一晩降り続いた雨は、翌日の明け方にようやくあがった。
雲の切れ間から差し込む朝日を眺めて一行はひとまず息をついた。
だが、川を渡れるようになるのにここからさらに数日を要するのだ。
沈鬱な表情を浮かべる煉を見やり、隼人は努めて明るく言った。
「心配し過ぎだ。万一追手に見つかっても、俺がまとめて返り討ちにするって」
煉は返す言葉も無く隼人を見返す。隼人にこんなことを言わせておいて、溜息しかつけない自分はなんと無力なのだろうか。
心配が過ぎるということなど無いと、隼人自身がよくわかっているはずなのに。
「ああ……頼りにしてるぜ」
「おう、任せとけ」
そろそろ小太郎を起こしてこようと隼人は自室に戻っていく。
彼の背を見送って、煉は目に決意を込めた。
「よし、決めたぜ」
秋雪たちが何事かと目を瞬かせる。煉は宣言するように言った。
「俺も自分なりの戦い方を編み出してみせる」
「今から隼人さんに剣を習うのですか」
嵩重が驚いた様子で問うと、煉は首を振った。
「いや、俺は昔から剣術は不得手でな。それ以外でも何かできることがあるはずだ」
そう言うと、口元に手を当てて考えに没頭し始める。
煉の言葉を受けて、秋雪もまた視線を落とした。
陽光が量を増し、足元の廊下まで差し込みつつある。
「できる……こと」
自分には、いったい何ができるだろう。

寺に滞在して三日目になる日、小太郎は小僧たちと一緒に手習いに励んだ。
隼人は玄次郎や嵩重、秋雪と一緒に境内の掃除をしている。せめてもの礼にやらせてくれと弘徳へ頼んだのだった。
客人にそんなことをと弘徳は遠慮したが、体がなまる方が困るのだと強引に良い含められてしまった。おかげで手のあいた小僧たちはいつもより沢山練習することができている。
小太郎は弘徳が手本として書いてくれた自分の名前を横に置いて、懸命に真似をしていた。
「小太郎は字がきれいだね」
「そ、そうかな? みなくても書けるようになるんだ」
隣に座った小僧の慈念(じねん)がにこにこと褒める。小太郎は嬉しそうに頬を紅潮させた。
慈念は十一歳で、小僧たちの中では年長の方だ。面倒見がよく辛抱強い。
慈念と反対側の隣で字の練習をしているのは十の道念(どうねん)と九つになる久念(きゅうねん)。この二人は兄弟なのだという。
さらに一段と身体が小さく、端っこで弘徳に一緒に筆を持って教わっているのは最年少の宗念(そうねん)で、小太郎と同い年の七つだ。
そこへ、果物の入った籠を携えた少年が(ふすま)を開けて入ってくる。
十二歳の逢念(ほうねん)は小僧の中でも一番年上だが、実は三月ほど前に寺に入ったばかりらしい。
「休憩の時間だぞー」
逢念の言葉に小僧たちはぱっと顔を輝かせ、手習いに区切りをつけて筆を置く。
彼の持つ籠にはよく熟れた柿が山積みになっている。
「ひとり一個な。ああ久念、手が墨で真っ黒じゃないか。先に洗ってきて」
新参ながら、逢念は年下たちをよくまとめていた。
慈念が小太郎の肩を叩く。
「小太郎も食べて」
「いいのっ?」
「遠慮しなくていいよ。沢山あるし、僕たちだけじゃ食べきれないから」
喜色満面で籠から一つとり、両手に持って眺める。橙色の柿はつややかで仄かに甘い香りがした。
周りを見ると小僧たちはさっそく柿にかぶりついている。小太郎も真似をして歯を立てた。
程良い歯ごたえの皮を突き破ると口の中に果肉が広がり、甘い汁で満たされる。
いつもは女中がきれいに剥いて、決して着物が汚れぬようにと楊枝(ようじ)に刺して食べていたから、こういうのは新鮮だった。
「おいしい」
「そうだろ、後でお兄さんたちにも持ってくと良いよ」
「うん!」
「食べたら、一緒に鐘を突きにいこうね」
「ほんとに?やった!」
よほど楽しみにしていたのだろう、小太郎の目がきらきらと輝いた。
柿を食べ終え、手習いを中断した小僧たちはぱたぱたと鐘楼を目指して駆ける。
「小太郎、ほら、これを持って」
鐘付きの丸太に括られた縄を示す逢念に従い、小太郎は縄を両手でしっかり握った。
その上から逢念も手を添えてやり、掛け声をかけて鐘を叩く。
腹の中に響くような振動と重音に、小太郎は驚きながらも興奮した笑みを浮かべた。
お昼を告げる鐘だ。自分が鳴らした音を聞いた人が農作業の手を休めたり、昼餉を食べ始めたりしているのだと思うと、なんだか特別な気分になってくる。
さらに何度か鳴らして、昼の鐘突きは終了した。
「ありがとう」
「夕方にもまた突かせてあげるよ」
「次はおいらと一緒にやろう」
同い年の宗念が親しげに誘ってきて、小太郎は嬉しくなって頷き返した。
「小太郎」
呼び声に振り返ると(たすき)掛けの格好をした隼人がいた。
「お兄ちゃん、ほら、鐘を突かせてもらったよ!さっきの、ぼくが鳴らしたの!」
「そうなのか、良かったなぁ。ちゃんとお礼は言ったか?」
隼人は小僧たちに微笑んだ。
「弟の相手をしてもらって済まないな」
小僧たちは慌てて背筋を正す。
「いいえっ、こちらこそ、お客人に掃除をして頂くなんて」
「気にしなくていい。世話になりっぱなしじゃ申し訳ないからな。もう少し、小太郎を頼む」
掃除に戻っていく隼人の後ろ姿を、小僧たちは羨望の眼差しで見送った。
「いいなぁ、小太郎にはあんなお兄ちゃんがいて」
宗念が漏らした呟きに小太郎は目を瞬かせた。
「おいらたち、誰も家族がいないもの」
「そんなことを言ったって仕方無いよ、宗念」
慈念がたしなめる横で逢念も頷いている。
よく理解できていない小太郎に向き直り、逢念が口を開いた。
「俺たちは皆、親兄弟が死んじまって独りぼっちになったか……捨てられたか。
そういう状況で途方に暮れていたところを、運よく弘徳様に拾って頂いたんだ」
ここへ来てまだ日の浅い逢念は苦々しい表情で語る。彼にとってはつい最近の事だ。
小太郎はあまりの衝撃に声も出なかった。
「弘徳様に会えなかったら、僕たち今頃、どうなっていただろうね」
「さあ。飢え死んでいたか、どっかに売り飛ばされてたかも」
道念と久念の兄弟も拾われた当時を思い出してか、身ぶるいしそうになりながら顔を見合わせている。
「小太郎。こんなこと、言いたくはないが……身内だからって、あんまり信用し過ぎない方が良いぞ」
逢念の静かな言葉に小太郎は息をつめた。慈念が慌てて割り込む。
「逢念……!言い過ぎだよ。小太郎、何も隼人さんたちが小太郎を捨てるとか、そういう事じゃないからね」
「う、うん」
首肯しつつも、さっきまでの嬉しそうな笑顔が水を撒かれた火のように消えてしまったのを見て、逢念も反省したらしい。
「す、すまない小太郎。……俺も、羨ましかったんだ」
小太郎が顔を上げると、すでに逢念は踵を返して寺の中へ戻っていくところだった。

隼人が床に膝をついて雑巾をかけていると、後方に足音が生じた。
「あたしも手伝うよ」
詰まったような苦しげな声に驚いて隼人が振り向くと、琴吹が柱にもたれて立っていた。
「お前、寝てないと駄目だろう」
「だって……皆が働いてんのに、あたしは寝てるだけなんて」
「そんなの気にしなくて良いって」
「嫌だ。そうやって弱い奴に優しくして、そういうのは嫌いなんだってば」
隼人は半眼になって、すくりと立ち上がった。
「優しくとかそういうのじゃ無い。単に、本調子に戻ってもらわねぇと足手まといなんだよ」
いつになく厳しい声音に琴吹が僅かに瞠目する。
「今のお前の仕事は、ここにいる間にその風邪を治すことだ。文句は後でゆっくり聞く」
腰に手を当て、有無を言わさぬ語調。琴吹はしばらくむっとしていたが、やがて苦笑を浮かべた。
「はあ、あたしってば、どうしてこう嫌な女なんだろうね。
喧嘩しに来たんじゃなく、この前のことを謝りに来たのにさぁ」
嘆息し、琴吹はぺこりと頭を下げた。
「ごめん。むきになって酷い事を言っちまったね」
「あの程度、別に気にしてない」
「兄さんには兄さんの苦労があるんだって、分かってるんだけど」
「本当に大丈夫か? 似合わないぞ、そんなしおらしいの」
「あ、謝ってるのにひどいじゃないか」
琴吹が赤くなって頬を膨らませるが、ややあって二人とも声を立てて笑った。
ひとしきり笑って、隼人はついと視線を下げる。
「……すまないが、秋雪から聞いた。お前の過去の事」
「そう。構わないよ。あたしも兄さんたちの事を教えてもらうって、約束してるから」
「男が嫌いなんだろ? 俺たちと一緒にいて辛くないのか」
琴吹はやや唖然とした表情で首を振る。
「逆だよ。あたしは女が嫌いなの。男になりたい」
「は? なんだそれ」
怪訝(けげん)に片眉を上げる隼人にくすくすと笑う。
「女なんてもううんざりだよ。舐められたり、か弱い振りして同情を誘ったり。
次は絶対男に生まれてやるって決めてるんだ」
隼人には「はぁ」と相槌を打つより他にない。
琴吹の過去と性格を考えるに、そう思うのも無理はないのかもしれない。
「じゃ、あたしはお言葉に甘えて大人しく寝てる事にするよ。
出立までには治るようにする」
琴吹は踵を返して廊下を戻っていく。その足はやはりふらついて、掃除を手伝うどころではなさそうだ。
やれやれと屈みこみ、雑巾がけを再開する。
掃除は嫌いではない。よく剣の師匠と一緒に道場を掃除していたし、これも良い体力作りになると教わっていた。
ふと、手が止まる。
「先生……どうしてるだろう」
父のように慕っていた人だ。できれば平穏な生活を送っていてほしい。
きっともう、二度と会えないだろうけれど。
晴れ渡った青空を見上げて、隼人は思いを馳せた。

くしゃ、と紅く色付いた落ち葉が踏まれる。
木々の狭間から寺を見上げる者たちがいた。
「どうだ」
「わからぬ。このような所にいるだろうか」
「むこうの川は先の大雨で氾濫している。こちらの方角へ来たのなら、必ずこの近辺に潜んでいるはずだ」
低い声で交わされる会話。
「どれ、住職に話を聞いてこよう」
ざっと十名はいる集団の中から、二人が寺に向かって歩き出した。

午後の時間は弘徳が仏の世界について、かいつまんで小僧たちに教えを説いていた。
「どれ、今日はお客人もいることだし、珍しいものを見せてあげよう」
そう言って倉庫から持ち出して来たのは、一つの長い巻物だった。
広げるとそこにはおどろおどろしい絵が描かれており、小僧たちも小太郎も息を呑んだ。
「これは地獄絵図というものだ」
「地獄……」
巻物には鮮やかな色彩で煉獄の炎や血潮を流す人々が描かれていた。
想像するのもおぞましい仕打ちを受けて苦悶の表情をした人たちと、愉しげにそれを行う鬼たち。
小僧らはしばし言葉も無く絵に見入っていた。
「この世で罪を犯した者が落とされる場所だよ」
弘徳の言葉に小太郎の瞼がかすかに震える。
「盗みを働いたり、人を殺したり、騙したり……極楽に行けぬ者はここに描かれるような地獄へ連れて行かれ、永遠にも等しい苦しみを味わうのだ」
「地獄へ行かない方法はあるの?」
宗念が怯えた顔で問うのに、弘徳は朗らかに笑った。
「なぁに、悪いことをしなければ良い。ただそれだけのことだよ」
二刻ほどを使って絵図の説明を受け、何がどの罪に関係しているのかを学んだ後、小僧たちはみんなで巻物をしまいに部屋を出て行った。珍しい巻物をぞんざいに扱うわけにはいかぬし、あのような内容では、少人数で行くのは流石に気が引けたのだろう。
「おや、小太郎や。残っていたのかね」
小僧たちについて行かず、何やら強張った表情をしている小太郎に気付いて弘徳が首を傾けた。
「お、おしょうさま……」
弘徳を見上げる小太郎は、やや蒼白な顔色をしている。
弘徳は心配に思って彼の横に座り、背をさすってやった。
「どうしたのだ、そんな顔をして。絵図が怖かったかの」
小太郎は自分の腕をぎゅっと抱く。そうしなければ身体が震えてしまいそうだったのだ。
絵図で見た地獄は、とても怖いところだった。
罪を犯した者は、地獄に連れて行かれてしまう。
「おしょうさま。もしも……もしも、わるいことをしてしまったら。
じごくに行かなくて済む方法はないの……?」
弘徳がわずかに目を瞠る。
「……なにか、悪いことをしてしまったのかい?」
はっと目を見開き、小太郎はふるふると首を振った。
「してない。してないよ…………けど……」
それきり黙りこんでしまう。
しばらく室内に沈黙が流れた。
やがて、おもむろに弘徳が立ち上がり、文机に向かった。
縦長に切りそろえた紙に何かを書きつけ、小太郎に手渡す。
受け取って見てみると、読めない文字だった。
屋敷の柱に貼ってあったものに似ている気がする。
「お札……?」
「左様」
弘徳は懐からお守り用の小さな袋を取り出し、札を折りたたんで中に入れた。
道具箱から針と糸を取り出して袋の口を固く縫いつけ、首からかけられるように長い紐を括りつける。
「これをあげよう。不安になったら、お祈りしなさい」
「だれに祈ればいいの?」
「そうだのう。やはり閻魔様ではないかな。
悪いことをしてごめんなさいと、心から祈ればきっと届くじゃろうて」
小太郎はお守りをきゅっと胸元に握りしめる。その頬には幾分赤みが戻ってきていた。
「ありがとう、おしょうさま」
にっこりと微笑んでお辞儀をし、小太郎も部屋を出て行った。
一人になった部屋の中、弘徳は思慮深い面持ちになる。
あんな小さな子供が、いったい何故にあれほど地獄を恐れているのだろう。
先ほどの様子は尋常ではなかった。
しかし、七つばかりの子がそれほどの罪を犯すとはとても思えない。
「とすると、自分…ではなく……」
胸の内がわずかにざわついた。
と、再び障子戸が開いて、道念と久念の兄弟が顔を見せた。
「弘徳様、門のところにお客人が……」

その日の夜、一行が集まる部屋に、何やら真剣な面持ちの弘徳が訪れた。
小太郎が小僧たちと一緒に風呂へ入っている時のことだった。
火鉢を挟んで端座した弘徳は背筋を伸ばして口を開いた。
「お訊きしたいことがあります。あなた方は……本当に旅芸人なのだろうか」
場の空気が一瞬にして張り詰めた。皆の視線が弘徳に集中し、剣呑さを帯びた。
漸う隼人が口を開く。
「なぜそう思う?」
弘徳は無言で(たもと)から折り畳んだ紙片を取り出して広げた。想像していた通り、隼人たちもよく見知ったものであった。
人相書き。そこに書かれた特徴は、言い繕っても誤魔化せるものではない。
「最初から知っていたのか」
煉が低く問う。
「いいえ。知ったのはつい今し方」
「どういうことだ」
「これを持った役人が訪ねて参ったのです」
誰もが息をのんだ。
「……それで?」
早鐘を打つ鼓動を極力静めて、隼人が続きを促した。
「このような方々は知らぬ。誰も寺には立ち寄っていない、と答えました」
「感謝する」
礼を言うが、嘘かもしれない。そのように考えたくはないが、油断させて役人に突きだすつもりかもしれない。なにしろ、彼らを差し出せば数年は楽に暮らせるだけの金が手に入る。
「ここをすぐに発ちなされ」
弘徳が迷いなく言い放ち、彼らは瞠目した。
「俺たちを逃がすってのか」
煉の言葉に住職は頷く。
「遠からず役人らはもう一度ここへ来ましょう。そうしたら、もはや言い逃れはできぬかもしれません」
川が氾濫している今、(ふもと)に下りない限りはこの寺に身をひそめると考えるのが道理。先程は門前での聞き込みに終わったが、次は境内をあらためられてもおかしくない。
「……本来であれば、裁きを受けて自らの罪に報いよ、というのが儂の仕事かもしれませぬ」
弘徳の声は落ち着いている。殺人鬼たちを前にしているとはとても思えなかった。
「儂とて迷いが無い訳ではない。この選択が正しいとも思ってはおりませぬ。ですが……」
何かを言葉にしようとして、しかし頭を振る。
「何も言いますまい。そちらの事情も聞かぬことにいたします。
貴殿らはここに立ち寄りはしなかった。儂らも、誰にも会わなかった」
「ああ……」
それでいい。この数日を無かったことに。
「じゃあ、琴吹にも知らせねぇとな……」
どこか沈痛な面持ちをして隼人が立ち上がり、部屋を出て行く。続いて弘徳も軽く会釈をして立ち去った。
「信用していいんだろうか」
煉の言葉に残った面々が顔を上げる。
「本当に俺たちのことを黙っているつもりだと思うか」
「煉……」
「秋雪、お前はどう思う。この場で寺の連中を始末しておいた方が安全かもしれねぇぞ」
秋雪はぐっと息を詰めた。
それは弘徳を殺し、もちろん小僧たちも生かしてはおけないという意味。
「や……やめておきましょう。それでは役人たちに、我々がここにいることを証明するようなものです」
秋雪はやや青ざめて言った。
隼人が、小太郎と同じくらいの子供たちを容赦なく手にかけて平気でいられるとは思えなかった。
「それも…そうだな……一刻も早く逃げるしかねぇか」
煉も大人しく頷いて返した。

「隼人どの」
廊下で弘徳に呼び止められて隼人は振り返った。
「あなた方に一体何があったのか、お聞きする時間は無いでしょうな……」
しばらく黙し、隼人はひとつ嘆息すると肩をすくめて口を開いた。
「原因はほとんど俺にある。罪状は手配書に書いてある通りだ」
弘徳は手配書の内容を思い返す。
親や奉公人を皆殺し、屋敷に火を放って行方(ゆくえ)(くら)ました――その張本人が目の前の青年だとはにわかに信じがたい。
弟思いの良い兄だとばかり思っていた。
「なぜそんなことを……。小太郎は知っているのですか」
「知らない……はずだ」
「本当にそう言いきれますか」
隼人は弘徳を見据えた。
「何が言いたい」
弘徳はつい先ほどの小太郎の振る舞いを語った。
絵図を見てからの妙に不安げな様子。地獄に落ちない方法はないのかという問い。
そしてお守りをもらった時の安心した表情。
弘徳の話を聞くにつれ隼人の目は愕然と見開かれ、血の気が引いていった。
語り終えた後も、しばらくは何の言葉も発せないでいた。
「小太郎の様子は不思議でしたが、貴殿らの正体を知った時、そういうことかと思ったのです」
自分が地獄に落ちるのを恐れていたのではなく。
「俺……の……」
「そうとしか思えませぬ」
青ざめて額を押さえる隼人を哀れむように見つめ、弘徳は静かに言う。
「すぐにとは申しませぬ。しかし一度、きちんと話をした方が良いと思いますぞ」
唐突に知らされた事実に、隼人は狼狽(ろうばい)を禁じえなかった。
知っていたのだ。隼人が何をしたのかを。どうしてこんな旅をしているのかを。
それなのに――。
思考が停滞しそうになっている彼を支えるように、弘徳はその肩に手を乗せた。
「今は逃げることを考えるのです。儂が小太郎を連れて参りましょう。
そろそろ風呂も済ませた頃合いです」
隼人は今の状況を思い出したようにはっと目を瞠り、頷いて琴吹の部屋へ向かった。

手早く荷をまとめた一行は、寺の裏口からひそかに山中へ抜け出した。
敵の気配は無い。灯りは持たず、わずかな月明を頼りに西を目指して駆ける。
「和尚さん、上手くやってくれてるみたいだね」
走りながら琴吹が呟いた。ずっと休養していたおかげで体調は何とか戻ったようだ。
小太郎を背に負い、隼人は寺に残した弘徳を思い返す。
弟が胸の内に抱えているものを教えてくれた。今になって、もっと話をしておけばよかったと思ってしまう。
その小太郎は兄の背にしがみついて、じっと息をひそめている。詳しい説明はされていないが、ただ事ではない雰囲気を感じ取っているようだ。
しばらく走り続けた先で例の川に差しかかった。
流れはほとんど衰えを見せず、こんな状況でなければ渡ろうなどとは気が触れても思わないだろう。
「もっと上流へ行ってみよう。川幅の狭い場所があるかもしれねぇ」
煉が言い、彼らは流れを遡って川岸を走り続けた。
四半刻ほど進んだ先で、(いわ)の出っ張りによってやや幅の狭くなった箇所を見つけた。だが、とても飛び越せる距離ではない。
「仕方ねぇ。ちぃと危険だが、鋼愧(こうぎ)、この前と同じようするしかねぇな」
玄次郎が問うと鋼愧は即座に頷き、周囲を見回した。
十分な長さと太さを備えた木を探し出すのに時間がかかったが、ようやく見つけたそれを根元から引き抜き、向こう岸へ渡す。人ひとりはなんとか渡れる幅の橋ができた。
煉が先導して渡り、一人、また一人と轟音を立てる水流を眼下に川を越えていく。
「お、お兄ちゃん」
残るは隼人と嵩重(たかしげ)のみとなったところで、小太郎が隼人に呼びかけた。
「どうした小太郎」
「あ、あれ……」
省みた小太郎は目を見開き、ひどく狼狽している様子だった。
訝しんで弟が指さす方向に目をやり、隼人の顔から色が失われる。
寺の方角。木々の狭間にわずかに覗く空。
それはすでに濃紺に覆われているはずだが――見上げた先は、昼間のように明るかった。
「っ……!!」
背中をぞわりと何かが這い上がるのを自覚する。
「隼人さん、先に……隼人さん?」
嵩重が促しかけ、隼人の様子に気付いてその視線を追う。そして彼も、対岸の仲間たちもほぼ同時に息をのんだ。
「寺の……方角だよな」
「え、ええ……」
明るく朱に染まった空。立ち昇る煙。騒ぎ立てる鳥の声。
先ほどまでいた場所は炎に包まれていた。
隼人はぎりりと歯を食いしばる。
どうする。行くか、戻るか。
答えなど考えずとも決まっている。何のために危険を冒してこの激流を渡ろうとしているのだ。
「おにい……ちゃん……」
耳元に小太郎の小さな呼びかけを捉え、隼人は弟を振り返る。
小太郎は何度か口を開閉した後、小さな声で呟いた。
「和尚さまは……、みんな…は……」
今にも泣きそうな顔をして。それでも「助けてくれ」と言えない。
隼人の胸にすっと静けさが降り立った。焦燥や迷いが、たちどころに消え去る。
「嵩重」
「は、はい」
「小太郎を頼む」
「えっ」
嵩重の返答を待たずにその腕へ弟を預け、彼は踵を返した。
「隼人!」
煉たちの呼び止める声が背中に降りかかるが、彼は止まらなかった。
ただ、一度振り向きざまに叫ぶ。
「絶対についてくるな!半刻で戻らなかったら先に行け!」
隼人の姿はそのまま、炎の明るさによって影を一層濃くする森の中へ駆け去った。

<終>

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