卓上に所狭しと並べられた豪勢な料理を前に、男たちの空腹は十秒ともたず陥落した。
広場の騒動が一旦の終息を迎えると、あれほど詰めかけていた野次馬たちは潮が引くように、ぞろぞろと撤収していった。
紋吉の確保が成った睡骨とましらもその流れに紛れてそそくさと退散する気でいたのだが、二人の行く手を大旦那とその従者たちが立ち塞いだ。
またも面倒ごとが始まるのかと身構えた二人の予想に反し、大旦那は地べたへがばっと平服した。
「息子の不逞を詫びたい」
と涙ながらに頭を下げられては、無碍むげにするのも気が引けた。
こうしてましらと七人隊は大旦那の屋敷に招かれる運びとなり、現在に至る。
食欲をかきたてる香りを立ち昇らせる食膳に、睡骨と蛇骨は遠慮のえの字もなくがっついた。庭先で同じくもてなされている銀骨と凶骨もまた、出されたそばから皿を空にして家人たちをてんてこ舞いさせている。
「ましらの奴、おせえな。食いもん無くなっちまうぞ」
炊き立ての飯を目いっぱい口に詰めた蛇骨が首をひねる。
ましらは屋敷について間もなく、手配されたお抱え薬師に怪我の具合を診てもらうため別の部屋へと移された。
時間が経つにつれ青痣が目立っていたし、どこか悪く打ったのかもしれない。さらに頭の上から爪先まで土埃にまみれていたため、ついでに湯殿も貸してもらえるという話ではあった。それにしても、そろそろけっこうな時間が経つ。
ましらの方にはこの屋敷の長女がついている。若旦那の姉だそうである。事態を知って般若はんにゃのような顔をしていたから、弟と違って良識をわきまえているだろう。
否、はたしてそう言い切れるだろうか。睡骨は口を曲げた。
なんといってもあの馬鹿旦那の身内。無条件に信じるのはいかがなものか。介抱する振りをして、ましらが御家の不祥事を吹聴せぬよう、どうこうしている可能性も――。
そこまで考えた睡骨は、目の前にある空っぽの皿をじっと見下ろした。
もし万が一腹が痛くなったら、医者の自分を引きずり出すとしよう。
その時、座敷と廊下を仕切るふすまが横に滑った。
開いた先に、上品な薄桃色の振袖をまとう少女が立っている。
若旦那の姉とは別の娘だ。妹だろうか。
娘は薄く化粧した顔を伏せがちにして、どこかおどおどと床を見下ろしていた。
襖がさらに開いた。娘の隣から顔を覗かせたのは今度こそ若旦那の姉で、なにやら一仕事やり遂げたような満足げな表情である。
「もう! さいわあとにはならないそうですけど、大の男がこんな可愛らしい子に乱暴するなんて! 本当に信じられない!」
憤懣ふんまんやるかたないとばかり、姉は言った。ということは、この娘も手荒な真似をされた被害者か。それで浮かぬ顔をしているのだ。
「ましらは?」
庭先から銀骨が尋ねた。それに対し姉は「はい?」と返し、娘の方はますます唇を横一文字に引き締める。
ひゅっ、と音がした。
それが蛇骨が息をつめた音だと気付いた時、睡骨の喉もひっくり返った。
いやまさか。だがもしや。
「……………………ましら?」
「――っ!」
途端、少女の髪がぶわっと逆立ち、頬が一瞬で真っ赤に染まった。
「あちらの空いているところに座ってね。すぐに食事を運ばせますからね」
姉はそう告げると、父親を呼んでくると言って立ち去ってしまった。
その場に奇妙な沈黙が落ちる。
たっぷり十も呼吸を数えた頃、つつましく着飾った少女は、固まった表情でぎくしゃくと歩き出した。仕掛け人形よりもひどいぎこちなさで、睡骨の横の空間へ腰を下ろす。
睡骨はその様をまじまじと凝視し、
「………………………………おまえ、」
「言うなっ……何もっ……言うなぁ!」
振袖の娘が押し殺した声で叫ぶ。かと思えば両手で顔を覆って卓に突っ伏し、声にならない呻きを漏らす。口を開いてみれば、中身はましらのままだった。
「これはそのっ……し、師匠に、ごまかせる間はごまかしとけって、言われてて、それで……!」
ましらは一息にまくし立て、そして再び物言わぬ石像と化した。
「べつに、責めちゃいねえが」
確かに驚きはしたものの、こんな時世では、女一人の身が物騒なのは事実である。ましらの師がそのように言い聞かせたのも不思議なことではない。
「まあ、医者に診せたら、そりゃばれるわな」
診療の際に衣服を脱いだため女と知れたのだろう、と睡骨は踏んだのだが、ましらは俯きがちなまま頭を横に振った。つまみ細工の髪飾りが揺れ、その慣れない感触を鬱陶しげに見上げている。
「あのお姉さんにはもう、会った瞬間に女だって見抜かれた」
というよりも、少年に成りすましているとすら思われていなかったらしい。若旦那の姉は、一見した時からましらを女性と認識していたから、何一つ驚くことはなかったという。
睡骨は苦虫を噛み潰した顔になる。
さんざん近くで過ごしていた男性陣は誰ひとり気付かなかったというのに。これが女特有の鋭さか。
「そんなこんなで、湯浴みが終わったら部屋いっぱいに着物が用意されてて」
あれよあれよと着せ替え人形にされていたのだ。
ましらは体に毛虫でも這っているかのごとく身震いした。
「ぜんぜん落ち着かないっ……! こんな上等なもん着たことないし、なんか良い匂いがする!」
頭を掻きむしろうにも繊細な髪飾りに気を遣わねばならず、苦悶の呻きをあげる。
と、再び襖が開いた。大旦那と若旦那の姉が姿を見せたため、ましらは慌てて居住まいを正し、深々と頭を下げた。
「こっ、この度はその、うちのアホ猿がたいへんなご迷惑を……!」
そのアホ猿こと紋吉は現在、しっかりと縄で繋がれ、縁側でのどかに微睡まどろんでいる。
対する大旦那はといえば、この短時間でずいぶんと憔悴しょうすいの進んだ面持ちになっていた。
秘匿されていた息子のこれまでの振舞いが次々と明らかになるにつけ、その胸中を慙愧ざんきやら心労やらがごった返しているのだろう。
「……とんでもない、謝罪すべきはこちらでございます。どうか頭を上げてくだされ。うちのせがれの方がお猿さまの百万倍、どうしようもない阿呆でございます」
孫とも呼べる年齢のましらに、丁寧に丁寧に詫びる。
「で、でも……そもそもは、紋吉がお召し物に粗相をしたのが悪かったんです。俺――わたし、も、紋吉を捕まえるのを優先して飛び出したから、事態が悪化して」
「大店の跡取りともあろう者が、その程度も笑って済ませられずどうしましょうか」
大旦那の眉間に険が滲んだ。客人の手前、込み上げる怒りをなんとか押さえ込んでいるのだろう。今すぐにでも勘当すると言いだしそうである。
「いいのです、あんな悪趣味な羽織。家の金をあんなしょうもないものに浪費して、私は恥ずかしくてもうおもてを歩けませぬ」
大旦那の隣で、姉も深く頷いた。
「ほんとうに。宿場の治安のために若衆で夜の見回りをしているのだとか、ご大層な事を言っていたのですよ。それが、蓋を開ければ賭け事に酒盛り三昧だなんて。しかも無頼と一緒になってお金を巻き上げていたというじゃないですか。いつからそんなろくでなしになったのかしら」
口にするうち情けなさに堪えかね、姉はたもとで目元を押さえる。
「あのう、ちなみにその若旦那さまは今、どこに」
ましらがおずおずと問うた。若旦那の身内がこちら以上に怒り狂っている様を前に、彼女の方はむしろ怒りが消えかけてすらいるように見える。
簀巻すまきにして土蔵に放り込んでおります」
睡骨は横目を障子窓越しの土蔵に向けた。かなり見てみたい。
姉はましらにいざり寄ると、その手を取り真摯な目で覗き込んだ。
「ましらちゃんにこれ以上の危険は及ばないと約束するから、安心してちょうだい。弟に悪事を洗いざらい白状させたら、悪い連中はみんな、地の果てまででも追い詰めて成敗しますから」
「う、うわぁー、頼もしいなぁー」
「不正に金を巻き上げてたってのは、具体的に何をしてたんだ」
聞き役に回っていた睡骨が口を挟んだ。あるいは自分もその被害者かもしれぬ。いやそうに違いない。被害者の立場となれば、有り金すべて失った件も弁明の余地ができるだろう。
「子細は調査中ですが、宿泊客らを相手にいろいろと阿漕あこぎなことをやっていたようで……。とくに、強い酒を浴びるほど飲ませ、酩酊した客の判断力が鈍ったところをおだてて散財させるなんていうのは常套の手口だったとか」
睡骨は苦々しく口を結ぶ。まさに睡骨がやられた手法ではあるが、なんだかそんな単純な手にまんまと乗せられたと思うと情けなさの方が勝ってしまう。それに不正と称するにはいまいち弱い。多かれ少なかれどこの賭場もやっていることだろう。
兄貴分に説明したところで「騙される方が悪い」と一蹴されて終わるのが目に見えた。
先の騒動から幾ばくも経たぬにも関わらず、賭場にはすでに封鎖され、捜査の手が入っているらしい。
そのうちもっと大々的な不正の証拠が見つかりでもすれば、睡骨が大損した分の補填もいくらか期待できる可能性はある。しかし、残念ながらそこまでのんびり待てる時間はない。
睡骨が憮然としていると、ふいに大旦那が話題を変えた。
「時にましらどの。先の、紋吉どのの棒さばきですが」
ひくっ、と小さく息をのんだましらの顔から血の気が引く。
父親の前でその息子をこれでもかと滅多打ちにしたのだ。いくらどうしようもない馬鹿息子といえども、あの光景を見ておもしろい親はいるまい。
「すっ、すみません本当に本当にあれはちょっとやりすぎたというかあのクソ猿」
「ああ、いやいや、そうではなく」
卓に額を打ち付けるほど謝り倒すましらを制した父親の相好がわずかに崩れた。やわらかな、人当たりのよい好々爺こうこうやとなる。
「息子にしたことは怒っておりませぬ。むしろもっと灸を据えて頂いても良かったくらいで」
ならもっとやればよかった、と睡骨は少し後悔する。
大旦那の目元に懐古の色が滲んだ。
「……数年前の話です。商談に出向いた旅先で、紋吉どのが使っていたあの技と同じものを見たことがありましてね」
「え?」
ましらは目を丸くした。
「あまりに見事なものだから、私はその場で猿回しの男性に資金援助を申し出たのです。相応の見返りを払うので、どうかうちの宿場に腰を据え、その妙技を披露してもらえないかと」
彼もその申し出に惹かれる部分はあったのだろう。しかし「一晩考えさせてほしい」と別れた翌日、どこか吹っ切れた口調で辞退したのだという。
「長らく根無草ねなしぐさで気の向くようにやってきた自分が、今さら一所に落ち着くのも性に合わぬと。安定と引き換えに、きっと己の芸は鈍ってしまうからと、仰っておられた」
落胆した大旦那だが、彼の考えを尊重し、金額を吊り上げたりしつこく迫るような野暮はしなかった。
大旦那の実直な人となりには、猿回しの方も好感を抱いたようだった。
「別れ際、彼はこう言いいました」
――俺みてぇなもんにも最近、弟子ができましてね。なに、女子おなごだから物になる前に、嫁に行くなり他の生き方選ぶなりするかもしれねえですわ。事実、最初なんかこれっぽちも言うこと聞かなくてね。でも今は、熱心に猿回しを目指してやがるんですよ。
「こんな時代だ、一人前になったとこで、女のあいつじゃ俺なんかよりずっと苦労するだろうに……と」
そう語る猿回しの表情は、弟子を思う師であり、我が子の行く末を案じる親であった。
――もしも。……もしもいつか、いっぱしの猿回しになったあの子に会うことがあったら、そん時にどうか、目をかけてやってくだせぇ。虫が良いのは百も承知ですが、頭の隅にでも置いといてもらえたら嬉しいですよ。
「そのお弟子さんというのが君なのだと、紋吉どのの棒術を見た瞬間に悟りましたよ」
感慨深げな眼差しを向けられたましらは言葉を失っていた。
下唇がぎゅっと口内に引き込まれる。膝の上で握りしめた拳が微かに震える。
「紋吉のやつ、あの技は、おれ――あたしの前では、一回もできたことがなくて。てっきり、先代から継げずに終わってしまったものとばかり……思い込んでて」
先代の猿も師匠も身罷ってしまった今、あの大技だけは、とても再現できないだろうと。師匠の芸を完璧に遺すことはできないのだと、それをずっと悔いていた。
けれどそうではなかった。
紋吉はましらの知らぬ間にしっかりとその技を修得していたのだ。
大旦那が瞑目する。
「まさか、彼が亡くなられていたとは。できることならもう一度お会いしたかった。……でも、君のような立派なお弟子さんがいて、きっと幸せだったろう」
ましらは縁側でのんきに寝返りを打っている紋吉を見やった。
ましらが我知らず抱えていた焦りを見抜いて、突き放して、でも危機にはちゃんと駆けつけてくれた、たった一匹の相棒。
「あたしが一人前になるまで披露すんじゃねえぞって、師匠に言われてたのかな」
ずるいなぁ。
ましらは微笑むと、少し赤みのさした鼻をすすった。

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