蒼空

机に突っ伏した隼人は、先ほどから同じ事を呻いている。
「う~、外に出たい、出たい…」
煉と秋雪は、困ったように顔を見合わせた。
三日ほど前、突然お染が離れにやってきた。
あちらから来ることは非常に珍しいので、隼人と二人の奉公人は呆然と目を見開いていたのだが。
お染の口から発されたのは、思いもよらないことだった。
『あんた、小太郎を泣かせたね』
開口一番、物凄い睨みとともに、言われた。
『……は?』
『庭で遊んでいた小太郎が、泣いて戻ってきたんだ。あんたが泣かせたんだろう!?』
小太郎というのは、七才になる隼人の義弟だ。
父とお染の子で、お染が嫁いできた年に生まれた。
『ちょっ…ちょっと待て。何のことだ?俺は何も……』
『うるさいね、言い訳は聞かないよ。
私の可愛い小太郎を泣かせた罰だ、あんたは許可が下りるまでこの部屋で謹慎するんだよ!』
一方的に、謹慎を言い渡された。
隼人には全くもって覚えがない。
というより、小太郎にはこの頃会っていないのだから、泣かすなど不可能に決まっている。
『お、お待ちください。隼人は小太郎さまには会っておりません。
泣かせるなど無理です』
横から弁明したのは秋雪だ。
しかし、彼もお染に鋭く睨まれ、口をつぐむ。
『なんだいあんた、奉公人の分際で。クビになりたいのかい!』
『も、申し訳ありません。しかし…』
『秋雪、もういい』
隼人に止められ、秋雪は俯いて一歩身を引いた。
お染はフンと鼻で笑い、部屋を出て行く。
『忌々しいあんたの顔を見なくて済むよ。なんならずっと謹慎して欲しいね』
ピシャリと閉められた襖に、今度は煉が飛び掛ろうとしたが、隼人がすぐさま止めに入る。
『止めるな隼人!あんなこと言われて黙ってるのか!!!』
『落ち着けってば! 俺のことはいいんだよ!お前たちがクビになる方がよっぽど困るんだ!!』
その言葉に、煉はゆっくり拳を下ろした。
『くそっ……所詮は奉公人の身か…何もできねぇな』
『何もしなくていいさ。俺の話を聞いてくれてれば、それで十分だ』
力なく笑う隼人に、煉と秋雪は唇を噛み締めた。

諦めたはいいが、暇なものは暇なのである。
さすがに三日目ともなると、狭い部屋の中で過ごすには身体が痛くなってきた。
「俺が何をしたっていうんだ…」
「というより、今になって考えると、小太郎さまが本当に泣いていたのかどうかも疑問ですね。
おかみさんが隼人を謹慎にしたいだけだったのでは?」
「ああ、あり得る。あの女め、俺の何が気に食わねぇってんだ…」
三日もすると、さすがに話題も尽きてくる。
彼らが話すのは、もはや義母の愚痴ぐらいしかなかった。
それに、煉たちも奉公人なので仕事に行かなければならない。
その時間が、徐々に迫っていた。
唐突に、隼人は机を叩いて起き上がる。
驚く煉たちが見ていると、隼人は襖を開けて外に出た。
「隼人、謹慎を破るのか?」
「こっそり外出してくる。ま、この離れにはお前らくらいしか来ないし、バレねぇだろ」
誰もいないのを確認して、隼人はひょいと塀に飛び乗った。
母屋からは死角になっていて、ここからなら外へ行っても気付かれない。
「じゃ、暗くなる前には帰るから」
にっと笑って塀の向こうに消える隼人を見送り、二人の奉公人は小さく笑って仕事に戻っていった。


外に出たものの、金もないしすることがない。
隼人は適当に、家の裏の山を歩いていた。
ずっと部屋にいたためか、爽快感がいつにも増して感じられる。
木々の間を吹いていく風が心地よい。
しばらく散策していると、風の音に他の足音が重なった。
「ん?」
振り向くと、一頭の白い狼がそこにいた。
尻尾を振って草むらに座っている。
蒼空そら!久しぶりだなぁ!」
駆け寄ると、狼もぴょんと腕に飛び込んでくる。
顔中を舐められ、隼人はアハハと笑ってその頭を撫でた。
「ごめんな遊びに来れなくて。俺も外に出られなくてさ」
隼人は膝をついて目線を下げ、狼をわしゃわしゃと撫でまわす。
蒼空は嬉しそうに目を細めた。

白狼の蒼空と出合ったのは、十二歳の冬だ。あの日も確か、小太郎のことで叱られた。
まだ二才の小太郎と遊んでやろうとしていたところを、お染に見つかった。
『うちの子に何してるんだい!早く離れるんだよ!!』
お染が腕を引っ張って小太郎を引き寄せたので、小太郎は驚いて泣き出してしまった。
『あらあら、お兄ちゃんにいじめられたかい?可哀想に』
『あの、俺は遊ぼうとしただけで…』
『うるさい子だね!!早くあっちに行きな!この子に怪我でもさせたら、承知しないから!!』
お染の怒鳴り声に、小太郎の鳴き声が大きくなる。
隼人は悲しく俯いて、部屋を出て行った。
煉も秋雪も仕事に出ている。
隼人は一人、庭の池で鯉を眺めていた。
重いため息が知らず知らずに漏れる。
すると、後ろから父がやってきた。
『父上…?』
最近姿を見ていなかった父が自分からやって来たので、隼人は喜んで近づいた。
が、父は冷たい視線で見下ろしていた。
それに気付き、隼人は足を止める。すると父の方から近寄ってきた。
『隼人、お染から聞いたぞ』
先ほど僅かに沸いた期待が、一気に崩れた。
『お染の目を盗んで小太郎に近づいた挙句、泣かせたそうだな?』
『ち、違います! 俺は…』
『黙りなさい。…どうしてお前はそうなのだ?父と母を困らせて楽しいか?』
冷たい視線と低い声。
隼人は必死に、震える声を抑えて言った。
『兄が弟と遊んでやろうと思うのは……そんなに悪いことですか?』
顔を上げて、父の目を見て言った瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
池の鯉が散っていく。
『お前が兄を気取るんじゃない』
『え…?』
打たれた頬に手を当てて、呆然と顔を上げる。
『お前は小太郎の兄などではない。お前とあの子は関係ないのだ。
……この家も、いずれ継ぐのはあの子だ』
隼人の瞳が見開かれる。
『なっ、なぜです!? 長男は俺でしょう!?』
家の財産が欲しいわけではないが、納得がいかなかった。
小太郎が家を継ぐのだとしたら、自分はどうすればいいのだろう。
すがりつくと、また頬を叩かれ、今度は地面に倒れ込んだ。
『口答えをするのか、隼人。
今でこそお前は情けで家に置いているが、いずれここを出て行ってもらうのだぞ』
見開かれた瞳が凍りつく。
およそ、父の言葉とは思えなかった。
のろのろと立ち上がると、ぐっと息を詰めた隼人は、父の顔を見ずに駆け出した。
一人になりたい。
それだけを考えて、でもその考えもいつしか消えて、隼人は無我夢中で走り続けた。

気がつくと、山の中にいた。
煉も秋雪もいない時、たまに時間つぶしに来る、家の裏手の山だ。
地面には雪が積もっている。
暖かい時にはあんなに鳥の声がするのに、冬になって真っ白になると、しんと静まり返っている。
立ち止まって乱れた呼吸を整えていると、父の言葉が蘇った。
冷えた顔に熱い涙が伝う。
寒さとは違うもので、身体がどうしようもなく震えた。
身内で唯一信じていた父も、あんな風に考えていたのだ。
心の中に一気に風が入り込んだようだった。
座り込んでしばらく俯いていると、無音だった中に小さな音が聞こえてきた。
顔を上げると、いつの間にか空から雪が舞い降りてきていた。
家にいたままの服装なので、意識してみるととても寒い。
仕方なく、来た道を戻ろうと立ち上がりかけた時。
雪のかすかな音に混じって、小さな鳴き声が耳に届いた。
『……?』
不思議に思い、声のする方へ歩いてみる。
するとすぐに、小さな崖へ行き着いた。
声は下の方から聞こえてくる。
弱々しい、子犬のような声。
難なく崖を下りると、すぐそこから声がしているようだった。
『どこだ…?』
目を凝らしてよく見てみると、小さな小さな穴が、雪に埋もれかけているのを見つけた。
耳を澄ますと、そこから時折声が漏れている。
隼人は雪を掻き分けて、中に手を突っ込んだ。
すぐに、暖かい毛並みに触れる。
暴れる様子も無いのでそのまま出してみると、小さな子犬がぶらさがっていた。
否。子犬ではない。
『狼……?』
真っ白な毛並みのため最初は子犬かと思ったが、よく見たらこれは子狼だ。
小さな狼はぶるぶると震えて、しきりに声をあげている。
『お前、上から落ちたのか?』
話しかけると、答えるようにクーンと鳴いた。
隼人は小さく笑うと、子狼を懐に入れて崖をよじ登った。
崖と言っても小さいので、登りきるのにそれほど時間は要さない。
上につくと隼人は狼を懐から出して地面に放した。
『ほら、親の所へ帰りな』
隼人は狼の頭を一撫ですると、立ち上がって家への道を歩き始めた。
しばらくしてふと足元を見ると、先ほどの狼がついて来ていた。
『わっ、何でついて来てんだよ!親のとこに帰れって…』
狼の背を押し、隼人は駆け出した。
が、少し走って振り向くと、やはり後をついて来ている。
『ああもう!帰れって言ってんだろ!!』
怒鳴ると、子狼はその場に座り込んでじっと隼人を見上げた。
『な、なんだよ…』
クン、と小さな鳴き声をあげる。
隼人ははっとした。
『親がどこにいるのかわからないのか…?』
足を滑らせて崖下に落ちてしまった子狼。
親はそこで諦めて、どこかへ去ってしまったのだ。
厳しい自然界で生きていくには仕方のないこと。
残された子供を守り抜くことを選んだのだろう。
『そっかぁ…どうすっかな…』
こんな雪山に置いていったら死んでしまうだろう。
狼は隼人に擦り寄ってきた。
暖かい。
隼人は子狼を抱き上げ、にっと笑ってみせる。
『よーし!お前も一緒に連れてってやる。その代わり大人しくしてるんだぞ?』
狼を腕に抱え、隼人は家までゆっくりと歩いた。

こっそりと部屋に戻ると、煉と秋雪がぱっと顔をあげた。
『隼人!どこに行ってたんだ?』
『心配しましたよ、何かありましたか?』
『何でもない。それよりも、ほら』
隼人は子狼を差し出す。
煉と秋雪は、しばし言葉を失った。
『それ、犬か?』
『いや、たぶん狼』
『可愛いですね、飼うんですか?』
『うん、こっそり飼う』
『おい、さすがに無理じゃねぇか?』
『大丈夫だって、小さいうちだけだから』
隼人は狼を撫で、にっこり笑う。
『お前たちが誰にもいわなけりゃ、バレねぇよ』
煉はなおも物言いたげだったが、結局は隼人の好きにさせてやることにしたのだった。


「暗くなってきたなぁ。蒼空、俺もう帰らねぇと。また遊びに来るからな!」
すっかり大きくなった白狼が尻尾を振って隼人を見送る。
成長したらさすがに家では飼えないので、隼人が何とか狩りを教え込み、もとの山に放した。
それでも、暇があれば会いに来る。
蒼空はその日が楽しみで仕方ないのだ。
隼人の影が小さくなるまで、その背を見つめる。
顔をあげた蒼空の瞳には、あの日とは違う奇麗な夕焼けが映っていた。

<終>

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