「飼い主だあ?」
四対の目が、少年を胡乱げに上から下へ眺めまわした。
「猿回しか」
腰回りに提げた小道具や身なりから察し、睡骨は顎を擦る。
この歳ならばまだ見習いだろう。不始末をしでかして猿を逃がしてしまい、師匠の怒りを買って慌てているというところか。
「そんならまあ、せいぜいさっさと見つけるこったな、坊主」
心中では「こいつより先に捕まえて破落戸の親分に差し出さねば」と考えつつも当たり障りない言葉を投げてやる。すると少年の目尻の角度がますます鋭さを増した。
「他人事みたいに言いやがって……! 紋吉が逃げたのはおっさんにも原因があるじゃないか!」
蛇骨たちの視線が少年を離れ、呆けた面持ちの睡骨へと集まった。
昨夜。
町をぶらついた際に賭場を発見した睡骨は、酒が飲み放題との宣伝文句に惹かれ、少し遊ぶつもりでその中へと立ち入った。
賭場は二階。旅籠と変わらぬ外観にふさわしく、廊下の奥には客室も用意されている。客室といっても、ちらりと覗いた様子では、酔いが回った博徒たちの雑魚寝部屋として使われているようだった。
案内に従ってせまい階段を二階に上がると、襖が取り払われた一面の大座敷が広がっていた。そこここに車座ができ、男たちが賭けや酒盛りに興じている。大半は町に根付く半端者どもで、残る三分の一ほどは睡骨のような旅の一見客と見えた。
外にいても賑やかな喧騒は聞こえていたが、その場に身を置いてみると、憚らぬ笑声に四方からわんわんと耳を叩かれた。
行燈の安い油と大量の酒がむっとしたにおいを醸し、靄がかかったように空気はほのかに白んでいる。
どこか非日常的な空気を味わいながら、、睡骨は適当な車座に加わり、ほんの一時の賭けに乗じることにした。
そして。
壺振りが五回目の壺をぱっと開いた時、その眉間には深い溝が刻まれていた。
肩を落とす睡骨の座前から、竹の駒札が無情に回収されていく。
「あー、ちくしょうめ」
「続けるかい」
問うてくる中盆に、いいかげんな仕草で手を振る。
「駒がもう無ぇ」
座を離れた睡骨は灯りの近くへと寄り、財布の中を確かめた。
まだ金はある。共同資金用の分と凶骨銀骨から預かっている分に手をつけるわけにはいかぬが、己の持ち金だけでももう少し遊べる。
しかし先ほどから全く運の向く気配がない。ここらが引き際という気もする。
「うーむ……」
難しい顔で口をへの字に結んだ時、傍らの座からまばらな拍手が聞こえてきた。
視線を向けると、無秩序に座っている男たちの頭の向こうに、この場には不釣り合いなあどけなさの残る面差しの少年の姿があった。彼は大仰な身振りを交えて口上を述べ始める。
「東西東西、ましらと紋吉の曲芸披露! お大尽さま方、今宵はお招きに預かり光栄の至りにございます。我らが妙技、どうぞ心ゆくまでお楽しみください!」
変声していない張りのある声が、くすんだ天井にまっすぐ響く。
曲芸、という言葉に睡骨は少年の見てくれを観察した。膝丈の着物に襷掛けという、動きやすさを重視した出で立ち。周囲には背負い箱やら派手な傘やら独楽やらの小道具。そして右手から伸びる一本の綱の先には、一匹の猿が繋がれていた。
よく躾けられているようで、少年の足元にちょこんと座っている。彼の言葉に合いの手を入れるように手を打ったりキィキィと鳴くたび、観客から小さな笑いが起きた。
「へえ。猿回しか」
酒盛りの余興として呼ばれたのだろう。
少年の歳の頃は十三ほどか。小柄な体躯は日に焼け、華奢な手足は大きな身振りに映える。
観客の男たちはこの座の中でもことさら悪人面を選りすぐって揃えたような、まさに「破落戸集団」と称して申し分ない面々だ。それを相手に臆することなく堂々と振る舞っている。場数はそれなりに踏んでいるものらしい。
金のためならこんな夜更けにこんな場末まで出向いて、柄の悪い連中におべっかを使わねばならない。ご苦労なことだ。
睡骨はふと財布に目を戻した。
もう少し遊ぶか引き上げるか、思案の途中だったのである。
「いや……」
やはり、ここらが潮時か。
夜もだいぶ更けてきた。健闘むなしく大損に終わったが、財布の中には次の仕事まで凌げるだけの余力が残っている。ここで意固地になってさらなる損を重ねたら、それがいささか危うくなるかもしれない。
自分は引き際をわきまえた男だ。
だから、名残惜しむことなく立ち上がろうとした。が、膝から力が抜けて再び尻が落ちてしまった。
「あー……」
上半身がぽうぽうと熱い。微睡むような心地になり、視点が揺れる。
「さすがに飲み過ぎたか」
大きな掌で目元を覆う。
入口で受けた説明に嘘はなく、賭けに興じている客らは酒を好きなだけ飲むことができた。
薄められてかなりあっさりとした酒ではあったがそれ故に飲みやすく、また「飲み放題ならこの機に浴びるほど」という欲目もあって、睡骨は空になったそばから足される酒を次々喉へ流し込んできたのだが、自覚する以上に酔いが回っていたようである。
ぐらぐら揺れる世界から抜け出さんと、しきりに瞼を開閉する。
「うー…ん……」
手近な柱に背を預け項垂れていたその時、開け放たれていた窓から一羽の鳥がするりと室内へ舞い込んできた。
「わぁ!?」
「なんだ、鳥か!?」
どよめく目撃者たちを尻目に、小鳥と呼ぶには大きいその鳥は、座り込んでいる睡骨の眼前へと迷うことなく着地した。睡骨は緩慢に頭を持ち上げて薄目を開ける。
「……んあ? 凪か」
七人隊の伝書隼を務める凪は、返事をするように一声鳴くと体の向きを変えた。背負った竹筒を得意げに見せつけてくる。文が入っているらしい。
「ああ? こんな時間にかよ」
何度か指を滑らせた末にようやく竹筒の留め具を外し、中に収められた紙片を取り出す。行燈の光の下で広げる。
「んんん……」
二分した七人隊のもう一組の面子を考えれば、文を書いたのはおそらく煉骨だろう。が、焦点がぼやけて字の判別どころではない。
今の睡骨には、ぐちゃぐちゃした線の集合体が紙上をうねうねと這いずっているようにしか見えず、気持ち悪さを覚えてすぐに視線を外した。
「どうせ大した用じゃねえだろ」
読むのは酔いが醒めてからで良かろう。文をくしゃりとさせて懐へ突っ込む。膝の横で凪が「読まないのか」と問いたげな顔をしている。
「あー誰か……水、みず…くれ」
誰にともなく呟いた睡骨に
「その隼、あんたのかい?」
と、どこからか男の声がかかった。判然としないまま、ぼんやりと返す。
「ああ? あー、まあな」
「賢そうな顔をしてる。ちょいと見てたが、文を運べるなんて随分うまく躾けたもんだ」
「ん……だろう、そうだろう」
特段手をかけて躾けたわけでもないが、褒められて悪い気はしない。凪もまた、満更でもなさそうに胸を反らしている。
睡骨は俯いた顔を少し上げた。いつの間にやら目の前には世話焼き風な顔つきの男がいる。
誰でもいい。口を開いた。
「なぁ、あんた。悪いが水……一杯持ってきてくんねえか。ここらで抜けようと思ってんだが、ちっと飲み過ぎちまったみてえでよ」
「あやや、ずいぶん酔ってるねえ」
「水みてぇにがぶがぶ飲んじまってな」
正直、こうして話をするのも億劫だ。さっさと水を持ってこい。
しかし男の方はひそめた声音で会話を続ける。
「でも……今帰るのは勿体ないよ」
「いや、ぼちぼちいい時間だしなぁ」
いいから水を持ってこい。
「ここじゃこんな時分はまだまだ宵の口、むしろこっからが本番だよ。旅の人間がたんと突っ込んだ分、撒き始めるんだからね」
いかにも事情通といった男の言に、浮き沈む思考が手の内を離れていく。
「大方、負け越してんだろう。おもしろくない気持ちはわかるが、騙されたと思ってもうちょっと辛抱してみな。でかいおまけ付きで取り戻せるよ」
「いや、だけど……金が……」
男は手近な卓から徳利を取り上げ、空いている盃に酒を注いで手渡してくる。
俺は水を持ってきてくれと頼んだはずだが。
思考と裏腹に勧められるまま盃を呷ってしまう。水のように飲みやすい。
「誰かが失った金が誰かの懐に入るんだ。分別ぶって潔く引き上げたところで、知らん奴を喜ばせるだけだよ」
何の話をしていたんだったか。
凪がしきりに頭を傾けている。
確かなのは、男が差し出した手の上に竹の駒札が束と積み重なっていることだけだった。
「………………たしかに」
よくわからぬまま頷き、睡骨は駒札を受け取った。受け取ったからには金を払わねば。財布の口を開けようとしたところ、右腕にかすかな抵抗が生じた。
何かと思えば、凪が抗議するように嘴で袂を引っ張っている。
「……なんでぇ凪、お前も……飲みてえのか」
睡骨はやれやれと嘆息すると凪の小柄な体躯を抱え、膝の上に乗せた。
ぽかんとしている隼の背中の竹筒は空洞である。
何か入れなければ。
近くの徳利を取って軽く振ると、まだ中身があった。これでいいか。
睡骨は何も考えず、小さな竹筒の口へ徳利を傾けた。
「ぴっ!?」
手の中で凪がぶわっと膨らんだ。
竹筒にどばどばと酒を注ぎこむ。小さな容器は瞬く間に満たされ、縁から溢れた酒が鳥の背にひたひたと滲みる。
「んん? もういっぱいかよ、勿体ねえ」
睡骨は解せぬと言いたげな顔で徳利の残りを己の喉で片付けた。微動だにしない凪に向けて隣の男が苦笑混じりに「かわいそうに」とかなんとか零している。
「さあ凪、遠慮せず飲みな。いやそれとも、このまま大兄貴たちに――」
睡骨が一人で納得し、竹筒の蓋を戻そうと身をかがめた瞬間。凪がぎろりとした眼光で振り返り、右の翼で睡骨の鼻柱を強かに打った。
「っでぇ!?」
隼は怯んだ睡骨の頭を足蹴にして一息に梁の上へと飛び上がった。高みからこちらを睥睨し、抗議じみた鋭い鳴き声を放つ。何事かと、座の者たちの注目が再び隼に集まった。
一応は飼い主であるはずの己に対し、凪がこれほど反抗的な態度を示したことなどない。睡骨はいささか面食らう。
「な、なんだよ、俺が何かしたかよ」
頭上の凪としばし眼光で火花を飛ばし合う。そこへ隣で見ていた男が割り込んで、なだめるように酒を注ぎ足してきた。
「まあまあ、少し放っときゃあ機嫌も治るさ」
それよか、と男は気を遣ってか、話題を変えた。
「お前さん、これまた格好いい手甲をぶら下げてるじゃないか」
「……おお、わかるか」
男の指さす手甲鉤を腰から外し、睡骨はかすかに口角を上げた。
毎日丁寧に磨いている、自分の命綱ともいうべき得物だ。褒められて悪い気はしないので、腕にはめて軽く握り込んで見せてやる。
平時であればこんな安い世辞など相手にしないが、この時は酒の力でいろいろと高揚していた。
猿回しのましらは、確かな手ごたえを感じていた。
久々の大口顧客。貴重な稼ぎ時。
今夜の客は賭場の仕切り役である親分衆を中心とした、いわゆる「裏のお偉方」の集まりだ。どいつもこいつも、人相は悪いが羽振りは良い。気に入られれば次回も呼んでもらえるかもしれない。
大座敷の一角で繰り広げられる猿回しの曲芸は、いよいよ終盤に差し掛かっていた。
口上の合間に笊へと投げ込まれる心付けに、ましらは愛想よく頭を下げる。
「ありがとうございます、今後ともどうぞご贔屓に!」
「えて公にしては、なかなかにおもしろき見世物よ」
右を見ても左を見ても破落戸だらけの座の中で、ひとりだけ場違いに身なりのいい若者が声を上げた。
歳の頃は二十前後のようだが、最前列のど真ん中に座布団を高くして陣取り、親分衆が「若旦那」と呼んでせっせと世話を焼いている。おそらく名家の子息なのだろう。破落戸たちの大事な資金源といったところか。
その彼が頬を上気させ千鳥足で進み出てくるや、「ほれ」とまるで池の鯉に餌でもやる仕草で、一括りにした銭の束を笊へと放った。
ましらは息を呑み、ばっと畳に鼻先を付けて平伏する。猿の紋吉もすかさず真似をして、ぺこぺこと土下座の姿勢を繰り返す。
「ありがとうございます!」
若旦那はましらたちの眼前にしゃがみ、紋吉をまじまじと観察した。そして何を思ったか、右手に携えた酒瓶を鼻先で振ってみせる。
「ほれ、飲むか猿よ。褒美にやろうか。うまいぞーこれは」
紋吉は興味深げにそれを目で追ったが、躾けられているため欲しがろうとはしない。大した反応が無いのを不満に感じたものか、若旦那は猪口に注いだ清酒を自ら呷ると、酒臭い息を撒き散らしながら高笑いした。
「ふはは! だれがえて公なぞにやるものか。百年早い! あははは!」
若者の言葉に取り巻きたちも面白おかしく囃し立てる。ましらもまた、調子を合わせて紋吉を小突いた。
「あはは、まったく仰る通り! ほんに阿呆で、こいつったら」
紋吉が後ろ頭を掻きながらましらに横目を向ける。ましらは仕切り直すつもりで手を打って立ち上がった。
「さてさて宴も酣では御座いますが、お次が最後の――」
瞬間、すぐ近くから鋭い鳥の鳴き声が響き渡った。
座がしんと静まる。
「わっ、梁の上に鳥が!」
叫んだ誰かの声に、皆の意識が一斉にそちらを向いた。
いつの間にか頭上の梁に一羽の鳥が止まっており、何やら気が立った様子で眼下を睨み下ろしている。鴉よりも大きな体躯をしたその鳥がこんな場に入り込んでいる事に、誰もがしばし呆気に取られた。
「ありゃ隼だぁ……誰かの飼い鳥か?」
一方のましらは、満を持して本日のとっておきを披露しようという時に皆の注目を横取りされてしまい、苦笑を浮かべるしかない。
「あはは、仕事にならないなぁ」
足元では紋吉が身を丸め小さくなっている。猛禽類は天敵なのだ。鳴き声に驚き、反射的に萎縮してしまったらしい。
やがて立ち直った紋吉は、臆した己を恥に思ったのか、一転して犬歯をちらつかせ威嚇の唸りを上げ始めた。が、どうやら鳥の方は猿の存在に気付いてすらいないらしい。
「これじゃあ軽業師が形無しだ」
客の関心を攫われた上、相手の眼中にも無いとは。
肩をすくめるましらを、紋吉がちらりと見上げた。そしてその視線は、座卓の上に並ぶものへと移る。
紋吉はひょこひょことした二足歩行で卓に歩み寄ると、何を思ったか、若旦那が先ほど見せびらかしていた酒瓶を両手で持ち上げた。隼に気を取られていたましらは遅れてぎょっと目を剥く。
「ばっ、何やって――」
奪い取ろうと慌てて手を伸ばしたが紋吉はするりと躱し、ましらがたたらを踏んだわずかな隙に素早く瓶に口を付け、豪快に傾けた。
「あっ!?」
「おおっ、見よ見よ! 猿が人の真似事をしておるわ」
ましらのひっくり返った声に振り向いた若旦那が愉快げに手を叩いた。客らは再びこちらに視線を戻す。その眼前では紋吉がぐびぐびと酒を呷っている。
「だめだ紋吉!」
体面を気にしている場合ではなくなり、泡を食って飛びかかるも、再びすり抜けられる。男たちがげらげらと笑う。
「若旦那の飲みっぷりが見事なもんで、猿も我慢できなくなったんでさ」
「おほっ、いいぞ、もっと飲め飲め!」
周囲はたちまち、茶化し囃し立てる声に包まれた。
「いやっ、えっと、これはそのっ――」
ましらはしどろもどろで青くなる。ようやく紋吉の手から酒瓶をもぎ取った時には、中身がほとんど飲み干されていた。
酒瓶を取られた紋吉が、そのままの姿勢で固まる。
「紋吉? 大丈夫か、おい……?」
ましらは慌てて紋吉の顔を覗き込む。
元から赤みの強い顔はひときわ真っ赤に紅潮し、目はとろりと半開き。ましらが頬や肩をぺしぺし叩くと、鬱陶しげにそれを払いのける。
紋吉は覚束ない足取りで若旦那のもとへ歩み寄った。
そして銀糸の刺繍も見事な羽織の袂を小さな両手でつかんだ。
「お? もっと欲しいと申すか。味を占めおって生意気な――」
若旦那が言い終わらぬうち、猿の毛並みがぶるっ、と震える。
しょろ。
しょわわわ。
その一瞬、風が凪いだような妙な静寂に包まれた座に、かすかな水音がいやにはっきりと響いた。
たっぷりとした沈黙。
「…………へ?」
若旦那は見開いた両目をのろのろと下に向ける。
紋吉は一度大きくしゃくり上げてから、よたりとその場を退いた。猿のいた場所にはほかほかと湯気を立てる水溜まりができており、若旦那の纏う豪奢な刺繍羽織へと、見る間に染み込んでいく。
独特の臭気が鼻孔に侵入すると同時、若旦那の喉から悲鳴が転がり出た。
「ぎゃああああ!」
「あああああああああああ――っ!!」
若旦那の叫声をかき消す勢いで轟いたのはましらの絶叫である。
ざっと血の気を引かせたましらは、目玉をすばやく左右に動かし、卓上の台拭きを見つけると同時に引っ掴んだ。それを急いで羽織の染みに押し付けたが、若旦那に乱暴に押しのけられる。
「汚らしい手で触れるな!」
怒号とともに、手にしていた扇子で強か頭を打ち据えられた。星が飛んでくらつく視野の中には、ゆで蛸のごとく沸騰した若旦那の顔。
「き、きさまっ、わたっ、私を、誰だと……っ!」
怒りのあまり舌がうまく回らない様子で引き攣った呼吸を繰り返し、唾を飛ばして怒鳴られる。
「この羽織一つだとて、きさま風情のような貧相な餓鬼には、一生手の届かぬ逸品なのだぞ!」
「あ、あああ……もっ、申し訳、ありませ……」
ましらはひたすらに平身低頭するしかない。
しかし、今夜の儲けは全額お返しすると申し出ても、どんなに時間がかかっても必ず羽織を弁償すると誓っても、若旦那はまったく取り合わず、怒りを鎮めるどころか煮えたぎってゆく一方だった。
「ええいお前たち! こんな猿、この場で叩き切ってしまえ!」
若旦那の一声で、怒りを煽るように周囲で囃し立てていたならず者たちがにやつきながら立ち上がった。人相がことさら悪い大の男たちに取り囲まれ、ましらは蒼白になって取り縋る。
「ど、どうかご容赦を、それだけはご堪忍を……!」
慌てて紋吉の姿を探した。一緒に頭を下げさせなければ。後頭部を鷲掴みにして、畳に鼻面を擦り付けてでも。
だが、当の紋吉はというと、相変わらず焦点の定まらぬ目でふらふらと男たちの大木のような足の間を好き勝手に歩き回っていた。出すものを出し切ったためか、実に満足げな面持ちである。
「紋吉! こっちに来るんだ、お前も頭を下げろ!」
ましらが紋吉の首に繋がる綱を引くとよたよたと体勢を崩したが、素直に従おうとはせず、逆に綱を強く引き返される。
ふと顔を上向けた紋吉は、梁の上にいる鳥を再び目に留めてぴたりと立ち止まった。
次いで四つん這いになり、背を丸めて毛を逆立て、きぃ、と威嚇の声を発する。それでようやく梁の隼も紋吉に気付いたようで、体の向きを変えてこちらを見下ろし、軽く首を傾けた。
猿に興味を抱いたのか、威嚇が気に障ったのか。隼はひょいと梁から飛び降り、紋吉の目の前に着地した。今にも猿を捕らえようとしていた男たちは、新たな余興が始まりそうな気配に手を止めて様子を窺っている。
今のうちに紋吉を捕まえなければ。
ましらは男たちの足元を這い進み、紋吉の背に手を伸ばした。
「紋吉っ、おい、余計なこと――」
至近距離で互いを観察し合う猿と隼。
と、唐突に紋吉が隼へ手を出した。正確には隼の背にある竹筒から何か良い香りでもしているらしく、それを掴んで顔を近付けようとする。
その行動が隼の逆鱗に触れた。
隼の目尻が鋭くなって猿の手をつつく。そこから引っ込みがつかなくなり、両者は取っ組み合って畳の上を転がった。
「やめろ紋吉! やめろって!」
ましらは大声で呼び、紋吉を繋いだ綱を手繰り寄せる。猿の体躯が引きずり戻され、解放された隼は息巻いて甲高い鳴き声を張り上げると、ぱっと飛び立った。そのまままっすぐ、部屋の反対側で開け放たれている窓を目指す。
「おら、鳥も行っちまったことだし、とっとと猿をよこせ」
「ちょっと!」
三下の一人がましらの手から綱を乱暴に奪い取ろうとした刹那、隼を追いかけて紋吉が大きく跳躍した。
「おあ!?」
思いがけぬ猿の動きで輪っか状に束ねられた綱が跳ね上がり、三下の手を離れる。床に落ちた綱の束は、隼が出ていった窓に向かって疾駆する紋吉に引っ張られ、目にも留まらぬ早さで伸びていく。
すべての綱が伸びきる直前、間一髪ましらがその端をつかみ取った。
窓の縁に手をかける猿と猿回しの間に、一本の綱が生命線のように張り詰めた。
「で、間合いに入る奴らをこう――」
睡骨はいつになく上機嫌で、軽く握った手甲鉤を目の前で振ってみせた。
声をかけてきた男はおおすごい、と拍手する。
褒められるとさらに気持ちが良くなり、「大盤振る舞いだぁ」などと呟きながら爪を打ち鳴らす。
俺は今、なにをしてるんだろう。
そんな疑問も三十数えるうちの一瞬くらいは芽生えるのだが、あっという間に酔いの渦に呑み込まれていく。
「利き手は右かい? なら右手の方が威力が強いのかね」
「まあな。だが左が弱えっつうわけじゃねえ。今度右手と左手戦わせて白黒つけてみるぜ」
「そりゃあ楽しみだ」
睡骨はへらりと口端を引き上げ、何度目になるかわからぬ動きをもう一度繰り返した。右の爪をいいかげんな動作で振り上げては、振り下ろす。
「こおして、こお。こおして、こお。こおして――」
こお。
三回目に爪を振り下ろしたのと、眼前を茅色の毛玉が横切ったのは、ほぼ同時だった。
胸の前にぴんと張った一本の縄。
ぶつりと、空気を切るのとはまるで異なる手応えが手甲から腕を伝った。
「あ」
睡骨と、向かいで見ていた男が同時に声を発する。
茅色の毛玉――猿回しの猿は窓辺で一度立ち止まり、己の首からぶら下がっている半端に切れた縄をぼんやり見つめた後、一足飛びに窓の外へと飛び出していった。
「あっ!? あぁ――――っ!」
耳をつんざく絶叫に背を叩かれる。睡骨が振り返るよりも速く、先の猿回しの少年がどたどたと駆けてきて窓から身を乗り出した。
「紋吉!」
こぼれ落ちそうなほど目を開いて闇夜を見渡しているが、猿の姿はすでにずっと遠くの屋根まで達し、柱や庭木を渡ってあっという間に夜陰へ消え去ってしまった。
「だめだ紋吉! 戻れ!」
猿回しの叫びは、吸い込まれるような夜の闇に虚しく残響するばかり。
少年はわなわなと口を開閉し、ぺたりとその場に座り込んだ。
ぎしぎしと首を軋ませながら振り返り、信じられないという表情でこちらを凝視してくる。
それを受けた睡骨は
「えへへぇ」
と夢見心地な笑みを浮かべたのを最後に、畳の上にひっくり返った。