「いやーすっきりしたわい。それでは二戦目、いくとしようか」
波瑤はようは意気揚々と酒瓶を掲げた。とうの昔に杯など使っておらず、瓶の口から直飲み状態である。入浴という名の行水ぎょうずいを行っていたはずのこの短時間でいつの間に用意したものか、手つかずの瓶や樽が増えていた。
「やはり良い男と飲む酒は格別じゃ。ま、うしおどのの美貌には負けるがの」
アマビエの夫だという海彦あまびこの顔を思い浮かべて、容姿に頓着する質ではないかさねもさすがに複雑な心境になる。
妖怪の美学は千差万別だが、このアマビエもずいぶん独特な嗜好をしているらしい。
「どこまで話したかのう。遠洋へ二人で初めて遠出した時のことは――」
「聞いたぞ」
「では、月夜の海で海月くらげの舞を見ながら愛を囁きあった話は――」
「聞いたな」
「すると、遡上そじょうしようにも迷子になってしもうたさけを故郷の川に帰してやった感動話はまだじゃろ?」
「聞いた」
その手の話は何十回と聞かされており、今や何も見なくてもそらんじられる自信がある。襲は紅い目をじとりと波瑤に向けた。
「そんなに旦那が恋しいなら、寄りを戻せばいいだろう」
自分が仕向ける形になったので強く言えないが、先ほどから出てくるのは夫の話ばかりだ。
どうも波瑤の酒癖の悪さやその他諸々もろもろが引き金となって家を飛び出したらしいが、例の折に汐から聞かされた内容と照らすに、互いをまだ好いているのである。
波瑤は大きな目を潤ませてまぶたを伏せた。
「それができれば苦労はせんわい……。あれは忘れもしない嵐の夜のこと」
「その話も聞いた」
アマビエは尖ったくちばしをさらに尖らせた。
「なんじゃ、大方話してしまったではないか。ではわらわの話は思い出したらまた聞かせてやるとして」
襲どのの話をせい、と振られ、襲はひらと手で払う仕草をした。
「俺には話して聞かせるようなものなど無い」
「またまた、里抜けの鴉天狗が訳ありじゃないわけ無いじゃろ。悲恋かえ? 修羅場かえ? そういう話は大好物じゃて」
アマビエがしつこくせがんでも、襲は頑として口を閉ざし続けた。
やがて諦めた波瑤が、ふいに話題を変える。
「しかしお主、あまり人間に肩入れせん方が良いのではないか」
「その人間に、お前もご親切に予言を与えたり、描き方を指示したりしていただろう」
此度こたびの件はこちらも借りがあるんじゃよ。じゃから助けてやるのじゃ。ま、たまには気まぐれで縁のない者を導いたりもするがの。だがお主は、あの人間どもとずいぶん懇意にしていると見た」
波瑤はうっそりと目をすがめた。
「あまり人間に肩入れすると別れが辛いぞ? やつらの寿命なぞ、あーっという間に尽きてしまうのじゃから」
襲の紅い瞳が、弱い光に揺らめく杯の水面をじっと見降ろした。さざ波一つ立たないそこに、ほんのわずか別の色が宿る。
何かを断ち切るように酒を喉に流し込むと、ただ一言
「知っている」
とだけ返した。
「ふふ、知ってる、ねぇ」
波瑤はどこか満足した様子で笑みを深くしたが、それ以上追及しようとはしなかった。
それからいかほどの時間が経過したか。
波瑤が思い出した新しい話の聞き役に回っていた襲は、奥の泉にぼこっと泡が立つのを認めて目をしばたいた。
「何か出ているぞ」
「そう、出てきたかに妖怪に向けてわらわは言ったんじゃよ。ここを通りたくば我がしかばねを越えてゆけと――」
「違う、そこの泉が波立っている」
「んむ?」
襲が示す先を追って、波瑤も泉を振り返った。
泉に気泡とさざ波が立ち、揺れている。と思った次の瞬間、中から影が躍り出た。
「のわ!?」
波瑤が驚いてひっくり返り、襲はわずかに腰を浮かせ身構える。
だが、次いで聞こえてきたのはやけに能天気な声だった。
「いやー、長らく留守にしてしまったが、やはり我が家とは良いものだ」
その声に聞き覚えがあり、襲はわずかに目をみはる。
びちゃびちゃと水滴をしたたらせながら現れたのは、大柄な人間ほどの大きさで猿によく似た姿の妖怪だった。全身を黒い毛で覆われ、異質なのはアマビエ同様に足が三本――こちらは前二本が腕らしく、後ろ足は中央に一本だけ生えている――であることだ。
「波瑤、ただいま」
「えっ……う、汐どの…!?」
目の前にいるのは紛れもなく、襲が数十年前に出会った、そして波瑤の夫であるという「海彦の汐」だった。
突然の夫の帰宅に目を白黒させていた波瑤だが、やがてその双眸に大粒の涙がせり上がり、全身を歓喜に打ち震わせた。
「ほんとにっ…本当に帰ってきてくれたのじゃな、お前さま!!」
「波瑤……!」
飛び込んでくる妻を愛しそうに抱きとめた海彦だったが、すぐに彼女を引きはがすとその両目が吊り上がった。
「夫の留守中に男を連れ込むとはどういう了見だ―――!!」
びしりと指さされた襲は、とても面倒くさいことになったことを悟った。
「お前さま、違うのじゃ――」
「しかも!? あなたはいつぞやの鴉天狗どのではないか! そうかそうか全てわかった、最初からグルだったのだな! 私の不満を聞く振りをして弱みを握り、妻に言い寄ったんだ! そうでないとしたら妻を手籠めにした後でわざわざ私の様子を窺いに来たか!? どちらにしろ大人しそうな顔をしてなんというド畜生! この色狂い!」
「……一つも合っていないのだが」
あの時話に付き合えと声をかけてきたのは間違いなく汐の方だった。こんなにひどい濡れ衣を自信満々で一息にまくし立てられるのはいっそ見事である。
海彦の汐は波瑤の釈明も襲の否定も全く聞き入れずに天狗の胸倉をつかみ上げ、力任せに揺さぶりながら怒鳴り散らした。
「大将をはなせ!」
咄嗟とっさに物陰から飛び出した小妖怪たちが助太刀に入ろうとしたが、我を失った海彦に無造作に払いのけられ、岩壁に跳ね返って目を回してしまった。
あっけなく伸びた三匹を認めて、襲の瞳がふいにくらい光を帯びた。
襟元を握りしめている汐の手首を掴むと、有無を言わさぬ力で引きはがし、正面から見据える。
息巻いていた海彦はさっと青くなったかと思うと急に大人しくなり、力を抜いた。波瑤が慌てて夫に寄り添う。
「お前さま、ひとまず落ち着くのじゃ」
「話を聞け」
ほんのわずかに強くなった襲の語気に押され、海彦は「はい」と返事をするとその場に正座をして小さくなった。


かき集めた墨と紙、植物から採取した液体や木炭など、使えそうなものを手当たり次第に利用した結果、絵の量産は何とか目途が立った。
一定数が溜まると数名で村へ配布に行くのだが、二日目の夕方になると、ちらほらと協力者が名乗りを上げるようになった。
「家にこもっていてもすることがねぇし……」
「効果があるんか怪しいが、気晴らしにはなるさね」
そう言って、村人たちも配布された絵を手本にアマビエ図を描き始めたのである。
そうすると、わずかに村の中は賑やかさを取り戻した。
「お前のその絵はなんだ、神様っていうよか化け物じゃねぇか」
「そういうあんただって、人のこと言えたもんかい」
家の中で、近所内で、互いのアマビエ図を見せ合っては軽口をたたき、笑いが生まれる余裕が出てきたようだった。
「少しだけ、病が流行る前に戻ったみてぇだよ」
彼らの様子を前に、魴太ほうたは嬉しそうに蛮骨に言った。
「明日の朝までかかれば、村中を絵でいっぱいにできるはずだ。蛮骨さんたちには悪いが、もうしばらく協力してくれ」
「まあ、ここまで乗りかかったら付き合うけどよ。あとは波瑤が約束を守ってくれるよう願うだけだ」
村の中は柱の一本から木立のひとつ、船の一隻に至るまで、波瑤の絵が貼り付けてあり、一種異様な光景と化していた。まだ貼れていない個所といっても、村の三分の一に満たないだろう。
よくここまで描いたものだと我ながら関心してしまう。
「お袋さんの様子はどうだ」
「ああ、睡骨様のおかげで今のところ持ちこたえてる。でも、早くしねえとまたいつ悪化するか……」
魴太は不安げに自宅を振り返った。
「アマビエ様に会ってきたって話をしたら、ありがてえって喜んでたよ。それでな、おっ母、予言を頂いた当時のことをちょっと思い出してきたらしい」
「へえ」
「アマビエ様はおっ母に会ったとき、こう言ったそうなんだ。『いつぞや失せ物を届けてくれた、その礼だ』って」
蛮骨は片眉を上げた。
「失せ物?」
「そう。で、おっ母も当時は何のことか分からなかったみてぇだけど、今になってよく思い返してみると、一つだけ思い当たる節があるんだそうだ」
魴太は母親に聞いた話を語り始めた。

それは、魴太の母親の前にアマビエが現れる、さらにずっと昔の話――母親が十二、三の娘の頃の話だという。
その日、浜辺で漁から戻った父親の手伝いをしていた彼女は、休憩中に手持無沙汰に浜を歩いていた。
しかしふと思い立って、岩がごつごつと入り組んでいそになっている場所へ足を向けることにした。そこは小さな入り江のようになっていて、時折珍しいものが流れ着いたりする、彼女の秘密の場所だった。
岩の間に足を取られないよう慎重に波間に目を凝らしていた彼女は、やがてきらきらと光り輝く何かを認めた。
海の中に肩まで手を突っこんで拾い上げてみると、それは貝でできた装飾品のようだった。お伽噺とぎばなしのお姫様が身につけるような美しい品で、こんな漁村ではついぞ拝む機会などないものだった。
当然ながら、娘は一目でその貝飾りを気に入り、自分の宝物にした。家族にも秘密にして、毎日こっそりと眺めてはそれを身に着けた自分を想像して楽しんでいた。
それから数日後のこと。同じように浜辺で手伝いをしていた彼女は、ふと、見慣れない女人の姿があることに気づいた。
浜辺の隅の方にある大きな流木に腰掛け、海を眺めて思い悩んでいるようだった。その大きな双眸から珠のようなしずくが伝い落ちるのを見て、魴太の母親はぎょっとした。
「どうしたの?」
思わず声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。珍しい色の輝くような髪をもった、瞳の大きなきれいな女性だった。
「……大事なものを失くしてしまったのじゃ」
その人は独特な口調ではあったが、大変に困っていることは伝わってきた。
「このくらいの、美しい貝の髪飾りでの、夫がくれたものなのじゃ。何日も探し続けておるのだが、さっぱり見つからなくてのう」
もう諦めるしかないかのう、と呟きながら、彼女は豊かな睫毛まつげを涙で濡らした。
魴太の母親は、すぐに拾った髪飾りのことだと思い至った。しかし、あれは今や、彼女にとっても大事な宝物だった。
手放したなら、きっと二度とあんな逸品は手に入らない。
――あれは私の秘密の場所にあったんだから、もう私のものだ。
彼女は悲しげに目を伏せる女人の前に立った。
そして懐に手を入れ、そこから丁寧に布に包んだ貝飾りを取り出し、包みを開いて女人に差し出した。
「あ……こ、これは……!?」
女人は心底驚いた風情で口元を覆い、貝飾りと娘を交互に見た。
「何日か前に拾ったの。あなたが探してるのはこれでしょう?」
声が震えそうになるのを抑え込んで、彼女は毅然と言った。
惜しい、手放したくない――そう思うのも確かだが、本来の持ち主を知りながら黙って自分のものにするのは盗人ぬすっとと同じだ。
それにこの貝飾りは、絶対にこの人の方が似合う。だってこの人はお姫様のように美しいのだから。
「見つかって良かったね、それじゃあ」
彼女は口早に言うと、呆気に取られている女人の手に押し付けるように渡し、さっさと身をひるがえした。女人の横を通り過ぎる時には、もう涙が頬を伝っていた。
「待つのじゃ」
立ち去ろうとする背中を女人が呼び止めた。娘はびくりと肩越しに振り返る。勝手に拾って持ち帰ったことを咎められるのではないかと思った。
「なに…?」
しかし女人は穏やかに目を細め、愛おしげに貝飾りを撫でながら微笑んでいた。
「……礼を言う。主の周囲に何か良きこと、悪きことがありそうな時は、此度こたびの恩に報いよう」
女人が何を言っているのか分からず、彼女は曖昧に頷いただけで足早にその場を後にした。

魴太の話を聞いた蛮骨は、納得した面持ちで顎に指をあてた。
「あー……それで波瑤のやつ、娘っこ、とか言ってたのか」
本当に娘っこの時分に会っていたのだ。
あんな傍若無人の塊のような言動をしているが、義理堅いところがあるらしい。
しかし本性のアマビエを知っているだけに「美しい女人」に化けている状態がどうにも想像できなかった。
集会所に戻った蛮骨は、床一面を覆いつくすアマビエ図を見て気力を削がれかけたが、両頬を叩いて気合を入れなおした。
「さて、最後にひと踏ん張りするとするか」
そう言って、胼胝たこができた指で筆を持ち上げた。

 

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