「絵が集まったのを感じるぞ」
そう言って波瑤はようが唐突に宴会をお開きにしたのは、初日から数えて三日目の昼だった。
うしおの誤解を解いた後には、彼も酒席に加わっていた。夫婦で積もる話もありそうなので解放してもらえるのではと踏んでいたかさねは完全にその期待を裏切られ、今の今まで夫婦の惚気のろけを強制的に見せつけられてきたのである。
「わらわの知名度が爆上がりしているのを感じる。人間どもがせっせと絵を用意したようじゃ」
「……売名のために絵を描かせているのか」
どこか軽蔑の響きをはらんだ襲の言に、汐が顔をしかめた。
「人聞きの悪いことを。我々の力は『姿を見た』者が増えることで発揮できるのです。それがたとえ絵だとしても効果があるんですよ」
それに、と汐は拳を握りしめた。
「波瑤の愛らしさを皆が知るのは良いことではないですか」
「そうだな」
ならば最初から波瑤が衆目に姿をさらせば早かったのではないか、と胸に沸いた意見を飲み込んで、襲は心のこもらない同意をした。
「のうお前様、ここは人間に化けて、村にわらわの姿絵を見物にいこうではないか」
「それは良い考えだね。村中が波瑤の絵で溢れているなんて、さぞかし楽園のようになっているよ、きっと」
ふふふ、と仲むつまじく微笑み合う夫婦から襲は静かに目をそらす。
もう付き合いきれない。
「ではわらわたちは一足先に村へ行くでな。襲どのも帰ってよいぞー!」
「また一緒に飲みましょうな!」
言うが早いか、二人は同時に岩室内の泉へ飛び込んだ。天井まで届くほど盛大に飛沫しぶきが上がり、天狗は再び真正面から海水をかぶる羽目になる。
「……二度と飲まん」
ぽたぽたと水が滴る音と、小さな呟きが洞窟内にこだまして消えた。

洞窟の外に出るや表情の無いまま深い深いため息を吐き出した襲に、外で待っていた小妖怪たちは同情した。
たった今、二匹の妖怪が踊るように海中を駆け抜けていくのが見えたのだ。
「終わったんだね、大将」
「長い戦いだったな」
「ああ。やっと帰れる」
襲が差し出した左手に、三匹は意気揚々と掴まった。
そのまま飛翔するのかと思いきや、襲は彼方の陸地に目を向け、ほぐすように右肩を軽く回した。
「早く帰りたいだろう、先に行け」
ん? と小妖怪たちが目をぱちくりさせるのと同時に、小丸が右手でむんずと掴み上げられ、大きく振りかぶられた。
「たいしょー?」
次の瞬間、襲は無表情に、無感動に、一切のためらいもなく小丸を陸地へ向けて投げ放った。目にもとまらぬ剛速球と化した小丸が流星のごとき光の筋となって飛んでいく。
少し遅れて響き渡った衝撃音に、残る二匹は相棒の死を悟った。
「ん? 少しずれた」
小妖怪たちからは到底見えない魴太ほうたの自宅が見えているらしく、襲はわずかに眉をしかめて軌道を再計算し始める。
「誤差の範囲だ。次は外さん」
何を何から外さないというのか。
伸びてくる手に一角としゅんがざっと青ざめる。無情に一角が掴まれ、びええと泣き叫んだ。
「死ぬ! 死にたくない!」
「仮にも妖怪が、この程度で死ぬわけがないだろう」
しれっと返し、襲は二投目を投げた。
今度はあやまたず魴太宅の庭先に命中したようで、襲は満足したように頷いた。
首の後ろを掴んで持ち上げられ、舜はじたばたともがく。
「大将、実はめちゃくちゃ頭に来てるの!? それならそう言って、投げないでぇ!」
襲は何を言っているのかと言いたげに瞬いた。
「そんなことはない。あと投げる」
「なんで!? いやあああ」
語尾を残しながら飛んでいった舜を見届けて、襲はどこか晴れやかな目をすると結界の消えた空へ飛び立った。


村の中は余すところなくアマビエ図に埋め尽くされた。
精根尽き果てた七人隊は集会所の床に伸び、誰もがぼうっと天井を眺めていた。
もはや紙も墨も、代わりになるものも使いきっている。
「ぎし、このあとどうなるんだ……?」
銀骨が誰にともなく問いかけるが、答えを持ち合わせる者はいなかった。
その時、集会所の入り口が開いたかと思うと、鴉天狗が無言で入ってきた。
「おお、やっと戻ってこれたんだな。お疲れさん」
身を起こした蛮骨が出迎え、蛇骨がばっと飛び起きた。
「襲ちゃん! おか――」
蛇骨がさっそく抱きつこうとしたが、かまちを上がるや襲は鴉に転じ、その腕をすり抜けた。そのままずるずると両翼をひきずるように歩いて、壁に立てかけられた蛮竜の陰に潜り込んでしまう。
「襲ちゃん!? 大丈夫かよ」
蛇骨が目を剥いて呼びかけるが、返事は無かった。
彼のあとから小妖怪たちがのろのろと入ってくる。
「あ? お前らも一緒だったのか」
「うん……」
やけにうの体な彼らに蛮骨が首を傾げる。
「何かあったのか?」
小妖怪たちは非常に渋い顔をした。
遥か沖合の小島から魴太宅の庭に向けて投擲とうてきされた結果、襲の言うとおり、確かに死にはしなかった。何か術が施されていたらしく、着弾の寸前に身体がふわりと障壁に包まれて痛みはほとんど無かったのである。
しかし、寿命は確実に縮まったよなというのが三匹の共通見解だった。追って襲が到着してもまだ、生まれたての子鹿のように全身を震えさせていたほどだ。
「まあ…俺らは別に……」
「俺らよりも大将が、な」
小妖怪たちは襲が引きこもっているであろう蛮竜の陰を見た。
たぶん今、泥のように眠っている。
「結局、最初から最後まで飲まされ続けてたからなぁ」
「その間ずっと、波瑤の話を聞かされ続けて」
「とどめが夫婦の惚気のろけの応酬じゃ、そりゃ参るわ」
どうやら壮絶な戦いを終えてきたらしいことを知り、蛮骨は鴉を引きずり出そうと近づいた蛇骨を止めて首を振った。
と、にわかに外から賑やかな声が聞こえてきた。
何事かと戸外に出てみると、見知らぬ男女が村の中を散策しながらきゃいきゃいとはしゃいでいるのが見えた。
「誰だあれ」
女は遠目にも輝く珍しい髪色をしており、耳元に大きな貝の髪飾りをつけている。対する男の方は地味ななりだったが、女と二人で貼り付けられた絵を見ては、彼女を褒め称えているようだった。
やがて、女が蛮骨たちに気付いてこちらへ駆け寄ってきた。
「おお、主ら、ようわらわの言いつけを守ったのう」
濃い睫毛に縁取られた大きな双眸を瞬かせながら言う女の口調に、蛮骨はぎょっとする。
「お前、波瑤か!?」
「相変わらず失礼な物言いじゃの」
蛮骨の声に目を覚ました仲間たちがぞろぞろと戸口に集まった。蛇骨だけは女と見るや顔を引っ込めてしまったが。
「じゃあ、この人がアマビエ様……?」
己たちが今まで描いていたものに比べ大層な美人なので、弟分たちは困惑気味に顔を見合わせている。蛮骨とともに正体を見ている煉骨も、その化けっぷりにぽかんと口を開けていた。
「さあ主ら、呆けた顔をしてないで、わらわを魴太の家に案内せい」
波瑤が腰に手を当て、胸を張って高らかに命じた。

人間に化けた波瑤の来訪に、魴太が目を皿にしたのは言うまでもない。
七人隊の者たちが外から様子をうかがっているのを背に、波瑤は挨拶もそこそこに魴太の母親の枕元へ腰を下ろした。隣には夫が付き添っている。
「あの時の娘っこが、もうこんなに年老いてしまうのじゃからのう。人間の寿命は、げに儚いものじゃわい」
波瑤は口元に淡い笑みを刻むと、母親の額をひと撫でした。それまでぜいぜいと苦しげだった呼吸がすっと楽になったのが、はたから見ている者たちにもわかった。
母親がゆっくりと目を覚ます。
「おっ母、大丈夫か?」
魴太が慌てて顔を覗き込み、頭を支えて茶碗から水を飲ませた。
人心地ついた母親はほっと息を吐き、次いで波瑤を見て目を見開く。
「あ、あなたは……あの時の」
「おや、覚えていたかえ」
幼い頃に見た面差しと寸分たがわぬ女人の姿に何かを察したのか、母親は拝むように手を合わせた。
「予言をくださったのはあなただったのですね。それをないがしろにして、私はなんて愚かなことを……」
「よいよい、埋め合わせはせがれがしたでな。じきに主も、村の者たちも回復するじゃろう」
魴太と母親は涙を流して幾度も感謝の言葉を述べた。
「では、わらわたちも長居はできんのでな。主らに会ったのも何かの縁じゃ、これを授けよう」
そう言うと波瑤は耳元の髪飾りを外し、母親の筋張った手に握らせた。
それが何なのかに気付いた母親はしばし言葉を失う。
「で――でもこれは、大切なものだと」
母親が幼い頃に海で拾った――波瑤が必死に探していた、あの髪飾りだった。
「わらわには本物の夫が帰ってきてくれたからの。欲しければまた作ってくれるじゃろ?」
「もちろんだよ」
大きく頷く汐の隣で、波瑤は鮮やかに微笑んだ。
「わらわと主を繋げた髪飾りじゃ。これからは主が、大事にしてやっておくれ」
にこにこと笑う夫婦を前に、母親は万感の思いを噛みしめながら貝飾りを胸に抱きしめた。

魴太の家の庭先に座って夕日の海に帰っていく二匹を眺めていると、一陣の風が吹き抜けた。
「美談で終わらせようとしているが、あの夫婦、また離れなければ良いがな」
突然の声に驚いて蛮骨が隣を見ると、どこか憮然とした空気を纏わせた鴉天狗が胡座あぐらに頬杖をついて海を見下ろしていた。
「襲、もう大丈夫なのかよ」
引きこもっていたかと思えば、いつの間に起きてきたのだろう。
「あの酒癖の悪さと手の早さと人の話の聞かなさ加減を直さねば、早晩同じ展開になるだろう」
いやに確信に満ちた言い方をするので、あの小島で相当しんどい目に遭ってきたらしい。
ややあって、蛇骨がこちらへ駆けてきた。腕に何やらたらいを抱えている。
「襲ちゃん、持ってきたぜ」
「ああ、すまんな」
地面に置かれた盥はなみなみと井戸水で満たされている。
何をするのかと蛮骨と蛇骨が見ている目の前で、襲は鴉に転じると、ひょいとその中に飛び込んだ。
ばしゃばしゃと飛沫しぶきを立てながら頭まで浸かり、羽やくちばしを器用につかって身を清めている姿を見て、蛮骨はぽつりと呟いた。
「からすの行水……」
「何か言ったか」
満足したのか盥から出てきた襲は、瞬時に体の水滴を乾かすと天狗の姿に戻った。
衣に鼻を近づけて酒臭さや潮臭さがましになったことを確認し、桶の水を捨てて蛇骨に返す。
「……襲ちゃん、そういうのはそっちの姿でやってくんないと」
非常に残念そうに言う蛇骨に首を傾ける。
「鴉の方が少量の水で済むだろう」
「そうなんだけど、そういう問題じゃねぇんだよ!」
「そうなのか」
二人のやり取りを前に、相変わらず鋭いのか鈍いのか分からない男だ、と蛮骨は半眼になった。
簡単に別れを告げると襲はあかね空に飛び立ち、拠点の森へ帰っていった。
「はー。結局、また無駄に足止め食っちまった」
海を見下ろす草地に座り込んでふうと息を吐く蛇骨に、蛮骨が目をすがめて笑む。
「今回は珍しく、お前もちゃんと働いてたもんな」
そこで蛮骨は、あっと思い至る。
「襲を呼んだついでに仕事の情報がねぇか聞いときゃ良かった」
だが彼はすでに空の彼方へ消えており、もう遅い。
「まあいいか」
明日の朝には魴太や村人から当面の食料を分けてもらい、旅を再開できるだろう。次の仕事については道中でゆっくり考えればいい。
貼り付けの甘かったらしいアマビエ図が一枚、近くの木から剥がれて海の彼方へ飛んで行くのを二人はぼんやりと眺めていた。
波の間に落ちた絵は夕日をきらきらと反射する水面に呑まれて消える。
二人はその後もしばらく、波の音を耳にたそがれていた。


海沿いの漁村を一人の飛脚が通りかかった。
「おや」
この辺りはよく往復するのだが、いつもは素通りすることが多い。しかし今回は少しばかり様子が違うようだったので、休憩がてら道沿いの茶屋に入ってみる。
茶を持ってきた店のおかみに、飛脚は訊いた。
「少し前まで病が流行ってたって聞いたけど、来てみりゃ以前より賑やかなくらいじゃないか。それに何だいあの絵は」
飛脚は柱に貼られた一枚の絵を指さした。それはこの店の柱だけでなく、家の一軒一軒、木の一本にいたるまで、村中で見られるものだった。
おかみは晴れやかな笑顔で答える。
「珍しい光景だろ? あれを見ようって他所から人が遊びにきて、今じゃちょっとした名物なんだよ」
あんたも飛脚なら行った先で宣伝しておくれよ、といって、おかみは団子をまけてくれた。飛脚は絵に近づいてまじまじと眺めた。
「ずいぶん不思議な絵だよ。何が描いてあるんだね」
それはねぇ、と、おかみは他の客へ料理を運びながら肩越しに答えた。
「アマビエ様、っていうんだよ」

<終>

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