奈落から渡された漆黒の四魂の欠片。
懐に仕舞われたそれは、幾重も紙に包まれていながらも肌に感じるほどの強い力を発している。
そこに手を当てて、蛮骨は息を吐いた。
ちらと右腕を見やる。
骨と化した腕。そこには未だ、あの少女の霊力の残滓が残っているようだった。
痺れるような痛みが、神経を失ったはずのそこから伝わってくる。
眉がひそめられた。
忌々しい。矢の一本でこれほどになるとは。
それとも、あの奈落が言ったように、この程度で済んだのはむしろ喜ぶべきなのか。
どちらにしろ、再生には時間がかかる。しばらくは戦えないだろう。
欠片を使って治療するために、彼は澄んだ泉を探していた。
白霊山にはそのような場所がないので、かの地から随分と離れたところを歩いている。
歩いてどれほど経ったか。
欠片を仕込んだこの身体は大した疲れも感じていないが、いい加減に飽きがくる。
いつもなら蛇骨たちと一緒に話しながら歩けるが、今はひとり。
黙々と歩いていると、何だか時間がとてつもなく長く感じられる。
「あいつら大丈夫かなぁ……こんな腕じゃなきゃ俺も加勢するんだが…」
戦場にいる仲間たちに思いを馳せていた時、彼はやっと目的の場所に辿り着いた。
開けていて静かな場所だ。澄んだ泉があり、光が差し込んでいる。
「うん、ここでいいや」
ぐるりと周囲を見渡し、うんうんと頷く。
さっさと腕を元に戻して、仲間のもとへ戻らなければ。
水際に身をかがめ、懐から包みを取り出す。
直接触れないように、紙の中から水に欠片を落とした。
漆黒の欠片が沈んでいく。
水が澄んでいるので、底まで落ちても欠片を見失うことはなかった。
見ていると、欠片から黒いものが溢れ出した。
蛮骨は袖を捲くり欠片を沈めた水に右腕を浸す。
立ち上る黒いものが、絡みつくように腕を取り巻いた。
「っ……」
苦痛が生じて蛮骨は眉を寄せる。
淀む黒いものは、欠片に込められた奈落の瘴気だ。
水の中でそれが溶け出し、骨になった腕に染みていく。
直接触れた時ほどではないにしても、やはり人間の身には辛いものだった。
再生が終わるまで、腕を上げることは出来ない。
蛮骨はじっと、苦痛に耐えて腕を浸していた。
どれほどそうしていただろうか。
突然耳に滑り込んだ小さな声に、蛮骨ははっと顔を上げて背後を振り返った。
視線の先に認めたものに、彼は瞠目する。
少し離れた場所に、少女がいた。
その姿は、よく知ったもの。
「お前は……!」
蛮骨が歯噛みする。
まさかこんな時に見つかるとは。
目の前の少女は、目を見開いて動かない。
彼女にしても、自分がいるとは思っていなかったのだろう。
「蛮…骨……」
彼女の口から声がこぼれる。
蛮骨は口の端を上げて見せた。
「運が良いな、俺は戦える状況じゃねぇんだ。殺されたくなけりゃ、さっさと失せろ」
「どうして蛮骨がここに……」
ここは白霊山から離れた地だ。なのにどうして。
「失せろと言っている」
蛮骨の眼差しがきつくなる。
かごめは息を詰め、しかし彼に背中を向けようとはしなかった。
じっと、蛮骨の状況を確認する。
かがんだまま、首だけを巡らせている。そこから動けない理由があるのか。
「何、してるの……?」
気になって問いかけると、怪訝に睨まれた。
「何だっていいだろ。お前には関係ない」
「関係あるわ。四魂の欠片の気配がするもの。それも、なんか変な気配が……」
かごめの言葉に、蛮骨は水の中の四魂の欠片に目を落とした。
澄んでいた水は瘴気で黒く覆われ、欠片の場所も定かではなくなっている。
欠片から溢れ出す瘴気がだんだんと色濃くなるにつれ、腕から生じる苦痛も増していった。
僅かに顔を歪める。
その様子に気付いたかごめは、首を傾げながら恐る恐る近づいていった。
「来るな……」
平静を保ちながら蛮骨が唸る。
彼の傍までやってきたかごめはそこにある光景に息を呑んだ。
「あ……」
透き通った水が、その周辺だけどす黒く変色している。
おぞましい感覚が、背を駆け上がってくる。
蛮骨はそこに右腕を浸している状態で、かごめを睨み上げた。
「っ……何だ、俺の欠片をとっていくのか」
水の様子に言葉を失っていたかごめは、はっと蛮骨に視線を向けた。
「何してるの! こんなところに腕を入れてたら……っ!!」
これは、瘴気だ。
水の中の欠片を中心に、おびただしい瘴気が噴き出している。
感覚が、かごめにそう伝えてくる。
少女は蛮骨の腕を掴んで水から出そうと引っ張った。
蛮骨は驚きながらもその手を振り払う。
「邪魔をするな!」
「何で? 何でそんなことしてるのよ…」
青年がキッとかごめを睨み据える。
「そもそもの原因はお前だろう!!」
「え……わ、私…?」
「お前に射抜かれて骨になったところを再生している」
かごめは立ちすくみ、瘴気に取り巻かれる蛮骨の腕を見た。
黒に覆われてわからなかったが、確かに聖島で射抜いた箇所だ。
「そ、そんなことをしないと治せないの……!?」
「この方法が一番早いと、奈落に教えられた」
「奈落…に…」
ゆっくり治している暇はない。痛かろうが辛かろうが、早く治して戦いに参じねばならないのだ。
「この身体は、もともと奈落の意思で作られたもの。
それを治すなら、同じ奈落の瘴気で無理やりにでも再生を促すのが手っ取り早いのさ」
奈落の瘴気と、それを込めた四魂の欠片。
これを使うのが一番迅速だと、奈落は言っていた。
蛮骨の額に汗が滲む。
骨に瘴気が染み込んで、どくんと鼓動が鳴り響く。
「失せろ……お前が傍にいると具合が悪い」
無意識にかごめの身体から発せられる霊力を、蛮骨の身体が拒絶している。
蛮骨の身の内に染み込む奈落の瘴気が、そうさせているのかもしれない。
言葉を無くしたままかごめは戸惑い、蛮骨を見つめていた。
しかし不意に彼の横に膝をつくと、その額の汗をハンカチで拭い始めた。
蛮骨は瞠目する。
「何のつもりだ…」
「いいじゃない、これくらいさせてよ。私のせいで、そんな苦しい思いしてるんでしょ…」
「触るな、お前は邪魔だ」
かごめの手がぴたりと止まった。
「そう……よね…」
うつむく瞳に、影が落ちる。
隣に座り込んだ少女がそれきり何も言わなくなり、蛮骨は怪訝にそれを見下ろした。
しばしの沈黙が流れた。
「……お前は、どうしてこんなところにいる」
「え……?」
驚いたかごめが顔を上げると、蛮骨が真っ直ぐに見つめてきていた。
「それは、あの……」
「犬夜叉といつも一緒にいるものと思ってたんだが、そういうわけでもないのか」
犬夜叉、という名に少女の肩がぴくりと震える。
「しかし、俺がこんな状況なんだから、すぐにあいつを呼びに行けばいいものを。
俺は動けない、欠片を取るなら絶好の機会だろうに」
「そんな……」
かごめは言葉が出ない。蛮骨の声が縛り付けるように、声を喉の奥に留めてしまう。
答えられないかごめをしばし眺めて、蛮骨は息をつく。
だんだんと痛みが増す。水の中で、浸した腕ががくがくと震えているのがわかる。
目を閉じ、その痛みをやり過ごす。
「しばらくここにいちゃ……駄目?」
「……なんで」
「帰りたくないの……犬夜叉のところ」
ぴくりと眉を動かし、少女を見やる。
「邪魔はしないわ…。ただ、ここにいさせてもらうだけでいいから。……やっぱり、駄目かな」
語尾が小さくなっていく。 不安そうに、かごめは蛮骨を見た。
「……好きにしろ」
「え…」
「好きにしろ、と言ったんだ。帰りたくなったら帰ればいい」
ため息混じりに蛮骨は言う。かごめの顔に笑みが広がった。
「あ、ありがとう」
あどけない笑顔だ。自分とはまるで対極にあるような。
蛮骨はふいと視線を外し、腕の再生に集中した。
「ねぇ、それ……どのくらいかかるの?」
「半日くらいだ」
「半日っ!? そんなにかかるの!?その間、ずっとそのまま!?」
かごめは目を剥いた。
一番早いというこの方法でも半日かかるとは。予想以上だ。
「一度再生を促したら、完了するまで腕を出すことはできねぇ」
「た、大変ね……」
「誰かさんのせいでな」
蛮骨の言葉にかごめは「う…」と詰まる。
「それは、悪かったけど……」
あの時はこっちだって必死だったのだ。
ぐるぐると考え込んでいるかごめに、蛮骨はふと目元を和ませた。
「まぁ、今更だし。どうでも良いけどよ」
と、腕から激痛が這い上がる。
「…っ……!
「蛮骨っ!?」
呼吸を引きつらせ、倒れこみそうになる青年の肩を、かごめが支えた。
「ちょっと、大丈夫?!」
覗き込んだ顔に汗が滲んでいる。奈落の瘴気によって、体内から蝕まれているのだ。
「本当に、このやり方で大丈夫なの?」
腕が再生する前に意識が持っていかれるのではないか。
「治りを早めようとすれば……それなりの反発が返ってくる。
それくらいは…わかっている……ことだ」
「でも……」
肩で息をする蛮骨の腕は、黒い水の中にあって先まで見えない。
込められた妖気の奔流に、水中の欠片が鳴動している。
おぞましさに寒気が走り、咄嗟にかごめは蛮骨の腕を引き上げようと手を伸ばした。
だが蛮骨は頭を振ってそれを止める。
「やめろっ……途中で止めることはできねぇ……!」
「っ……」
何も出来ずに、かごめは顔を歪めた。
蛮骨の背が汗で冷たくなっている。
歯を食いしばり苦痛のうめきを押し殺している蛮骨の頭を、かごめは支えるように抱きしめた。
「かご…め……」
「ごめん、ごめんね……」
彼がこんな思いをしているのは自分のせいだ。この腕を、聖島で射抜いてしまったばかりに。
後悔の念が心を苛む。
「謝らなくて……い…から……」
かごめの肩に顔を埋めて、湧き上がる痛みに身体を震わせる。
それでも決してうめき声を上げないのは、残された意地によるものだった。
一つ、肩で大きく息をすると同時に、蛮骨の身体から力が抜ける。
深く沈みこんだその身体を、華奢な少女は全力で受け止めた。