炎獄

 

多くを望んでは、いなかった。


燦燦と陽光が降り注ぐ、夏の日。
境内の参道から離れて設けられた小さな畑で、五人の小僧たちがせっせと草取りに励んでいた。
それぞれが世話を任されているうねに屈み込み、雑談を交えながらもふざけることなく手を動かしている。
「……」
逢念ほうねんもその中の一人だった。とりわけ真剣な面持ちで、集中するあまり眉根が寄っている。
逢念が寺の一員となったのは、つい先頃のことだ。親に捨てられ、山中で死にかけていたところを保護された。
生家は兄弟が多かったため、おそらく口減らしのために捨てられたのだろう。珍しい話ではないが、まさか自分が当事者になるとは当時想像もしていなかった。
いちばん聞き分けが悪く、いちばん気が利かず、そのくせ飯は当たり前に食う。そんな子供だったから、いよいよ誰かを削らねば生活が立ち行かぬとなった時、真っ先に白羽の矢を立てられても、当然といえば当然だったのだと思う。
そして、それが当然だと思い知った時には、もう遅かった。
初めて踏み入った山中に置き去られ、空腹と寒さに苦しみながら幾日も彷徨い歩いた。やがて体力が尽き、死の気配を間近に感じるようになったその時、この寺の住職である弘徳こうとくに発見され、手を差し伸べられた。
たった三月前のことである。
付ききりで介抱され、逢念という新しい名を与えられ、この寺の一員として迎えられた。
当初は誰も信用できなかった。心が荒みきっていた逢念は一日の大半を独りで過ごし、ほとんど口を開かなかった。それに対し住職も他の小僧たちも、無理やり踏み込んでこようとはせず、辛抱強く待っていてくれた。
今思えば、自分よりずっと年少の子たちにも気を遣わせてしまっていた。
その状態が進展したきっかけは、ほんの些細なことだったと思う。小僧たちの雑談があまりに馬鹿げていて、聞くとはなしに聞いていた逢念が思わず吹き出してしまった。たったそれだけのことで、皆との間に立てていた壁は崩れ去った。
それを機に、逢念は元来のからりとした気質を表に出せるようになった。
寺の子だからといって修行を義務付けられたりはせず、剃髪する決まりもない。掃除や畑の世話などを手伝う傍ら、弘徳から様々な説法を聞いたり、生きるための知恵を教えてもらう。逢念の日々は、温かな色彩を取り戻した。
寺に暮らす五人の小僧たちの中で、十二を数える逢念はいちばん年長である。早い者なら元服を迎える年齢だ。
けれども、年下の子たちの方がよほどしっかりしていた。
己のことは己でやる。けれども常に助け合いの精神を忘れぬように。
弘徳が折に触れて口にするその理念を、頭では理解しているつもりだったが、いざその場に出くわすと逢念は動くのに一拍遅れてしまう。それまで我儘な末っ子として生きてきたつけは、一朝一夕では埋まらない。
どうすれば役に立てるかを必死に考えた。そして、まず力仕事だけは誰よりも率先して引き受けようと決めた。他の子らはまだまだ背が小さく腕力もない。己が自信をもって提供できるものといえば、それくらいしかなかった。
「おーい」
畑仕事に勤しんでいると、背中にのんびりとした声が投げかけられた。
振り返れば回り縁で弘徳がゆるく手を振っている。
「こっちへ来て一休みしなさい。裏の川で瓜を冷やしてあるよ」
小僧たちから歓声が上がった。道念どうねん久念きゅうねんの兄弟が野良道具を放り出し、我先と駆けていく。
「あ、こら! 道具は丁寧に扱いなって」
逢念より一つ下の慈念じねんが咎める声など、まるで届いていない。
「まったくもう……行こう、逢念」
呆れまじりに嘆息してから呼びかけてくる慈念に、逢念は額の汗をぐいと拭って答えた。
「先に行っててくれ。ここが終わったら行く」
「わかった。逢念の分も残すように言っておくけど、早く来た方がいいよ」
苦笑した慈念が年少の宗念そうねんの手を引き、寺の裏手へ抜ける細道へと消えていく。
ひとり残った逢念は黙々と手入れを続けた。
逢念に任された区画は、もともと慈念が世話していた場所を半分わけてもらったものである。枯らしたり病気にさせるわけにはいかない。
日差しがかんかんと照りつける。
だらだらと汗を伝わせながら一心に手を動かしていると、ふいに自分の周囲に丸く影が落ちた。
目を瞬いて顔を上げる。
「あ……弘徳さま」
皆と共に瓜を食べているはずの住職が傍に立ち、逢念の頭上へ傘を差しかけていた。小さな穴がいくつも開いた傘は継ぎ接ぎだらけで、雨の日は使えないが、こうして日差しを遮るにはまだまだ現役だ。
「万事、急いても思うようには進まぬものだ。適度に休息して心の余裕を得た方が、結果としてよい働きができる」
「ご、ごめんなさい」
叱られているわけではないと分かっているが、反射的に謝ってしまった。相好を崩した弘徳が、汗に濡れた頭に手ぬぐいを被せてくる。逢念は無言で髪をわしゃわしゃと拭き、手ぬぐいの端で顔に浮いた汗を叩いた。
風が吹き抜け、火照った肌の熱を心地よく攫っていった。
立ち上がった逢念は傘の影の中に弘徳と並び、小さな畑を見渡す。
「収穫が楽しみだのう」
弘徳につられ、逢念の口元も緩んだ。
「さあ、あちらへ行こう。せっかく冷やしたのが温くなってしまう。それに、皆で食べた方が美味しいぞ」
「はい」
とんと優しく背を叩かれた逢念は、笑顔で頷いた。



崩壊の音がする。


深い夜のとばりの一角が、昼間のごとく明るい。
木々の狭間を縫ってくる焦げた臭気に、疾走する隼人の眉間がぐっと詰められた。その横に四足の足音が追いつく。
「先に行け!」
振り返らず命じると、一声鳴いた白狼が隼人を追い抜いて風のような速さで木立の向こうへ消えていった。
一歩進むごとに熱気と焼けた木の臭いが強くなる。行く手は煌々とあかい。
道なき斜面を駆け下りて飛び出した先は境内の裏手だった。
目の前の光景に息をのむ。
つい半時前まで過ごしていた寺が炎を上げている。大きな屋根がごうごうと燃え盛り、大量の黒煙が夜空の星を覆いつくしていた。
奥歯を噛む。脳裏で重なりそうになるあの日の生家を瞬時に打ち払う。
先行していた蒼空そらが建物の陰から姿を見せて一声吠えた。隼人はそちらへ駆ける。
蒼空の先導により行き着いたのは焼け崩れた勝手口だった。白狼は内部へ向けてしきりに吼え立てた。
「中にいるんだな」
足を踏み出しかけると、蒼空がたもとをくわえて引き止めようとする。
「大丈夫だ、お前は外で待ってろ」
頭をひと撫でしてやる。蒼空は不安げな目をしながらもおとなしく口を離した。
燃え残る勝手口の板戸を蹴破り、隼人は屋内に身を投じた。
四方が熱気に満たされ、全身から汗が噴き出した。袖で鼻から下を覆い、床が見えている箇所を辿るように奥へと踏み入る。
柱や壁を問わず、視界のあらゆる場所が炎で埋め尽くされている。どちらを向いても炎獄の海だった。
熱と灰が目に染みる中、視線を忙しく動かして人影を探す。
火の回りが早い。同時に複数の個所へ火を放たれたのだろう。かろうじて無事な場所を進むが、帰りもそこが残っている保証はない。
引き際を見誤れば自分も危うい。
崩れた建具や調度類の陰に目を凝らしても、人の姿は見出せなかった。
すでに避難したのか。しかし、蒼空が内部を示したのは人間の気配を感じ取ったからだろう。
「誰かいるのか、いるなら返事をしろ!」
袖の下から声を張り上げる。ごうごうと唸る熱風がそれを遮る。
みし、と床が揺らいだと思った瞬間、少し遠くで崩壊音がした。振動で足元が震え、心臓が早鐘を打つ。次に崩れ落ちるのはここかもしれない。
小太郎や仲間たちの顔が脳裏をよぎる。これ以上の深入りはできなかった。
後ろ髪を引かれながらもきびすを返す。
直後、微かな声が耳朶をかすめた。
隼人ははっと振り返り、意識を研ぎ澄ませた。
炎が爆ぜる音。木が炭化する音。亀裂の走る音。それらの針の穴ほどの間隙に、引き攣れた泣き声。
声の方向を見定めるより早く、隼人の足は動いていた。傾いたふすまや板戸の隙間を潜り、ほとんど直線的な軌道でその場所を目指して疾走した。
辿り着いた先は広い仏間だった。小太郎と二人で見物した場所だが、他と同じくまるで様変わりしている。炎の中に佇む仏像が、恨みを抱く人間かのように陰の落ちた顔でこちらを見下ろしていた。
視線を走らせる。
仏間の一隅に、寄り集まった人影があった。周囲から押し寄せる炎の波に今にも呑み込まれそうになっている。
「住職!」
口元を覆う袖の下から叫ぶ。小僧たちを抱えてうずくまっていた弘徳が弾かれたように顔を上げた。見開いた双眸が隼人を捉え、呆然となる。
「はやと、どの……どうして……」
飛ぶように駆け寄った。
弘徳の腕の中には逢念と宗念がいた。二人も煤に汚れた顔を上げる。まだ幼い宗念はしゃくり上げて泣いている。
隼人は素早く周囲を見回した。
「他の子供は」
「慈念が道念と久念を連れて、先に外へ」
ならば、この三人で全員ということになる。
「この火事は、俺たちを――」
追ってきた連中の仕業だろう、と隼人が言い切らぬ間に、逢念がまなじりを決した。
「お前らのせいだ! お前らが来たせいで、こんなことに――」
逢念の剣幕に怯えた宗念が弘徳にしがみつく。弘徳はその頭に手を置き、静かな口調で逢念をいさめた。
「やめなさい逢念。そんなことを言っている場合ではない」
少年はぐっと口を噤んだが、その両目は苛烈な色を留めたまま隼人を睨み続けていた。
見たところ、逢念にこれといった外傷はなさそうだ。自分で動けると判じ、隼人は宗念を弘徳から引き受けて抱き上げた。弟と同い年の小僧は、黒く煤けた顔を涙と汗でぐちゃぐちゃにして、震えながら隼人の襟元にしがみつく。
「住職、立てるか」
立ち上がるのに難儀している弘徳の袈裟を掴んで引き上げる。その瞬間指先にぬめりを感じて、隼人は瞠目した。
黒衣と炎の陰影で気付かなかったが、老僧の左肩の広範囲に血が滲んでいた。袖から覗く手にも赤い筋が伝い落ちている。
「斬られたのか」
「子らを探す途中、賊に鉢合わせて……。幸い、一太刀で私が死んだものと思ったのか、さっさと離れていきました。大事ありませぬ」
住職は「行きましょう」と気丈に床を踏んで立ち上がった。
この状況を脱さぬことには手当てもできない。宗念を抱いた隼人は空いた方の手を逢念に差し出した。しかし逢念はその手を払いのけ、弘徳の体を支える役に回った。
隼人は身をかがめ、炎の中にわずかに残る床を見出して二人を先導した。逢念と弘徳がその後ろについてくる。
一歩進むたびに滝のように汗がしたたった。頭上からは絶え間なく梁の軋む音がして、そのたびに細かな木屑が降ってくる。
平時であれば、広い寺の中といえど外周を縁側が囲っているため、仏間から表まではせいぜい一部屋と廊下を一本挟んだ程度の距離だ。だが、いたる箇所を倒れた建具や炎で塞がれている今、脱出者たちは大きな迂回を余儀なくされた。
燃え盛る室内は刻一刻と姿を変える。瞬きをしただけでも方向を見失いかねない。
道中、弘徳が状況をかいつまんで説明した。
火の手が上がっている事にいち早く気付いたのは慈念だった。大慌てで知らせに来た彼に、弘徳は相手をしていた道念と久念を託し、すぐに縁側から屋外へ出るよう命じた。自分は逢念と宗念を探して寺内を駆け回ったが、その最中に賊と鉢合わせて斬られたのだという。
重ねて着込んでいた僧衣のためか傷は致命的なものに至らず、探していた二人と合流することも叶った。しかしその頃には火の手が回りきり、先ほどの仏間に追いやられてしまったのだ。
隼人は進める場所を判断しながら、耳を澄ませてその話を聞いていた。声が聞こえるうちは、二人がしっかり付いて来れている証となる。
傾いて道を塞いでいる襖をどかす。と、炎で縁取られた視界の奥に青々とした闇が見えた。一同の顔に光が差した。
「出口だ! もう少しです、弘徳様!」
弘徳を支える逢念が歩を早めようとする。刹那、隼人はふつりと息を呑んで頭上を見上げた。
ばき、と太い梁が真っ二つに砕けた。天井と周囲の壁を巻き込み、轟音を立てて崩れ落ちてくる。
舞い上がる木屑と埃で炎がわっと盛り、おびただしい火の粉が視界を埋め尽くした。
「っ――……!」
隼人が咄嗟に後ろへ引き戻していなければ、ひとたまりもなかっただろう。
紙一重で下敷きになりかけた逢念は、青ざめて瞬きも忘れている。支えているはずの弘徳に支えてもらわねば腰が抜けかねないほど震えていた。
硬直する彼らの前へ進み出た隼人は舌打ちした。
行く手を完全に塞がれた。焼け落ちた建材が折り重なって、子供一人を通す隙間さえない。
「そ、そんな……」
逢念の絶望で消え入りそうな呟きが零れる。
迂回しようにも今の衝撃で広範囲が連鎖的に崩落したらしく、視野の及ぶ限りは一面、地獄を模したような火の海だった。今来た道さえ跡形もなく、引き返すことすら叶わない。
外は目と鼻の先だというのに。
隼人は抱きかかえていた宗念を床に下ろした。弘徳たちが息を詰める前で腰を落とし、鞘に収めた刀を水平に構える。
「な、なにを」
「力業でも何でも使って、無理矢理通り抜けるしかない」
弘徳も逢念も不可解な顔をしていたが、すぐにその意を察したのだろう、正気を疑う眼差しで隼人を見上げた。
つまり、立ち塞がる瓦礫の山を炎もろとも両断して道をひらくつもりなのだと。
「そんなこと――」
できるわけがない、と言いかけた逢念が言い淀む。
そう思うのも最もだった。炎を吹き上げる建具の山。刃が通る道理はない。刀身が折れ、使い物にならなくなるだけだ。
隼人とて承知している。
だが、それ以外の道を模索できる時間も手だても存在しない。
固唾をのむ弘徳たちに小さく頷き、隼人はついと目を細めた。
師から譲り受けた大事な刀が駄目になる可能性は高い。しかし、背に腹は代えられなかった。
仲間たちを、弟を、脅威なく暮らすことのできる地へ連れて行く。それまで、たとえ手足を失ったとしても死ぬわけにはいかない。
深く息を吐き、目の前にそびえる炎山を見据える。
白い光が鞘走った。巨大な黒い獣のように立ちはだかる瓦礫の一点が鋭く一閃され、剣圧が一陣の風のごとく駆け抜けた。
返した刀が鞘に戻ると同時に炎の山が左右に割れる。狭間に一人分の道が穿たれた。
「やった……!」
弘徳たちから歓声が上がる。
「時間が無い、行こう」
新たな崩落の音が遠くから近付いている。
素早く宗念を抱き上げ、隼人は狭間の道へ踏み込んだ。足元に燃え残る木屑を脇に蹴りよけて裸足の弘徳と逢念が歩けるようわだちを作る。
「逢念、隼人殿のあとに」
「俺は最後で……」
促された逢念はしんがりを努める覚悟で首を横に振ったが、それを良しとする弘徳ではなかった。押し問答の暇を与えず、少年の背を強引に押しやる。逢念も我を張っている場合ではないと聞き分け、黒く焦げた轍の上を速足で歩き出した。
そのすぐ後ろに弘徳が続く。
怪我を負っているものの彼の歩みは着実で、肩越しにその様子を確かめた隼人は小さく息をついた。
何度も危うい目に遭ったが、目と鼻の先には縁側が開けていて、その向こうに夜の闇がある。無論、最後まで気は抜けない。しかし、ここさえ抜ければもう外も同然だ。
腕の中で小さく身じろいだ宗念の背を軽く叩いてやる。
「大丈夫だ、もうすぐ」
ちらりと宗念に注いだ視線を前方に戻す。
視界の中、宙を飛んでくるものがあった。
やけにゆっくりと見えたそれを、隼人の瞳ははっきり捉えた。
手のひら大のかめ。蓋が開かぬよう紐で括られている。
それを見た瞬間、ざわりと戦慄が走った。
宗念を抱いているため、刀を抜いて切り落とす事ができない。
咄嗟に伸ばした指は髪一筋の差で空をかく。
小甕は左右に割れた山の、右の頂に落ちた。かしゃんと軽い音を立てて割れ、なにか液体の飛び散る気配がした。
瓦礫の山肌がかっと炎を噴き上げ、内部から爆ぜた。
「っ――!!」
激しい爆風に身を叩かれる。
熱い風に煽られながら、隼人は反射的に腕の中の宗念を抱きすくめた。焼けた建材に背中が叩きつけられる。汗の蒸発する音とともに、引き攣れるような痛みが走った。
「っ……、」
即座に身を起こして後ろの二人を振り返った隼人の瞳が、そのまま凍り付く。
瓦礫の山が雪崩れ落ち、弘徳がいた場所を覆い尽くしていた。

 

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