先に帰還した凶骨と睡骨たち、そして現世に残っていた蛮骨らが見守る前で、中空に開いていた円環が一瞬光を放ち、中から襲と、小さな一つの光が飛び出してきた。
着地した襲は、間髪を入れず夢浮橋ゆめのうきはしへの道を閉ざす呪言まじないを口にする。
あまねくは空言そらごと 泡沫うたかたかすみとなりて 浮舟よ沈め」
唱え終わると同時に、頭上に開いていた空間が薄氷を砕くような音を立てて霧散した。
一方、小さな光は煉骨の胸へ吸い込まれるように消えていき、閉じられた彼のまぶたがぴくりと震えた。
「よ……良かったぁぁ、全員戻ってこれた」
無事に本来の大きさを取り戻していた凶骨が、へなへなと座り込んで盛大にしゃくり上げる。睡骨と霧骨が戻ったすぐ後、襲が張り詰めた様子で円環に身を投じたので、煉骨が危険なのだと気が気ではなかったのだ。
「煉骨、大丈夫か」
蛮骨たちが周囲に集って煉骨を覗き込んだ。
小さな呻き声とともにゆっくりと開かれたその目がじんわり潤んでいるのを認めて、言葉を失う。
「お、おい、本当に大丈夫か? 何があった……?」
煉骨はのろのろと身を起こし、大きく深呼吸してから、袖口で目元を拭った。
「ジョージが…助けてくれた……」
えっ、と仲間たちが瞠目する。
「ジョージって……あの?」
戸惑った様子で蛇骨が聞き返すが、煉骨は頷いただけで顔をうつむける。
「お前を助けたいという気持ちが強かったのだろう」
場の後始末をしていた襲が、手を動かしたまま静かに言った。
あの場所はこの世ともあの世とも異なる。「思い」の力が強く働く世界だからこそ、ほんのわずかな時間ではあるが、死人の魂も手出しが叶うのだ。
「……何も、伝えられなかった」
顔を伏せたまま煉骨が呟く。
言いたいことが山ほどあったはずだ。
なんであんなところで死んだ。ちょっとは抵抗しろ馬鹿野郎。助けられなくて悪かった。一人にするんじゃなかった。
――あの本を、今でも大事に持っているから。一生手放さないから。
一つとして声にならなかった。
突然の出来事だったとはいえ、自分は千載一遇の機会を棒に振った。
そしてきっと、こんな奇跡は二度と起こらない。
沈鬱な表情で拳を握りしめる煉骨を見ていた蛮骨は、やがて嘆息すると煉骨の額をびしりと指弾した。
「でぇっ!?」
常人のそれとは威力が桁違いなそれに、目覚めたばかりの煉骨は冗談ではなく気が遠のきかけた。それを知ってか知らずか蛮骨が口を開く。
「ばーか、何を落ち込む必要がある」
「え……?」
今度は痛みのあまり涙目になっている煉骨に、蛮骨は目をすがめて苦笑を向けた。
「お前の気持ちが届いてるから、助けに来てくれたんだろ」


一夜明け昼時にさしかかった縁側で、襲は腰掛けた煉骨に左の裾を捲り上げさせ、足首のあたりを視診した。
その様子を蛮骨と蛇骨が、煎餅せんべいを片手に頬張りながら観察している。
夢浮橋に行くことができなかった彼らは、あちらがどんな場所なのか大変に興味をそそられていた。
しかし実際行った四名はあの後すぐ泥のように寝入ってしまい、目を覚ましたのはつい先刻なので、まだ子細を聞けていない。
足首にくっきりと青紫の手形が刻まれているのを見て、二人はうわあと声を上げた。
「それがあっちの化け物に掴まれた時の?」
蛇骨の問いに煉骨は眉をしかめて頷く。掴まれたのは魂の状態でだが、先ほど目を覚ましたら身体の方にもしっかりと痕が現れていた。
掴まれた感触を思い出すと今でも鳥肌が立ちそうになる。
足を支えて持ち上げた襲は青くなった箇所に触れた。
「痛みはあるか」
「いいや。ただ、なんかずっと冷えてるような感じがして、感覚がねえ」
襲はそこを手で覆った。
はらたまい、きよたまえ」
清浄な気が小さく渦を巻いて膝から下を包み込む。手を離すと手形は痕も残さず消えており、同時に煉骨の感じていた悪寒が鳴りを潜める。
「おお」
素直に感嘆の声を上げる彼らに、襲はわずかに視線を落とした。
「……すまなかったな。やはり異界にお前たちを連れて行くべきではなかった」
「こっちが無理言って付いてったんだ。化け物たちにばれたのだって、俺らの不注意だったしよ」
煉骨はそう返したが、襲は静かに首を振る。
「駆けつけるのがわずかでも遅れればお前の魂は喰われていた。あの男が幻魎を攻撃していなければ、間に合わなかったかもしれん」
どうやらこちらが思う以上に責任を感じている様子の鴉天狗に三名は顔を見合わせ、煉骨は何とか話題を変えようとする。
「そういやあんた、最後はその姿のまま夢浮橋に来れてたよな」
「お前の魂が境界のすぐ近くまで来ていたからな」
ごくわずかな時間であれば、道を繋いだまま形代かたしろを介さず直接の行き来が可能だったのだと言う。煉骨が異界への玄関口である「夢の渡し」までは到達できていたのが幸いした。
「形代の状態であそこまで力が落ちるとは思っていなかった。次の機会までに、もう少しやり方を考えておく」
「……次が無いことを願うが」
切実に煉骨は呟いた。
一息ついて空を見上げる。降り続いていた雨もそろそろ終わりを迎えるのか、雲間から陽光が覗き始めていた。
「ジョージはあの後……どうなったんだろうか」
ぽつりとこぼれた言葉に、蛮骨と蛇骨も表情を曇らせる。
自分の身代わりとなって幻魎たちに食われてしまったのではなかろうかと、そればかりが気がかりだった。
「奴らは彼岸の霊魂に手出しできない」
襲が淡々と言葉を返す。
夢の残滓から生成された幻魎たちは、潜在的に夢の中への帰還を渇望しているのだ。それが決して叶わぬことだと理解できないまま、あの世界を彷徨っている。
自分たちを生み出す元となった生者の魂は希望であり、それを喰らえば安寧の地へ戻れるはずだと――思考も感情も持たぬまま、本能の中で永遠に勘違いをし続けている。
逆に言えば、生者の夢をにすることはあっても、それ自体が夢を見ることはない死者の魂は、彼らにとっては何の価値もない。
「心配せずとも、あの男は再び彼岸へ戻っている」
「そうか、無事なんだな。……死んでるのに無事って言うのも、変かもしれねえけど」
煉骨はいたみを滲ませた笑みを刻み、膝上に置いた洋書の表紙をそっと撫でた。
せめて名を呼ぶことができたなら、その中に様々な思いを込めることができたかもしれない。
だが、直接声が届く夢浮橋でそれをすればジョージの魂はこの世に縛られ、正しい輪廻の道から外れてしまうのだと、こちらに戻った後で襲に教えられた。
書物を見下ろす煉骨に、襲は静かに告げた。
「大切にしてやれば気持ちは届く。思い出してやることが何よりの供養だ」
「はは、ずいぶんと人間じみたこと言うな。がらにも無えけど、あんたに言われると本当にそんな気がしてくるぜ」
小さく苦笑をこぼした煉骨の隣でジョージが安心したように微笑んで静かに消えていくのを、襲だけが視認していた。
その時、どしんどしんと耳慣れた足音が近づいてきた。
「煉骨の兄貴、昨日は本当ありがとうよ」
恥ずかしげに頭を掻きながら凶骨は頭を下げた。
「おう、今度はそんなでけえせ物しねえでくれよ」
凶骨は「まったくだ」と笑い、次いで鴉天狗に目を向ける。
「あと、あんた……襲にも、世話になった」
「いや、俺は大したことは……」
襲は無表情で首を振る。
「あんたに乗るのもあれが最初で最後だと思うと、今になってもうちょっと楽しんでおけば良かったなと思い始めてよぉ」
「ちょっと待て」
場に似つかわしくない、ひどくどすの利いた声が響いて、一同は声の出所を――蛇骨を振り向いた。
「襲ちゃんに、乗る? 楽しむ? ――――は?」
凶骨にぎらついた眼光を向ける蛇骨に、蛮骨と煉骨は大方を察してこめかみを押さえた。
おそらくというか十中八九的中しているが、蛇骨は頭の中で大変にいかがわしい想像をしているに違いない。
「信じられねえ。俺が最初に可愛がるつもりだったのに、よりにもよって凶骨!? うっそだろ、ありえねえ……」
兄貴分二人の白い目を気にも留めず、蛇骨は鼻息も荒く凶骨へ詰め寄る。
「で、どうだったんだよ感想は。できるだけ詳しく」
「感想か? 手触りが良くてつやつやしてて心地良かったなあ。あと掴んでると温かいんだ」
「おい凶骨やめろ」
頭痛を覚えたような蛮骨の制止も後の祭りで、完全にあらぬ方向へ誤解した蛇骨は両手で襲の手を握りしめ、深紅の双眸を熱い眼差しで覗き込んだ。
「襲ちゃん、ちょーっと俺の部屋行こうか。なに、安心してくれよ、凶骨が大丈夫なら俺なんか余裕だから」
「……?」
目を瞬きつつも蛇骨に手を引かれるままに立ち上がりかけた鴉天狗の襟首を、煉骨ががしっと掴んで引き戻す。
「自分の貞操は自分で守れって教えただろ」
「……今がそれなのか」
煉骨は力強く頷く。
「兄貴っ、邪魔しねえでくれよ! 俺が終わったら貸してやるから!!」
「貸すって何だ!? てめえはさっきから何を勘違いしてやがる!!」
「だからさぁ、俺が触ってみろっつった時に触れば良かったんだよ。興味がねえ振りして機会を逃すから、今になって俺に先手を取られるのが悔しいんだ。むっつり兄貴め」
出遅れ兄貴は引っ込んでやがれ、と舌を出す蛇骨に、煉骨の額に青筋が立つ。
「てめえ、いい加減にしろよ……」
ふるふると拳を握りしめて、煉骨はぎろりと蛇骨を睨んだ。
「こいつら、何の話をしてるんだ?」
「さて……」
蛮骨の問いに襲が首を傾け、彼らは言い争う蛇骨と煉骨の代わりに凶骨を交えてまだ残っている煎餅に手を付け始めた。
凶骨は、自分の指先にかろうじて乗っているだけの小さな煎餅をじっと見つめた。口内に放り込むと、多少湿気しけっているが香ばしい味が舌の上に広がる。
――独りぼっちで無限にものが食えるよりも、こっちの方がずっと美味いや。
そう、思った。

 

それからしばしの後、蛇骨からさらに油を注がれた煉骨によって、縁側の一角に雷が落ちたのは言うまでもない。

<終>

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