人通りがすっかりまばらになった通りを、隼人は脇目も振らず全力で疾走した。
背後では二人分の足音が近づいたり遠のいたりを繰り返している。
「まちやがれ!」
怒号に背中を叩かれるが、待つわけがない。
右も左もわからぬ町の中を、当てずっぽうで逃げ惑う。袋小路に行き当たらないのは不幸中の幸いだ。
このまま仲間のもとへ戻ることはできない。どうにか役人を()かなくては。
「おい、他の連中に知らせてこい! 町の出入り口を封鎖するんだ!」
「わかった!」
役人の一人が駆け足で離れていく。気配でそれを察しながら、隼人は焦燥に駆られた。
「この町は俺たちの庭も同然だ! 逃げ場はないと思え!!」
追ってくる一人が勝ち誇ったように叫んでいる。
家々の間の細い路を失踪していた隼人は、立てかけられていた木材に足を取られた。
「わっ――!」
転びこそしなかったが体制を崩した拍子に、手元の包みから球状に梱包された小さい何かが転がり落ちた。
何が入っているのかは忘れたが、秋雪に頼まれた調合材料の一つだ。
足音が迫る。
「覚悟しろ!」
抜き身を引っさげた役人が大股で近づいてくる。
「っ……!」
隼人は拾い上げたそれを振り向きざまに投げつけていた。
「悪あがきなど見っともないぞ小僧!」
役人の迷いのない一太刀が小さな飛来物を両断する。
ひやりとした汗を背中に感じた隼人の視線の先で、それは左右に割れた。
刹那、中から粉が飛散し、役人の頭から降りかかった。
役人が呆気にとられた隙をついて、隼人は再び駆け出す。
「待て! こんな粉ごときで俺がどうにかなると、……んぅっ!?」
すぐさま生じたはずの足音が消えたので、隼人は思わず肩越しに(かえり)みる。
役人は膝をついて、なにやら苦しげなうめきを発していた。
あの屈強な役人が完全に動けなくなっている。自分はいったい何を投げてしまったのか。
(……考えるのは後にしよう)
前に視線を戻した隼人は、あとは振り返ることなくひたすら走り続けた。
角を曲がると、再び広い路に出た。辺りは暗く、遠くに店の提灯(ちょうちん)が見えるだけである。
咄嗟(とっさ)に左右に視線を走らせて警戒するが、まだ追手は到着していない様子だ。
どちらへ行けばいいのか、まるでわからなかった。
ここが町の中心なのか外れなのかも見当がつかない。
店が少なく住居で埋められている分、どこを向いても同じに見える。
逡巡していると、視界の隅で一つ二つだったはずの灯りが一気に増えた。隼人はぎょっとして顔をあげる。
あれは、役人の持つ提灯だ。
まだ遠いが、だんだんと大きくなっている。このままでは見つかってしまう。
呼吸を落ち着ける間もなく、隼人は慌てて身を翻して駆け出した。
方向はやはりわからないが、とにかく役人の群れと反対方向へ進む。
と、道の反対側にも灯りの群れが現れた。心臓が飛び跳ねる。
先ほどのように小路に逃げ込もうとするが、不幸にもそれが近くに見当たらない。
両側から徐々に灯りと足音がやってくる。隼人は息をつめて背後の家屋に背をぴたりと付けた。
逃げ場がない。
捕まったらどうなるのだろう、と心の隅で考える。
もしかしなくても最終的には死罪なのだろうが、それまでは。
拷問にかけられても何をされても、仲間たちのことは絶対に口を割るつもりはない。
自分一人が捕まって収束することがあるのなら、その方がいいのかもしれないと、ふと思った。
決意を固めて灯りの群れを睨んだ瞬間、背後の壁が消えた。
「え?」
思い切り寄りかかっていた隼人の身体は慣性に従って後ろに倒れ、盛大に尻もちをつく。
ついでに後頭部を硬い地面に打ちつけた。
「―――――っ!!!」
衝撃で身体も起こせないまま悶絶しているうちに引き戸を閉める音が響き、差し込んでいた外からの明かりが遮られる。
ややあって、ちょうど戸の向こう側で二つの足音の群れが合流した。
「見つけたか」
「いいや、こちらには。町の周囲は交替で見張るよう命じておいたが……」
「どこに隠れたものやら。しかし小僧一人探すのに役人総出とはな」
「油断しない方がいい。最初に追っていた者も怪しげな武器で撃退され、ひどい有様だと聞いているぞ」
「では、せいぜい警戒して捜査にあたるとしよう」
二つの群れが一つになってその場から離れていく。
足音が完全に聞こえなくなったころ、隼人の頭上から太い声が降ってきた。
「坊主、頭は大丈夫か」
「…………………………たぶん」
くらくらする頭を押さえて、土間と思しき場所に伸びていた隼人はゆっくり上体を起こした。
暗くてよく見えないが、戸口に大柄な男が立っているのが気配でわかる。
「派手に打ってたもんなぁ。やつらに気づかれたんじゃねぇかと冷や冷やしたぜ」
言いながら、男は笑った。
「えー、と……?」
怪訝な目をして隼人は男を見上げた。とりあえずこの場は乗り切れたが、彼が味方とは限らない。
隼人の首に懸けられた金目当ての者がいてもおかしくない。
「おう、詳しい話は後だ。ついてきな」
男は隼人の横を抜けて、建物の奥へ踏み入っていく。わずかに迷った末に隼人も後に続いた。
閉め切っているので暗い上に、入り組んだ構造のようだ。手探りで壁を伝い、前を行く足音を頼りに進む。
勝手知ったる風情の男が歩きながら口を開いた。
「そういやぁ役人が撃退されたとか話してたが、一体何を使ったんだい?」
「ああ……俺もよくわからない」
正直に答えると、可笑しげに笑う声が廊に響いた。
思い返せば、あれは一体何だったのだろう。さほどの量ではなかったはずなのにあの効力だ。
本当にあんなものが薬の材料だったのか、(はなは)だ疑問である。
誰も来ないのはわかっているが、ついつい背後を振り向いて確認してしまう。
そうしているうちに、いきなり床が一段下がった。
またもや崩れかけた体勢を根性で踏み留める。
暗いので前の男にも気付かれてはいないだろうが、無意識に赤面してしまう。
下がったところは三段ほどの階段になっており、その先は先ほどの土間のように開けていた。
そこに用意されていた提灯に明かりを灯しながら男が隼人を顧みる。
「そこ、足もとに気をつけな。段になってるからよ」
できればもっと早く言ってほしかった。
仄かな明かりが暗闇の中に生まれる。
部屋の中央にぽっかりと穴が開いており、そばには蓋らしき分厚い板が置かれていた。
隠し通路なのだろう。
「これは……どこに続いてるんだ」
「ついてくりゃあ分かる」
男の姿が穴の中に消えていく。明かりが見えるうちに、隼人も中に踏み入った。
緩やかな道が階段状に下へ下へと伸びている。
幅は狭いが大人一人が立っても余裕な高さがあり、隼人は足もとを確認しながら慎重に進んだ。
しばらく行くと足下が平らになる。町の地下を進んでいるのだろう。隼人はつくづく感嘆していた。
「すげぇだろ。この道は俺たちの秘密の道さ。町の中の色んなとこにつながってるんだ」
「あんたが造った道なのか? 何のために」
「代々受け継がれ、広げられてきた道だ。
用途は色々とあるが……まあしかし、一番の理由は隠れ家を隠すためだな」
「隠れ家?」
隠れているから隠れ家なのだろうが、それをさらに隠すための道なのだろうか。
この男はその隠れ家とやらに隼人を連れて行こうとしているのか。何のために。
どの道、ここまで来たら腹をくくるしかない。
男に疑念を抱いて外へ逃げ出しても、そこには無数の役人がうろついているはずだ。
無言で男の後をついていくと、やがて再び開けた場所に出た。水の流れる音が聞こえてくる。
「川があるから、落ちんなよ」
提灯が掲げられ、人工的な溝に緩やかな流れが姿を現した。そばの杭に一隻の小舟が括り付けられている。
「乗れ」
杭の縄を解きながら顎で指し示す。隼人はわずかに躊躇(ちゅうちょ)したが、大人しく乗り込んだ。
ぎぃ、と音をたてて船が地下水路を前進する。
暗くてどこがどこなのか分からないが、男は慣れた手つきで舵を取る。
さほど進んでいないと思われるうちに、視界に仄かな灯りが現れた。船はそこへ吸い寄せられるように着岸した。
岸に上がって最初に目に飛び込んだのは、ひっそりと佇む屋敷であった。
といっても半分以上が地下の壁と一体になり、屋根もない。入口だけが舞台の背景のようにそこにある。
「これが……隠れ家、なのか?」
「おうよ。まぁ入りな」
男はこちらにも備わっている杭に船を括ると、引き戸を開けて中へ上がりこんでいく。
内部から暖かい光が漏れだして、暗さに慣れていた隼人は思わず目を細めた。
(ねえ)さん、姐さんと男が呼びかけている。
「何してんだよ、早く入れって」
振り向く男に、隼人も慌てて中へ踏みこむ。背後で戸が閉められた。
内部はそこここに灯りがともされて明るい。地上の家や旅籠となんら変わりない。
奥まで廊下が伸びていて、かなりの部屋数があると思われた。
呆気にとられて突っ立っていると、廊下の角を曲がって一人の女が姿を見せた。
鮮やかな着物を(まと)い艶っぽい笑みをたたえた女は、隼人を見て満足げに頷いた。
「この人がそうなんだね」
「間違いねぇかと」
「ご苦労さん。あたしが奥に連れてくから、下がっていいよ」
女はいくらかの金を投げ渡すと、隼人を手招きした。金を受け取った男はぺこりと頭を下げて屋敷の中へ消えていく。
「なぁんだ、人相書きよりずっと可愛い顔じゃないの」
人相書き、という単語に隼人は身を固くした。この女は自分が何者なのかを知っているのだ。
しかし、可愛いというのは何だろう。そこは非常に疑問だった。
「ここにいれば役人どもには絶対見つからないよ。安心して」
「あんたは何者だ? なんで俺を助けたんだ、何が目的なんだ」
警戒の色を露わにして隼人は半歩後ずさる。
「もう、一気に訊かないでよ。命の恩人には違いないでしょ? 言うこと聞きなよ」
子供を諭すような口調だ。だが、それを言われるとぐうの音も出ない。
「取って食ったりしないよ。さぁ、中にお上がり」
腕を引かれて、強引に(かまち)へ上がらされる。
隼人が何か言おうと口を開く前に、女はさっさと廊下を奥へ進んだ。
通り過ぎるいくつもの部屋の中からは人の気配を感じる。ここで逆らってもどうにもならない。
大人しくついてくる隼人に軽く微笑み、女は足を止めた。
「あたしの部屋。他に誰もいないから、くつろいでって」
行き着いたのは一番奥に位置すると思われる部屋だ。(ふすま)を開けて中に入ると、小さいながらも居心地の良さそうな空間が現れる。
「こんなとこだから、一部屋を広く造れないんだ。狭いけど我慢してよ」
部屋の壁は所どころ岩肌が剥き出しだ。改めて、ここが地下なのだと思い知る。
女は部屋の中央からわずかにずれた位置に腰を下ろした。仕方なく隼人も向かい合う形で座す。
女の双眸が細められ、上から下まで隼人を眺めた。
「若いねぇ、あたしとそんなに違わないよ。おまけにあたし好みだ」
ばつが悪くなって視線を逸らす。
「そんなことより、俺の質問に答えてくれ。
さっきの男はここを隠れ家だと言ってたが、そこにどうして俺を連れてくるんだ。あんたの指図か」
「そう、あたしが連れてくるように言ったのさ。間に合って良かったよ」
女は隼人を覗き込むように身を乗り出す。こちらは反射的に身を引く。
「あたしは琴吹(ことぶき)っていうの。兄さんは?」
隼人はさんざん躊躇(ためら)った後に、渋々名乗った。
「隼人……だ」
「ふふ、何だかんだで素直だねぇ。育ちが良いのがわかるよ」
隼人の肩がぴくりと揺れる。
「……人相書きを見て、俺を連れてきたんだろう。
ふつう逆じゃないのか? 見つけたら役人に引き渡すもんじゃないのか」
「それができる身分なら、そうしてるんだけどね」
肩をすくめ、琴吹は片目を閉じて見せた。
「あたしもあんたの同類なのさ」

「隼人!」
二人分の声が重なって壁に反響する。呼ばれた当人は心の底から安堵(あんど)した。
瞬間、頭頂部に煉の鉄槌が落とされる。
ああ、この叱られ方は何だかものすごく久しぶりな気がする。
そんなことを一瞬遠のく意識の中で考えてしまう。
「お前ってやつは、お前ってやつは――!!」
嬉しさ と怒りがない交ぜになって、結局「お前ってやつは」しか言えていない。
かわりに肩を掴まれがくがくと揺さぶられている。
この状況で何か喋れば舌を噛みそうなのでやめておく。
永遠に続きそうな煉の発作を止めたのは、駆けてきた子供だった。
「お兄ちゃん!」
腰元にひしっと抱きつく。さすがの煉も引かざるをえない。
「小太郎」
「何かあったの? 大丈夫なの?」
不安げな顔の小太郎に微笑んでみせる。
「ここにいれば大丈夫らしい」
「子供連れとは驚きだよ。弟なのかい」
煉たちを連れてきた琴吹が小首を傾げる。頷いて、隼人はわしわしと弟の頭を撫でた。
「隼人、一体何がどうなっているんですか?
私たちは琴吹さんに言われるまま付いてきたので、事情がよく……」
秋雪に次いで玄次郎も口を開く。
「そうそう、戻らねぇお前さんを探しに行こうとした矢先に、この女が現れてな。
『あんたたちが探してる人を預かってる』て言うもんで……」
「細かい話は落ち着いてからだよ。部屋は用意してあるから」
琴吹が二、三度手を叩くと下っ端らしき男たちがすぐさま現れ、一行を空き部屋へ導いた。
最低限の調度品しかないが、広さは十分である。
「で、お前は何がどうしてこんなところに預かられてるんだ」
一息ついて興奮も落ち着きかけた煉が剣呑(けんのん)な視線を向けてくる。
隼人は記憶を辿りながら、自分の顔が割れてしまったこと、捕まりそうになって逃げ回っていたこと、この隠れ家の者に助けられたことを順に話した。
「ここの連中は何者なんだ?」
問われて、隼人はつい先刻の琴吹の話を思い返す。

「あんたの同類なのさ」
薄々そんな気はしていたにも関わらず、その言葉を聞いて隼人は目を瞠った。
その反応に、琴吹は口元に指をあてて笑う。
「ここにいるのはあたしも含めて、お天道様に嫌われるような者ばかりさ。
だから誰も兄さんをしょっぴこうなんて考えちゃいない。そんなことしたらこっちの身が危ういもの」
「じゃ、じゃあ、ここにいるのは皆……」
「ああでも、罪状の重さじゃ兄さんに敵わないね。生憎(あいにく)と人を殺した奴はいないんだ」
琴吹は懐から折りたたんだ紙を取り出し、広げて眺めた。
どこから手に入れたのか、先ほどできたばかりの隼人の人相書きだ。
そこには隼人の犯した罪が書き連ねられているのだろう。
隼人は視線を下げて畳を見据えた。
「それじゃあ、俺を助けたのは同情からか」
「ま、そういうことかね。
裏の世の新人さんが丁度困っていたもんで、この琴吹姐さんがちょいと手を差し伸べてあげましょうと。
これ見て興味も湧いたしね」
助けてみたら大当たりだ、と琴吹はにんまり笑う。本当に自分は彼女の好みにかっちり()まっているらしい。
「危険だとは思わないのか。そこにも書いてあるだろうが、俺は自分の屋敷の人間を皆殺しにしてるんだぞ」
「訳ありなんでしょ? 兄さんは好んで人を害すような顔してないし。
だいたい、不自由なく暮らしていけるのにあえてその生活を壊すなんて、中々することじゃない。
よほどの理由があるか、ただのキチガイかだよ」
琴吹は余裕綽々だ。大量殺人鬼を前にしているという意識はないようだ。
気狂(きちが)いか……確かにそうかもしれないな」
頭をかいて、苦笑する。肩の力が抜けていく。
そうなのだ、自分はとっくに裏の世界の人間だ。
今まで理解もできなかった人間たちと同じ場所に、いとも簡単に入り込んでいる。
自分が気狂いだと思っていた者と同じ位置に立つのなら、自分もまさしく気狂いではないか。
「やっと笑った。ずっと神経張り詰めた顔してたもんね」
目の前で琴吹がにっこりと微笑む。艶っぽさのなかに少女のような面影が生まれた。
そういえば、自分と同じくらいの年齢だと言っていた。彼女の方がいくつか年上だろうか。
隼人は今さらながら戸惑った。同年代の娘と接したことなどほとんどない。
「あ、ありがとう。助かった」
「うん?」
「あんたの助けがなかったら、とっくにお縄だったと思う。礼を言う前に警戒ばかりして、すまなかった」
「ああ、いいのいいの。そのくらいの警戒心がなきゃ、やってけないよ」
「せっかく助けてもらったが、ゆっくりもできないんだ。仲間を待たせてるから戻らないと」
そう言って隼人は立ち上がる。琴吹がぽんと手を叩いた。
「そっか、そうだよね。仲間がいるんだった。どこにいるんだい」
「昼間に別れたのと同じ場所なら、たぶん村の東側の林で待ってるはずだが……」
居所を聞いてすぐ琴吹も立ち上がり、さっさと部屋の外へ出ていく。
「琴吹?」
「兄さんはここで待っていて。あたしが迎えに行ってくるから」
あっさりと言う琴吹に息をのむ。
「で、でも」
「兄さんよりこの町のことはよく知ってるから大丈夫。誰にも見つからずに連れてくるよ」
子分を一人呼びつけたかと思うと、彼女は表に出て行ってしまう。
部屋に取り残された隼人は数秒間呆けたように口を開いて突っ立っていた。
後を追おうかとも思ったが、船での移動になるであろうことは予想がついた。
仲間の人数を考えると、自分まで同乗するのはかえって邪魔になるかもしれない。
一人部屋に残った隼人は再びそこに腰を落ち着け、仲間の無事を祈りながら琴吹たちの帰りを待った。

「みんな無事で良かった」
「それはこっちの台詞(せりふ)だ」
話し終えてから改めて胸を撫で下ろす隼人を、煉が睨む。
「俺たちがどれだけ肝を冷やしたと思ってる」
「う……、すまない」
煉が再び説教の体勢に入りかけているのを察して、秋雪はさっさと話題を変えた。
「それにしても凄いですよ、こんな地下に水路があって、おまけに家まで建ってる。これこそ本物の隠れ家ですね」
「だろ? この町の隠れた自慢だね」
琴吹が口の端を吊り上げる。白い肌に赤く引かれた紅が灯火に映えている。
「ここにいる間は身の安全を保障できる。ただ、長居してると町から出る機会を失いかねないよ。
こっちはいつまで居てもらっても大丈夫だけど……」
「今晩だけ泊めてもらって、明日の朝には発った方がいいだろう」
きっぱりと言い切る煉に隼人も頷いた。一箇所に長く留まる理由は、今の彼らには無い。
「じゃあ、一晩だけだけどゆっくり休んでおいきなさいな」
琴吹が廊下に向かって拍手を打つと、すぐさま子分がやってくる。二言三言言いつけられ、彼は去っていく。
その部屋で一行は遅い夕餉を馳走になった。
お世辞にも豪華とは言えないが、最近簡単な食事しか口にしていない彼らにはこれ以上ないほど美味かった。
夕餉の席で、隼人は秋雪に頼まれた買い物を思い出し、町中の店から細々(こまごま)と集めた品々が入った袋を手渡した。
「あ、忘れてましたよ。ありがとうございます」
「あのさ、中に入ってたよくわからない物、役人撃退に使っちまって」
「よくわからない物?」
眉根を寄せて秋雪は袋の中を検める。
この中のほとんどが隼人にとって「よくわからない物」なのではなかろうか。
そうなると何が減ったのかすぐにはピンとこない。
「包みが丸く球みたいになってて、役人が斬ったら粉が出てきたな。それを被ったら、滅茶苦茶苦しそうにしてた」
回想し、隼人は苦い表情になる。
「ああ、あれを使いましたか。なるほど、それは苦しかったでしょうね」
「あれ、と言うと?」
嵩重が首を傾げている。
「簡単に言うと、薬の原料にするための毒ですよ」
「毒が原料?」
「ええ。毒をもって毒を制すと言いますか、毒も使いようなんです」
「ああ、それは何となく分かるぜ」
玄次郎がにやりと笑う。お互い調合に長けている分、通じるものがあるようだ。
「その役人は毒を頭から被ったということになりますね」
薬になる前の純粋な「毒」であるから、そういうことになる。
「ええっ、じゃああいつ、あの後どうなったんだろう」
隼人が心なしか青ざめているのを見て、秋雪は困ったように岩の天井を見上げる。
「死ぬほど強力な毒は、さすがに私も扱いませんから……誰かに発見されて医者に診てもらえていれば、大事ないと思います」
隼人はそうかと返して息をついた。玄次郎が腕を組んで笑う。
「それくらいで一々気に病んでるんじゃねぇよ。これから先はそんなの当たり前の世界だぜ」
「わ、わかってる…つもりなんだが」
額に手を当てて目を閉じる。その顔には疲労の色が濃い。
隼人の隣りでは小太郎が眠たげに目を擦っている。
その様子を認めて、琴吹はさあさあと話を切り上げた。
「皆さんお疲れでしょ? 寝床の用意はできてるから、早々にお休みなさい」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
秋雪が心からの礼の言葉を述べ、一行は久方ぶりの安眠を手に入れることとなった。

<終>

【前世編へ戻る】