくりと首肯した。
「体に異常はないな?」
力は弱まると言っていたが会話は普通にできるようだ。四人は己の体を確認した。
顔には鬼面。衣服もうつつにいた時と同じだ。手足も問題なく動き、言われなければ魂だけの状態になっているとは思いもしないだろう。
武器の類も多少は持ち込めていた。とは言っても、懐に入る程度の最低限の荷物だけだが、何も無いよりはましである。
「問題ねえ」
四人の返答に頷き、襲は欄干の上に飛び乗った。
「この世界が夢浮橋だ。さらに言うと、今いるこのような場所は現世への道を繋ぎ易いので『夢の渡し』と呼ばれる」
夢の渡しは夢浮橋の各所に点在しているのだという。
鴉の目が、ついと橋の先にある最初の建物群へ向けられた。
「あそこにいるものが見えるか」
言われて人間たちがその方向に目を凝らすと、正面の屋敷の回廊に何か、ぼうとほの白く浮かび上がるものが、いた。
人間のような輪郭をしているが、肌も髪も、まとっている狩衣に似た衣も、すべてが白い。ひどく猫背で袖口から伸びる手は異様に細長く、指の先の長い爪を地に引きずるようにしている。
その眼窩がんかに目玉は無く、ぽっかりと二つの空洞が穿たれているばかり。当てのないようなふらふらとした歩みは枯れ柳のように弱々しく、この世の全てを忌むかのように終始俯いていた。
「あれが幻魎げんりょうだ」
「あれが……」
人間たちは生唾を飲み込んだ。
幻魎は妖怪とも幽霊とも異なる異形であり、ただひたすらに「生ける人間の魂」を求めて彷徨うだけの存在なのだという。
「奴らは生きてここへ迷い込んだ魂を恰好の獲物と捉える。お前たちに鬼面を着けさせたのは奴らをあざむくためだ」
術が施された鬼面を被っている間は、幻魎たちに存在を悟られずにいられると襲は続けた。
「現に戻るまで外してはならんぞ。極力、奴らの近くにいる間は物音も立てるな」
念を押された三人は改めて互いの鬼面の結び目を確かめた。
「凶骨は面がなくても大丈夫なのか?」
「ここで作られた器に入っている状態だからな」
小さな体そのものが、面と同じ効力を持っているらしい。
準備が整ったところで、本題である凶骨の夢探しだ。
「夢を探すにはどうすれば?」
襲が羽先で建物を示した。
「あの渡殿で繋がれた棟の一つ一つが書庫のようになっていて、内部で細かく区切られた各部屋に、今現在見られている夢が掛け軸として飾られている。その中からしらみ潰しに探すしかない」
「それってつまり、見つかるまでひたすら、ここにある全部の部屋を回らなきゃならねえって事か……?」
睡骨は若干青くなって周囲を見回した。ざっと見ただけでも十以上の建物群がある。その向こうにも連なるように佇んで見えるし、さらに果てにも無数に続いているのだろう。
「……時間がいくらあっても足りなくねえか」
この異界に飾られている何万、何十万という掛け軸の中からたった一つを探し当てるなど、不可能ではなかろうか。
煉骨が真面目な顔つきで問う。
「ここでの時間の流れは? あっちより早いとか遅いとかいう」
「現世とほぼ同等と考えて良い。ここはどれほど時間が経過しても夜のままだがな」
つまり、ここでもたもたしている分だけ現世の時間もどんどん経過していくのだ。さらには月も星もないので、時間の経過が把握しにくい。
「……ゆっくりしてられねえのはわかったが、どっから探せば良いかさっぱりだぜ」
霧骨は早くも途方に暮れたように視線を彷徨わせた。
「この地点は、ある程度現世の座標に対応している。全く見当違いなほど遠くには無いはずだが……」
襲は少し考えると、凶骨へ向けて「背中に乗れ」と告げた。
凶骨は言われた通りに身をかがめた鴉の背によじ登り、首の後ろのあたりにしがみつく。
「上から探ってくる」
小さな者たちはそう言い残して飛び立った。

上空へ飛翔する鴉の艶やかな羽毛を握りしめ、凶骨は向かい風の中で目を細めた。
普段から視界が高いので、これまで高所を怖いと思ったことは無かったのだが、今は自身の大きさの何百倍も飛び上がっているためか、眼下を見ると身がすくみそうになる。
しがみつく手にわずかに力が入った。
「怖いか」
「怖くねぇ!」
問うてくる鴉へ咄嗟にそう返したが、声がほんの少し裏返ってしまった。
ある程度の高度を確保し鴉が上昇をやめたところで、気持ちを落ち着けてそこからの眺めを見下ろしてみる。
ほのかな光をまとって闇に浮かぶ寝殿造りの建物群は、地上から想像していた何倍も広大だった。複雑に配置された大小の棟は渡殿や浮橋で枝分かれし、水平線の彼方までどこまでも続いていた。
やはりこの中からただ一枚の掛け軸を見つけることなど、到底無理な気がする。
凶骨が弱気になっていると、襲が目を向けてきた。鴉の状態だと眼は黒いんだなあ、などと思いながら見返す。
「お前の意識と感応させれば多少は在処ありかが掴めるやもしれん。入れ替わった折に見ていた夢をなるべく正確に思い出せ」
「ええ……」
急に言われても、と凶骨は困り顔になる。
彼はうーんと唸って頭を抱えた。目覚めてからの衝撃的な体験が強烈すぎて、二日も前に見た夢の記憶などほとんど残っていない。
「夢の中でも俺は小さくなってて……自分でも、これは夢だなって思ってて……」
「何をしていた? 景色などは思い出せるか」
凶骨の話に耳を傾け、鴉は広大な屋敷の隅々に目を走らせた。
凶骨の見ていた夢は、今もこの異界のどこかで続いている。そうでなければ夢の中に残された本体は夢の終わりとともに消滅しているはずで、その場合は小さな凶骨に入っている魂も何らかの影響を受けることになる。
ひとまずの所は彼がぴんぴん動き回っているので、それは無いだろうと思われた。
「そうだ、すいか……」
うんうん唸っていた凶骨がふいに声を上げた。
西瓜すいか?」
「山のようにでっけえ西瓜をたらふく食ったんだ。思い出した、西瓜だけじゃねえ、飯も、菓子も、好きなだけ」
普段の己では指先に乗る程度の量しか食えず、ほとんど味わう余地もないような食べ物が、目の前に山と積まれていた。食べても食べても無くならず、独り占めしようが食い尽くそうが、誰かに小言を言われることもなく。
最高に幸せな気分に浸っていたのだ。
「このまま…覚めなけりゃ良いのにって……」
ちらとでもそんな馬鹿なことを考えてしまったから、こんな事態になったのだろうか。
肩を落としたその時、視界の隅で白い光の筋が天に向けてほんの一瞬伸びた。
襲はそちらに首を巡らす。彼の背の上で凶骨が目を見開いた。
「い、今のは?」
「夢がお前の記憶に呼応したようだ。煉骨たちにあの辺りを調べさせよう」
言うと襲は眼下で待つ者たちのもとへ舞い戻り、目標の方角を羽先で示した。
「向こうの渡殿を渡った先の対屋たいのやにあるようだ」
「さっき光った場所か」
煉骨たちの顔にわずかに希望が差した。広大な異界を当てもなく探すのに比べれば、大雑把にでも方角と範囲がわかるのは大分ありがたい。
うつつの世から侵入してきた者たちは、対屋を目指して駆け出した。
最初の浮橋を渡ると数段のきざはしから簀子縁すのこえんに上がる。そこから障子やふすまで区切られた母屋をぐるりと迂回し、渡殿を目指す。
光は割り方近くに見えたように感じられたが、その実寝殿造りの建物は見た目以上に広大で、ひとつの棟を横断するだけでも大層な時間がかかった。
いくつもの棟や渡廊を通り抜け、ようやく目当ての対屋にさしかかった頃には、鴉と凶骨を除く皆が肩で息をしていた。
光の出どころである対屋は寝殿にあたる中央の建物に比べるといささか小ぶりなようではあるが、それでも途方が無いほど広大で、妻戸を開いて踏み入ると、やはり廊の両側には無数の襖が立ち並んでいた。その一つ一つが書庫となっているのは変わりない。
「こっから先は地道に探すしかねえんだな」
睡骨は試しに一番手近の襖を開く。
すると内部は外見以上に奥行きがあり、壁一面にずらりと掛け軸が飾られた一種荘厳な眺めを呈していた。その下には壁に掛けきれぬ分なのか、巻かれた状態のものも大量に置かれている。
一同は部屋の中に入り、掛け軸を眺める。
掛け軸に描かれた絵はそれぞれが全く異なる情景を映しており、刻一刻とその内容が微妙に変化していた。
「はぁー……絵が動いてら」
呆けたように霧骨が呟く。
襲の話では、掛け軸の絵に触れるとその中へ入り込めるということだった。
つくづく現実離れした話である。
最初の部屋を調べ終わり再び廊へ出ると、煉骨が「二手に分かれよう」と提案した。
睡骨と煉骨の組は今し方通ってきた渡殿から見て右回りに、霧骨と襲、凶骨の組は左回りに対屋の各部屋を確認していく手はずとなる。
睡骨と煉骨の方で目的の掛け軸が見つかれば、笛を吹いて襲に知らせ、凶骨を連れてきてもらうのだ。
別れる直前、襲は彼らにひとつ忠告した。
「侵入した夢が万一覚めそうになったら、すぐに出てこい。夢が終わるのと同時に、内部にあるものは全て消滅する」
「しょ、消滅……!?」
霧骨がぞっとした顔で反芻した。それはつまり、まかり間違って取り残されれば己もそのまま死ぬと言うことではないか。
煉骨たちは表情を引き締め、肝に銘じる。
凶骨が狼狽ろうばいも露わに彼らの顔を見上げた。
「み、みんな……、くれぐれも、俺なんかのために無茶しねえでくれよ……」
自分の本体を無事取り戻せたとしても、引き換えに誰かが欠けてしまったのでは大兄貴に合わせる顔が無い。
「はっ、無茶ならもうとっくにしてるだろうが」
「違いねえ。どこの世界に夢の中まで探し物しに来る無茶苦茶な話があるよ」
気丈な笑みとともにそう言い残して煉骨と睡骨は右手の廊へ駆けて行った。
霧骨はちらと凶骨を見下ろす。二人の背を見送る彼は顔をくしゃくしゃに歪めて、ずび、と鼻をすすっている。
「……俺らも行くか」
のたのたと左の廊へ走りだす霧骨に、凶骨を乗せた鴉が追従した。

 

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