正午を告げる鐘の音が遠く聞こえてきたのを機に、彼らは布探しを打ち切った。
図らずも八雲の住む村と蛮骨たちの行く先が同じ方角だったため、道中彼女を送っていく形になる。無論、これも霧骨が「女一人じゃ物騒だから」と懲りずに余計な提案をしたためなのだが。
結局、八雲の探し物は手掛かりさえも見つかっていない。
失くしたのが数年前ではそれも当然だろう。他の誰かや、獣などが持って行ってしまったのではないか。あるいは風で飛ばされ泉の底に沈んでいる可能性も高い。
小鳥が鳴き交う森の小径を行きながら、霧骨は前を行く八雲へどことなく気まずげに言った。
「言いにくいが……探してるもんは、もう諦めた方がいいんじゃねえか」
よしんば見つかったとしても原形を留めていないような気がする。
八雲は多少の間を置き、困ったような笑みを零した。
「ええ…そう、ですよね。自分でもそう思ってはいるのですが……何分、大切なものでして」
「いくら大事だってもなぁ……言い方は悪いが、布は布だろ? 他じゃ替えが効かねえほどのもんなのかい」
「ええ、まぁ」
八雲は曖昧に首肯するばかりで、詳しい事情を語ろうとしない。
そこまで大切な布とは何だろうか。何か思い出の品であるとか、故人の形見だとか。ぱっと思い付く理由といえばそのくらいだ。それでも、失くして数年も経てば諦めがつきそうなものだが。
歩き進むうちに森の木々はまばらになり、頭上に青空が広がった。なだらかな傾斜を下りながら前方へ伸びる一本道の先に、小さな集落が見える。
道なりにしばらく歩き、距離を置いて点々と立ち並ぶ家々を何軒か通り過ぎたところで、八雲は一軒の家屋へと足を向けた。
茅葺かやぶき屋根の、三人ほどが住むのに手頃な大きさの家である。庭先を季節の花がささやかに彩り、裏手にはそこそこに広そうな畑があるのが見えた。
戸口の前に一人の男がおり、かがんで足の土を払っていた。男がこちらの足音に反応して顔を上げた。
「八雲」
呼びかけてこちらへ近づいてくる。霧骨が形容しがたいうめき声を漏らした。
「何でえ、亭主持ちかよ……」
聞き逃さなかった煉骨が半眼を向ける。
「人妻じゃなけりゃ可能性があるような言い方をするな」
「はぁ。短けえ夢だったぜ」
歩み寄ってきた男は三十手前と見える、やや背の低い柔和な面立ちの百姓だった。つい今しがたまで野良作業をしていたらしく、全身から土と緑のにおいをさせている。
彼は安堵した様子で八雲に微笑んだ。
「姿が見えなかったから心配したよ」
「ごめんなさい。いつもの所へ行っていて」
八雲が答えると、彼は困り顔を浮かべる。
「一人で出歩いたら危ないじゃないか……。声をかけてくれれば、一緒に行くのに」
「ええ、反省しています。危うく恐ろしい人に襲われかけて」
男はさっと青ざめ、無事を確かめるように八雲を上から下まで見回した。彼女は安心させるように蛮骨たち三人を示す。
「こちらの方々に助けて頂いたんです。それに、探しものまで手伝って下さって」
「えっ、それは申し訳ない」
男は蛮骨たちに向き直ると、幾度も頭を下げた。
「夫の翔馬しょうまと申します。妻が大変お世話になったようで」
恐縮しきる翔馬は、見るからに気弱で純朴そうな男だった。華のある容姿の八雲と並ぶとどうにも見劣り感が否めない。
「せめてものお礼に、昼を馳走させてください」
顔を上げた彼はそう言って八雲に向き直り、
「ついさっき収穫したのがあるから、それを使っておくれ」
と頼んだ。八雲は快く応じる。
「すぐに支度をしますね」
家の中へ消えていく背を見送り、思いがけず昼餉の当てができた三人は内心でぐっと拳を握る。
「美人な奥さんでうらやましいぜ」
世辞ではなく本心からしみじみ呟く霧骨に、翔馬もまんざらではなさそうに後ろ頭を掻いた。
「俺には勿体ないくらいで」
「あんな別嬪さんとどこで知り合ったんだい」
「……、四年前、野菜を売りに市へ行った時に」
三人は目をしばたいた。
今、微妙な間があったような。
続けて煉骨が問い重ねる。
「いつもの所、と言ってたな。あの泉にはよく行くのか」
「ええ。妻の失くし物を探しに」
「それって、布なんだろ? そんなに特別なものなのか」
「え? さあ、俺も見たことがなくて。見当もつきません」
翔馬はゆるく苦笑を浮かべる。
昼餉支度の音が聞こえ始めた戸口を見つめ、彼は独り言のようにぽつりと言葉を落とした。
「まだ……諦めきれないんだな」
三人は無言でちらと視線を交わしたが、それ以上の追及はしなかった。

昼餉を済ませると、翔馬は再び裏の畑へ戻っていった。
食後の一服を終えた三人もそろそろ出立するかと腰を上げかけたところ、やにわに家の戸を叩く者がいた。
「ごめんください。ごめんくださいませ」
八雲が返事をして引き戸を開けると、恵比寿のように愛想の良い顔をした小太りの男が立っていた。
「どちら様でしょう」
「いや、お昼時にいきなり押しかけてすみません。私めは古物商をやっとる者でございまして、何かお売り頂けるものがあればとこうして一軒ずつ回らせてもらってる次第です。壊れた品でもありがたく買い取りますよ」
「はぁ。うちにはお売りできるようなものは何も……」
八雲が頬に手を当てそう答えると、商人の男は「そうですか」と返しつつ背負っていた葛籠つづらをどかりと上がりかまちに下ろした。
「そりゃ残念。じゃ、代わりと言っちゃ何ですが、お時間があればちょいと品を見てみませんか」
最初からこちらが本命だったのだろう、古物商は八雲が何か言う隙を与えず、実に素早い手際で葛籠の中の品物を床に広げ始めた。押しに弱いところがあるようで、八雲は困った顔をしながらも断り切れぬまま並べられていく品々を眺めている。
「俺にも見せてくれ」
煉骨が横から身を乗り出して商人の扱う品を覗き込んだ。まれにだが、書物や武器など思いがけない掘り出し物があったりするのだ。
煉骨に付き合い、残る二人もどれどれと品定めを始める。買い求めるほど欲しいわけではないが、日用品から骨董、我楽多がらくたたぐいまで雑多にひしめく様は、眺めている分にはそれなりに面白い。
「おや?」
男三人が品を冷かす様をにこにこと見ていた商人が、ふと何かに思い至った様子で家の中を見回した。
「あ、そうか。ここはあのお宅でしたねぇ」
こんなお綺麗な奥様がいると思いませんでしたからすぐにわかりませんでした、と頬をかく。八雲が首を傾けた。
「以前、うちにいらしたことが?」
「ええ。三年くらい前でしたかね」
今と同様にこの近辺を渡り歩きながら古物を求めていた折、この家にも立ち寄ったのだという。ちょうど家にいた翔馬が相手をしたらしい。
「あの時に売って頂いた絹織物は、大変良い品でしたなぁ」
当時を回顧してほくほくとした顔で語る商人に、八雲は意外そうな目をする。
「この家にそんな上等な品が? 私は覚えがありません」
「ええっ、あんなに見事な絹を、奥さんはご存知なかったと? よく似合いましたでしょうに勿体無い」
「どのような品だったのでしょう」
驚き顔の商人に、八雲は興味を惹かれた面持ちでいた。見るからに質素なこの家に上等の品というのも確かに不釣り合いなので、出立を先延ばしている三人も耳を傾ける。
そりゃあもう、と商人は大げさに手を広げて語った。
「一見すると山吹に似た色合いなのですが、ひとたび陽に当てると虹のごとく七色に輝きましてね、さらには虫の羽みたいに薄くて、風が吹けば飛んでいきそうなほどに軽い」
長らく様々な品を扱ってきた古物商だが、あのようなに美しい品は後にも先にも見たことが無いと熱く述べる。本当に売ってもらって良いのかと幾度か念押ししたほどだそうだ。
「構わないから持ってってくれってんで、ありがたく買い取らせて頂きましてね。……そうしましたら、その後」
商人は他者に聞かれるのをはばかるかのように声を潜める。
「何とあの品、珍品集めをたしなまれるご領主様の御眼鏡おめがねかないまして、大層な価格でお引き取り頂いたんですよ」
その時の商談がまぶたに浮かぶのか、商人の目尻は下がり、対照的に声は上擦っていた。蛮骨たちが「へえ」と感心する。
「本当にそういう事もあるんだなぁ」
こんな一庶民の家から宝が転がり出るとは。
この仕事の面白いところです、と商人は両手を擦り合わせる。
「良い思いをした私が言うのも何ですが、旦那さんはよくもあんな逸品を惜しまずに手放されましたよ。ねえ奥さ…ん」
商人の声がなぜか尻すぼみになったのを受け、三人も何気なく八雲に目を向けた。
商人の話を聞く間、相槌ひとつ打たずにいた彼女は、瞬きも忘れたように面を蒼白にしていた。

何やら不穏なものを感じたらしき古物商がそそくさと暇を告げるや、八雲は無言のまま家を飛び出し、畑にいる夫のもとへ駆けていった。
蛮骨、煉骨、霧骨の三人は呆気にとられながらも、とりあえずその後を追ってみる。追い付いた時には、仕事の手を止めた翔馬がうねの狭間で八雲に詰め寄られていた。
「どうしたんだい八雲、顔色が悪いようだけど」
気遣わしげに問う翔馬を、八雲は真っ直ぐに見上げる。
「今し方……」
か細い声がした。華奢な身体は後ろから見ていてもわかるほど打ち震えている。
「古物売りの方が来て…以前あなたから、大層美しい絹を買ったと……」
翔馬の口元からゆっくりと笑みが落ちていくのが見えた。
八雲がすがるように翔馬のそでを掴んだ。
「教えてください。その…絹というのは……どこで手に入れたものです?」
「それ、は……」
翔馬の目は明らかに泳いでいる。
「りょ、両親が遺したものだよ。ずっとしまい込んでいても仕方がないから……お金に替えただけだ」
八雲はしばらく黙ったまま夫の顔を見ていたが、やがてその瞳が大きく揺れた。
「知って…いたんですか」
「え?」
「私が人間ではないと」
ひくっ、と翔馬が息を詰める音が蛮骨たちのいる場所まではっきり聞こえてきた。話が見えない三人は、ぼんやりした顔を並べて事の運びを窺う。
「少し変わってるたぁ思ってたが、人間じゃねえのかあの女」
何かと人外のものと交流する機会が多い彼らはもはや、へえそうなのか、程度の浅い衝撃しか湧いてこない。望んでこうなっているわけではないのだが。
「人間じゃねえなら何だろう」
「泉のほとりで探し物してんだから、きっと河童だ」
「俺はかわうそに一票」
好き勝手に想像を膨らませる彼らの視線の先で翔馬は何か言おうと幾度も口を開閉しているが、上手い言葉が全く出てこないようだった。
両者はしばらく押し黙っていたが、やがて八雲がうつむいた。
「あなたは良い方だと……思っていたのに」
あ、これは修羅場になる。
本能的に察した蛮骨たちは、来たる嵐を予見して心持ち後退した。
だが、予想に反して八雲は大声で癇癪かんしゃくを起したり、翔馬を渾身の平手ではたき倒したりはしなかった。決して三人がそういう場面を期待していたわけではないのだが、とにかく彼女は、小刻みに肩を震わせぼろぼろと大粒の涙を零し始めたのだった。
「や、八雲……」
激しく狼狽しながら伸べられた翔馬の手が払いのけられる。
「……私がずっと、探していると…知って……のに」
声が詰まって言葉が続かなくなった八雲は顔をくしゃくしゃにゆがめると、急に幼子のようにしゃくり上げて泣き出した。
「八雲っ……!」
翔馬は色を失って彼女の顔を覗き込んだが、直後に両手でどんと突き飛ばされて土の上に尻もちをついた。
「も――もう知りません……!」
弱々しくも明確な怒気をはらんだ声に、翔馬は瞠目して妻を見上げる。彼女はすでに家の方へ駆け出していた。
翔馬はすぐに立ち上がってその背を追いかけたが、家の中に駆け込んだ八雲はぴしゃりと板戸を閉めるやつかえ棒か何かを噛ませたらしく、入り口は押しても引いても開かなくなってしまった。
「八雲! 開けてくれ!」
翔馬はしばらく戸を叩いて妻に声をかけ続けていたが、どれほどそうしていても一切の反応が返らないのを受け、やがてしおしおと膝から崩れ落ちた。
「…………」
なりゆき上、最初から最後までつぶさに見ていた三人は何とも言えない居心地の悪さを覚えながら締め出された夫の情けない後ろ姿を眺める。
「どうする」
「いや……どうするったってな」
霧骨の確認に蛮骨は唸る。
仔細は不明だが、要するに妻の大事な品を旦那が秘密裏に金に換えていたということで。悪事が明るみになり問い詰められた今も、親の遺品だと言い逃れようとして。さらに、どうやら人間ではないらしい妻の正体を、実はとうの昔に承知していたことも黙っていた。というあれこれで八雲が激昂している。
円満だった夫婦関係に、今まさに亀裂が入ったところなのだろう。
「俺たちには関係ねえし」
部外者であるこちらに口を挟む余地などない。
三人は締め出された夫の図をしばし観察していたが、やがて何を思ったか、霧骨がその背に歩み寄って肩を叩いた。
人の不幸が――美しい女房から離縁状を叩き付けられそうな男の姿が三度の飯より美味いと言わんばかりに楽しげな横顔を認め、仲間二人の目がすっと据わる。
「まあまあ、ちっと向こうで頭冷やそうや」
霧骨が立てた親指で畑の隅に積まれた丸太の小山を示すと、こちらも泣きそうな顔で頭を抱えていた翔馬は力なく立ち上がり、ふらつく足取りでその後に続いた。
横たえられた丸太にどかりと腰を下ろして短い足を組み、霧骨は人生の先輩を気取った顔で翔馬に同情を示す。
「人のもん売っ払っちまったのは感心しねえが、お前さんにも何か事情があったんだろう」
翔馬ははっと顔を上げて霧骨を見上げた。
「わ、わかりますか」
「あたぼうよ、聞かせてみな」
したり顔で頷く霧骨を、蛮骨と煉骨は半眼で流し見る。断言してもいい、こいつは一つもわかっていない。
「大兄貴、まだこれに付き合うのか」
煉骨の疲れたような声に蛮骨は首を横に振る。
二人は得物と荷を担いで「置いていく」とごくごく簡潔に告げると、小男と百姓に背を向けさっさと歩き出した。すたすたと離れていく二人の背を見つめ、翔馬が心配そうに霧骨の顔を見た。
「お連れさん、本当に行ってしまいましたよ……?」
「ったく、若えのは薄情でいけねえ」
大げさに嘆息しつつも、霧骨はゆったりと丸太に背を預ける。
「今日の泊まり先はだいたい見当が付いてんだ。餓鬼じゃねえんだから、後で合流できりゃ何も問題ねえさ」
小男がどうやら本格的に事情聴取の構えになっているのを受け、翔馬も居住まいを正した。すうと息を吸い、ひどく真摯しんしな表情で霧骨に告げる。
「妻は――八雲は、天女なんです」
「……」
うながしておきながら、早くも霧骨は返答に詰まってしまった。
それは天女のように美しいという形容なのか、はたまた本当に天女という種族だと言いたいのか。
判断がつきかね、やはりしたり顔で「おう」と頷いておくと、翔馬は控えた声音で続けた。
「……妻との出会いは、四年前になります」

 

 

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