襲は森の上空を飛びながら、どこから探したものかと思案した。
ひとまずは昨日凪を拾った辺りに降り立ち、その周囲の茂みをかき分けてみるが、文らしき影はどこにも見当たらない。
おそらくは大鷲の襲撃を回避するうちに落としてしまったのだろう。
襲は広大な森を見渡した。
迷うということはないが、一人で探すのはいささか骨が折れる。
己を中心に緩やかな風を起こし、四方へ放った。森の中を吹き渡る風は天狗の言伝を運んでいく。
特に相手を指定していないので、風に触れた無数の鳥たちが言伝を受け取るはずだ。
にもかかわらず、「手が空いているものは集まれ」との命に対し、集まったのはすずめが五羽と黄鶲きびたきが三羽、眠たげな木葉梟このはずくが一羽という心もとない数だった。
「……これだけか?」
『昨夜の豪雨にて棲家すみかが傷んだものが多く、皆そちらの修復にまわっています』
雀が甲高い声で報告した。
『我らだけでも襲さまのお役に立ってみせます! なんなりと!』
『なん、なり、と…』
半分夢の国にいる木葉梟にいささか不安を覚えながらも、鳥手は多いに越したことはないと、襲は失せ物探しについて説明した。
縄張り外から来た隼のためだと言うと波風が立ちそうだったので、とりあえずは自分が失くしたことにしておく。
『して、文というのはどのくらいの大きさですか』
黄鶲のもっともな質問に襲は遠い目をした。そこまでは凪から聞いていない。
が、あの小柄な隼が運べる程度のものだから、たぶんきっとそれほど大きなものではないだろう。
とはいえども文だというからには、それなりの文量が書ける大きさではあるはずで。
「そこそこの大きさだが、そこまで大きくはない」
『……』
これ以上なく曖昧な返しに鳥たちは無言で顔を見合わせたが、それ以上の追及はしてこなかった。
鳥たちが四方八方に散っていく。
襲は改めて森の中を歩き進んだ。
この森を拠点とするようになってそろそろ三百年ほどになる。その間にも数年単位で離れていた時期はあったし、時々の気分によってこの国の各地を転々としているので棲家と呼ぶのは少し違うかもしれないが、放浪に飽きると戻ってくるのはいつもこの森だ。
なぜ居座るのかというと明確な理由も無く、それなりに居心地がいいという以上の答えが浮かばないのだが。年数を経るにつれなぜか生き物たちにも頼られるようになってしまい、時々は暇つぶしがてら見回りなどをしている。
それでも八百歳を越えたこれまでの人生の半分も、この森で過ごしていない。
とある理由により、秘境たる鴉天狗の里を抜けたのは三百歳の頃。それ以来一度も故郷に足を踏み入れたことはない。一度抜けたものは二度と戻れないという厳しい掟がある。
たとえ掟が無かったとしても、戻りたいと思う理由が襲には無かった。
あと何百年この寿命が続くのかはわからないが、今後も帰ることはないだろう。
襲はふと、なぜこんなことを考えているのか我ながら不思議に思った。これまで故郷のことを考える機会などほとんどなかったというのに。
あのはやぶさに尋ねられたからかもしれない。
追憶をすっぱり打ち切り、文探しに集中する。自分には無限にも等しい時間が有り余っているが、凪は急いでいるらしい。
はやく見つけてやらねば、無理を押して探しに出ようとするだろう。
歩き進んでいると昨日の大鷲おおわしの巣に行きあった。雛の相手をしていた親鳥が気付いて舞い降り、かしずく。
『これは襲さま、昨日は誠に失礼いたしました』
「いや。あれも悪気はなかったようだ。今回は大目に見てやれ。巣は大丈夫だったか」
巣を見上げると、雛たちが興味深げに見下ろしている。
『風雨で少し壊れてしまいましたが、大事ありません。日没までには直せます』
「そうか。……昨日争っていた隼だが」
『は、はい』
大鷲は背筋を正した。襲はまだ湿っている巣に温風を送り込むと、大鷲に視線を戻した。
「何かを落とすのを見なかったか」
大鷲はしばらく首を傾げていたが、やがて『あっ』と声を上げた。
『追いかけている間に一度、北東の巨木の枝葉に突っ込んだのですが、そこで白い何かが私をかすめていきました』
怒りのあまりそちらにに気を向けていられなかったが、今思えばあれは相手の落し物だったかもしれない。
「北東の巨木だな」
大鷲と別れた襲はその方角へ足を向けた。
四半刻ほどで巨木の下にたどり着く。四方に広く複雑に枝を伸ばした、この辺りでは最も立派な大木だ。
来ようと思えば瞬時に行き着くことも可能だったが、森の損傷具合を確認しながら来たので時間がかかってしまった。
折り良くそこには先の雀たちが三羽いた。
『あっ、襲さま』
『こちらはまだ見つかっていません』
腕を差し出すとそこに三羽が飛び移る。襲は巨木を見上げた。
「お前たち、あの木の中を見てきてくれ」
密集した枝の中では小回りの利く雀の方が適任だろうと襲が命じると、雀たちはえっ、と躊躇ためらいを見せた。
『あそこは大猿おおざるの縄張りなんです』
『私めらが行ったら即効でおやつになってしまいます』
「大猿だと? いつから」
『つい最近やってきて、棲み付いているのです。昼間はあの中で寝ているのです』
文字通り鳥肌を立てている雀たちの意見を汲み、襲は自分で探しに行くことにした。
中腹の枝まで一息に跳躍し、そこからは掻き分けるように枝を伝っていく。
巨大な羽は引っかかって邪魔にしかならないので、とりあえず人身形態をとってしまいこんだ。
文を探して枝葉の間に目を凝らすが、なかなか見つからない。
大鷲の見間違いではなかろうかといぶかしんだ頃、茂みの中心と思われる場所で、褐色の剛毛に覆われた巨大な塊に行き会った。
くだんの大猿である。額に第三の目を持ち、両前足が筋骨隆々と発達していて、鋭い犬歯が上顎からはみ出している。どう見ても妖怪だ。
情報どおり眠っているらしく、背が規則正しく上下している。
その空間は小枝や葉が敷き詰められ、大猿の巣と化していた。
しばしその新参者を観察していた襲だが、すぐに眉をひそめた。
大猿の頭の下に、どう見ても畳まれた紙らしきものが敷かれているのだ。
「おい」
大猿に声をかける。起きない。
「おいお前、起きないか」
起きない。仰向けに寝返りを打って腹をかいている。
視界を阻む枝を押さえるのに両手がふさがっているため、揺り起こすこともできない。襲は仕方なく、寝床に散らばっている太めの枝を風で浮かせて大猿に投げつけた。
『ぉぐっ!』
しくも枝は再度寝返りを打った大猿の顔面に直撃し、猿が狼狽ろうばいして飛び起きる。そして襲を認めて目を吊り上げた。
『今わしを打ったのは貴様かー! 人間の分際で生意気なやつめ!! 食われたいようだな!!』
どうやら羽を隠し黒目になっている襲は人間だと思われているらしい。鼻息荒く真っ赤な顔で牙を剥いている。
「待て。俺はその文を――」
言い終わらぬうちに襲の顔面に大猿の拳が飛んできて、左頬をしたたかに殴られた。
鋭い爪が頬を引き裂き、白い肌に鮮血が流れ落ちる。
人間であれば間違いなく首から上が吹っ飛んでいただろう。
その手応えに大猿もなにか違和感を感じたようだったが、その正体を思考するにはもう遅い。
「……待てと言ったのが」
――ついぞほとんど動かない襲の表情がその瞬間だけ氷点下の様相を呈したのを、猿だけが目撃した。
瞳が深紅に戻り、現れた翼が豪風を巻き起こす。
莫大な妖力がほとばしった。

森の中がざわついているようだ。
おとなしく結界の中で留守番しながら、凪は窓の外から聞こえる喧騒に耳を傾けた。
すでに日没を過ぎて星が瞬き始めている。襲が出て行ったのは今朝なので、相当に時間が経っていた。
さらにしばらくして、入り口の布が開けられた。
『おかえりなさいませ、か――』
襲どの、と声をかけようとし、凪はあんぐりと口を開いて固まった。
戻ってきた襲はやけに疲れた顔をしており、いたるところに木の枝や葉をまとわせ、さらには左頬の広範囲に痛々しく爪痕まで刻んでいるではないか。
『えっ、えぇっ!? いいい一体なにが……!』
襲はいささかばつの悪そうな声音で答える。
「……何も」
『何もないわけありません!! そのお怪我は何です!?』
「気にするな。こんなものはすぐに跡形もなく治る」
それよりも自分が与えてしまった被害の方が甚大で、襲は人知れずいたたまれない思いを抱いていた。
――先の一件により。
まず、妖気の爆発とそれに伴って生じた暴風によって、巨木を中心とした周辺の樹々の大半の葉が落とされた。
次に、襲と至近距離で対峙していた大猿は限界を超えた恐怖による精神緊張から、数秒で全身の毛が抜け落ちた。
極めつけは木の下で様子を見守っていた雀たちが恐れおののいて泣きわめき、修繕したばかりの巣を木端微塵こっぱみじんに破壊された鳥たちがそこかしこで悲鳴を上げた。
襲を責める者などいなかったが、さすがに我関せずの顔はできず。
埋め合わせのために巨木や周囲の樹木の生命力を補助し、雀たちをなだめ、寝床を無くしたものたちに新しい巣をこしらえて来たら、あっという間にこの時刻になってしまった。
大猿はというと、襲のかんばせに傷をつけた罪で森中のあらゆる生きものの敵視を買い、尻尾を巻いて逃げ出している。あの様子では二度とこの森に足を踏み入れないだろう。
(悪いことをしてしまった)
我ながら、あんな猿一匹に大人気ない。今思うと、鴉の姿で行動していればあれほど手間取ることもなかっただろう。
少し肩を落としつつ髪や衣から枝葉を取り除きながら、襲は凪を囲む結界を解いた。
「少しは良くなったか」
『は、はい! 歩き回るのは問題なく』
解放されるや、凪は襲のもとへ走り寄る。
襲が懐に手を入れ、大猿から回収したものを凪の前に置いた。凪が大きく目を見開く。
『あっ……』
「文とはこれの事でいいか」
それはまさしく、朔夜が凪の足に結び付けた文だった。しわくちゃでぼろぼろで、ほとんど文字がにじんでしまっていたが、間違いない。
『襲どの……』
凪は双翼を打ち震わせて襲を見上げた。鴉天狗ほどの大妖が、一介の隼風情のために、本当に骨を折ってくれたのだ。
「ほぼ読めそうにないが」
文は襲の起こす風で完全に乾いていたが、一度滲んでしまった文字は元に戻らない。
『いえ、もはや十分でございます。元はと言えば私の失態、主からのお叱りを受けるべきなのです』
「そうか。お前が良いなら良い」
襲は文をたたむと、たもとから細身の竹でこしらえた入れ物を取り出し、その中に収めた。入れ物に取り付けられた紐を凪の胴体に回し、留め具で固定する。
これならば、足に括り付けるだけよりもずっと安全で中身も濡れない。
「もう落とすな」
隼の頭を無造作に撫でながらそれだけ言うと襲は再び外へ出て行った。埋め合わせがまだ終わっていないのだ。
その背を見送る凪の足元に、ぽつぽつと大きな滴がこぼれ落ちた。

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