この寺を巣立った子たちは、何人だろう。
身よりのない子供を引き受け始めて、かれこれ二十年は経つ。
一人で生きてゆけるだけの知識と経験を与え、各々の望む道へと送り出してきた。
自分も僧侶になりたいと、この寺を継ぎたいと希望する者も一人二人ではなかった。そんな子たちには、大きな寺できちんと修行を積むよう諭す。多くの人の声に耳を傾け、数多の感情に触れ、その心に寄り添える人間になってほしい。こんな山奥で隠者のような暮らしをするのは、その果てでも遅くはない。途中で他の道への興味が芽生えることだってあるだろう。
巣立った子たちの中には、数年おきに元気な姿を見せてくれる者もあれば、新天地でしっかり居場所を見つけ堅実にやっていると文を寄こす者もある。たとえ一切の便りが無くとも、弘徳は何らの心配もしていなかった。
この寺にはいつも穏やかな時間だけが流れている。
埋葬された仏はほとんどが無縁。ふもとの里人が折々で訪れる事はあれど、年の大半は起伏に乏しい生活だ。
子供たちと暮らすようになってから、そんな日々は花が咲いたように賑やかなものになった。
満ち足りた生活を手放し難く思いながら、しかし弘徳は差し迫る老いから眼を背けるわけにもいかなかった。
逢念を迎えたとき、この子が最後だと決めた。退き際を考えず無責任に手を差し伸べて、無理になったからと放り出すような真似はできない。
手負いの獣のように荒んだ目をしている子だった。やせこけているのに、差し出された握り飯も水も、まったく手を付けようとしなかった。
射殺さんばかりの眼光で睨まれても構わず、何日も隣に寄り添って過ごした。そうしているうちに少年の敵視は徐々に緩み、弘徳が目を離せばその隙に少しずつ飯に手を付けるようになった。そしてある時、糸が切れたようにぼろぼろと涙を落としながら自分の境遇を話してくれた。
その日から彼は、寺の子となった。
仲間に加わって三月。他の子たちとの間に軋轢が生じることもなく、むしろ逢念は年長者としての務めを果たすべく、賢明にここでの暮らしに慣れようとしている。
「ふう」
穏やかな昼下がり。縁側でのんびりと茶を喫していた弘徳は、向こうに広がるこじんまりとした畑を眺めて目を細めた。
たっぷりと陽光を浴びて輝く作物たちは、あと数日もすれば収穫の頃合いだ。小僧たちがわいわいはしゃぐ様が目に浮かぶ。
――作物が結実するように。
己に課した最後の役目。
あの子たちの成長を見届け、自身の力で生きていけるよう導く。

それが叶うのなら、何ひとつ、思い残すことはない。


大風のごとき激しい轟音が耳朶を叩く。
弘徳は瞼越しに網膜を射抜く眩いあかの中で目を覚ました。ほんの一時、意識が飛んでいたらしい。目の前にあった過去の光景が、泡のように弾けた。
途端、全身が激しい痛みに襲われた。
己の上に山とのしかかる瓦礫。急速に現実へと引き戻される。
体中が圧迫されている。熱さと痛みで感覚がめちゃくちゃになっている。指一本動かせない。悲鳴すら上げられなかった。
「弘徳!」
色を失った隼人が駆け戻ってくる。
弘徳は己の傍らに呆然と座り込んでいる逢念に気付いた。彼は間一髪、崩落に巻き込まれずに済んだらしい。咄嗟に全力で突き飛ばしたのが功を奏したようだ。
「こ…く、さま……」
かたかたと震えながら呟いた逢念は、駆けつけた隼人に押しのけられた。
膝をついた隼人が一心不乱に瓦礫をかき分ける。自分の手が傷つくのも厭わず、弘徳の上に被さる無数の炎塊を脇へ除けていく。
彼の姿を見て、逢念も我を取り戻したらしい。灼熱の中だというのに真っ青になって瓦礫を退かそうとした。
「弘徳さま! 弘徳さま!!」
しかし、程なく隼人の動きがぴたりと止まった。瓦礫を掴む手が落ち、じっと弘徳を見据えた。弘徳も、その双眸を静かに見返した。
「お、おい、手を止めるな! はやく――」
逢念が涙声で隼人に怒号する。彼らの後ろでは宗念が目を見開いて硬直している。
隼人は何かを言いかけ、しかし言葉にすることなく口を引き結ぶ。瞼がわずかに震えるその目元に、殺し切れぬ感情が滲んでいるのが、弘徳には分かった。
分かってしまった。
あの子――小太郎だけではない。
この青年もまた。
弘徳は声を出せぬ喉の代わりに、小さく、本当に微かに顎を引いた。それでも隼人は正確に意を汲んでくれた。
子供たちを頼む。
無言で立ち上がった隼人が、未だ瓦礫を退かそうと足掻いている逢念の腕を掴んで立ち上がらせ、踵を返した。
「何すんだ! 弘徳さまがっ……、弘徳さまを、置いていくな!!」
戻ろうとする逢念を無理矢理引きずり、宗念を片腕に抱え上げ、隼人の背中は炎に囲まれた道の彼方へと遠ざかっていく。
「っ……ぅ…」
焼けた喉から声は出ない。
逢念が血を吐くような嗚咽を上げ、弘徳の名を繰り返し叫んでいる。
宗念は隼人の肩越しに呆然と、こちらを凝視して。
「い…やだ……」
か細い声を絞り出した唇がわなわなと震え、
「いやだぁぁっ、弘徳さまぁぁぁ――――!!」
絶叫が遠ざかっていき、残響は炎の音にかき消される。
「だ、」
大丈夫。
このくらいは何ともない。大丈夫だよ。
そう伝えてやりたい。抱き寄せて、頭を撫でてやるのだ。
それが、自分の役目だったはずなのに。あの子たちが一人前になるまで、生きねばならなかったのに。
最期に聞くのがこんな声になるとは。
最期に見るのがあんな顔になるとは。
身体が呼吸をやめる。反して息苦しさは引いていく。
あらゆる痛みが消える。総身が軽くなる。
「――――い」
言葉、崩れ落ちる屋根の下に呑み込まれた。

 

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