そらに咲く花

日も傾いているというのに、随分と暑い。
この日はいつにも増して暑かった。この夏一番の暑さではないかというほどに。
夕刻になっても一向に和らぐことなく、それは地上を行く者たちを(むしば)んでいた。
「暑い……死ぬ」
だらだらと汗を流しながら、今日何度目になるかわからない言葉を呟くのは蛇骨だ。
重く耳に入り込んだその声に、前を行く蛮骨は億劫(おっくう)そうに振り返る。
ぜぇぜぇと息を継ぐ弟分は、言葉の通りまさに死にかけの顔をしていた。
煉骨と銀骨も同様だ。あまり表には出さないが、睡骨も参ったという目で訴えてくる。
蛮骨自身も限界だった。
「……もう、今日は休むか」
額の汗を拭う蛮骨の言葉に、皆は「お~」と同意を示す。
これだけ暑ければ野宿だろうと何だろうと構わない。とにかく腰を落ち着けて、それ以上は歩きたくない。
五人の心は一つだった。
目を上げると、前方に小高い丘が見える。その頂上に、どっしりと大きな()が生えていた。
「あそこまで歩いて終わりだ」
樹を指差す蛮骨に、蛇骨が「うへ~」と唸る。
「あそこまで歩くの?」
「我慢しろ蛇骨。そんなに遠くないし、あそこならいい日陰になる」
煉骨に励まされ、蛇骨は渋々頷いた。
肩で息をしながら、丘を登っていく。
小さな丘なのに、果てしなく高く思えた。
樹の根元に辿り着いた時には皆へとへとで、着いた順にへなへなと座り込んでいく。
蛮竜を地に置くと、蛮骨は樹に寄りかかって大きく息をした。
「蛇骨はまだか?」
周りを見ると蛇骨の姿がない。銀骨が丘の下方を指した。
「ぎしっ、まだあそこにいる」
蛇骨は、遥か下の方をよろよろと歩いていた。
「蛇骨ー、がんばれー」
聞こえているのか否か、蛇骨は返事をしない。
もしかしたら危険な状態なのかもしれないが、残念ながら自分も迎えに行くほどの気力が残っていない。
ゆっくりと登ってくる蛇骨を眺めながら、他の四人は木陰で身体を伸ばしていた。
だいぶ経った頃に、やっと蛇骨が皆のもとに辿り着く。
その顔は、もはや蛇骨とは思えない程であった。
「よし、よく歩いた。今日はここで野宿だ」
煉骨が彼に水の入った竹筒を手渡し、労をねぎらう。
中の水を夢中でがぶ飲みし、蛇骨は大の字になって草の中に寝転んだ。
「あ~…もう無理、もう歩けねぇ」
唸る蛇骨に苦笑して、いくらか体力の回復した煉骨が立ち上がる。
「水がもう()ぇから、川を探してくる」
竹筒を持った煉骨に、蛮骨が視線を向けた。
「俺も行こうか?」
「いや、大兄貴は休んでていいぜ。俺一人で大丈夫だ」
「そうか、じゃあ頼む」
頷き、煉骨は登ってきたのとは反対側の斜面を下りて行こうと身を(ひるがえ)した。
大きな樹の向こう側に回りこんだ時。
「―――ああああああぁぁぁ!!?」
突如向こう側から発された大声に、仲間たちは目を剥いて飛び起きる。
「なんだ!?」
「煉骨、どうした!」
蛮骨と睡骨がいち早く彼のもとへ駆けつける。そして二人も息を呑んだ。
彼らの前では煉骨があんぐりと口を開いて目の前にいる者を指差している。
指す先にいるのは、何を隠そう犬夜叉一行だった。
犬夜叉もまた煉骨とまったく同じ格好である。
「犬夜叉!?」
「てめぇらは、七人隊…!」
犬夜叉の背後にいる仲間たちも、驚きで言葉を失っている。
「俺が樹を回り込んだら、反対側にこいつらがいたんだ…!」
驚きのあまり柄にもなく叫んでしまった煉骨である。
珊瑚と弥勒が武器を構えて前に出た。
「七人隊、我々の後をつけてきたのか!」
「戦うってんなら、容赦しないよ!」
「え……?」
蛮骨と煉骨、睡骨の三人は顔を見合わせた。
「さあ、戦うのか、大人しくここを立ち去るのか、どうするのだ?」
「どうって…」
せっかく見つけた木陰を立ち去る気などない。
だがしかし、暑さにやられてとてもこれから一戦交えることなどできない。
「どっちも無理」
「はぁ?」
犬夜叉が(いぶか)しげに眉を寄せる。
「俺たち、別に戦いに来たんじゃねぇから。この暑さにやられて、今日はここで野宿することにしたんだ」
「我々と会ったのは偶然だと?」
「そうそう」
蛮骨は大木の向こう側を親指で示す。
「俺たちはこの樹の反対側にいる。お前たちの邪魔はしないから、今日は休戦ってことでいいだろ。
暑くて戦いどころじゃねぇ」
犬夜叉一行はどうしたものかと首を捻る。
「信じていいと思うか?」
「怪しいですな。私たちを油断させる作戦かもしれません」
「でも、今日はほんとに暑いわよ」
疑いの目を向ける犬夜叉と弥勒の横に、おずおずとかごめが進み出る。
「ねぇ、蛮骨たちもこう言ってるんだし、今日は戦いはナシにしても良いんじゃない?」
「うーん…」
「まぁ、かごめさまがそう(おっしゃ)るのなら…」
蛮骨が目を輝かせる。
「わかってくれたのか?」
「その代わり、妙なことをしたらすぐに風穴で吸い込んでやりますからね」
「わかってるって、じゃあな」
蛮骨は軽く手を挙げ、にこにこと笑って樹の裏側へ戻っていった。
煉骨と睡骨もその後について行く。
「……どうやら、本当に戦う気はないみたいだな」
「うん、戦わないのにあんなに喜んでるなんて、いつもの逆だもんね」
肩の力を抜いて、珊瑚も首を(かし)げた。

犬夜叉たちと別れて自分たちの場所へ戻ってきた三人は、草の上に腰を下ろして寝転んだ。
「あー、良かったなぁ。戦闘にならなくて」
首領のいつもとはまるで逆の発言に、煉骨、睡骨の二名は顔を見合わせた。
「大兄貴らしくねぇな」
「暑さで頭がやられちまったのかもしれねぇ」
そうなると、自分たちも時間の問題なのではないか。
多少の恐怖心にかられている二人を半眼で見据え、蛮骨はふぅと息をつく。
未だ寝転がったままの蛇骨が視線を向けてきた。
「なー、何があったんだ?」
だるさで動けない蛇骨は、樹の反対側で何が起こったのかわからないのだ。
「ああ。それがな、反対側に偶然犬夜叉の野郎たちがいたんだよ。
でも今日は戦いはナシってことで話をつけたから、特に問題は……」
言い差して、蛮骨はしまったと思った。
蛇骨の表情が変わっていく。
「犬夜叉?」
「あ、いや、何でもない…」
ふるふると首を振るが、蛇骨は一度耳にしてしまった言葉を忘れることはなかった。
「犬夜叉がいるのか!? 俺、合いに行ってくる!!」
言うが早いか、満面の笑みを浮かべた蛇骨は跳ね起きて樹の向こう側へすっ飛んで行ってしまった。
「あいつさっきまで、もう歩けねぇとか言ってなかったか」
「言ってたな、死にそうだとか」
ぼそぼそと煉骨と睡骨が話している。
犬夜叉、という語を聞いた瞬間、蛇骨の体力は一気に回復してしまったらしい。
いくらも経たないうちに、向こう側から予想していた声が聞こえてきた。
「いぃっんぬやしゃ~ぁ!!!!」
「ぎぃやああぁぁぁ!!!!!」
煉骨たちはそちらに視線を向ける。
「化け物でも見たような声だな」
「実際化け物だろう、あいつは」
疲れたような顔をした蛮骨が、額に手を当てて深く息をつく。
「どうしよう、厄介なことにならねぇと良いんだが…」
せっかく分かってもらえたのに、蛇骨のせいで戦闘開始になるなど御免だ。
『妙なことをしたら風穴で吸い込んでやりますからね』
弥勒の言葉が蘇る。
間違いなく、吸われそうだ。
「吸われるのは蛇骨だけでいい。俺たちは何も関係ない。
ということで、ここは知らん振りをしていよう」
「それがいい」
他の三人も賛成を表明し、彼らは揃ってあさっての方を向いた。
赤くなった空を、雲が流れていく。
もうじき日が沈んでいけば、この暑苦しさも和らぐはずだ。
雲を追っているうちにだんだんと眠気が差し、うとうとしかけた時、騒々しい足音が耳に飛び込んだ。
「待てよ犬夜叉ーっ!!」
「てめぇ追ってくんな!!」
必死に逃げる犬夜叉を、蛇骨が人のものとは思えないスピードで追いかけている。
彼らは寝転んだ三人と銀骨の周りを駆け回った。
「おい蛮骨! この野郎をどうにかしろ!!」
「俺は関係ない。知らん振り知らん振り」
蛮骨が寝返りをうつと、煉骨と睡骨も転がって犬夜叉たちに背を向けた。
「誰も俺たちの邪魔をする者はいないぜぇ~犬夜叉♪」
犬夜叉に抱きつき、蛇骨はその耳元で囁いた。
瞬間、犬夜叉の肌がぞっと(あわ)立つ。
「やめろぉぉぉぉー!!!!」
その腕を振りほどき、犬夜叉は再び一目散に逃げ出した。
「逃がさねぇぜ~! 地の果てまでも追いかけてやる!!」
二人の影は、丘の彼方へ消えていった。
無事に難を逃れたことを確認し、蛮骨たちは身を起こす。
「蛇骨も元気なもんだなぁ」
「犬夜叉もな」
うーんと身体を伸ばして、蛮骨は仲間たちを振り返った。
「水と食べ物を探しに行ってくる。誰かもう一人ついて来てくれ」
「なら、俺が」
睡骨が立ち上がった。
「じゃあ、俺は火を起こすための小枝を拾ってくる」
煉骨に頷き、蛮骨と睡骨は向こうに広がる森へ歩いていった。
「ぎしっ、兄貴、おれは…?」
残された銀骨が煉骨に問う。
「お前はここで待ってろ」
「ぎ、ぎし……わかった」
森に向かって去っていく兄貴分の背を、銀骨は淋しげに見送った。

「なかなか見つからねーなぁ」
川を探すついでに食べれそうなものを探している蛮骨と睡骨だが、どちらも見つからないでいた。
「このクソ暑いのに狩りするのも嫌だし。川で魚でも釣るか」
「そうだな」
彼らは川を見つけることだけに意識を集中して、森の中を進んでいく。
どんどん進んでいくと、やがてせせらぎが聞こえてきた。
視界が開けて、川に行き着く。
浅くて奇麗な川だ。魚が泳いでいるのも見える。
「さすがにここらは涼しいな」
竹筒に水を(そそ)いでいるところに、かごめと七宝がやってきた。
「あ」
四人は同時に声を上げる。
行き会ってしまった彼らは気まずそうに視線を逸らした。
かごめと七宝はそそくさと蛮骨たちから離れ、川の中に足を浸した。
「冷たくて気持ちいいのう、かごめ」
「そうね」
きゃいきゃいとはしゃぐ七宝に、かごめも笑って頷く。
横目でその様子を眺めていた蛮骨は、ふいに鎧を外し始めた。
「大兄貴、何してる…?」
「いや、気持ち良さそうだから俺も……」
睡骨の見ている横で鎧を脱いだ蛮骨は、着物の袖と裾を(まく)り上げると、ざぶざぶと川へ入っていった。
ひんやりとした感覚が(さら)した足から上ってくる。
「気持ちいいぞ睡骨っ! お前も来いよ!」
「い、いや…大兄貴はいいかもしれねぇが、俺はちょっと……」
ははは、と苦笑した睡骨は人数分の竹筒に水を満たすと、傍に生えていた枝で即席の釣竿をこしらえた。
川の中で無邪気に涼しさを満喫している蛮骨を、かごめは驚きの顔で眺めている。
普通にああしていれば、ただの少年である。七人隊の首領だと誰が思うだろう。
「かごめ、どうしたのじゃ?」
「え…ううん、何でもない」
蛮骨が睡骨を(かえり)みる。
「おーい、釣竿できたか?」
「ああ、できたぜ」
睡骨は、作ったばかりの釣竿の針を川に投げた。
蛮骨は素手での捕獲を試みる。
「よっ!」
足元にいる魚に狙いを定めて手を突っ込むと、容易(たやす)く捕まえることが出来た。
「わぁっ、すご~い!」
「ん?」
声に振り向くと、すぐそこにかごめがいた。
まさか向こうから声をかけてくるとは思わなかったので、蛮骨は軽く狼狽(ろうばい)する。
「何か用か」
「ねえ、私もできるかしら? そうやって魚捕まえるの」
「は? あ、ああ…。簡単だし、できるんじゃねぇか?」
かごめは目を輝かせて、蛮骨に教えてくれとせがんだ。
二人が水の中の魚に向かっている時、七宝はそっと睡骨に近づいた。
大柄な男の傍にはすでに何匹かの魚が横たえられて、びちびちと身体を揺らしている。
魚がかかるのを待つ間、睡骨は傍らに生えていた笹の葉をとって船を作った。
なかなか器用な出来栄えだ。
それを川に流した瞬間、糸が引いたので睡骨は釣竿に手をかけた。
睡骨の笹舟が流れていくのを見送っていた七宝は、自分も作ろうと笹の葉に手を伸ばした。
が、あと少しのところで届かない。間に流れている川が邪魔で、小柄な七宝では取れない。
「うぬぬ……」
なおも必死で手を伸ばす。
魚を釣り上げた睡骨が振り返った瞬間、七宝はぼちゃんと音を立てて水の中に落ちた。
魚を片手にした睡骨が首を傾げる。
取りあえず魚を置いて、水中でもがく七宝の足首を持ち上げた。
「……なにやってんだ、お前」
「う、うるさい…」
びしょぬれの七宝は、逆さまに揺れながらむすっと呟いた。

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