「ふぅ」
雑草を大方除き終えた翔馬は、立ち上がって身体を伸ばした。前屈みの姿勢を続けていたため、背骨と腰が軽い痛みを訴える。
三十を数えて数年。二十代の頃とは疲れ具合に違いが出てきたのを自覚し、やれやれと肩や首を回した。
こうやって少しずつ、独り身ではままならないことが増えていくのかもしれない。ささやかな不安を抱きながら、畑の隅に積んだ丸太に腰掛け小休止を挟む。
こんな自分にも、世話を焼いて縁談の話を持って来てくれる者はちらほらといる。しかし翔馬はこれまで、何となく全て断ってきた。
年齢を考えればいい加減に所帯を持つべきだとは思う。しかし先延ばしにしたところで小言を述べる身内がいるわけでもない。
その気楽さも手伝ってずるずると暮らしてきたが、そろそろ自分も変わらねばならないだろうか。
翔馬は抜けるような青空を見上げた。風が汗ばんだ額を心地良く撫でていく。
「……ああ」
変わったなと思うことが、そういえば一つある。
ここ数年、どういうわけか、とても涙もろくなってしまった。
ふとした拍子に涙がぽろぽろと落ちている。大抵はそれに気付いた驚きで引っ込むのだが、何が悲しいのか、思い当たる節はない。ただ胸の奥底がひどく痛んで、たまらなく寂しいような思いが押し寄せてくる。
思い出したその感覚へと溺れそうになり、翔馬は勢いよく自分の両頬を叩いて立ち上がった。こういう時は無心で身体を動かすに限る。
畑に戻り、新しい種を撒く場所に見当をつける。家側のうねの、花をいくつか植えている一帯の隣が空いている、そこにしよう。
「この花も、なんで植えてるんだっけ」
赤や白の、特別珍しいわけでもない花々。きれいだと思うから嫌いではないのだが、本来翔馬に花を育てる趣味はなかった。その分の場所を売りに出せる作物に充てた方が有意義なはずなのに、いつからだったか、その一角は花を育てるための区画と定めている自分がいる。
「……風で種が運ばれてきて根付いただけ、かな」
それが思いの外美しく咲いたので抜かずにおいたとか。案外、そういう単純な理由だったかもしれない。
曖昧な結論に落ち着き、足元の土に向けてくわを振り下ろした。その瞬間、手元から何かが飛ぶ。
土の上にぽとりと落ちたそれに両目が軽く瞠られる。
「あ……」
腕に付けていた飾りの紐が千切れてしまったのだ。
「あー……」
拾い上げてわずかに肩を落とす。それは毎日欠かさず身に付けていた、お守りのようなものだった。
二色の紐を組み合わせ一巡させた腕飾り。
実を言うと、これもどこで手に入れたのかとんと覚えていない。このような装飾品の類を自分で買い求めた覚えもないので、おそらく誰かに貰ったのだと思うが。
ただ、無性に気に入っていた。
「直せ…ないよなぁ」
新しい紐を用意したところで、手芸が不得手な自分ではこの繊細な結び方を再現できそうにない。
意気消沈し立ち尽くしていると、自分の足元を影が過ぎった。
瞬いて空を見上げれば、数羽の大きな鳥が飛んでいく。白鳥の群れだ。こんな暖かい季節に珍しい。
白鳥たちは列をなして村はずれに広がる森の方角へ降りていく。しかしその中の一羽だけが翔馬の家の上空に留まり、羽ばたきながら大きく旋回していた。鳥は二、三度不思議な鳴き声を放つと、仲間たちに続いて森の中へ降下していった。
「……?」
おもむろに農具をそこらに立てかけ、翔馬の足は自然とそちらへ歩き出していた。
よくわからないまま数歩進み、自宅の敷地を抜ける頃には小走りに駆け出す。
なぜか、呼ばれている気がした。

白鳥が降り立った場所には大方の見当がついていた。
森の中に唯一ある泉を目指して走る。あそこをいて水鳥の飛来に適した場所が思い浮かばない。子供の頃こそよく遊びに来ていたが、長じてからはとんと訪れたことが無かった場所だ。
今ではほとんど人が通らぬらしく、そこに至るまでの道のりはの草木や蔦が伸び放題だった。それらを脇へ押しやり苦労して泉へたどり着く。
そこは記憶と違わず澄んだ水をたたえていた。森のざわめきが遠くに聞こえるような静謐な雰囲気も当時のままだが、大きさは覚えているものよりも幾分小さくなっている。あるいは己の背が伸びたためにそう感じるのだろうか。
視線を巡らせていた翔馬は、ある一点で吸い寄せられるように目を止めた。
柔らかな陽光の差し込む水際に、一人の女性が佇んでいた。
こんな所に、なぜ。
今来た道に他の誰かが通った形跡はなかった。自分が知らないだけで他にも道があったのだろうか。
こちらの足音に反応した彼女が、ゆっくり振り向いた。その面差しに大きく息を呑む。
透き通るような肌の、とても美しい人だった。笑えば花もほころぶ愛らしさだろうに、その表情はどこか憂いを帯びている。
「こんにちは」
無意識のうちに声を掛けていた。彼女が小さく首を傾ける。
「お一人ですか? こんなところで何を?」
彼女はわずかに間を置いてから、柔らかな声を発した。
「ここで待っていれば迎えが来るからと。……あなたが、そうなのですか」
「えっ? いや……」
翔馬は慌てて両手を振り否定する。かといって「自分は白鳥を追ってきただけです」と言うのも何だか間抜けに思われた。
どう返したものか逡巡しているうちに彼女は「そうですか」と視線を下げた。
その心許ない姿を見ていると、なぜだか奇妙に心がざわつく。
「何かあったんですか。話を聞くくらいなら、俺でも」
女性は翔馬を心ここにあらずといった眼差しで見返した。やや間を置いて、ぽつりと呟く。
「……ずっと、ここが痛むのです」
そう言って胸の辺りに手を当てる。
「何も手に付かず、目から水が出てきます」
目から水。涙が出ると、そう言いたいのだろうか。
「同胞たちも手を尽くしてくれましたが、この病を止める術は見つからず……このままでは満足にお仕えできぬばかりか、主上の御心にまでかげりが及んでしまいます。ですから故郷を追放の身となり……」
「つ、追放?」
彼女の語る内容は、翔馬などには全く理解が及ばない。それでも端々に出てくる穏やかではない単語から、どうやらとても深刻な状況にあるらしいことだけは察せられた。
一百姓の自分が力になれる事など無いだろう。しかし話だけでも聞いてやらなければ。
それでこの人の苦しみが、少しでも和らぐかもしれない。
自分と同じように原因のわからない悲しみに苛まれているのならば、何か分かち合えることもあるかもしれない。
彼女が続きを語るのを待っていると、はらの辺りが少しだけ膨らんでいるのに目が留まった。
翔馬が見ているのを察したらしく、彼女はそこへそっと手をあてる。
「あなたには、これが何かわかりますか」
「え?」
「ゆっくりと大きくなっていくのですが、私にも姉妹にも、これが何なのかわからないのです」
「わからない、って……」
翔馬にはどう見ても子が宿っているように見えたのだが、違うのだろうか。これも何かの病気なのだろうか。
どちらにせよ、この女性が言い置かれたという「迎え」が本当にこんな場所に現れるのか、はなはだ怪しく思われた。
待つにしても村へ連れて行き、そこで待たせた方が安全だ。
翔馬は彼女にそう提案しようと片手を上げた。
「あの」
その拍子に袂から何かが飛び出し、彼女の足元に落ちる。
驚いて見てみれば先ほど千切れた腕飾りである。あの後すぐに白鳥を追いかけたので、咄嗟にたもとへ突っ込んでいたのだ。
「す、すみません」
女性は身をかがめてそれを拾い上げ、興味深げに覗き込んだ。結び目に施された玉飾りが柔らかく陽光を受けている。
「大事にしてたものなんですが、ついさっき壊れてしまって」
翔馬は首の後ろに手をやりながら情けなさを感じた。千切れたのも袂から落ちたのも自分の不注意で、これでは大事にしていたと言っても説得力に欠ける。
彼女は手の中の装飾品をしばらく見つめていたが、やがて翔馬に返すべくこちらへ手を伸べてきた。
翔馬も受け取るために彼女へ歩み寄って手を差し出す。
肉刺まめだらけの硬いてのひらに、陶器のように滑らかな指が重なった。

――刹那。

ぱきん、と二人の眼前でそれぞれ何かが砕ける気配が生じた。
途端に無数の情景が脳裏を凄まじい速度で駆け抜ける。
怒濤のような激情が総身を叩き、数百、数千の記憶の渦が脳内を逆巻さかまいた。
「は……、っ……」
よろめいて我に返った時、翔馬の両目からは熱い滴が止めどなく溢れていた。
目の前にある顔が滲んでよく見えない。けれど。
誰より愛しいその人が、自分と同じように涙を流しながら淡く微笑んでいることだけはわかる。
「や――」
名を。あの時からずっと、何年も忘れていた名を。
込み上げる想いのまま叫ぶと同時に、両腕が彼女をかき抱いていた。

<終>

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