烏羽玉の黒
「おっかしー、おっかしー」
雲ひとつ無いすがすがしい青空を臨む縁側に、賑やかな声が三つ響いた。
小丸、舜、一角のあとに続いて、盆を手に抱えた朔夜がやってくる。
時刻は申の刻に差し掛かり、ちょうど小腹が空いてきた頃だ。七人隊から多めに仕送りをもらったので、今日はささやかながら菓子を奮発することになったのである。
縁側には陽光が差し、心地よい風が吹き抜けていた。
朔夜が盆を床に置くと、三匹は群がるように覗き込んだ。
盆の上の大皿には、大福や干菓子、煎餅などが並んでいる。
「うわぁ、どれから食べよう」
「独り占めはだめだぞ。平等に分けるんだぞ!」
目をきらきらさせる小妖怪たちに、朔夜は微笑んだ。
実はこれとは別に七人隊の分の菓子ももちろん用意しているのだが、そちらの方が値が張るので小妖怪たちには秘密だ。
「蒼空も呼ばないとね」
朔夜が虚空に向けて蒼空の名を呼んだ。こうするとあの白狼はさほど時をかけずに駆けつけるのである。
まずは甘味からいこうと三匹が並んで大福を抱きしめ、一斉に大口を開いた時、一角が声を上げた。
「あ、凪だ! おーい! 菓子をもらえるぞ!」
折よく滑空してくる隼を認め、片手を振ってぴょんぴょこ跳ね回る。他の者たちも空を見上げた。
「あら?」
凪が一羽ではないことに気付き、朔夜は首を傾げる。
隼の後ろには黒い影が追従していた。
速度を緩めて朔夜たちの前に着地した凪の後方に黒い鳥も降り立つ。
大きな鴉だった。隼の中でも小柄な凪と比べると、余計にがっしりとして見える。
「凪の友だち?」
凪が応じるように鳴く。鴉は興味深げにそこに集まった一同を眺めている。
「へぇー、隼と鴉でも友だちになるんだ」
小丸が意外そうに言った。隼といえば鴉の天敵だとばかり思っていたが、例外もあるらしい。
「凪と鴉さんの分も何か持ってくるわね」
朔夜が立ち上がって厨へ向かった。さすがに鳥に大福や煎餅は与えられないので、食べられそうなものを探しにいく。
残った小妖怪たちは唐突に参入した鴉をまじまじと観察した。
凪の知り合いだから嫌なやつではないのだろう。しかしこの家では自分たちが先輩だ。そこのところの序列はおろそかにしてはいけない。
「なあ鴉。朔夜は食べ物をくれるけど、それに甘んじて入り浸っちゃだめなんだぞ」
「そうそう。自然界の厳しさを忘れちゃいけないんだ」
「というわけで、ここは先輩たる我々が先に菓子を食うぞ」
自然界の厳しさを忘れつつある三匹がにんまりと笑って大福を見せ付ける。
鳥ではどう足掻いてもこれは食えない。かわいそうに。
鴉はじっとそれを眺め、その隣で凪が呆れたような半眼になっている。
そこへ朔夜が器を手に戻ってきた。中から小ぶりな魚を取り出して二羽の前に置き、縁側に座りなおす。
「一匹しかなかったから、物足りないかもしれないけど仲良く食べてね」
「んじゃ、頂きます!」
小妖怪たちが揃って大福にかぶりついた。次いで口々に美味いだの甘いだのと歓声を上げる。
二羽の鳥たちも魚をつつき始めた。
彼らの様子を眺めながら、朔夜も煎餅を一枚口に運んで、小さく噛み砕く。
以前は一人で過ごすことが多かったのに、どんどん賑やかになってきた。比例して提供するものの量も増えていくのだが、今のところはあまり苦にならない。
と、魚を半分ほどつついた鴉がこちらを見上げてきた。朔夜と目が合う。
鴉は少し考える様子を見せたあと、朔夜たちの座る縁側に飛び乗った。
「わっ!」
驚いた舜が大福を抱えたままひっくり返った。
「何すんだよ鴉! いきなりびっくりするじゃんか!」
小妖怪たちの非難を無視して鴉は盆のもとへ歩み寄ると、じっと中の菓子を見つめた。
「えっと……これが食べたいの?」
言葉が通じないことを承知で、朔夜が戸惑った様子で鴉に問いかけてみる。食べたいと言われても鳥には食べられないと思うのだが。
鴉は再び朔夜を見上げ、事も無げに口を開いた。
「人間の甘味は久しく口にしていないのでな」
「…………」
低く落ち着いた声が発せられて、朔夜と小妖怪たちの目が揃って点になった。
凪が魚をつつく音だけが空の下に響く。
「え……鴉おまえ、喋れんの」
最初に口にしたのは一角だった。
「そんなことよりも、この大福を一つもらって良いだろうか」
彼らが受けた衝撃を「そんなこと」の一言で片付けて鴉は朔夜に尋ねる。彼女は我に返るとこくこく頷いた。
「あ、ええ。構わないけれど…、食べられるの?」
「む、そうか。このままではちと不便かもしれん」
鴉は思い至ったように頷くと、再度地面に下りた。と思った次の瞬間、鴉の姿が掻き消える。
瞬きひとつの間に、鴉がいた場所に背の高い男が佇んでいた。
「えっ……!?」
朔夜たちが再び言葉を失う。
目の前の男の容姿はほとんど人間と同じだが、決定的に違うのは長めの前髪からのぞく瞳が暗い深紅であることと、背に一対の巨大な黒い翼が生えていることだった。
「ひぇ」
小妖怪たちがひゅっと息を呑み、取り落とした大福が白い粉を散らしながら縁側に転がる。
この一瞬で、今までこの場に存在していなかった刺すような空気が生じ、それが脆弱な小妖怪たちを完膚なきまでに萎縮させていた。相手はただ立っているだけだというのに。
「か――」
鴉天狗、と誰かが口にしたのを聞いて、朔夜は瞠目した。
その名はとくに妖怪に詳しくなくとも、誰もが一度は聞いたことがあるものだ。
人身をとってもなお上から下まで黒の衣を纏った男は、肩につかない髪をゆるく起こる風に遊ばせながら彼女たちを見下ろしている。
その表情にはこれといって感情がなく、引き込まれそうな紅い瞳は深淵のようだった。
背筋が凍るような寒気を覚え、朔夜は無意識に自分の腕を抱いた。
――これが妖怪。
小丸たちのような小妖怪たちとは格が全く別次元なのだと、本能的に悟る。抑えていても小刻みな震えを止めることができない。
朔夜の様子に気付いた小丸が慌てた。
「たのたのたの頼みますっ、よよよ、妖気を…抑えてください!」
勇気を振り絞って歯の根が合わないままに叫ぶと、鴉天狗が得心したようにひとつ瞬いた。
瞬時に妖気の渦が掻き消え、刺すような空気が鳴りを潜める。
「……すまない。このところ、人間との関わりが少なくなっていてな」
そう口にする鴉天狗の瞳は深紅から漆黒に変じており、背中の翼も無くなっていた。人間と見分けがつかない容貌である。
鴉天狗は朔夜に近寄ると、軽く身をかがめてその顔を覗き込んだ。朔夜はいまだに止まらない震えに戸惑いながらも、その面差しを見上げる。
ついぞ見たことがないほど整った顔をしている。見目は人間でいうと二十代半ば程のようだが、漆黒に転じた瞳は達観したような深い静けさを湛えていた。
「障りは無いはずだが……どれ」
天狗は右手の指を二本立て、朔夜の額に当てた。とたんに強張っていた体が糸を切ったように楽になり、朔夜は深く息を吐く。
「あ、ありがとうございます」
「いや、こちらの非だ」
鴉天狗は小妖怪たちの隣の空間に腰を下ろそうとした。するとすかさず三匹が座布団を用意し、お茶を差し出し、その場に平身低頭する。
「鴉天狗様とは露知らず、数々のご無礼をぉぉぉ!!」
「どうか卑しい小妖怪の戯言と思ってさっきのあれやこれは記憶の彼方に飛ばして頂きたく!!!!」
「ごめんなさいすみません申し訳ありませんもうしません!!!!」
先ほどさんざん先輩風を吹かしてしまった自分たちを叩きのめしてやりたい焦燥に駆られながら、小妖怪たちは半泣きで謝りたおす。
鴉天狗は強大な妖力に加え、神通力にも長けているのだ。自分たちのようなゴミ同然の妖怪など、彼がそう意識するだけで消し炭にできるだろう。今こうして存在できているのは温情以外の何ものでもない。
まさかそんな御仁が凪の友だちだとは、思わないではないか。
「そんなことよりも、大福だ。もらって良いのだな?」
小妖怪たちの命がけの謝罪をまたも「そんなこと」で片付け、鴉天狗は甘味を所望した。
「ははぁ! どうぞ好きなだけ!」
「いや、一つあれば」
朔夜が大福と他の菓子を小皿に取り分け、鴉天狗に差し出す。
「すみません、私、何も知らずに……」
「そう萎縮せんでいい。俺も鳥の姿から戻る予定はなかったから、力を制御するのを失念していた」
鴉天狗は受け取った小皿の上の大福を様々な角度から眺めている。
その視線が大福から朔夜に向けられた。
「そうだ。名乗るのが遅れた。俺は先ほどからこの小さいのが騒ぎ立てている通り、鴉天狗。名を襲という」
天狗は山伏の格好をしていると聞くが、彼のものはずっと簡素で黒衣に必要最低限の手甲などを付けている程度だ。頭襟や錫杖なども身に付けておらず、その辺を歩いている町人や、軽装の旅人と思われてもおかしくはない。
そして感情があまり表に出ないらしく、その瞳から喜怒哀楽を察するのは困難だった。
「私は朔夜と申します」
「ああ、凪から話は聞いている」
ちょうど魚を食べ終えた様子の凪が襲の膝に飛び乗った。小妖怪たちが奇妙な悲鳴を上げたが、襲が意に介した様子はない。
「口を利く変な生き物には慣れている、との事だったから、耐性があるものと認識していた」
「あはは……」
朔夜は苦笑しながら小妖怪たちを見た。口を利く変な生き物の筆頭たちはもはや菓子どころではなく、襲の膝でくつろぐ凪を冷や汗を流しながら窺っている。
耐性があるといってもこれとあれでは格差が桁違いだ。
「凪がまさか鴉天狗様と知り合いだなんて、驚きました」
しかもこの様子を見るに、相当慣れているようだ。
襲が大福を口に運んだ。
ゆっくり噛み締める。
「……甘い」
そりゃ甘いだろう、と誰もが思ったが、口にはしない。
「お口に合いますか?」
「美味い」
表情は微動だにしないのだが、これは多分喜んでいるのだろう。
その時、廊下から声がかかった。
「んん? んんんんっ!? 誰かと思えば襲ちゃんじゃね?」
「えっ、襲さん、どうしてここに!?」
声の主を確かめる前に、襲の背に蛇骨が突っ込んで首もとへ抱きついた。
「襲ちゃん久しぶりぃ! 今日も色男ォ!」
それを見た小妖怪たちが泡を吹いて卒倒する。
「久しいな蛇骨」
抱きつかれて揺さぶられて頬を擦り付けられている襲はといえば、一寸も表情は動かず涼しげなまま大福を食べ続けている。
「蛇骨、失礼ですよ!」
蛇骨を追って部屋に入ってきた医者の睡骨が天狗から蛇骨を引き剥がそうと試みるが、まるで無意味だった。
襲のうなじに顔をうずめ首から体からぎゅうぎゅう抱きしめる蛇骨は、今ばかりは蛮骨でも太刀打ちできないのではないかと思うほど凄まじい腕力でしがみついている。
敵わないと悟った睡骨は早々に諦め、凪を呼んだ。凪が襲の膝から睡骨の膝に移る。
そして呆気に取られている朔夜たちに気付き、ああと得心顔をした。
「もしかして、朔夜は襲さんに会うの初めてですか?」
「七人隊もお知り合いなの?」
いやに親しげな様子を目の当たりにし、朔夜は理解が追いつかない。
「ええ。だってこの方は――」
そこへ騒ぎを聞きつけた蛮骨が呑気な足取りでやってくる。
「おお、襲。珍しいじゃねぇか」
「邪魔をしている」
蛇骨に良いようにされながらも眉一つ動かさず、天狗は蛮骨に応じた。
「なんか戦の情報でも持ってきたのか?」
「いや、そういうわけではない。凪に誘われたのだ」
「ああ、そういう。ゆっくりしていけよ」
蛮骨は朔夜の隣に座って煎餅に手を伸ばした。そこでなぜか小妖怪たちが泡を吹いて失神しているのを認め、片眉を上げる。
「なんだこいつら、とうとう死んだのか」
「ずっと襲さんに萎縮してたんだけど、蛇骨が抱きついたのを見たのがとどめだったみたいで」
蛮骨はああと遠い目をする。
「そういやこいつらは初めて会うんだった。この雑魚どもじゃ、びびり倒してもしょうがねぇわな」
「私もさっきから驚きっぱなしなんだけれど……」
じとりとした視線を寄こす朔夜に、蛮骨はぽかんと口を開けた。
「え? あれ、してなかったか、天狗の話」
「聞いたことないわよ」
蛮骨は頬をかく。それは相当に驚いただろう。
「どういう知り合いなの?」
「あれだ、情報屋。ほら、俺らがいつも戦の情報をもらってる」
朔夜は本日何度目になるかわからない驚きに見舞われる。
「えっ、情報屋さん!? この方が?」
七人隊が情報屋から情報を仕入れているという話は幾度も聞いていた。しかしそれが特定の個人だということや、ましてや天狗だという事実は初耳である。これまで勝手に、複数の情報筋をまとめて「情報屋」と呼んでいると思っていた。
「ああ、まぁそういう意味合いの時もあるが」
「じゃあ、凪がいつも手紙を運んでるのって」
「全部が全部じゃねぇけど、襲と俺らを仲介するのが多いな。俺たちも知り合ったのは凪がきっかけで」
襲は日向で柔らかい日差しを浴びながら、煎餅を頬張っている。背中に蛇骨をへばり付かせながら。
「蛇骨、随分懐いているのね」
「ああ。何か知らねぇけどあいつ、初見から襲にぞっこんなんだよ。襲も何とも思ってないみてぇだから放置してるが」
それにしても「襲ちゃん」という呼び方は違和感の塊でしかない。さすがの怖いもの知らずである。
「襲さん、いつも凪がお世話になってます」
睡骨が凪を撫でながら頭を下げると、二枚目の煎餅を割りながら襲が応じる。
「俺もたまには話し相手がいると飽きずに済む」
「ええっ、襲ちゃん、話し相手が欲しいなら俺んとこ来いよ! ほら、将棋さそう将棋!」
言うが早いか、蛇骨は将棋の一式を取りにどたばたと駆けていった。
解放された襲が軽く衣を整え、いまだに気絶している小妖怪たちに気付く。
「これは何なのだ」
「それは勝手に侵入した害獣だ。消し炭にしても構わねぇぞ」
しれっと答える蛮骨に、朔夜は慌てて否定した。
「違います! うちに遊びに来る無害な妖怪です! 鴉天狗さんに驚いてしまったようで……」
「ふむ」
襲は一つ息をつくと三匹を抱え上げた。
「驚かすのはこれらの専売特許だろうに。……まあ、俺が悪いか」
口の中で何事かを唱え、三匹に手をかざす。すると白目を剥いていた三匹が即座に意識を取り戻した。
そして天狗に抱えられている現状を把握して悲鳴をあげ、じたばたと藻掻いて腕から逃げ出す。
「ひえぇっ!」
「こ、こら! 失礼でしょう」
三匹が一目散に朔夜の背に隠れると、さすがにたしなめられた。
「だって、鴉天狗だぞ! 俺たちからしたら雲の上の存在なんだ!」
「蛇骨の行いは自殺行為だ! 万死に値するぞ!」
「俺たちなんて気分一つで塵芥にされるんだ!」
「襲さんはそんなに怖い方じゃないでしょう。凪や蛮骨たちのお友だちなのよ?」
背中側から引きずり出され、三匹はがちがちに緊張した状態で天狗と対峙する。
その様子を見て思うところがあったのか、襲は肩をすくめるとひらひらと手を振った。
「無理はしなくていい。慣れている」
すると始終を見ていた凪が怒ったように三匹を威嚇した。そして侘びるように襲へ向けて鳴くが、彼はとくに気にした様子もない。それよりも視線が盆の大福に注がれている。
朔夜は小妖怪たちの態度をどうしたものかと、蛮骨の顔を見上げた。
それを受けて蛮骨が逡巡する。正直、三匹が襲を怖れていようと塵芥にされようとものすごくどうでも良いのだが、朔夜が気にするのであれば放ってもおけない。
「襲」
呼ばれて、天狗の漆黒の双眸が大福から蛮骨に移動した。
「そういやお前、凪とはどんな知り合い方をしたんだ?」
「……藪から棒だな」
「その辺の細けぇことは俺らも知らねぇし、朔夜も興味あるだろ?」
確かに興味をそそられた朔夜はこくりと首肯した。
「私もぜひ聞きたいです」
睡骨も身を乗り出す。
「そうか。構わないが」
要望を受けて、襲は当時の記憶を辿りながら淡々と語り始めた。