焦燥

師の家に運び込まれた隼人は、すぐに布団に寝かされた。
「これは、どうしたことだ…」
隼人の汗を拭いながら、師は嵩重に視線を向けた。
嵩重は心底心配そうに隼人を覗き込む。
「旦那さまとおかみさんが、隼人さまに毒を盛ったんです!」
「なに?」
師の眉間に皺が刻まれる。
「とうとう、そこまで来てしまったという事か…」
隼人の喉からは休みなしに喘鳴(ぜんめい)がこぼれている。もはや話すことすら出来ない状態だ。
早く解毒しなくては、隼人の命が尽きてしまう。
しかし、解毒するための方法がない。
「秋雪はどうした!?」
焦燥(しょうそう)の滲む顔で、師は問うた。だが嵩重は首を振る。
「わかりません。煉さんも秋雪さんも、どこにもいなくて……」
ここ数日姿が見えないのだと告げると、師は頭を抱えた。
「なんという事だ、まさか二人も…」
医者としての腕もある秋雪がいれば、あるいは何とかなるかもしれないと思ったのだが。
苦痛に胸を上下させる隼人を前に、二人は途方に暮れた。
このまま見ていることしかできないのか。
「あっしがもっと早く駆けつけていれば…!」
嵩重がわなわなと震えだす。大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。
「よせ、泣く前に隼人を助ける術を探すんだ」
「へ、へい…」
その時、戸口をコンコンと叩く音が部屋に響いた。
「誰だ、この大変な時に…!すまんが、見てきてくれるか」
「へい」
ごしごしと涙を拭って、嵩重はすぐに戸口へ向かった。
軋む戸を開けると、そこには小柄な男がいた。
「あんたは…」
目を見張った後で、嵩重は眉を寄せた。
目の前の男には見覚えがある。屋敷で二、三度ほど見たことがあった。
だが詳しいことは知らない。この男がやってきたのはつい最近の話だ。
姿以外は、名も知らぬ男だった。
そんな彼が、なぜここに。
嵩重が問うよりも先に、白装束の小男はずかずかと家に上がりこんだ。
師が呆然と見つめているのをよそに、彼は隼人の枕元に腰を下ろす。
「……まだ息はあるか。だが早くしねぇとな」
「お前は何者だ」
見るからに怪しげな風貌の小男に、師が怪訝に尋ねる。
「俺は玄次郎ってモンでさ。調合師をしとるんです」
「調合? 薬のか」
「まぁ、それはたしなむ程度にね。得意分野は毒の調合ですよ」
「毒だと…!?まさかお前が、この毒を作ったのか!?」
「ええ、その通り。でも誤解しないでくだせぇよ。毒を盛ったのは俺じゃないんでね」
玄次郎は布の下で低く笑うと、おもむろに隼人の額に手を当てた。
「ほぉ、よく効いているな……この毒は成功だ」
「お前っ、まさかそれを確かめに来たのか!!」
怒った嵩重が殴りかかろうとする。
「違う違う、俺はこの兄ちゃんを助けに来たんだぜ」
「何だと?」
師が(いぶか)しげな目をすると、玄次郎は懐から粉の入った包みを取り出した。
「必ず、とは言えないが、この薬を使えば治る可能性が高くなる」
薬の包みを受け取り、師は玄次郎を見据えた。
「お前が隼人を助けようとする理由はなんだ」
小男はくつくつと笑って隼人を見下ろした。
「俺はいつも、自分の作った薬の成果はちゃんと見届けるようにしてるんだ。
今回もその目的で、屋敷に滞在していた。
この兄ちゃんが毒入りの酒を飲むときも、陰で見ていたのさ。
だがこの兄ちゃん、俺の毒を見破っていたよ。無色無臭で自信があったんだがな」
師と嵩重が瞠目する。
「知っていて飲んだということか」
「そういうことだ。
諦めたような顔をしてたから、もしかしたら死ぬ覚悟もできていたのかもしれねぇな。
で、俺はこの兄ちゃんがどうにも気に入っちまってね。
俺の毒を見破ったヤツは初めてだからな」
三人の視線が隼人に向けられる。
少年の面差しが、苦痛に歪んでいる。とめどなく流れる汗が、頬の脇を伝っていく。
「おかみさんが買った毒は猛毒だ。高価だったがためらいなく買っていたね。
早くその薬を飲ませてやりな」
遅くなればなるほど、効果が薄れてしまう。
急いで嵩重が水を持ってきた。
隼人を支えて、包みを口元に運び、粉薬を飲ませてやる。
水で喉の奥に流し込むと、それを飲み込む感覚が伝わった。
「あとは寝かせておけ。治るか治らないかは、そいつの生命力次第だ」
玄次郎の言葉に従い、師と嵩重は隼人を静かに横たえた。
二人は沈痛な面持ちで隼人の回復を祈った。


窓の隙間から光が差し込んでいる。
隼人はのろのろと瞼をあげた。
人影が見える。だが視界がぼんやりして、誰なのか判別がつかない。
煉と秋雪だろうか。
ああ、きっとそうだ。
二人はいつも自分を心配してくれて、幼い頃風邪で寝込んだ時も代わる代わる様子を見に来てくれたものだ。
今回も熱を出してしまったから、また心配をかけてしまったのかもしれない。
自分が目を覚ましたことに気付き、何やら大声で呼びかけている。
いつもより心配させてしまっただろうか。
だとしたら、今回は謝っておいた方がよさそうだ。
煉はとくに心配性だから、一言二言小言を言われるかもしれない。
彼らを安心させようと、隼人は微笑もうとした。
だが意思に反して、身体が上手く動かない。
(困ったな……)
誰かの手が、自分の手を掴んだ。
大きな手だ。でも何だか、煉たちのものとは違う気がする。
掴まれた手が額に押し付けられて、手に震えが伝わってくる。
「隼人さんっ……」
声が耳に滑り込んだとき、視界が一気に明るくなった。
はっとした隼人は、僅かに首を動かして手の先にいる人物を見つめた。
「た…か……?」
掠れた声を出すと、嵩重は弾かれたように顔をあげた。
「隼人さん……!大丈夫ですか! 喋れますか!?」
「あ、ああ…」
こくりと頷くと、大男は顔をくしゃくしゃに歪めた。
「良かった……!」
両手で隼人の手を握り締め、嗚咽を漏らしている。
大きな体躯に似合わない仕草に、隼人は慌てた。
「嵩重、大丈夫だから……」
すると、横から小男が覗き込んできた。見知らぬ顔だ。
「おう、薬が効いたようだな」
へへへ、と不気味に笑う小男を押しのけて、慌てて駆けつけた師が隼人のもう片方の手を握り締めた。
「隼人っ、気がついたのか!!大丈夫か…!?」
師の顔を見た刹那、隼人の胸に安堵が広がった。
「先生……」
薄く微笑みながら小さく頷くと、師の顔も嵩重に劣らぬほどにくしゃくしゃになった。
「先生…?」
そんな顔は見たことがないので、少々戸惑って隼人は首を傾げる。
「馬鹿者! 心配かけおって…!!」
ぴしゃりと言い放たれ、隼人ははっと目を瞠る。
師は言葉をつまらせ、ぐるりと背を向けるとそれきり黙りこんだ。
横から嵩重が鼻をすする音が聞こえる。
師の背中を見つめながら、隼人はゆっくりと自分の身に降りかかった出来事を思い出した。
自由になれると甘い言葉に誘われて、父とお染の姦計により毒を盛られた。
そして、その場で告げられた真実―――。
父の口から出た言葉が耳の奥に蘇り、無意識に隼人は呼吸を忘れた。
瞳の奥に、父の喜悦に歪む顔が浮かび上がる。
隼人の指が、すぐそこにあった師の着物の端を掴んだ。
「ん…?」
気付いた師が振り返る。
少しだけ赤くなった目を瞬かせた彼は、少年の真摯(しんし)な瞳と行き合ってわずかに息を詰めた。
「どうした」
身体をこちらに向けた師を、隼人はまっすぐに見上げた。
「先生…俺のお袋は……十年前に、亡くなりました。
俺も他の者も、ずっと……病気で死んだものと思っていた……」
師が眉を寄せる。
「どういうことだ」
「お袋は病死ではなく、殺されたんです。殺したのは……親父と、あの女でした」
師と嵩重が大きく目を見開く。
「なん、だと…!まさか……」
そんなことが、という言葉が、声にならず口から漏れる。
目を閉じ、隼人は力なく頷いた。
「それを知ったのは、親父から毒を盛られた後です。俺が死ぬものと思っていたんだと……」
「まぁ、そうだろうな」
玄次郎がくつくつと笑う。
「俺の毒は確実に人を殺せると評判だ。まさか、その俺がお前を助けるとは思うまいよ」
玄次郎の布で覆われた顔を、隼人はじっと見つめた。
そして不意に思い出す。
そうだ、彼のことは屋敷で一度見たことがあったのだ。
隼人は師を見上げて必死に衣を掴んだ。
「煉たちが…捕らえられています。早く、助けに行かないと……」
「煉と秋雪はまだ生きているのだな?しかし隼人、その身体では無理だ。
彼らの救出は私たちに任せておけ」
顔を歪める隼人の手を、師は安心させるように握り締めた。
「まだ身体に毒が残っている。お前はきちんと休んで、身体を治していろ」
「しかし…」
言い募ろうとして、隼人は黙り込んだ。
何も出来ないのは悔しいが、確かに今の自分が行ったところでできることは少ない。
煉たちの救出は一刻を争うのだ。自分が足手まといになっていては、彼らの首が刎ねられてしまう。
「お願い、します…」
寝具の中で動けない隼人の頭を一つ撫で、師は微笑んだ。
「安心しろ、必ず二人は助け出す。おい、お前たち、行くぞ」
師の視線を受け、嵩重は即座に立ち上がった。
「はぁ? 俺も行くのかよ」
玄次郎は渋い顔をしている。
「当たり前だ。もとはと言えばお前の毒のせいでこんなことになっているのだからな。
いざとなったら(おとり)にでもなってもらうぞ」
「……そん時はとっとと逃げますがね」
ため息をつきながらも、玄次郎は師と嵩重のあとに続いて家を出て行く。
彼らの背を見送って、隼人は身体の力を抜いた。
ぐったりと、寝具に身体が沈み込む。
瞼が重い。
胸の奥に何かがわだかまっているようで、息苦しい。
「っ……俺が、行かねぇと…駄目なのに…」
身体が動かないことが辛い。
煉と秋雪は無事だろうか。自分の前に戻ってきてくれるだろうか。
尽きぬ不安が渦巻く。
喘ぎと苦痛の狭間(はざま)で、隼人は意識を手放した。

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