夜叉

隼人は自室で横になっていた。
狭い天井が視界を埋め尽くしている。
あの雨の日以来、小太郎は離れに顔を見せなくなった。
少々淋しくはあるが、これでいいのだと思う。
お染に知られた以上、隠すことはもうできないだろう。
これ以上のことをすれば、自分だけでなく小太郎にまでつらい思いをさせてしまう。
幸いこの間は、あれから叱られた様子はなかったと秋雪が教えてくれた。
でも今度は。
頭に手を当てて考え事をしていると、部屋の戸ががらりと開いた。
入ってきたのは煉だ。
「…秋雪は?」
「あいつは町に行った。薬の材料が残り少ないらしい」
そう言えば、秋雪は医者としての腕も良いのだ。
そういう面をあまり見たことがないから忘れかけていた。
「そうか……」
隼人はふいに身体を起こすと、じっと煉を覗き込んだ。
「な、なんだ…?」
「お前たちは、大丈夫なのか?」
「は?なにが」
煉が首を傾げると、隼人は視線を落とす。
「だからさぁ……」
自分と親しく接しているせいで、もしかしたら煉たちも肩身の狭い思いをしているのではないか。
自分と違って普段も両親や他の使用人たちと顔を合わせているのだ。
隼人が知らないところでつらい思いをさせていたら。
今さらかもしれないが、最近よくこんなことを考えてしまう。
自分の胸中に渦巻く不安を煉に問うてみると、彼は軽く息をついた。
「なんだ、そんなことを気にしてたのか。だが、俺たちに物言える使用人が何人いると思う?」
隼人はう…と言葉に詰まる。
確かに煉や秋雪は奉公人の中でも古株で、彼らを面と向かって批判できる者は数える程しかいない。
「お前は心配しなくていい。
 万一何かされたとして、それくらいで俺たちがお前を見捨てるわけないだろう」
「それは……信じてるけど…」
自分が言ってるのはそういうことではない。一人になるのが怖いということではないのだ。
「お前たちが嫌な思いをしてたら嫌だな、と思って…。今さら図々しいのはわかってるけど……」
言ったきり、隼人は俯いた。
煉は肩をすくめると、その頭を撫でる。 隼人の背が、ぴくりと反応した。
目線を上げてみると、不器用な手つきで撫でてくる腕が見えた。
昔からいつもこうだ。
お前は心配するなと、自分のことを考えろと。
でも、それは違う気がする。
どんなに仲が良くても煉たちは本来赤の他人で、つらい思いをする必要は全くないのだ。
それでもこうして自分を支えてくれている。それを気にかけるのは当然のことだろう。
「やっぱり無理だ、自分のことだけ心配するなんてことは」
頭に置かれた手を振り払って、顔を上げる。
「迷惑かけてばっかりなんだから、せめて心配くらいさせろ。それと、子ども扱いもするな」
じとりと煉の手を睨めつける。
煉はしばし虚をつかれた風情だったが、やがて苦笑すると手を引っ込めた。
「わかったわかった」
煉の曖昧な返答に、「わかってない」と言ってやろうかとも思った隼人だが、そこは唇を引き結んで止まった。
煉が立ち上がり、戸口に手をかける。
「空気の入れ替えもしねぇとな……」
がらりと開けられ、隼人もそちらに目を向けた。
今日は天気がいい。 窓を開けると同時に、暖かい空気が部屋に滑り込んでくる。
丁度向こうに、この前小太郎と一緒に手入れした草花が見えた。
日の光をいっぱいに浴びて、穏やかな風に吹かれている。
視線を戻した隼人は、傍にあった煉の書物を開いてみた。
「……こんな難しいの、よくわかるな」
眉を寄せて、自分もなんとか理解しようとするのだが、できそうでできない。
「その本を読むのには予備知識がいるからな。いきなり読むんじゃ俺だってわからないだろうさ」
「ふーん」
書物を煉に返すと、ぐるぐると肩を回す。
「秋雪はいつごろ帰ってくるかな」
「さあ。夕方ころじゃねぇか?」
他愛の無い談笑をしていると、ふいに庭の方から足音が聞こえてきた。
二人は音のする方を見やる。
向こうに、お染の背が見えた。
庭の片隅に佇み、手に何かを持っているようである。
「あの女、何してるんだ…?」
不審げに隼人は眉を寄せる。
お染があんなところにいる姿など、ついぞ見たことがない。
二人が息を詰めて様子を伺っていると、お染は前かがみになるように膝を折った。
「あ……っ!!」
何かに気付いた隼人が声をあげる。
同時に、煉もあることを察した。
お染がいる、あの場所には―――。
彼らの背筋に、冷たいものが下った。
お染は片腕を上げる。
そこには、鋭い鎌。
「やめろ!!」
隼人は急いで庭に下り、彼女のもとへ駆け出す。 少し遅れて煉もそれに続いた。
二人の目に、陽光をはじいて閃く刃が映った。

音が消えたように、思われた――。
鳥の声も、風の音も、何もかも。

閃く刃は、花の首を刈っていく。
少しの戸惑いもなしに、お染は無情にも刃を振り下ろした。
最後の、一輪。
お染がそれに手をかけようとした時、隼人が彼女をそこから引き離した。
「やめろっ、やめてくれ!!!頼むから……っ!!!」
お染の向こう側に隼人が見たものは、大切な花の無残な姿だった。
残された一輪だけが、虚しく揺れている。
お染が振り返り、その憎悪に満ちた眼光と行き会う。
隼人が息を呑んだ瞬間、彼女の握った鎌が振り上げられた。
「―――っ!!」
「隼人!!」
煉の叫びが響く。
鎌の軌跡に、赤い飛沫が散った。
左腕を押さえた隼人の指の間から、大量の鮮血が滴り落ちる。
思わず後退した隙をついて、お染は彼の血がついた鎌で最後の一輪を薙ぎ払った。
隼人の瞳が愕然と凍りつく。
さっきまでそこに咲いていた花は、もう一本も残っていない。
首を刈られて地に落とされ、色を失っているかのようだった。
その花を、お染の足が無造作に踏みつける。
隼人はのろのろと顔を上げた。
お染は血のついた鎌をそこらに放り、酷薄な笑みを浮かべて隼人を顧みた。
「邪魔をするんじゃないよ。目障りな花を刈ってただけじゃないか」
血の流れ出す隼人の傷口を、愉快そうに眺めている。
隼人の眉がつりあがった。
「これは死んだお袋の形見だ!!それくらいお前も知っていただろう!!!」
義母の笑みが一層深くなる。
「―――知っているからこそ、目障りなんだよ」
隼人も煉も、言葉を失った。
勝ち誇った笑みを乗せて、お染はその場を去る。
「……て、……待て!!!」
煉が止める間もなく、隼人はお染の背を追った。
気付いてお染が振り返るのと、隼人が拳を振り上げるのとはほぼ同時。
鈍い音がして、殴られたお染は地面に打ち伏した。
怒りのあまり傷の痛みも忘れた隼人は、お染が捨てていった鎌を拾うとそれを頭上に掲げる。
「もう許さねぇ…お前は俺が殺す……!!」
お染の顔に今までなかった恐怖が張り付いた。
「隼人!!やめろ、落ち着け!!!」
煉が必死に隼人を抑えるが、隼人はその声も聞こえていないかのようにお染だけを睨み据えている。
「隼人っ!!」
煉はなおも叫ぶが隼人の耳には届かない。
今まで積もり積もった感情が、爆発せんとしていた。
煉の制止に逆らって、鎌が振り下ろされようとした刹那。
「―――お兄ちゃん!?」
前方から響いた声に、隼人の腕が止まる。
正気に戻ってはっと目を向けると、そこにいたのは小太郎だった。
「小太…郎……」
呆然と呟く隼人の手から、素早く煉が鎌を回収した。
小太郎は蒼白になって震えている。
それを見て、隼人の頭に今し方しようとしていたことが駆け巡った。
本気で、お染を手にかけようとしていた。それ以外何も考えられなかった。
がくりと膝をつく隼人を、沈痛な面持ちの煉が支えた。
「隼人……」
急いで傷の確認をする。 思った以上に深く、出血が止まるのには時間がかかりそうだった。
煉は首を巡らせ、お染を見る。
引きつった顔をしているが、怪我はないようだ。小太郎が心配して駆け寄っている。
煉の顔に険しさがにじむ。
彼女は、してはならないことをした。隼人が怒ったのも無理はない。
否、もし隼人が動いていなければ、自分が手を出していたかもしれなかった。
騒ぎを聞きつけた使用人たちが集まってくる。
血を流した隼人の姿に悲鳴をあげ、数人が彼を取り押さえようとした。
だが隼人は彼らを睨みつけると、手を振り払って立ち上がった。
そのまま脇目も振らずに歩き出す。 離れとはまったく別の方向へ。
事情を聞こうとする使用人たちをかきわけて、煉も彼のあとを追った。
(どこへ行くんだ……!?)
呼び止めても彼は振り向かない。 背中から激しい憎悪が感じられた。
唐突に、煉は隼人の行き先を察して目を瞠る。
だめだ。行ってはいけない。
家へあがり縁を突き進んでいた隼人に、角を曲がってきた嵩重が行き会った。
「隼人さん…!?」
離れにいるはずの彼がここにいるのもそうだが、彼の怪我を見て大男は言葉を失う。
「嵩重!隼人を通すな!!!」
「え……」
隼人の後方から煉が叫び、嵩重は意味がわからないまま通さないように廊を塞いだ。
「嵩重、どいてくれ」
感情の抜け落ちた語調で、隼人がつぶやく。
「いけません。隼人さま、その傷を早く手当てしないと…」
「どけと言っている」
なおも言い募ろうとする嵩重を、隼人は苛烈な瞳で見上げた。
さしもの嵩重も、ひくりと息を呑む。
いつもの隼人ではない。
いつもは対等に自分を見てくれて、こんな命令じみた喋り方などしないのに。
何も言えなくなってしまった嵩重を避けて、隼人は先を進んだ。
「嵩重!! なんで隼人を行かせた!!」
煉に叱咤され、嵩重ははっと我に返ったが、もう遅かった。
隼人はすでに目的の部屋に着いている。
そこは、父親の部屋だ。
何年も、寄り付かなかった場所。
煉たちが追いつくより早く、隼人はその襖を開けた。

部屋は広いつくりで、掛け軸などの装飾品が多い。
こちらに背を向けて座していた父は、振り返って瞠目した。
「お前……!」
しかし驚いたのもほんの数瞬で、次には常の冷たい表情に変わる。
「何をしに来た。母屋の方には来るなと言ったはずだが」
着物に染みを広げる腕の傷を心配する様子もない。
端からそんなことを期待していない隼人は、久しぶりの父の顔を冷たく見返して遠慮なしに部屋へ上がりこんだ。
「あの女を追い出せ」
「あの女? ……お染のことか」
「あの女、お袋が育ててた花を鎌で刈りやがったんだぞ。それでも、そんな女をここに置いておくつもりか」
隼人の言を受けた父は、こともない風情で返した。
「なんだ、そんなことか。丁度邪魔だと思っていたのだよ。
 ……お前も、いつまでお悠のことを引きずってるんだ?」
父親の言い草に隼人は激昂を露わにした。
「っ……、どうしてだ!?親父はどうして、お袋のことを忘れられる!?
 俺はずっとずっと、不思議で仕方なかったんだ!!」
お染のどこがいい。 どうして彼女と共に、自分を憎む。どうしてお悠を失っても平然としているのだ。
どうして、という疑問が沢山ある。
父が共に悲しんでくれたなら、ともすれば自分だって気持ちを切り替えて義母を迎えることができたかもしれないのに。
「俺が嫌いならそれでもいい。小太郎が家を継いでも文句は言わない。
 早く俺をここから追い出してくれ」
早く、自由に―――。
煉と嵩重は固唾をのんで二人を見ている。
父は、呆れたように息を吐いた。
「追い出すなど、そんなことをするものか。噂が広まれば知り合いに恥をさらすことになる。
 時がくれば、お前を好きなようにさせてやるよ。それまで我慢するんだ」
「じゃあ、それはいつだ!?俺は十七になった。もう頃合いじゃないのか!?」
「ああ、そうだな。ならば、今年中にも」
意外な返答を受け、隼人は言葉に詰まる。
同様に煉たちも彼の言葉に疑念を抱いた。
(今年中? この親父の割には物分りがいいな…)
ぽたりと畳に滴を落とす赤い血を、父は剣呑に見下ろす。
「部屋が汚れる。早く出て行け」
しかし隼人はまだ言い足りずに父の目を睨む。
「―――つまみ出せ」
父の一言で、体格のいい使用人たちが現れる。
彼らは隼人の腕を掴むと、有無を言わさず部屋から追い出した。
「はなせっ!! 俺はまだ……っ!!!」
抵抗も空しく外に投げ出され、隼人は悔しげに呻く。そこへ煉たちが駆け寄った。
「隼人……」
いまだ出血のおさまらない傷口が痛々しい。
こんな時こそ秋雪がいてくれれば。
気が落ち着いてくると、隼人自身も痛みを感じて顔を歪めた。
加減なく力任せに斬られたのだ。これが首だったら確実に死んでいた。
簡単な応急処置を施して、なんとか止血する。
隼人はふらふらと門へ向かって歩き出した。
「隼人、どこへ行く!?」
まさか、出て行くつもりなのか。
一瞬そんな懸念が煉の頭を過ぎったが、隼人は力なく笑って首を振った。
「蒼空に会いに行く。今出て行くなんて、そんな浅慮なことはしねぇよ」
「ですが、その怪我で…!」
声を上げる嵩重を、煉は無言で制する。
「煉さん…」
煉は大丈夫だと頷く。
今は隼人の好きにさせた方がいい。出て行くわけではないらしいし、この状況で無理にここに引き止めるのも酷だ。
わかってくれた煉に視線で礼を告げ、隼人は門を出て山へ向かった。


呼びもしない内に、隼人の気配を感じ取った蒼空は山を下りて駆けつけてきた。
怪我を負っているのを見て、心配げな目をする。
隼人はその頭を撫でると、白い狼と連れ立って山を散策した。
途中岩に腰を下ろして休んでいると、蒼空が頭をこすりつけてきた。
隼人の心中の揺らぎを敏感に察知しているらしい。
長い付き合いだ。ちょっとした仕草や態度の違いでわかってしまうのだろう。
蒼空の頭を抱き寄せて、隼人はその毛並みに顔を埋める。
狼は大人しくされるままになっていたが、ふと首を巡らせて傷口に巻かれた布を舐め始めた。
「……蒼空」
名を呼ぶと嬉しそうに尾が翻る。
青く晴れた空が好きで、この名前をつけた。
自分が好きなものを、いつまでも好きだと言えるように。
「ありがとう」
小さく小さく呟いた一言は、しっかりと蒼空の耳に届いた。

「早くあれを使いましょう!!」
憤りを隠しもしないお染を、父はなだめる。
「しばし待て。大丈夫、近いうちに実行できるさ」
そうしたら、邪魔なものはなくなる。
父の顔に醜い笑みが広がった。
―――ならば、今年中にも
「隼人には少なからず期待を持たせた。なに、いつでも仕掛けることはできる」
彼の余裕の笑みに、お染も落ち着きを取り戻した。

早く自由になりたいのだろう。
ああ、もうすぐだ。 望むとおりに。
何の苦もない世界へ、送ってやろう――。

<終>

【前世編へ戻る】