雲居くもいの花

 

両親を立て続けにうしなったのが数年前、二十を迎えて間もない頃の事。それからは独り、両親が遺してくれた唯一の財産といえる畑の世話ばかりを楽しみに細々と暮らしてきた。
その日の始まりも、いつもと変わり映えのないものだった。日の出とともに起き、顔を洗い、軽い朝餉を口にして畑に出た。
雑草の手入を済ませ苗の間引きをしていた時の事である。ふいに頭上を何かの影がぎった。
見上げてみれば一羽の白鳥しらとりが、村はずれに広がる森の方へと飛んでいくところだった。
仕事の手を止め、青空にくっきりとその姿を刻む羽ばたきを凝視する。
白鳥が渡るような季節ではない。それに、ここらは遥か上空を通過こそすれ、影が落ちるほど低い位置を飛ぶことなどほとんどない。群れではなく一羽だけというのも珍しかった。
常であれば「まあそんなこともあるだろう」と適当に流したはずなのだが、なぜかその日は無性に興味を惹かれた。気付けば仕事も半端にして、白鳥が舞い降りた森へ踏み込んでいた。
子どもの頃には遊び場にしていた森で、どこに何があるか大まかに覚えている。記憶を頼りに進み続けると、やがて目の前が開けて澄んだ水を豊富にたたえた泉に行き着いた。
静かで美しい景観だが、道から外れているために人はほとんど訪れない。子ども心に秘密の場所として気に入っていた場所である。
白鳥が飛来すると考え、真っ先に浮かんだのがここだった。
すぐに視線を巡らせ白鳥の姿を探すが、影も形も見当たらない。ここではない場所へ降り立ったのか、それともすでに飛び去ってしまったのか。
わずかに落胆すると同時に、そもそも何故あの鳥にこれほどの執着を覚えて探しに来たのだろうかと、自分でも疑問に思う。いい大人が鳥一羽に気を逸らせていた姿を客観的に思い返し、恥ずかしさで顔が熱くなってくる。
考えるまでもなく、仕事をほっぽり出してまでする事ではなかった。さっさと帰ろう。
きびすを返す直前、久方ぶりに訪れた泉を最後にもう一度眺め渡し――

目を、奪われた。

一度目は何の影も無かったはずの泉の浅瀬に、誰かがいる。線の細さや背格好からして女性だ。
腰元まで泉に浸かったその人は、こちらに背を向け身を清めていた。白い肌に貼りつく濡れた襦袢が、滑らかな体の曲線を覆い隠している。
――さっきの白鳥。
直感がそう告げてきた。突拍子もない発想にもかかわらず、ひどく確信めいて己の思考に根付く。
彼女はこちらの存在を悟る様子もなく、透き通った泉水をすくい上げては肩や髪を濡らす。背に流れる、淡く灰色を帯びた髪が艶やかに水をはじく様は息を呑むほど美しかった。
この人は誰だ。
本当に、あの白鳥なのだとしたら。
水浴びを終えた後は、再び飛び去ってしまうのだろうか。
――行かせたくない。
行かせてしまったら、一生後悔する。そんな警鐘が耳の奥で激しく反響する。
今までの人生でこれほどの衝動を覚えたことはなかった。
辺りに視線を彷徨わせると、自分から少し離れた位置に生える木の枝に、彼女が着ていたと思しき衣が一まとめに掛けられているのが見えた。
豊かなひだをひらひらとなびかせる、見慣れない装飾の衣服。その中に、ひときわ目を引く山吹色の薄絹がある。
他の衣が重力に従い枝から垂れ下がる中、不思議とその薄絹だけは風も無いのにふわふわと浮き上がろうとしていた。どうやら他の衣を重石代わりに被せることで、勝手に飛んでいくのを防いでいるようだ。
薄絹が波打つたび、虹を思わせる七色の色彩がその表面に現れている。
それを見た途端、脳裏を幼い頃聞かされた伽話がおぼろげに過ぎった。今の今まで思い出すことなどなく、これといった印象にも残っていなかったはずの、物語。
まさか。
ひらめきに背筋が強張った。心臓が早鐘を打ち、潜めている呼吸が速くなる。
まさかそんな。そんなわけが。
でも、目の前の光景は──。
水音が響く。
我に返った時にはもう、薄絹を握り締めていた。

 

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