ましらの証言と睡骨の断片的な記憶から浮き彫りになった昨夜のおおよその経緯を把握し、七人隊の男たちは一様に冷めた視線を睡骨に注いだ。
えへんと蛇骨がわざとらしく空咳をする。
「つまり。おだてられて調子ん乗った挙句に有り金ぜんぶ使い果たして、おまけに猿まで逃がしちまったわけだ?」
「ぎし、煉骨の兄貴におこられる。睡骨なんかに金を預けるんじゃなかった」
煉骨には向けたためしがなかろう眼差しで睥睨してくる銀骨から逃れるように、睡骨は首を明後日に巡らせる。
「いや……やっぱ……夢だったんじゃねえかな」
「すっとぼけんな!」
先頭を歩いていたましらがくわりと怒号して振り向いた。
「おっさんがあんな場所であんな物騒なもん振り回したから綱が切れちまったんじゃないか! そうでなけりゃ紋吉が逃げることなんかなかったんだ!」
「そうは言うが、お前の猿が俺の目の前にきたのはお前の猿のせいだろ」
「紋吉が追いかけたあの鳥も、おっさんのだって話じゃないかよ」
「えー……いや、そうだが」
そして、猿が気を引かれたという凪の竹筒の酒も、睡骨が注いだものなのだ。
常であれば猿相手であろうとも軽くあしらったであろうはずの凪が、売られた喧嘩を買いに行くほど気を立たせていたのも、直前に睡骨が怒らせていたことが大きい。
いささか強引ではあるものの、様々な要因が、回り回って睡骨を起点にしていると言えなくもない。
四方から槍を突き付けられた気分で、睡骨は二日酔いに痛む頭を抱えた。
ましらはしばし憮然と睡骨を睨み上げていたが、やがてため息をつくと、気合いを入れるように両手の平でぱんと頬を打った。
「言い争ってる場合じゃないか。というわけでおっさんたち、紋吉探しを手伝ってくれるよな」
「え? いや、俺たちは」
その猿を捕まえて破落戸どもに引き渡して賞金をいただく予定なんです、と口にしたらば再び着火することになるだろう。
だが、ましらはそんな考えなどすでに見越していたようで、先回りして釘を打ってきた。
「こっちも人手がいるんだ。捕まえてくれたらその手配書よりも高い報酬を払うよ」
四人は耳を疑う。手配書の額は生け捕りで一貫、死んでいてもその半額だと謳っている。目の前の小僧の身形は、客商売をするだけあってそこまで粗末ではないものの、言うほどの額を出せるようには到底思えない。
「本当に払えるんだろうな。嘘っぱちなら、猿は向こうの連中に突き出すぜ」
「そういう脅しは捕まえてから言いなよ」
自分より一回りは年下であろう小僧に足元を見られるのは情けないが、背に腹は代えられない。いま必要なのは犬も食わぬ矜持より、まとまった金だ。
渋々承知すると、
「じゃ、俺は西側を探す。大きい人たち、一緒に来てくれ。文無しのおっさんたちは東側を頼む」
ましらは凶骨と銀骨に声をかけ、さっさと走り出した。指名された二人は戸惑いながらも、言われるままその後をどすどすとついていってしまう。
取り残された文無しのおっさん――もとい、睡骨と蛇骨はちらと視線を交わした。
「……はー。ただでさえ猿探しなんざ面倒くせえってのに、あんな餓鬼に顎で使われるたぁ七人隊の名が泣くぜ」
「まったく……」
同意する睡骨に蛇骨は目をすがめる。
「で。凪が持ってきた兄貴たっつー文には、何て書いてあったんだよ」
「……そういえば」
その存在がすっかり頭から抜けていた。睡骨は懐の中からくしゃくしゃになった文を引っ張り出す。
「なになに……『合流に先んじ、そっちで稼いだ額のおおよそを報告せよ。迅速な返答求む』」
読み上げた睡骨は静かに瞑目し、文を握りつぶした。蛇骨は旧来の友人を喪った通夜の席にいるかのような面持ちをしている。
「……何がなんでも猿を見つけるぞ。猿さえ捕まえりゃ金が手に入るんだ」
「……おう」
誰よりも先に猿を捕らえ、小僧でも破落戸でも、とにかく報酬を多く出せる方に引き渡せば、失った額を補填できるのだ。煉骨に返事を出すのはそれからでも遅くはない。
「そうだ!」
唐突に大声を上げた蛇骨に、睡骨はびくっと身を引く。
「いきなり何だよ」
「こういう時の襲ちゃんだぜ! なんか便利な術でさくっと探してもらおう」
「おお、その手があった」
これまでに、あの天狗が不可思議な術を用いる姿を幾度か目にしてきた。情報屋を名乗っているくらいである、失せ物探しなどは造作もなかろう。
「それに獣と話せるだろ。猿公をうまく言い包めてくれりゃ、俺らなんか耳ほじってたって猿を捕まえられるぜ」
「たしかに」
蛇骨にしては冴えている。
依頼するための金はもちろん無いのだが、煉骨の談によると、報酬は必ずしも金銭である必要はないらしい。他の見返りを提示すれば、渋りはしないだろう。
「呼ぼう呼ぼう!」と小躍りしてせかす蛇骨に、睡骨も乗り気になって懐に手を突っ込み。そのまま固まった。
「……あの笛、大兄貴に渡したんだった」
「は!? な、なんでだよ!」
「なんとなく、むこうの方で必要になる……ような気がして」
蛇骨の眉がみるみる吊り上がり、両手で殴りかかってきた。
「馬っ鹿野郎てめえ、勝手なことしやがって!」
「なんでいちいちお前に伺い立てなきゃならねえんだよ!」
鬱陶しく払いのけ、
「待てって。凪なら襲の居所がわかるはずだ。ちっと時間はかかるが、笛がなくたって呼びつける手はある」
その言葉に蛇骨の双眸は再び期待を宿し、固唾を飲んで睡骨が指を口に当てる様を凝視した。
鋭く高く、指笛が響き渡る。
こうすることで、いつ何時だろうと一目散に馳せ参じる。それが凪である。
蛇骨は逸る気持ちを抑えられない風情できょろきょろと空を眺め渡し、睡骨は腕を組んで泰然と隼の飛来を待った。
十、二十、呼吸を数える。
四十数えたところで、
「……来なくね?」
「聞こえなかったんだろ。そういうこともあるさ生き物だもの」
睡骨は動ずることなく返し、もう一度、強めに指笛を吹いた。
しかし、さらに六十の呼吸を数えても、雀一羽すら現れはしなかった。
こうなると睡骨の心中も穏やかではない。これはもしや。
いやまさか。昨夜のあれは、酔いが悪さしたほんの悪戯みたいなものじゃないか。
すっかり襲に会える心算になっていた蛇骨の口から、凄まじい落胆の塊が吐き出された。
「……はっ、あのくそ鳥に愛想尽かされてやんの」
「……」
睡骨は苦虫を口いっぱいに含んだ表情のまま、しばらく蛇骨の方を見ることができなかった。
己の足で地道に探すより他に道が無くなった睡骨と蛇骨は、分散と集合を繰り返して町の東側を縦横にうろつき回ることになった。
しかし旅人である己らでは猿の行きそうな場所に当たりを付けることすらできない。通行人を捕まえては聞き込みを試みたものの、深夜の逃亡劇だったこともあり有力な手がかりはひとつも得られなかった。
実りのないまま、いたずらに時間を浪費していく。二人の耳に、早くも昼を告げる鐘の音が聞こえてきた。
「腹ァへった」
睡骨も蛇骨もとも、今日はまだ何も食べていない。
さすがは宿場町というべきか、昼時ともなると目貫通りから外れた横道に立つ小さな屋台まで、どこもかしこも盛況だ。焼き魚の香りを店主がこれ見よがしに団扇で仰いでこちらへ送りつけてくるが、いかんせんそれを購う金はない。
「ここにいるのやめようぜ。拷問だぁ」
「しかし、猿公が食い物の匂いに釣られて出てくる可能性も……」
二人はひもじさを抱きながら、屋台の群れから離れた広場に移動する。宿場のちょうど中心部に位置するここならば、屋台に猿が現れたとしても騒ぎを聞きつけることができるだろう。
「あ、おっさんたち!」
広場の中央に植えられた銀杏の下で一息ついていると、向こうから声が飛んできた。目を向ければ、駆け寄ってくるましらと、その後ろへ律儀に続く大男二名。
「何か手掛かりあった?」
息を弾ませながら開口一番、少年は問うてきた。死にそうな顔で腹を抱える凶骨と銀骨を眺めつつ、睡骨は首を横に振る。
「坊主だ。何の収穫もねえよ」
そうかぁ、とましらの肩が下がる。彼らも成果は芳しくないのだろう。
ましらは賑わう屋台を見やった。
「おっさんら、昼くらい食べてきなよ。……え、なに、本当に一文も無いの?」
気を利かせて提案してきたましらだが、すぐにその口があんぐりと開けられた。言葉尻に少なからず軽蔑の色を感じて、四人はいたたまれず顔を俯ける。
「屋台の飯ひとつ買えないのか? 宿には泊まれたのに? どうしたらそうなるんだ?」
若いながら猿回しとして自立しているましらには、金銭管理ひとつできない大人がひどく頼りなく映っていることだろう。
大の男たちはぐうの音も出ないでいるが、凶骨の腹の虫だけは饒舌に、地響きのような低い音を轟かせた。
ましらの双眸が形容しがたい憐れみを湛え、凶骨に歩み寄るとその手中に何かを握らせた。焼き魚が五本買えるだけの銭である。
目元に滲んだ水気をぐいと拭った凶骨が屋台へと走り、程なくして彼らは一人一本の焼き魚にありつくことができた。
骨についた身も残らずこそぎ取り、頭まで丸かじりして、睡骨はほくほくとした白身の焼き魚を胃に収めた。
空腹がそこそこまぎれたところで思い至ったが、凶骨が買ったその場で五本すべて平らげることなくここまで運んで来られたのは、もしかするとかなりの成長と言えたのかもしれない。
骨ばかりになった残骸を捨て、ようやっと人心地つくことができた七人隊であるが、これでいよいよ、ましらに足を向けて寝れられぬ立場となったわけである。
「さ、捜索再開だ。どこを探したもんかなぁ」
「猿だっていいかげん酔いが醒めた頃だろ。正気に戻ったらてめぇで戻ってくるもんじゃねえのか」
躾けがなってない、と言いたげな睡骨に、ましらは難しい顔で眉根を寄せる。
「うん。いつもなら離れたとしても四半刻も経たず戻ってくるんだ。そもそも勝手に行動したり、誰かに危害を加えないよう躾けてあるんだけど。何かの拍子に綱が外れちまったとしても、俺から一間以上離たりしない……のに」
飼い主であるましらも紋吉の行動を把握しかねている様子で、戸惑いを滲ませている。
その時、銀骨がわずかに呻いて身じろぎした。隣にいる凶骨が目を瞬く。
「どうした、銀骨」
「ぎっし……」
銀骨はしきりに背を気にしている。あまりに落ち着かぬ様子なので、睡骨たちもそちらに目を向けた。
「なんか、砲筒の、具合が……」
「おいおい、これ以上の面倒は勘弁してくれよ。煉骨の兄貴がいねえ時に故障なんざ――」
うんざりした声で蛇骨が言いかけた瞬間。
砲筒から高速で飛び出した何かが彼の右頬すれすれを掠めた。
「ぎゃっ!!」
反射的に飛び退いた蛇骨が青くなる。
「てめえ銀骨、いきなり発射すんな! あと人に向けて撃つな! 危ねえ!」
しかし、当の銀骨自身も目を白黒させている。
「お、おれ、何もしてねぇ……!」
「ありゃ弾じゃねえぞ! 見ろ!」
凶骨が声を張り上げる。一同は弾かれたように、彼の太い指が示す先を振り仰いだ。
広場の中央に植えられた銀杏の木。その中腹の枝に、茅色の毛玉が
「も――紋吉!?」
ましらが仰天して叫んだ。睡骨たちもぎょっと瞠目する。
「はぁ!?」
「ずっと銀骨の砲筒ん中にいたのかよ!」
「い、いつの間に!」
今の今までまったく気付かずにいた銀骨が、誰よりも驚いている。灯台下暗しとはこのことだ。
弾丸のごとく銀骨の砲筒を飛び出た紋吉は、ふわふわとした茅色の毛をまとう小柄な猿だった。枝の上で呑気に背中を掻いている。今まで寝ていたのだろう、しきりに大口を開けて欠伸をこぼす姿は、騒ぐ人間たちなどまったく意に介していない。
いずれにせよ、他の捜索者たちよりも早く発見できた。またとない好機である。
「そこ動くなよ紋吉……!」
ましらが腕まくりしながら木の下へと大股で近寄る。
「どんだけ探したと思ってるんだ! さあ下りてこい!」
己に向けて伸べられる両手をじっと見下ろす猿は、しかし微塵も動こうとしない。ましらはやや困惑する。
「いつもちゃんと言うこと聞くじゃないか……。なんで急にわがままになっちまったんだよ」
紋吉とましらが互いの思考を探るように見合っていると、突如横合いから大きな影が降った。
ましらがはっとした時には、すでに紋吉の小さな体躯は凶骨の手のひらにすっぽりと握り込まれていた。
「よっし、捕まえた!」
紋吉を捕らえた右手を頭上に掲げ、勝ち誇ったように哄笑する凶骨。彼を見上げるましらの表情に、驚きと安堵が広がった。
「やった凶骨! 潰さないように気を付けて!」
「へへ、わかって…ら…?」
大男の高笑いがふいに引っ込んだ。数回瞬きし、凶骨がそっと手を開く。そこにあるはずの毛玉は忽然と消えていた。
「れ……?」
猿の姿を求め、凶骨は巨大な両目をあちこちへ彷徨わせる。
「どこだ? どこ行った?」
「どこ見てんだ凶骨! 頭ん上だ!」
蛇骨が声を張り上げ、凶骨はえっ、と頭頂に手を伸ばした。だが、指先が到達するより早く小さな影が太い鼻筋を滑り降りてくる。
「は」
文字通り目と鼻の先に突然現れた小さな猿の顔を、凶骨は寄り目で凝視した。一方、巨大な鼻尖にしがみついた紋吉もまた、妖怪じみた形相を珍しげに覗き返す。
そして。
猿はおもむろに凶骨の左右の鼻穴へと腕を突っ込み、鼻毛の束を掴めるだけ握り込むと、一切の躊躇いなくむしり取った。
「あ――あだぁぁぁ!!」
とんでもない兇行に凶骨は雄叫びを上げ、鼻を押さえて転げ回る。勢い余って踏まれかけたましらの襟首を蛇骨が咄嗟に掴み、紙一重で退避させた。
体勢を立て直したましらは、信じられない面持ちで紋吉と凶骨を交互に見る。
「も、紋吉! おまっ、なんて事するんだ!」
その紋吉はというと、凶骨の額を踏み台に高く跳躍し、近くの商家の庭木へ危なげなく飛び移っていた。
「あ、あの猿……!」
鼻を押さえたまま涙目で打ち震える凶骨の横から、銀骨が前に進み出た。
「ぎし、こうなったら……蛇骨、右肩の後ろにある突起を押してくれ」
「ああ? えーと……、これか!」
頼まれた蛇骨が銀骨の背部に飛び乗り、言われた箇所の突起を足で踏み込む。かち、と内部で音がして、足下の空間をころころと何かが転がる軽い音がした。
「ありがとよ」
礼の言葉とともに、上方を向いていた銀骨の砲筒が正面に据えられる位置まで下がる。睡骨がぎょっとした。
「おい、町中でぶっ放す気か」
「ま、待って、紋吉が木っ端微塵になる!」
「ぎしっ、心配いらねえ! これはでかい音がするだけの威し弾だからな!」
煉骨に新しく取り付けてもらった武器を、ようやく活かせる時がきた。
銀骨は紋吉から少しずれた中空に狙いを定め、「えいや!」という掛け声とともに渾身の一発を発射した。
だが、来たる爆音に備え耳を塞いだ一同の予想に反し、黒光りする砲身からは何も出てこない。
「あ、あれ。ちゃんと押したぞ俺は。押したよな」
蛇骨が誰にともなく同意を求める。銀骨も確かにその手ごたえを感じたはずだった。
「なんで弾が出ねえんだろう? ちょっと見てくれよ蛇骨」
不安げに懇願する銀骨に、まだ彼の背にいる蛇骨が
「いきなり弾が飛び出してきたりしねぇだろうな」
警戒しつつそろそろと筒の中を覗く。そして彼は、ぱかっと口を開いた。
「おい、筒ん中にごみ屑が詰まってやがる!」
「ぎっ!?」
暗く狭い砲筒の中には、見える範囲だけでも木の実や果実の皮、がらくたの破片、枯れ草などが夥しく詰め込まれ、あたかも獣の寝床然としていた。折り重なったそれらがつっかえ、砲弾の射出を堰き止めたのだろう。撃ったのが火薬の詰まった弾であったなら、暴発していたかもしれない。
「嫌だあ! 取ってくれぇ! 兄貴に怒られる!」
銀骨が半泣きで訴えるも、蛇骨はさっさと彼の上から飛び降りた。
「猿をとっ捕まえる方が先だ!」
「そんなぁ!」
睡骨と蛇骨、ましらは猿がいる木の下へ走った。
「猿! おとなしく捕まりやがれ!」
蛇骨が草履を脱ぎ捨てて木の幹に足をかけ、紋吉のもとまでよじ登ろうと試みる。
「待ってろ懸賞金……!」
執念に燃える眼差しに射貫かれた紋吉は、本能的な身の危険を感じたようだった。キャッ、と一声鋭く鳴き、ひょいと枝を飛び降りて真下にある蛇骨の頭に着地する。
「あっ!? てめぇ何すっ…こら!」
頭の上に陣取る猿を引き剥がそうと蛇骨は体毛を掴んで引っ張るが、紋吉はびくともせず、それどころか豊かな髪をかき回して遊び始めた。粋に結い上げられた髪があっという間に崩れていく。
「やめろこら! 髪が……!」
「蛇骨、そのまま掴んでて!」
木の低い位置から落ちて猿と格闘する蛇骨に駆け寄り、ましらが紋吉に掴みかかった。しかしすんでのところで猿は飛び退き、するすると道を横切ると、通り沿いの商家の瓦屋根の上へ逃れてしまう。
「ちくしょう! あと少しだったのに!」
「あんのクソ猿」
歯噛みするましらの後ろで、めちゃくちゃに崩壊した髪を持て余した蛇骨が舌打ちとともに猿を睨み上げる。だが、その両目はすぐに別の怒りに燃え上がった。
「ああ!? てめえ、返しやがれ!」
屋根上からこちらを悠然と見下ろす紋吉の手には、蛇骨が有り金と引き換えて手に入れた例の簪が握られていた。
猿は簪からぶら下がるいくつもの飾りをしげしげと眺めまわす。でんでん太鼓よろしく左右へ振り回せば、飾り同士がぶつかってちゃりちゃりと賑やかな音を立てた。
しかし、紋吉がその遊びに気を取られたのは実に束の間のことだった。見るからに興ざめした顔をすると、おもむろに右手で飾り部分をまとめて掴み、左手では軸を持ってそれぞれ反対方向にぎゅっと引っ張りはじめる。蛇骨の口から「ぎゃーっ!」と絹を裂くような悲鳴が上がる。
「もげるだろうが馬鹿! 高かったんだぞやめろ馬鹿ザル!」
引いては放しを数回繰り返されても飾りは案外ちぎれなかった。紋吉の飾りに対する興味はあっという間に尽き、蛇骨の絶叫も静まる。が、やはりそれも一瞬のことだった。今度は簪をくるりと反転し、尖った先端側で歯間の掃除をし始めたのである。
「あー……ごめんな蛇骨、本当に、いつもはあんなこと、しないんだよ……」
ましらが気まずげに詫びる横で、蛇骨は硬直していた。と、その体がにわかに震えだし、青ざめていた肌が急速に沸騰する。
「くっ、がぁあああー! もう許さねえぞ糞猿がぁ! なますにして肥溜めにぶち込んだらぁ!!」
「そっ、そんなことしないでくれよ!」
ましらが泡を食って制止しようとするが、噴火した蛇骨に聞く耳など付いていない。背から蛇骨刀を抜き放つや、蛇骨は壁際に積まれた天水桶を足場にして商家の屋根へと身を躍らせた。
「蛇骨、やめろ!」
睡骨が叫んだ時、すでに彼は蛇骨刀を繰り出していた。蛇腹の軌道が猿を目がけ殺到する。
「紋吉ぃ!」
誰もが、次の瞬間には両断された猿の亡骸が空を舞う光景を想像した。
その一連が絵巻のごとくゆっくりと網膜を流れていく。
蛇の鋭さで迫る刃の閃光。接触間際でさっと身を翻す紋吉。
宙返り、飛び越えくぐり抜け。まるでそれは、あらかじめ示し合わせた芸の流れであるかのようだった。回避の合間に蛇骨へ向け尻を叩いてみせる余裕すらあった。
「あはっ、見てあれ! すごい!」
どこからか上がった子供の声で、時間の流れが元に戻る。
屋根下にはいつの間にか小さな童たちが集まっており、蛇骨と猿の攻防を眺めはしゃいでいる。ぴんぴん跳ねまわる紋吉が蛇骨をおちょくる。
「ぐんぬぬぬ……!」
斬り込み隊長としての矜持まで汚された蛇骨の蟀谷には、今にもちぎれかねない青筋が浮き立った。彼は躍起になって刀を振り下ろしたが、波打つような斬撃は紋吉に掠りもせず、立派な屋根瓦を傷つけるばかり。
「こ、このままじゃ紋吉が死んじまう! 止めてくれよおっさん!」
切羽詰まったましらが睡骨の袖を掴んだ。
猿もそうだが、これ以上他家の高そうな屋根への破壊活動を黙認するわけにはいかない。弁償しろと言われたら終わる。睡骨は地上から声を張り上げた。
「おい、その辺にしとけ!」
「んぐぅあああー悔しい!! あああ!」
蛇骨は屋根の上で狂おしく地団駄を踏んだ。
その瞬間、度重なる振動で緩んでいた足下の瓦が外れ、すてんと横向きにひっくり返る。
「ああー」
なす術なくごろごろと転がった蛇骨はそのまま屋根の縁から落下した。あわや地面にぶつかる寸前に鼻を押さえた凶骨が手を滑り込ませ、掌に受け止めて事なきを得る。
見物の童らがぎゃははと腹を抱えて笑い飛ばす声が空高く響いた。仰向けに落ちた蛇骨は凶骨の手の中でゆっくり寝返ると、突っ伏してさめざめとべそをかいた。
「っ、う……、弄ばれた…猿なんかにっ……!」
一方の紋吉は、さも愉快げに頭上で手を叩いて一同を見下ろしている。
そしてその両目は必然、次なる相手――猿をまっすぐ見上げる睡骨とかち合った。
「うぉっ!?」
目が合うなり予備動作もなく飛びついてきた猿に、睡骨は面食らって一歩身を引いた。しかしすぐに立ち直ると、腰周りに引っ付いた紋吉をこれ幸いと捕らえにかかる。
奮闘の末、ついに茅色の毛で覆われた首根っこを掴むことに成功した。引き剥がして目前に掲げる。
「捕まえた! 捕まえたぜ坊主!」
「ひとりで何やってんだよおっさん!」
てっきり賞賛を浴びると想定していた睡骨は、ましらの反応に目を瞬く。
ましらどころか、誰一人こちらを見てすらいない。皆が視線を向けている先を見ると――暢気に耳をほじくっている猿がいる。
「へ?」
そんなはずはない。だって猿は己がしっかり捕らえている。
そう思って手元に目を落とすと、そこにあるのは乾燥させた藁を太い束にして括っただけの何かだった。
「なっ、変わり身だと!?」
「ふざけてる場合か! おっさんの武器も盗られちまってるじゃないかよ!」
「あぁ!?」
今度こそ睡骨の双眼は皿になった。慌てて腰元を確認すると、肌身離さず持っている手甲鉤が消えているではないか。
「……」
嫌な汗が滲み出た。あれを失うのは、洒落にならない。蛇骨のぼったくり簪ごときが壊されるのとはわけが違う。
「やめな! 危ない! 早く返すんだ紋吉!」
睡骨の手甲鉤を両手に持って興味津々いじり回している紋吉に、ましらの叱咤が飛ぶ。だが聞いているのかいないのか、小さな手は鏡のように鋭く輝く刃の縁を危なっかしくなぞっており、ましらも狼狽を隠しきれない。
「あー待て待て待て待て」
今すぐに助走をつけて殴り飛ばしたい衝動を押し殺し、睡骨は努めて抑えた語勢で、紋吉へと語りかけた。へたに刺激してはいけない。こういう時こそ声を荒げず、冷静に。穏便に。大人の対応である。
「とりあえず、武器を下ろせ。な」
犯人を逆上させぬように。人質の確保が最優先。
一言一言、辛抱強く言い聞かせるように紡いだ睡骨だったが、紋吉はまったく耳を傾けていない。
睡骨は舌打ちを口内に押し止めすばやく視線を走らせた。何かないか。くそ猿の気を引けるものは。
めぐる視界の隅に、山菜や旬の作物を並べている店が映り込んだ。店と言っても、民家の軒先に敷物を広げ床几を置いただけの簡素な露店である。
その、所狭しと並ぶ品の中に、よく熟れた山果が積まれていた。
これだ。
人に飼われどれだけ賢かろうが、相手は所詮けだもの。けだものなら、一にも二にも食欲が最優先なはずで、つまり食い物の誘惑を前に堪えられるわけがない。
睡骨は紋吉と睨み合ったまま横歩きでじりじりと店に近付くと、手探りで笊の上の果実を一つ掴み取った。店の者が口を開きかけるのを、肩越しにぎろりと睨んで黙らせる。
睡骨は手にした果実を猿へ向けて差し出した。交渉材料となるか。
「ほぅら、美味いぞこりゃ。おとなしく降伏すりゃあ、いくらでも食えるぞ」
紋吉の目に、それまでとは別種の輝きが宿った。本能がうずいている輝きだ。果実にそそられているのは間違いないが、それでもまだ警戒が勝るらしく、一定の距離以上、こちらに近づこうとしない。
ここで功を急ぐのは三流のすることだ。とにかく一口食わせれば、瓦解する。もっと欲しいと自ずから近づいてくるだろう。
「もう一度言うぞ。武器を、下ろせ」
先ほどよりわずかに強めた語調で、睡骨は言った。
数秒の逡巡の後、紋吉は無遠慮に、素晴らしいほどいいかげんに、がしゃんと乱雑な音を立てて手甲を地面へ放り捨てた。睡骨の肩が跳ね上がり、元から逆立っている頭髪が針葉樹のごとく天を突いた。顔の右半分をぴくぴく痙攣させながらも、なんとか平静を貼り付けて交渉を続ける。
「うっ、んっ……よっ、よぉぉぉしよし。ここは大人の話し合いといこうじゃねえか。ほーれ」
睡骨は紋吉の足元へ向けてまず一つ、小さめの果実を転がした。第一は信頼関係の構築。試しに一つ食べさせ、無害だと認識させる。警戒を緩めたクソ猿は二つ目をもらいにのこのこ間合いへやってくる。それが奴の終わりだ。
所詮は猿の思考など、想像するに難くない。人間さまを舐めるなよ。
転がってきた果実に、紋吉が鼻を近づけ注意深くにおいを確かめている。睡骨とましらは息を詰めて次の出方を窺う。
もちろん、今しがた店先から適当に拝借したただの山果で、細工できようはずもない。今に食欲がそそられ、かぶり付くに決まっている。あわよくばその隙に捕まえられる可能性だって、
鈍い音がした。
何が起こったのかわからなかった。
気付くと、渡したはずの果実は己の眉間にめり込んでいた。
「うっ!」
予想外の展開に、睡骨は衝撃を受け止めきれず数歩後ろによろめく。そして店先にあった大きな樽にぶつかり、その中へと倒れ込んだ。最悪なことに樽の中には何かの黒い液体がなみなみと入っており、激臭と耐え難い苦味が睡骨を襲う。
「べっ! うえっ! 何だこれ!!」
慌てて樽から這い出して店を振り返ると、染物屋だった。騒ぎを聞きつけた店の女将が仰天して表に出てくる。
「ちょっとあんた、柿渋の樽に突っ込んだのかい!?」
「か、柿渋……」
睡骨はぐいと顔を拭って紋吉を睨んだが、すでに猿はすたこらと逃げ出した後だった。後を追いかけているらしいましらの声だけが遠くから聞こえてくる。
「待て紋吉! いい加減にしろ!!」
怒り頂点に達して己もすぐさま駆け出そうとした睡骨だが、その刹那に背後から浴びせられたごほんという咳払いに、びくりと身を固くした。
柿汁の伝う顔でのろのろと振り返れば、屋根瓦を傷物にされた商店の主と無断で売り物を使われた山菜屋の店主、そして染料に突っ込まれた染物屋の女将が、極上の笑顔を浮かべて仁王立ちしていた。