空に厚い雲がかかっている。
先ほどまで降っていた雨が、やっとあがったところだ。
所々に小さな水溜りができた庭を、一人の小柄な男が横切る。
背に荷物を背負い、顔を隠すように布で覆っている。
家の戸口に立った男が名を名乗ると、出迎えた使用人は一度奥へ引っ込んだ。
しばらくして現れたお染と簡単な挨拶を交わすと、男も屋敷に上がった。

「よくおいでくださいました。雨の中大変でしたでしょう」
「いやいや」
男は背中に負っていた荷を床に置き、座布団に腰を下ろした。
場所は小さな作りの客間。
部屋にはお染と男しかいない。日が出ていないせいで、日当たりの悪い部屋は一層暗くなっていた。
「改めて名乗りますが、俺は玄次郎(げんじろう)という者です」
「ええ、噂は聞いております。腕のいい調合師だと。それでお呼びしたのです」
「ご家族で誰か病気なので?」
「まぁ、詳しいことは後ほど」
お染は手ぬぐいを取って玄次郎に渡す。
玄次郎は礼を言うと、雨に濡れた顔を拭くために顔を覆っていた布をはずした。
薄い色の布の下から現れた形相に、お染は思わず息をのんだ。
それに気付いたか、男はちらりと目を向ける。
「失礼しました…」
慌ててお染は詫びる。しかしこの男への嫌悪は、すでに芽生えた後だった。
「慣れてるのでね。気にしなくていいですぜ」
玄次郎は適当に顔を拭くと、再び布で顔を隠した。
そういえばと、お染は首を巡らせる。
小太郎の姿が見えないのだ。
「どうしやした?」
「子供の姿が見えなくて…雨が降っているから外には行くなと言っていたのに」
ああ、と玄次郎は低い声で笑う。
「それなら来る途中で見ましたぜ。大丈夫、ちゃんと屋根の下にいました。
 ご兄弟、仲がよろしいようで」
最後の言葉に、お染の目が見開かれる。
「なんだって?」
がらりと変わった彼女の口調に、玄次郎は呆気にとられる。
お染は彼に詰め寄った。
「小太郎をどこで見たんだい!?まさか、離れじゃないだろうね!!?」
お染の気迫に圧倒されながらも、玄次郎は頷く。
「離れに……おりましたぜ」
お染はばっと立ち上がった。襖を勢いよく開け放ち、急いだ様子で部屋を出ていく。
部屋にはぽかんと口を開けた玄次郎だけが残されていた。

周りの目など気にも留めずに廊下を走っていたお染は、離れに続く渡り廊下の手前で足を止めた。
そこから身を乗り出すようにして離れの様子を伺う。
丁度その時、離れの戸が開けられて中から人が出てきた。
お染は息を呑む。
楽しそうに出てきたのは小太郎だった。
その後から隼人も出てきて、何やら手渡しているではないか。
大事な我が子が、忌々しいあの男と一緒にいる―――。
お染は頭に血が上ったような感覚に襲われた。
滅多に通らない渡り廊を駆け抜け、彼女は隼人の前に立ちはだかった。
突然現れた義母に、隼人は硬直して言葉を失った。


義母の姿を目にした瞬間、しまったと思った。
小太郎と一緒にいるのを見られてしまった。
久しぶりに顔を見たあの日以来、ちょこちょこと遊びにくる小太郎。
お染の目を警戒しながらも、幼い弟が可愛くてついつい菓子を与えたりしていたのだが。
これは、まずい。
走ってくる影があったので顔をあげると、そこにはあの女がいたのだ。
お染は怒りに燃える瞳で自分を睨みすえている。
そんな彼女に、何も知らない小太郎は笑顔で駆け寄る。
「母上!見て、お兄ちゃんからお菓子をもらったんだよ!」
母上にもひとつあげる、と小太郎は手の中の菓子をお染の手に握らせた。
隼人は何も言えずに彼女の反応を伺っている。
お染は手の中の菓子を見やると、再びきつい眼差しを隼人に向けた。
「兄だって……?小太郎、こいつはお前の兄なんかじゃないよ!」
言うと、お染は手の中の菓子を地面に打ち捨てた。
ぐしゃ、と音がして、小太郎は愕然と目を瞠る。
「ははうえ……?」
急いで拾おうとする小太郎の腕を引き戻し、お染は隼人の頬を張った。
じとりと湿った空気のなかに、乾いた音が響く。
小太郎は驚きで声も出ない様子だ。
「この子に何を吹き込んだんだい」
低い声音で、お染が問いただす。小太郎が怯えているのにも気付いていないのだろう。
「……何も」
隼人は正直に答えたが、彼女が信じるはずもなかった。
「嘘をつくんじゃないよ!!あんた、奉公人だけじゃなく小太郎にまで……!!!」
隼人はちらと小太郎を見やる。 小太郎は心配げにこちらを見上げていた。
「この子に二度と近づくんじゃないよ!!小太郎、お前ももうここに来るんじゃないよ」
「え…、でも……」
言いよどむ小太郎に、お染はキッと視線を投げる。
「言うことが聞けないのかい?」
怒りに任せて手を上げようとするお染を、隼人は慌てて止める。
「やめろ! 小太郎を叱る理由はないだろう!」
隼人に腕を掴まれ、お染の顔にますます怒りの色が浮かんだ。
「もとはといえばあんたが……っ、ああ、憎い!あんたの顔なんか見たくないよ!!」
お染が力の限りに隼人を突き飛ばす。
「あ――……!」
体勢を崩した隼人は縁から庭先へ落ちてしまった。
雨があがったばかりの地面に落ち、着物が泥で汚れる。
「お兄ちゃん!!」
小太郎が叫んで隼人のもとへ行こうとする。
しかしお染はその腕を強く引っ張って引き戻した。
そのまま母屋への渡り廊を戻っていく。
引きずられるように連れて行かれる小太郎は、しきりに叫んだ。
「母上! どうして、どうしてこんなこと……」
叫びがだんだんと泣き声に変わっていく。
遠のいていく声を聞きながら、隼人は身を起こした。
「小太郎……」
ごめんと、胸の内で何度も謝る。
やはり一緒にいるべきではなかった。小太郎が望んでも、相手をするべきではなかったのだ。
いつかお染に見つかることを懸念しながらもあの子が来てくれるのが嬉しくて。
兄と呼んでもらえるのが嬉しくて。
でもそれは、自分の甘さだった。
ぽつり、ぽつりと。
止んだはずの雨が、再び空から落ちてきた。


戻ってきたおかみは、泣き顔の子供を連れていた。
「どうなすったんです!?」
目を剥く玄次郎の前に子供を伴って座ったお染は、顔を上げて真正面から彼を見据えた。
「単刀直入に言います」
「へ、へぇ…」
「毒をください」
男の目がまたも見開かれる。
「毒を…?あいにく、ネズミ退治用の弱いものは扱ってませんで…」
「うんと強いもので構いません。
 私は今すぐにでも、あのネズミ以上に邪魔な存在を消し去りたいのです」

「だから言っただろう」
汚れてしまった着物を変える隼人の傍らで、煉が深く息をつく。
隼人は聞き飽きたと言わんばかりに目を据わらせた。
いつものように二人の奉公人が離れを訪れたところ、隼人はいやに沈んだ面持ちで縁に腰掛けていた。
その着物がひどく汚れているので訳を問い、二人も事の経緯を知ったのだ。
「絶対あの女にばれるからあの子供と関わるのはよせと、俺は何度も言ったよな」
「わかってるって。俺もわかってたけどさ……」
まさか、お染が小太郎にまであんなに怒りをぶつけるとは思っていなかった。
今は自分のこれからよりも、小太郎のことが心配だ。
今まで見たこともなかった母の一面を見てしまったことで、精神的なショックも大きいだろうと思う。
それに加えて叱られたりなどしていなければいいのだが。
隼人の心中を察した秋雪が優しく微笑みかける。
「小太郎さまのご様子は後でこっそり伺っておきますよ」
「ああ、頼む」
着替えを終え、隼人はふうと息を吐いた。
脳裏に先ほどの義母の言葉が蘇る。
―――ああ憎い! お前の顔なんか見たくないよ!!―――
どうして、あそこまで自分を嫌悪するのだろう。
七年の間に幾度となく疑問に思ってきたが、未だに確たる答えは見つからない。
実子ではない、というのもあるのだろうが、それだけとも思えない。
暗く沈んだ心に、強さを増した雨の音が木霊した。

<終>

【前世編へ戻る】