耳を疑う注文は承られてしまった。
店主と女将が去った個室の中、朔夜は唇を真一文字に引き結んで、正面に座す襲を無言で見据えた。襲がわずかに目を細める。
「あまり嬉しそうではないな」
「いえ、決してそんな事は……ないんですけど」
念押しせずにおれない。
「本当に、大丈夫なんですよね?」
「無論だ」
すがすがしいほどきっぱり言い切られる。だんだん、心配しているこちらが間違っている気がしてくる。
彼が大丈夫だと請け負うのだから、ご馳走される立場の自分は大船に乗った気で信じるしかない。
「ぜんぶ食えるなんて夢みたいだなぁ」
「さすが大将、太っ腹だぜ」
きゃいきゃいとはしゃいでいる小妖怪たちを見ているうち、不安も鳴りを潜めていく。
考えてみればこちらには食いしん坊の小妖怪が三匹もいるのだ。むしろ二人前では足りない、なんてことになるやもしれない。
楽しげに品書きの絵を眺めていた三匹が顔を上げた。
「にしても、兄妹って話、ぜんぜん疑われないな」
「顔も似てないのに。適当なもんだぜ」
「縦しんば疑っていたとして、それを本人に面と向かっては言わぬだろう」
襲の言に、小妖怪らは体ごと首を傾げる。
「そういうもんか?」
「そういうものだ」
「でも、自然に見えるよう振る舞うのって、大変なものですね。私、軽い気持ちでかなり無理をお願いしてしまったような……」
朔夜などは最初の虚言を口にしただけで口の中がからからに乾いてしまった。
「俺は慣れているから、気に病まなくて大丈夫だ。お前の本当の身内に不都合が生じぬのであれば」
襲の言葉に朔夜は小さく頷いた。
「それについては心配ありません」
「そういえば、朔夜の身内ってどこに住んでるんだ? 見たことないな」
見上げてくる一角に、少しばかり目を伏せる。
「身内はね、もうみんな死んでしまったの」
「えっ」
三匹は狐につままれたような顔で、つぶらな目をぱちくりとさせた。
「戦でか」
襲が静かな口調で尋ねる。
「戦と病に半々ですね。親も兄弟たちも」
「生まれは、ここから近いのか」
「もっと北の方ですよ。国境の辺りにあった小さな村で。数年前の戦で、村ごと無くなってしまいました。蛮骨と会ったのも――」
言い差して、多少の後悔を覚えた。こんな話は、食事の席に相応しくない。しかし、蛮骨の名が出たからには、小妖怪たちの興味を引かぬわけがなかった。
案の定三匹はぐっと前のめりになり、真ん中の舜が口を開いた。
「蛮骨とは、」
「この村に拠点を構えているのは、誰かしらの縁者があっての事なのか?」
朔夜は虚を衝かれて、口を挟んだ襲を見た。
深堀りされかけたところを、あえて遮ったように見える。
気を利かせてくれたのだろうか。
「い、いいえ、元は縁もゆかりも無い土地なんです。みんなも余所の生まれですし。行く当てが無くて一時的に身を置かせてもらったのが、たまたまこの村で」
さほど昔の話でもないというのに、なんだかとても懐かしく思える。朔夜は当時の様子を瞼に描きながら続けた。
「そのうちに仲間が増えて、傭兵隊の形ができてきて。そうしてみると、この村が何かと戦支度の便が良いことに気付いたんです。折よくあの屋敷も手頃に入手できたので、そのまま」
村からそう遠くない距離に、鍜治場もたたら場もそろっている。城下への通り道にあるため、行き来する行商も多い。周囲に広がる山野には野草の種類も豊富だと、霧骨や医者の睡骨が言っていた。
「だから、この辺に私たちの過去を知る人はいません。襲さんが兄じゃないことも、ばれる心配はありませんよ」
もっとも、兄妹という設定は今回限りの急ごしらえのもので、再びこうして出かける機会でもなければ、使うことはないだろう。
話を聞き終えた小妖怪たちがしんなりしている。
「そうだったんだ……」
「俺たちてっきり、朔夜は平々凡々と生きてきたとばかり」
「まぁ」
思ったままを口に出す小丸たちの言い様に、朔夜は吹き出した。
「そう見えるのは、きっと今がそれだけ平凡だからね。みんなが遊びに来てくれて、いつも楽しいもの」
蛮骨と出会った当時、朔夜は明日をも知れぬ身だった。一刻後にこの世に命があるかすら定かではなかった。そんな殺伐とした状況が夢だったかのように、今の暮らしはとても穏やかである。
もちろん、離れて過ごす蛮骨のことはいつも気掛かりだ。しかし、三日と空けず妖怪の誰かしらが顔を出して彼らの近況を知らせてくれるものだから、少なくとも以前のように彼の帰りを不安の中でただ待つしかない身ではない。不足しているものがあると聞けば蒼空や襲を介して届けることができるし、そのために備蓄の食糧を拵えておいたり薬草を補充しておいたりと、朔夜が手伝えることは格段に増えた。
朔夜の日々が充実しているのは、妖怪たちとの出会いがあればこそだった。
感慨に浸りつつ、湯飲みに唇をつける。
これまで、蛮骨以外の者に身の上話をすることはほとんど無かった。無意識に緊張していたのか、喉が渇いている。
茶を少しずつ飲みながら、ふと興味が湧いた。
湯飲みを卓に置いた朔夜は、
「襲さんは? 奥さんとか、お子さんとか、いらっしゃらないんですか」
襲に水を向けた。
ずっと気になっていたのだが、なかなか訊けずにいた事柄だった。けれど、朔夜が自分のことを語った今ならば訊きやすい。
「たしかに気になる」
「大将、自分のことちっとも喋らないから」
好奇の視線を浴びた鴉天狗は、
「いない。独り身だ」
手短に答えた。
「ほんとかぁ?」
「ずっと?」
「ずっと」
小妖怪たちはあからさまに訝しげな態度で襲を睨めつけた。
確かに、これほどの麗容と強さを備え気性も穏やかだというのに、長い人生の中で浮いた話のひとつも無かったというのは、にわかに信じがたい。しかし他ならぬ襲に限っては、ない事もないのかもと思えてしまうのが不思議だ。
もちろん、それが悪いわけではない。妖怪と人間では伴侶の存在意義は違うのだろうし、個人の価値観により、妻帯を好まないということもあるだろう。
「恋人はいるだろ?」
「いない」
三匹がむっと眉間に皺を刻んだ。
「――うそつけ!」
「……どうしてお前たち相手に嘘をつかねばならんのだ」
「いないわけないじゃんか」
「な、朔夜もそう思うだろ!」
「え? ええと……どうかしら」
肯定も否定も失礼な気がして、朔夜は曖昧に苦笑する。
「俺らの大将が、放っておかれるわけないだろ? 浮名のひとつも流せない甲斐性なしじゃ、俺たちが恥ずかしいんだぞ!」
持ち上げられているのか貶されているのかわからぬ主張に、襲が閉口している。
「みんなは、襲さんに女遊びをしてほしいの?」
「ちがうよ! そうじゃなくてさ」
「なんかほら、強い奴って」
「女をいっぱい侍らせてるもんじゃん」
「いったい誰を手本にしているんだ」
襲が呆れとも疲れともつかぬ嘆息を落とした。
「……言い寄られることはままある。だが、その大半は天狗の力が目当てなだけの輩だ」
女に限った話ではないがな、と付け加える。
「取り入ろうとしてくるんですか?」
「ああ。人間と変わらんだろう」
腕を組んだ襲は、そのまま背後の壁に背を預けた。
「半端に力をもつ妖怪ほど、人間を愚かで下等なものと見下すものだ。だがその実、する事といえば大差がないのさ。徒党を組み、強者に媚び、利害で動く」
もっとも、と続ける。
「妖怪の場合、喰らった相手の力を己がものとすることができる。その分、なりふり構わん動きに出る連中も多いな」
人間の世にも下克上はある。しかしそれは、時間をかけた綿密な計画と根回しの上に成り立つもので、確実に成功する算段が付いてようやく実行されるものだ。
それに比べると、妖怪が一か八かの賭けに出て強者へ牙を剥く事例はずっと多い。
「それじゃ、襲さんも気が休まらないですね」
これといった武装もせず単独で行動していることの多い鴉天狗など、格好の標的にされそうだ。
「ここ最近は落ち着いている方だ。そうでなければ、お前たちを連れて飯など食いに来れん」
黒色に変じながらも深い色をした瞳が、ついと細められる。
「現状、この国はかつてなく死の穢れと負の気が蔓延っている。黙っていても妖怪たちの力が増しやすい状況が出来上がっているのだ。わざわざ危険を冒して格上に挑まずとも、それなりの妖力は得られるのだろう」
見解を述べる襲は、自身も妖怪でありながら、その状況を喜んでいるようには見えなかった。
「じゃあじゃあ、俺たちも、何もしなくても強くなれるってことか!?」
能天気に訊ねる小妖怪たちに、襲は首を横に振る。
「お前たちの場合、本当に文字通り『何もしない』つもりだろう。食って寝ているだけで強くなれるものか。何事にも素地は必要だ」
「そじ?」
「下地作りは自分が頑張らなければ駄目ということよ」
朔夜の説明に黙然と頷き、襲が茶をすする。小妖怪たちはがっくりと小さな肩を落とした。頑張って下地作りをする気は毛頭ないらしい。
「大将が寝てる間に指の先っぽとか齧ったら、ちょっとは強くなれないかな?」
めげずに舜が提案する。小丸と一角は名案とばかり目を輝かせ、その光景を想像した朔夜は笑ってしまった。それで強くなれるのなら、かなり平和だ。
「でも大将、あんま規則正しく寝ないからなぁ」
「そうなんですか?」
驚く朔夜の視線を受けて、襲が首肯する。
「疲れていなければ、三、四日は寝なくても平気なのでな」
「なら、先に蒼空の耳とかで試してみたら?」
「おおっ、確かにその方が簡単だな!」
「帰ったら親分に頼んでみよう」
小妖怪たちはわくわくと顔を見合わせた。
自由すぎる彼らの言に、襲は呆れた様子で肩を竦めるものの、一蹴したり馬鹿にしたりはしない。無表情ではあるが、どちらかというと平和なやり取りを微笑ましく聞いている。そんな風に、朔夜には見えた。
先ほどの話を思い出す。
好意的に近付いてくる者の大半が腹に一物ありというのは、どんな心境だろう。自分がその立場だったら、疑心暗鬼に陥ってしまいそうだ。何十年、何百年も堪えられる自信はない。
それでなくとも鴉天狗の襲は、強大な力を畏れられるあまりに無条件で距離を取られてしまうらしい。他ならぬ小妖怪たちも例に漏れず、初対面では近付くだけで卒倒するほど、がちがちに怖がっていたものだ。
それが今ではやりすぎなくらい馴れ馴れしくしている。当て推量だが、このような間柄の相手は襲にとって得難いものなのかもしれない。
「でさぁ」
舜が脱線していた話を戻した。
「独り身なのはわかったけど、親兄弟もいないの? みんな、鴉天狗の里にいるの?」
襲は故郷の里を抜けた、いわばはぐれ天狗である。
自らの意思で抜けたのか、それとも追放されたのか、詳しいことは朔夜も小妖怪たちも知らない。一つ確かなのは、一度も故郷に戻っていないらしいということだけだ。
問われた彼は数秒の沈思を挟んだ。しかしすぐに口を開き、
「俺は生まれてすぐに生家を離されてな。親をはじめ身内の誰ひとり、顔も名も知らんのだ」
「えっ」
「家を離されたって、そんな、どうし――」
問いかけた小妖怪たちが、思い至った様子で目配せする。
「瞳が紅いことと、関係あるのか……?」
「まあ……」
話が見えず朔夜が瞬いていると、それを見上げた三匹は気を利かせて説明を加える。
「前にアマビエって妖怪に教えてもらったんだけどさ、鴉天狗って、普通は人間と同じく黒い瞳なんだ」
「大将みたいに紅いのは特別なんだって」
「え、そうなの?」
鴉天狗は皆、紅い眼をしているものだと思っていた。
改めて正面に座す男の瞳をまっすぐ見つめる。今は漆黒に変じている襲の瞳は、本性に戻ると血の色に似た、深い紅になる。
初めて邂逅した際、蛇骨はこれを抉り取りたいなどと物騒極まりない発言をしたらしい。抉りたいかはさておき、手元に欲しいと思うのも頷けるほどに美しい色彩は、慣れていてもしばしば見入ってしまう。
視線が交差したのは刹那のことで、襲はふいとそれを逸らした。その流れのまま、すがめた目が小妖怪たちを見下ろす。
「あやつは無駄に持ち上げていたが、色が異なるだけだと言っただろう。特別なことなど何もない」
「特別じゃないなら、家から離す必要だって無いじゃんか」
「普通と違うものを念のため隔離しておきたかったんだろうさ。よくある話だ」
興味も感慨も無さげに返す襲へ、小妖怪たちは不服そうな顔を向けている。自分たちが「大将」と呼び慕う相手には、稀有な存在であってほしいようだ。
朔夜もまた、襲が語る以上の複雑な事情がありそうだとは思ったが、さらに踏み込むつもりはなかった。おそらく襲は、特別視してほしくないのだ。
「でも、ご両親のお顔もわからないなんて。育ての親御さんとかは……」
「里の中枢機関で管理されていた。特定の誰かを親と見たことはない」
「管理」という言葉がひどく無機質で、ひやりとしたものが胸に落ちる。朔夜には想像もつかない世界だった。
紅い眼だからといって、親元から離して一度も会わせぬほど徹底しなければならないものなのだろうか。
襲が里の話をする時は、ことさらに淡々として見える。まるで知らぬ土地の話をしているかのように、愛着や懐郷というものが微塵も窺えない。
そのわけを、少し垣間見た気がした。
そろそろ話題を変えるべきかと朔夜が考え始めた時、丁度よく区切りが訪れた。近付いてきた足音と食器の音が個室の前で止まり、
「料理をお持ちしました」
障子戸越しに女将の声がかけられた。