「あ、朔夜ちゃん朔夜ちゃん!」
屋敷の門のくぐり戸を開けようとしたところで呼び止められた。
朔夜が振り向くと、道を挟んだ斜向かいの長屋から小走りに駆けてくる者がある。
「千歳ちゃん?」
呼びかけてきたのは、長屋に暮らす娘だった。同年輩なこともあり、いちばんの友達として日頃から気の置けない付き合いをしている。
朔夜の帰りを待っていたらしく、どこか急いた様子だった。
「どうしたの」
「どうしたのじゃないわ!」
千歳は朔夜の後ろにいる襲に目を留めるや「はうっ!」と不思議な声を上げて口元を覆い、急停止した。
「こ、こちらがっ、例のっ……」
その反応と言葉に、朔夜は嫌な予感を覚える。
「え……例の、なに?」
「知らないの?」
千歳の両眉が跳ね上がる。快活な娘は大仰に身振りを交えて説明した。
「もう、ここいらですんごい噂になってるんだから! 朔夜ちゃんの生き別れのお兄さんが現れて、それがとんでもなく色男だって」
「え」
声が引きつり、総身がぴしりと音を立てて固まった。
「だ、誰からそんな話を」
「ええと、私はお隣のお吉おばちゃん、おばちゃんは振り売りの藤兵衛さん、藤兵衛さんは表通りの小間物屋さんでしょ、その前は――」
「も、もう十分」
指折り名を挙げていく千歳を止め、朔夜は胸中で頭を抱えた。
この界隈一帯に、満遍なく話が広がってしまったらしい。出所は間違いなく、「福寿庵」の女将だ。
料理屋で過ごす間だけごまかすつもりだったものが、知らぬうちに皆の知るところとなってしまった。
たじろぎかけた気持ちをなんとか立て直し、朔夜は取りすました顔を作った。
「やだ、そんなことになってたの? ちょっと大袈裟過ぎるわ」
身内のことという体なので一応は謙遜せねばならない。内心で平身低頭しながら、襲に顔を向ける。
「兄さん。こちら、お向かいに住んでる千歳ちゃん」
襲も心得たものですでに兄の顔をしており、にこりと微笑んだ。
「朔夜のお友達か。はじめまして」
千歳は「ひゃあっ」とひっくり返った声を出し、顔を両手で覆い隠した。耳まで真っ赤になっている。そしてなぜか朔夜の背に隠れながら返事をする。
「は、はじめましてぇ……千歳と申します……」
そのまま背後から耳元へ動揺した声を忍ばせてくる。
「どこが大袈裟なもんですかっ! どうしましょ、想像してた数十倍美人じゃないの! もおおぉぉっ、言ってよぉぉぉ……!」
ばしばし背中を叩かれる。あたふたと身だしなみを整え始める千歳に、朔夜は遠い目をした。今さらだが、自分がその「想像してた数十倍美人」の妹だという設定にはかなりの無理がある。
しかし、冷静さを欠いている友人は、幸いにしてそこら辺の細かい矛盾に気がつかぬらしい。「もっといいものを着てくればよかった!」だの「髪は乱れてない?」だのの方が、彼女にとってはよほど重要事項であるようだ。
ある程度心の準備ができたらしい千歳は、こほんと咳ばらいをしてから、楚々とした態度で朔夜の横へ出てきた。
「もう、親友の私に真っ先に教えてくれないなんて水臭いんだから。でも、おめでとう。お兄さん、お屋敷で一緒に暮らしているの?」
朔夜がちらと襲に視線を送る。襲の口元に描かれた笑みが深くなる。
「一緒に暮らしてはいないが、できるだけ顔を見に来るつもりだよ。こんな大きな屋敷に年頃の娘ひとり置いておくのは、何かと心配だからな」
それを聞くと、千歳の顔に安堵が広がった。
「そうなんですね、よかった……なら、これからはあまり淋しい思いをしなくていいのね。蛮骨さんたち、なかなか帰って来れないみたいだから、いつも心細いだろうなって」
話す千歳の目がうっすら潤んでいる。
「千歳ちゃん……」
妖怪たちが遊びに来るのがすっかり日常になってしまったため忘れていたが、傍から見れば朔夜は広い屋敷にただ一人きり置かれ、来る日も来る日も健気に恋人の帰りを待っている娘に見えているのだ。
こんなに案じてくれていたのかと胸を打たれる一方、ああどうしようという気持ちに押し潰されそうだった。設定が着膨れし、どんどん後に引けなくなっていく。
次は何を訊かれるのか恐々していると、襲が助け舟を出した。
「千歳さん。今日はもう時分も遅い。良ければまた後日、ゆっくりとお話しさせて頂きたい」
「えっ、そんな、頂きたいなんて、まぁ」
千歳は頬を紅潮させ、「じゃあ、また今度」とぺこりと会釈し、朔夜に小さく手を振った。
浮ついた足取りで長屋へと帰っていく友人の背を見送った朔夜は他の誰かに見つかる前に、いそいそと屋敷のくぐり戸を通り抜けた。塀で囲われた敷地内に踏み入り、ようやっと肩の力が抜ける。後ろに続いて閂を掛ける襲に向き直り、勢いよく頭を垂れた。
「ごめんなさい……っ! こんなことになるなんて、思わなくて」
「なったものは仕方なかろう」
襲は腕を組んで閉ざした門を顧みた。
「まあ。俺としてはむしろ動きやすくなる。謝るほどのことではない」
「へ、そうなんですか?」
「屋敷へ出入りする度、いちいち鴉になったり姿を消したりする手間が省けるだろう。ここらを堂々と歩くこともできる」
七人隊以外の男が門戸を出入りするのを見られたら、今回のようにあらぬ噂の種となる。一度二度なら何かの遣いで来た男とも取れるが、頻回となるとそうはいかない。
だからこれまでは極力、人目を避けて出入りしてきた。しかし兄であれば、そんな必要はなくなる。
「設定は好きに考えておいてくれ。襤褸を出さぬようにな」
「う……が、頑張ります」
想定外の状況にも狼狽するどころか逆に利用しようとすらしている襲の強かさに、朔夜は舌を巻くばかりだった。
その時、裏の方から情けない声が聞こえてきた。
「朔夜、大将! 帰ってきたのかぁ」
「たすけてぇ!」
「えっ、どうしたのかしら」
何事かと声の方へ駆けつけてみると、縁側にいくつもの着物が重なり合い、その中で三つの盛り上がりが右往左往していた。横倒しになった物干し竿が、出口にあたる部分をすべて塞いでしまっている。縁から少し離れたところに、空になった重箱とのんきに腹を出して寝ている白銀の狼の姿があった。
「たすけてぇ」
再びもごついた声が上がる。半泣きだ。
「あらあら」
朔夜は笑いをこらえながら手を差し伸べ、三匹に覆い被さる衣を取り除いてやった。襲が竿を持ち上げ、元の場所にしっかりと固定しなおす。
這う這うの体で衣の下から出てきた小妖怪たちは、へたりこんで額の汗を拭った。
「大丈夫、怪我はしてない?」
「うう、情けねぇ」
「朔夜たちが戻る頃にはきっちり畳み終わってるはずだったのに」
小さな手足で着物と格闘しているうち、あれよあれよと洗濯物の下敷きになり、竿も倒れてしまって前後不覚に陥ったらしい。
「ぜんぜん役に立てねえよぅ」
「あら、そんな事ないわ。蒼空があったかい料理を食べられたのは、皆のおかげでしょ。洗濯物も、頑張って手伝おうとしてくれたのよね、ありがとう」
いまだ幸せそうな顔で寝ている蒼空を見やりながら小妖怪たちを撫でてやれば、三匹はひっしと抱きついてきた。
「さ、みんな中に入って。襲さんも、お茶でも淹れますから、ゆっくりしていってくださいね」
無防備な姿を晒して爆睡中の狼から視線を戻して「ああ」と応じた襲だが、履物を脱ぎかけたところでふと目を瞬いた。
「笛が」
「笛?」
笛と言われて朔夜に思い当たるのは、襲を呼ぶ際に七人隊が使っている小さな笛くらいだ。いつも睡骨が持っているものを、今は蛮骨が携帯しているという話だったが。
そして、まさしくその笛のことであるらしい。
「すまない、あれらに呼ばれているので、これで」
「え、蛮骨たちに? さっき会ってきたんですよね?」
瞠目すると、こくりと頷きが返った。
小妖怪たちが自慢げに語っていた話では、朔夜を食事に誘う少し前に、羽衣を手に入れるため一芝居打ってきたとか。
「羽衣を返せばそれで落着すると思っていたのだがな。また碌でもないことになったのだろうか」
彼らの場合、その可能性がおそろしく高い。
頭痛を覚えたような嘆息を漏らし、襲が踵を返した。人間の変化が解かれ、背に漆黒の翼が現れる。妖気で逆巻いた風が袂を翻す。
彼が飛び立ってしまう前にと、朔夜は急いで縁側から頭を下げた。
「今日は本当に、ありがとうございました。また来てくださいね!」
「またみんなで行こうなー大将」
足元で小丸、舜、一角が両手を振る。
深紅の瞳でそれを一瞥して軽く返事をすると、襲は翼を羽ばたかせて一息に空へと舞い上がった。
<終>