目を覚ますと、数人の子分たちに周りを取り囲まれていた。そのうちの一人が、こちらの顎下に冷やした布を当てがっている。
「あ、目が覚めたんスね若旦那」
子分どもに支えられながらゆっくりと上体を起こす。
「うぅ……」
ぼんやりと焦点の合わない頭をゆるゆると振る。
「私はいったい」
「あの野郎、若旦那を思いっきり殴り上げたんス」
「なぐ」
鸚鵡おうむ返しに言いかけたところで、はたと思い出す。
「あ、あいつよくもっ、私の美しい顔を……! 父上にも打たれたことがないのに!」
顎が熱い。それに、顔の下半分はしびれて感覚が無くなっている。
生まれてこの方抱いたためしのない怒りがはらわたを煮え立たせた。
手近に落ちていた竹の棒を掴むや、立ち上がって喧騒の真っ只中へ駆け出そうとする若旦那を、子分たちが慌てて制止する。
「危ねえです若旦那、離れてなきゃ」
「また痛ぇ目に遭いますよう」
「ええい、私に指図するな! 元はといえばお前たちが鈍臭いせいだ!」
乱暴に子分たちを振りほどき、若旦那は果敢に乱闘の中へ突入した。
竹棒を引っ下げ、入り乱れる男たちの中心部を目指し突き進む。破落戸どもが引き返すよう呼び止めてくるが、一顧だにせず憎き素寒貧男のもとへ駆けていく。
「やつを絶対にひざまずかせてやる」
息まいた瞬間、突如目の前に小柄な姿が現れた。
咄嗟に足を止める。
「猿回し……!」
喧騒が声をかき消す。猿回しの少年は背後にいる若旦那に気付いていない。乱闘の中で素寒貧と距離が開いてしまったのだろう。周囲の男たちから伸びる腕を身軽にかい潜っているが、怪我を負っていることもあり疲労の色が窺える。
脳裏をすばらしい考えが閃いた。
あの素寒貧に一矢報いたいところだが、武器が竹棒ひとつでは返り打ちにあうかもしれない。お茶の先生は見事な竹刀しないさばきだと褒めてくれたものの、実戦は初めてなのだから。
けれど、この細っこい猿回しの小僧ならば、素手でだって簡単に取り押さえられる。
小僧がひとりでいる今は絶好の機会だ。
若旦那が距離を詰める先で、一人の男が少年に掴みかかろうとした。それをうまく避けた彼は、捕えようとする腕を逆に掴み返して思いきり噛み付いた。
少年の意識が男に集中した一瞬の隙を見逃さず、若旦那は背後からわっと少年を羽交い絞めにした。
「うわあ、馬鹿旦那!?」
「だれが馬鹿旦那だ無礼者!」
身をよじって暴れようとする猿回しだが、体格が違うため、がっちり拘束すれば地面に足も届かない。あとはこいつを殺すぞと脅してやれば、素寒貧男はあっけなく降参するはずだ。
奴の悔しげな顔を想像するだけで口端がゆるんだ。
「くそ! 放せよ!」
「ふん、そんな細腕で逃れられるものか!」
目の前にいた大男が鈍い音を立てて吹っ飛んだ。
鼻血を流して倒れ伏した男の向こうから、あの素寒貧が大股でやってくる。
「まだ懲りてねえのか小便小僧」
地を這うような声で言い、地面に唾を吐き捨てる。隈取で彩られた形相は、若旦那がこれまで見たどんな破落戸よりも鬼に似ている。
しかれど、勝ちが確信できるのでこれっぽちも怖くない。
さあひれ伏せ。無様に命乞いをして、暴漢どもに滅多打ちにされて、己の愚かさを思い知るがいい。
「ふはははは! おい文無し、この小僧の命が惜しくば」
「何をしている」


突如挟まれた重々しい声音に、あらゆる方向で飛び交っていた怒号や罵声がしんと静まった。
すべての視線が声の出どころを向く。
広場の入り口に、身なりのいい老人がいた。駕籠かごから下りたばかりのようで、後ろに数人の従者を従えている。
一同をたった一言で黙らせた老人に睡骨は眉をしかめ、ざっと周囲の反応を探った。
「誰だあのじじい
ひそめた声を交わしているのは、近くにいた下っ端連中である。睡骨同様、あの老人がどこの誰なのか見当もつかぬらしい。
しかし破落戸たちの中でも格上の者たちは、目に見えてそわつき始めていた。
よくわからぬが絶好の隙だ。この間にましらを逃がそうと、睡骨は目の前の若旦那へ視軸を戻した。
そして思わず呆気に取られる。
若旦那の面は血の気を失って真っ白だった。その視線は不自然に一人だけ老人を見ておらず睡骨に向けられたまま、しかし何も映していない。
雷にでも打たれたごとく、硬直している。
「何をしている」
老人が繰り返した。
若旦那は粗悪なからくり人形よろしくぎしぎしと首を巡らせる。彼の黒目が老人を捉えた途端、きゅっと引き絞られる。
「ち」
「あ?」
「ちちうえ」
ようやっと聞き取れる音量でこぼれ落ちた単語に、睡骨は一度瞬きをしてから老人を再び見る。
細部まできっちりと整った身なりに矍鑠かくしゃくとした佇まい。白みがかった髪にも調和する色合いの衣は、華美ではないが一目で上等なものと察せられ、立派な家格であることを窺わせつつも嫌味がない。
この老人が、
「親父だぁ?」
言われてみれば顔の作りが似ているような気もしてくる。
金にものを言わせわがまま放題、傍若無人に振る舞う若旦那の父親。すなわち大旦那。
さしずめ、この宿場町の顔役と言ったところか。
ならば、上格の破落戸らがあのように据わり悪くしている理由も察しがつく。
大方あの老人には、鶴の一声でならず者の徒党などすぐに潰せるだけの権力があるのだろう。
その仮称「大旦那」こと若旦那の父親は、本来泊まり客が憩うために設けられた広場を占領している破落戸たちを、そしてその中心にいる己の息子を、非常に厳しい面持ちで見据えた。
広宣ひろのぶ
この若旦那はひろのぶというのか。
呼ばれた息子は身をすくめながらも、引きった笑みを無理やり浮かべた。
「ち、父上……ご商談の予定では……まだお戻りには早い、はず」
「私が早く帰ってきて、何か困ることがあるのか」
重々しい問いに、若旦那の額に汗が滲む。
「あ、あのその、ええと」
「それよりも、何をしておるのかと訊いておる」
「なにって」
若旦那のしどろもどろ加減ときたら、見ているこちらの胃が痛み出しかねないほどである。もっともその腕にはまだましらを捕まえたままであり、爺がよほど耄碌もうろくしていない限りは何をしていたか一目瞭然だった。
衝撃のあまり、若旦那の脳みそからは「さっさと少年を解放せねばだいぶまずい」という当たり前の判断すらもすっ飛んでいるらしい。
ひとまずは、ましらにこれ以上の危害が及ぶ可能性は低いだろう。あの状態の若旦那から逃れるのは容易たやすい。
そう判じて睡骨が警戒を適度に緩めたその時、足の間をかや色の小さな影がすばやく通り過ぎていった。
紋吉もんきち!」
ましらが叫ぶ。
その声に驚いた若旦那がこちらを向いた瞬間、肉薄した紋吉が地を蹴る。
若旦那の額と紋吉の石頭が接触し、ごんっ、と小気味よい音が睡骨の耳にまで届いた。
「あー」
情けない声とともに若旦那が後ろへけ反り、緩んだ腕からましらが即座に抜け出る。
紋吉の小さな手が、若旦那の取り落とした竹棒を空中で掴んだ。それを大上段に振り上げ、落下する勢いを乗せて叩き下ろす。
ぺしんと、若旦那は叩かれた。
「うわぁ」
音からして威力はさほどでもないだろう。だが若旦那は大げさに悲鳴を上げ、逃げ出そうとする。そこへ紋吉が竹棒を横に払い、彼の足を引っ掛けた。
「わぁ!」
盛大にすっ転ぶ若旦那。紋吉は身丈の何倍もある竹棒をひゅんひゅんと振り回し、じつに的確な狙いで若旦那の肩や足を続けざまに打ち据えた。
ぺしん。ぺしんぺしん。
「痛いっ! 痛い痛い! 誰か助けろっ!」
むこうずねを強かに打たれた若旦那は悲鳴を上げて地面を転げ回った。趣味の悪いぎらつく羽織が土埃で見る影もない。ただ見下ろしているだけの睡骨は失笑で口端を歪める。
その隣まで逃げおおせたましらは、紋吉の棒さばきに唖然としていた。
「紋吉……その技、いつの間に」
一方で、破落戸どもはじわじわと後退を始めている。
「こんな早く大旦那が戻るなんざ、話が違うぞ」
親分格が舌打ちとともに吐き捨てる。
これまで若旦那を仲間に引き入れ、隠れみのとしながら甘い蜜をすすってきたのだろうが、白昼堂々、公衆の面前での騒ぎを現行犯で見られては言い逃れのしようもない。
もはや、いかに早く雲隠れするかが最優先事項だろう。
「てめぇら、ずらかれ!」
頭目の濁声だみごえが轟いた途端、手下の破落戸どもは睡骨もましらも若旦那も捨て置いて、わっと蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「ま、待て貴様ら! だれか私を守れ! 私が今までどれだけ援助してやったと思って……」
土埃を上げて我先にと離れていく男たちへ、若旦那がすがるように手を伸ばす。しかし誰一人見向きもしない。これ以上は若旦那と関わった分だけ己が危うくなるのだから当然だ。
広場から破落戸が一人残らず消えるのにそう時間はかからなかった。彼らと若旦那の縁の切れ目はひどくあっけないものだった。
今なお広場の入り口に佇んでいる大旦那が静かに手を挙げると、後ろに控えている従者たちがさっと散っていった。逃げた無頼たちを取り締まるため、手を回しに行ったのかもしれない。
破落戸たちにあっさりと捨て置かれ放心している若旦那の元へ、大旦那が静かに歩き出す。その姿を睡骨とましらは沈黙したまま目で追う。
すぐ傍らに立った父親に気付いた若旦那は、弾かれたように立ち上がった。
「ち、違うんです父上。見たでしょう、私は被害者です! あの猿に怪我をさせられた! ほらここ見てくだ」
「ばっかもん!!」
空気をびりびりと震わす激昂と同時に乾いた音がこだまして、反射的に睡骨たちの肩が揺れる。
頬を張り飛ばされて再び地面に倒れた若旦那は、真っ赤に色づいた箇所を押さえ目を白黒させている。
父親はずかずかと息子をまたぐと、彼のえりを掴み上げ、品のよい佇まいからはおよそ想像しえぬ凄まじい剣幕で怒鳴りつけた。
「いつからあのような不届き者たちとつるんでおった! 儂の目が届かぬところで、どれだけ愚かな振舞いをした! あまつさえ、あのような年端も行かぬ子供を……!」
もはや言葉にするのも業腹とばかり、怒りで血が昇った顔を小刻みに震わせている。
睡骨とましらはどうにも居心地悪く、後ろ手を組んでそこそこに神妙な顔でも作って、怒られている若旦那を眺めるしかない。
恐らく生まれて初めて目の当たりにしたのだろう父の怒りように、若旦那は言葉を失ったまま口をぱくつかせるばかりだった。裏の世界で幅を利かせる破落戸の親分たちより、父親の方がよほど怖ろしいことを思い知ったようだ。
父親が襟を掴む手を乱暴に離せば、どしゃりと地べたに崩れ落ちる。
そこへとどめとばかり紋吉が駆け寄って、なおも突きまわそうと竹棒を構えたものだから、ましらが慌てて抱き上げねばならなかった。
「も、もういい! やめな紋吉!」
ましらの制止を受けてひとまず武器を下ろした紋吉だが、怒り冷めやらぬ風情で犬歯を剥き出し、若旦那を威嚇する。
「きっ!」
「ひぃい!」
若旦那は腰を抜かして尻もちのまま後退すると、頭を抱えてうずくまった。
そのはかまの中心にじわじわと染みが広がっていくのを認め、睡骨とましらがぎくりと後退あとずさる。
「あっ……、あー……」
失禁に気付いた若旦那は慌ててそこを覆い隠したがどうにもならず、終いにはぐずぐずとむせび泣き始めた。
「ええ、泣いちまったんだけど……」
困惑するましらの視線を受け、睡骨もどっと疲弊した顔で首を振った。

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