母と子

最後の雪が、とけた。

隼人はやとは花が咲き始めた庭先を、何とはなしに眺めている。
日ごとに暖かくなり、それに呼応するように眠っていた植物が芽吹いていく。
皆が精力的に生きている光景を、隼人は沈んだ瞳で見ていた。

「―――隼人」
廊下の向こうから声がかかり、隼人は視線を巡らせた。
剃髪で長身の男が見える。
親しい奉公人だ。
「なんだ、れん
煉、と呼ばれた男は、顔をしかめながら隼人のもとへやってくる。
「まだ外は寒いだろう。そんな薄着で……何を見ていたんだ」
隼人の肩に持ってきた衣をかけながら、煉は問うた。
隼人は小さく笑うと、再び庭先を眺める。
「お袋の植えた花。まだ咲いてねぇけど、きっと今年も咲くんだろうなって」
それを聞いて、煉もそちらに目をやった。
まだ何も咲いていない。でもこの庭には、毎年春になると綺麗な花が咲くのだ。
それらの花は、今は亡き隼人の母、おゆうが植えたもの。
「お袋が死んでもう七年か…」
隼人が十を数えた年に、お悠は儚くなった。
とても元気だったのに、ある日突然体調を崩し、寝たきりの状態になった。
そして一月も経たぬうちに彼女は眠るように逝ってしまった。
煉が隼人の肩を軽くたたく。
「もうすぐ咲くさ。さぁ、寒いから中に入れ」
隼人は顔を上げ頷くと、縁から腰を上げて部屋へ戻った。
自室では、もう一人の馴染みの奉公人・秋雪あきゆきが茶を沸かして待っている。
煉も秋雪も、隼人が小さい頃から共に暮らしてきた奉公人だ。
隼人にとっては親友であり、家族にも等しい。
この家で数少ない、本音で語れる中だった。
「そういえば、この頃親父の姿を見てねーな。ちゃんと生きてんのか?」
隼人が問うと、煉は肩をすくめてみせた。
「ピンピンしてるぜ。相変わらず、おかみさんの言いなりさ」
おかみというのは、隼人の義理の母、おそめのことである。
お染は奉公人に厳しく、何故だか隼人をひどく嫌っていた。
お染によって隼人は屋敷の隅の離れに追いやられ、一人隔絶されている。
そのため、家族の姿を何日も見ないこともしばしばだった。
「お袋が死んで七年…ってことは、あの女が来て、もう七年か……」
茶を飲みながら、隼人はお染がこの家に来た時のことを思い出していた。

大好きな母が死んで、十歳の隼人は淋しさと悲しみでいっぱいだった。
母の死から一月と少し経ち、煉や秋雪に慰められ、やっと立ち直りかけた頃。
隼人は父から呼び出された。
何だろうかと思って行ってみると、客間の座敷に見知らぬ女性がいた。
歳は死んだ母より少し若いだろうか。
きれいな顔をして、きれいな着物を着ていた。
「父上、この人は…?」
隼人は女の隣に座した父に問う。
すると父は、笑いかけることもせずにこう言った。
「お前の新しい母上だ」
隼人の瞳が凍った。
母が亡くなってからのこれまで、新しい母を迎えるなど、考えたこともなかった。
こんな見ず知らずの女性を、母上と呼ぶのか。
自分の心は未だ病んでいるのに、父はもう新しい妻を見つけていたのだ。
様々な感情が交錯している隼人に、女はニコリともせずに頭を下げる。
「お染と申します」
父の決め事に文句を言うことは許されない。
隼人も挨拶して頭を下げると、足早に部屋を出て行った。
(これから、あの人と一緒に暮らしていく…あの人が、母上になる)
到底想像できなかった。
自分にとっての母は、一人しかいないのに。
(あの人が母上になったら、本当の母上のことは忘れなければならないのだろうか……)
途端に、涙がこぼれた。
無性に淋しい。
父はお悠のことが悲しくなかったのか。
こうも早い切り替えができるほど、軽いことだったのか。
「母上……」
幼い隼人を残して、現実はどんどん展開していく。
暗い不安を胸に抱えながらも、煉や秋雪にまた心配をかけたくはないので涙を拭う。
顔をあげると、視界の隅に花が見えた。
母が植えて、大切に育てていた花。
風に揺らぐ花を見ているとまた目頭が熱くなったが、頭を振ってそれを追い払う。
隼人は逃げるように、煉たちの待つ自室へ戻っていった。

それからの日々、隼人は義母のお染と親しくなろうと必死に努力した。
だがその甲斐むなしく、お染の態度は冷たかった。
何かと隼人に文句をつけ、行儀が悪いだの何だのと叱り付ける。
そしてそれを父にまで報告するので、大した事でなくとも隼人は叱られることが多くなった。
「あんたはどうしてそんなに出来が悪いんだい」
今日もまた、些細なことを大げさに叱られている。
心に突き刺さる言葉を、お染は遠慮なしに真っ直ぐ言ってくる。
唇をかみ締めて、隼人は頭を下げた。
「ごめんなさい、母上…」
「あんたに母上なんて呼ばれたかないよ。やめておくれ」
ぴしゃりとお染が言い放つ。
呆然として思わず顔をあげると、見下すような冷たい瞳と行き会った。
自室へ戻って一人になると、隼人は隠れて泣いていた。
どうしてこんな思いをしなければならないのか。
お染は、お悠のように優しく笑いかけてくれることなどない。
お染に冷たくはねつけられる度に、お悠が恋しくなっていく。
それでも、煉や秋雪の前では決して泣かなかった。
自分は立ち直ったからもう大丈夫だと、示したかった。
そうやって月日が流れるうちに、隼人と家族の距離はどんどん離れていった。
一人だけ、離れの部屋に移された。
一緒の部屋で寝泊りしていた煉と秋雪も、その日を境に奉公人用の粗末な場所で眠るよう命じられた。
奉公人たちの部屋よりもさらに母屋に遠い部屋。隼人はいつもそこにいた。
母と行き会うと、決まって冷たい眼差しで睨まれる。
きつい言葉も、何度も何度も向けられる。
それを考えると、家族のいる場所へ行くのさえ怖くなっていった。

「何考えてるんです、隼人」
回想にふけっている隼人に、秋雪が訊く。
「別にー。 あの女が来た頃のこと、思い出してさぁ」
結局、お染の態度は今でも変わらない。
というより、悪化している。
もう幼い頃のように、努力することもなくなった。
何をしても無駄なのだ。自分が義母に認められることはない。
あのころはわからなかったが、今ならそれがわかる。
父親もお染の言いなり。
もはや隼人の味方は、この二人の奉公人しかいない。
「お前らがいて良かったよ」
隼人は心の底から呟いた。
それを聞いて、二人は微笑んだ。
「そう言ってもらえたら何よりですよ」
「これからだって、俺たちはお前の味方だぜ」
隼人の顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
本当に、この二人がいなかったらどうなっていただろう。
こうして隼人の声を聞いてくれて、まともに扱ってくれる人間がいることが、何よりもの救いだった。
お互いの顔を見合わせて、三人は笑いあった。

<終>

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