岩魚を抱えて小太郎たちのもとに戻った秋雪は目を剥いた。
一人の男が小太郎を背後に隠した琴吹と対峙している。
男の手には刀が握られていた。
岩魚を放り出して駆け寄る。
「な、何ですかあなたは!」
「ああ?」
「秋雪さん、いいところに来てくれた。小太郎くん連れて逃げてちょうだい」
秋雪はすぐさま小太郎を抱え上げ、琴吹を振り向いた。
「はやく! あなたを残していくわけにはいきません!」
「ああ、心配しないで。自分の身は自分で守れるって言ったでしょ」
「で、でも」
「早くしな。自分の身は守れても、あんたらまで守れる保証はない」
琴吹の鋭い声に秋雪はぐっと詰まったが、言われた通りすぐさま駈け出した。
「わんちゃん、あんたも。秋雪さんは弱そうだから付いてってあげな」
蒼空は少しだけ逡巡した後に彼らの後を追う。
「おう。良く考えりゃ、人相書きに書いてあったのはあの兄ちゃんか。
ま、お前をぶっ殺してから追うとするかぁ」
刀の鐔で肩を叩き、男は下卑た笑いを浮かべて琴吹を眺めた。
「お前を持ち帰るってのも悪くねぇ話だな。なかなかの上玉だ」
「寝言は寝てから言いなド三一」
男の顔にみるみる血が昇って赤くなった。
「このアマ、痛い目見ねぇと分からねぇようだな」
琴吹の赤い唇が吊り上がった。
男が唸り声をあげ、刃を上段から振り下ろして斬りかかる。
琴吹は頭の上に右腕をかざした。
がきんと澄んだ音が響く。
刀身が袖を切り裂き、止まった。
「ああ?」
予期せぬ抵抗の正体がわからず、男は眉をしかめた。
その隙を逃さず、琴吹が渾身の力で押し返す。男は後方へ飛び退った。
「ちっ、何しやがった女ぁ!」
琴吹はうっそりと笑って袖の中のものを露わにした。
大振りの扇が二つ。その要の部分から深紅の紐長いが伸び、二つの扇を繋いでいる。
「ただの扇さ。びびってんのかい」
「そいつぁ鉄扇だろうが、女のくせに物騒なもん持ち歩きやがって」
「女のくせにってのは聞き捨てならないよ。ド三一のくせに威張るんじゃない」
「三一かどうか試してみな!」
「あんたなんかとお喋りしてる気分じゃないの。さっさと済ませるよ」
二人は同時に地を蹴った。
男の刀が振り下ろされる。琴吹は左手の扇でそれを受け止め、右手の扇をばっと開いた。
そして男の腕目がけて一閃させる。扇の先端は鋭く尖っており、軌道に沿って深く傷跡が刻まれた。
「ちっ……」
身を引こうとする男に迫り、容赦なく両の扇を繰り出す。
扇と刀の絶え間ない打ち合いが繰り返され、周囲の空気を振動させた。
男の身体には無数に傷が刻まれていくが、琴吹は最初に袖が裂けた以外の変化はない。
「ちくしょう! くたばりやがれ――!」
重い斬り落としを交差させた扇で受け止めた瞬間、刀身が半ばあたりから折れ飛んだ。
唖然とする男の横面に、閉じた右の扇を全力で叩きこむ。
男の身体が跳ね跳んではるか向こうの木の幹にぶつかった。
頬を押さえて起き上がり、男は悲鳴をあげる。
「う、うわああああああああああ!」
「うるさい男。そこ動くんじゃないよ」
開いた片方の扇を投じると、男の顔面すれすれに飛んで幹に突き刺さる。
男の顔からざっと血の気が引いて、彼は一層悲鳴を大きくするとがむしゃらに駈け出した。
「あ、ちょっと! 逃げる気!?」
即座に紐を引いて投じた扇を回収し、再び男の背中めがけて放つ。
が、ぎりぎりのところで外れてしまった。
「ふざけんじゃないよ偉そうなこと言っといて! 戻ってこ――――い!!」
怒鳴りつける琴吹の声には耳も貸さず、男は韋駄天のごとき速度で木々の狭間に消えた。
川原を駆け戻っていた隼人は、ふいに足を止めた。
がさがさと草を踏む音がする。
気配を消すことも忘れたように、その音はこちらへ近付いていた。
黙って待っていると、目の前の木立から傷だらけの男がひどい形相で飛び出してきた。
男は呆然と隼人の顔を見たが、その正体に気付いて絶叫する。
「うわああああああああああああああ!!!」
「うるさい男だな…」
隼人は問答無用でその襟首を掴んで引き寄せた。
男が駆けてきたのは小太郎たちがいる方向からだ。身体中の傷からも、誰かと一戦交えてきたのだとわかる。
丸腰で怯えきっている男を冷めた目で見つめ、隼人はその身に刀身を突き入れた。
「ぐっ……」
男はしばらく痙攣していたが、やがて隼人の肩にもたれるようにくずおれた。
亡骸を木立の中に寝かせ、隼人は眉をひそめる。
彼の身体に刻まれた無数の裂傷。
秋雪は戦いに長けていないし、煉もこんな傷ができるような戦い方はしない。嵩重と玄次郎は刃物すら使わない。
「……琴吹か?」
それしか思い当らなかった。
男の横に膝をついてしばらく手を合わせ、彼は小太郎たちのもとへ再び走った。
もといた場所に戻ると、そこには琴吹だけが岩に腰かけていた。
「あ、兄さん」
隼人に気付いた琴吹が立ち上がる。
「こっちにも賊が来たんだな」
「一人ね。ごめん、取り逃しちまったよ」
いや、と頭を振る。
「戻る途中ではち合ったからな。仕留めておいた」
「まあ」
袖を口元に当てて、琴吹は隼人を見つめる。
「手間をかけさせちゃったね。次から気をつけるから」
「いや、良いんだ。それより小太郎たちは」
「秋雪さんと一緒に隠れてるはず。頃合いを見て出てくると思うけど」
「そうか」
隼人は安堵の息をついた。そして気になることを問う。
「やっぱりさっきの男は、あんたが相手してたんだな。どういう戦い方してたんだ?」
興味津津の隼人に琴吹は微笑みながら二つの扇を差し出した。
「これ、鉄扇か。へぇー」
繊細な模様が彫り込まれ、手にするとずしりと重い。
広げたり引っくり返したりしながらひととおり観察し、それを返す。
「あんたがいなかったら小太郎たちがどうなってたか分からない。助かった」
「お礼なんかいらないって、もう仲間なんだから。大方の敵は兄さんが相手してたんでしょう。お疲れ様」
そうしているうちに、遠くから秋雪と小太郎、蒼空が駆け戻ってくる。
「お兄ちゃん!」
腰元にしがみついてくる弟を抱きとめ、隼人は目線を合わせるように膝を折った。
「小太郎、大丈夫だったか? 怖かっただろ」
「うん……。でも、琴吹さんと秋雪がまもってくれたんだ」
弟の身体に怪我の無いことを確認し、隼人は立ち上がった。
「二人とも無事で何よりです。隼人、やはりそちらにも不逞の輩が……?」
「ああ」
「お兄ちゃん。あのこわい人、もう来ない?」
不安げな瞳で見上げてくる小太郎に頷きながら頭を撫でる。
「追い払ったから、もう来ないぞ。心配するな」
告げると、小太郎はいささか安心した面持ちでぎゅっと兄の手を握った。
その夜。
一行は川原から少し移動した森の中に寝床を構えた。
あの後、煉たちは何事もなかった様子で薪や食料を抱えて戻ってきた。
どうやら彼らは追手と遭遇せずに済んだらしい。残っていた者たちは一様に安堵した。
今は秋雪が放り出していた大岩魚を焼いて、皆で囲んでいる。
蒼空は隼人に寄り添って焚き火を眺めていたが、やがてうとうとと寝入ってしまった。
遊び相手がいなくなった小太郎も同様に、満腹になると狼の腹を枕にして眠り始めた。
隼人は彼らが健やかな寝息を立てるのを穏やかな目で見下ろし、冷えないように掛布をかけてやる。
「……俺たち」
しばらくして、煉が呟いた。
「さっき川原で死体を見た。お前たちの言ってた賊だろう。
あれは……隼人がやったんだよな」
煉の確認のような問いに頷いて返す。
「……ああするしかないだろう」
「……そうだな」
生きて返せばそれが命取りになりかねない。情けは自分の身を滅ぼす。
それを痛感した表情で、一行は黙然と炎を見つめた。
「お前、無理してないか」
「……は?」
再びの煉の呟きに、隼人は思い切り胡乱な返事をしてしまう。
「なんでそうなる」
「だってお前、別に殺しが好きとか、そういうのじゃないだろ。精神的にきつくないか」
隼人は目を瞬いた。が、やがて息をつく。
「煉も秋雪も心配性が過ぎる。
俺のことを気にする前に、自分の身くらい守れるように鍛錬でもした方が良いんじゃないか」
膝の上に立てた肘へ顎を乗せ、据わった目をして言われては二人も返す言葉が無い。
「きっと、これから先もこういうことはある」
隼人の静かな言葉に、皆は無言で頷いた。
深くなる森の夜に、ふくろうの鳴き声が物悲しく木霊した。
<終>