霧骨たちは左の廊下を挟む形で無数に連なる部屋を、総当たりで一つ一つ検めた。
間取りが異なるように見えていたが、どの部屋も入り口を開けて踏み入れば同じ広さ、奥行きで、ともすればどちらから来たのかも曖昧になってしまう。そのため目印として、捜索後の部屋は入り口を閉めず開けっ放しにしていた。
廊にむけて開かれた幾つもの襖や障子戸の奥に、掛け軸が一様に列をなしているのが覗いている。
あれの一つ一つが、誰かの見ている夢だというのだ。
見る者もいないのに、なぜ掛け軸として飾られているのか。誰が飾っているのか。人間の自分たちには関係ないと言えばそうなのだが、つくづく不可解な事ばかりである。
「ここには、あの幻魎っつー化け物しかいねえのか」
部屋を物色しつつ、霧骨が襲に尋ねた。
この棟にたどり着くまでに幾匹かの幻魎を遠目に見かけたが、彼ら以外の生物がいる気配は感じられない。屋敷の床下に広がる水の中には蓮の花が咲いているが、魚影らしきものは一つも確認できなかった。
部屋の隅に積まれた、巻かれた状態の掛け軸を足と嘴で器用に広げていた鴉が答える。
「ここに棲息しているという意味ではそうだ」
同様に、結ばれた紐の口を解こうと奮闘しながら凶骨が問うた。
「俺らみてえに人間が来ることって、あるのか?」
「さほど頻繁ではないが、無いことは無い。大概は何かの拍子に掛け軸の中からこちらへ迷い込んで来るのだ」
ごく稀に、夢の中とこの異界を結ぶ入り口に足を踏み入れてしまう者がいる。そしてそれらの無防備な魂は、ほとんどの場合において自らの状況を理解できぬまま、幻魎たちの餌食になってしまう。
昨夜まで元気に過ごして持病にも無縁だったような人間が、朝になったら冷たくなっていたという話は、不幸にもそういう事態に見舞われてしまった者であることも多いのだという。
「夢の中だけは誰しも幸福で安全、ってわけにもいかねぇもんだな」
自由な夢の中から一歩外に出た先は、自分たちを捕食する化け物が徘徊している世界だなどと誰が思うだろう。
しかしながら眠ることを止めることはできないし、対策の取りようもない。
文字通り夢も希望も無えな、と霧骨は嘆息する。
「他にここを訪れる者といえば、妖怪以外には……死人の霊魂か」
「死人の? 幽霊ってことかよ」
「有り体に言えばそうだ。死霊は己の意思でここへ来れるし、幻魎の捕食対象にはならんから、気が済めば彼岸へ帰っていくが」
そもそもあの世だの彼岸だのをあまり信じていない霧骨たちにしてみれば、なかなかに理解が追い付かない。しかしこうして夢浮橋というこれ以上なく現実離れした世に来てしまっている以上、そんなものは絵空事だと笑い飛ばすこともできなかった。
「そもそも、幻魎ってのは何者だ?」
「夢の中から溢れだした、感情の残滓とでもいうものが寄り集まった存在だ。奴らには生や死という概念がない。自然発生し、時間の経過で消滅する」
「感情の……残滓?」
「夢を見ている間は、基本的に覚醒している時ほどの感情の抑圧を受けんだろう。喜怒哀楽や怨嗟、嫉妬といったものが激しいほど、掛け軸に収まりきらず溢れていく」
と、感情表現が限りなく乏しい鴉天狗は語る。
現実で我慢を強いられる分、夢の中で思い切り感情を爆発させれば、それらが幻魎を生む種となるのだ。
霧骨が後頭部で手を組んで遠い目をした。
「じゃ、俺が夢の中で女たちと遊んだ時の楽しさから生まれた化け物も、どっかをうろうろしてるかもな……」
そう考えるとどこか滑稽だ。あらゆる感情をまぜこぜにした結果が、あんな虚無の塊のようなものになるとは。
霧骨はいくつ目になるかわからない部屋の扉を開けた。
そこもこれまでの部屋と変わりなく、壁に飾られた大量の掛け軸の中で刻一刻と物語が紡がれている。
残念ながら、どれも到底凶骨の夢の特徴とは程遠い。
「うーん、見つからねえなあ」
唸りながら掛け軸を見回っていた霧骨はふと、一度通り過ぎた掛け軸を再度見返した。
絵の中にいる女が、こちらを熱っぽく見つめているような気がしたのだ。
なかなかに良い女だな、とわずかに興味をそそられて掛け軸に向き合う。
「のわっ!?」
突然響いた霧骨の声に凶骨と襲が振り返ると、霧骨が掛け軸の中から伸びた白い手に引きずり込まれそうになっていた。
「霧骨!?」
凶骨は咄嗟に跳び上がって白い腕にしがみつき、思いきり歯を立てて噛みついた。手は仰天してひとしきり暴れまわり、するすると絵の中へ引っ込んでいく。凶骨がそのまま掛け軸へ連れ込まれかけたところを、すんでのところで襲が襟首を咥えて回収した。
「な、何だったんだ今の……」
へたりこんだ霧骨が目を白黒させて呟く。襲の嘴から降ろされた凶骨は、白い腕が戻っていった掛け軸の絵を見上げた。
絵の中では執着の強そうな顔をした女が憎々しげに歯形のついた己の腕を擦っていた。そうしているうちに輪郭が滲み始め、やがて掛け軸は四隅からじりじりと焼け焦げるように消失していく。
「凶骨に噛まれた驚きで目が覚めたらしい」
「今の女も幻魎……?」
「いいや、その手前だな。感情が強過ぎて一時的に夢が具現化したのだろう。大した力は無いが、よほど男に執念を抱いていたようだ」
掛け軸の中からはこちらの様子は見えないはずで、つまりあの女は、「誰か男がいる気がする」という勘だけで霧骨を引きずり込もうとしたわけである。
「あれがただの夢? 怖すぎるだろ……」
彼女が現実で執着しているであろう男に「今すぐ逃げろ」と教えてやりたいところだが、無論そんなことができるはずもない。
「霧骨、怪我ないか」
凶骨がおろおろして駆け寄ると、霧骨はのたりと立ち上がって尻を払い、「何ともねえ」と返した。
室内を見回し、凶骨は肩を落とす。
「この部屋にも、俺の夢は無いみてえだ」
「ほんとにこの棟にあるんだよな」
霧骨が疑いを含んだ声を襲に向けた。
「それは間違いない」
確かに凶骨の意識に反応して光を発したのはこの棟のいずこかからだった。
小さく嘆息する霧骨とともに部屋を出ようとして、凶骨は襲が天井を見上げているのに気付いた。
「どうかしたのか?」
「あれを捕らえる」
あれ? と凶骨と霧骨がその視線を辿ると、天井に鼠がかじり広げたような小さい穴が開いており、そこから何かが顔を覗かせていた。
黒く短い毛に覆われた小さな獣で、長い鼻先が下顎を越えて垂れ下がっている。二つの円らな瞳が興味津々といった風情でこちらをじっと見ていた。
「なんだあいつ」
「獏だ」
言うが早いか、襲は凶骨を咥えて瞬く間に飛び上がった。
獣はしまった、という顔をして慌てて穴に引っ込んだが、一瞬後には襲もまたその穴へ突っ込んでいた。鴉の大きさの分だけ穴が広げられ、みしりと言う音とともに木片が降り注いでくるのを霧骨が無言で見上げる。
天井裏でばたばたと何かが転げまわる音がしばらく続いていたが、やがて獏を足に掴んでぶら下げた鴉が穴から戻ってきた。
「はなせっ、はなせよぅ!」
捕らえられた妖怪――獏が子供のような高い声で喚く。
その顔面にはなぜか凶骨が貼りついて、視界を塞いでいた。
「……なんでそんなことに」
霧骨の純粋な問いに、凶骨もぽかんとした顔で首を傾げた。
「襲が、咥えてた俺をこいつ目掛けて投げつけたのまでは覚えてる」
暗い天井裏で一瞬の出来事だったため、何が何だかさっぱりわからなかったが、ひとまずは鴉の目論見通りに事が運んだらしい。
「おいらが何したって言うのさ!」
凶骨がのろのろと顔面から降りると、鴉の足で床に押さえつけられたままの獏が短い手足をばたつかせ、くわっと牙を剥いた。だが、小さな犬歯が覗くばかりでさほどの迫力もない。
霧骨たちはまじまじと小さな獣を眺めた。
獏といえば夢を食べる幻獣だという話は有名だ。実在するとも、こんな形で会うことになるとも全く予想していなかったが。
「すまんが、頼まれてほしい事がある」
「それが人にものを頼む態度かー!」
思いきり踏みつけておきながら鹿爪らしく言ってくる鴉に、獏は怒号した。
確かに、ただ天井から傍観していただけの獏にしてみればあんまりな仕打ちだろう。そりゃ怒るわと、凶骨と霧骨は同情を覚える。
「逃げぬなら離すが」
「追いかけて来なけりゃ逃げんわ!」
ふむ、と目を瞬いて襲は獏の上から退いた。
獏は起き上がると腹を立てた様子で体毛を逆立てた。しかし兎ほどの大きさしかないのでこれっぽっちも怖くはない。
「で、鴉と人間がこんな異界に何の用だよ」
「とある夢を探している。お前ならすぐに見つけられるはずだ。協力してもらいたい」
獏は面倒くさそうに顔をしかめた。
「そんなことして、おいらに何の得があるってんだ」
「俺の夢を喰わせてやる」
「はん、鴉の夢なんか……」
言いかけて、獏は襲を二度見した。今になってようやく正体に気付いたらしい。
「えっ……あー……ふ、ふーん。まあそういうことなら……協力してやっても、良い、かなー……」
勿体ぶった言い方をするものの、獏にとっては喉から手が出るほど甘美な提案だった。
鴉天狗の夢を食したとなれば、食通の多い獏界でしばしの間注目の的になれるかもしれない。
内心の興奮を悟られぬよう、こほんと咳払いして目をすがめる。
「まあ、聞いてやろうじゃないか。どんな夢なのさ」
凶骨が答えた。
「食いもんが山のようにあって、食べても食べても無くならねえ夢だ」
「強欲な夢だなあ」
呆れた風情の獏は長い鼻を凶骨に引っ付けてにおいを覚え、ついで顔を上げて鼻をひくつかせた。
「あっちから食べ物の良い匂いがするよ」
「本当か! よしっ、案内しな」
獏が短い手で指し示すや、霧骨はその首根っこを引っ掴んで部屋を飛び出した。その後を凶骨を乗せた鴉が追いかける。
「ちょっと!! もっと丁寧に扱え――――!!」
獏の甲高い怒号が静謐な夢浮橋に響き渡った。